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台東区の説明によると、明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は隅田川に
船路を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入してある。位置は吾妻橋上流約250
メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を
「山ノ宿町」といったので、渡の名はその町名をとって命名。別称は、東岸船着場が枕橋畔
にあったのにちなむ・・とあります。
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東京スカイツリー下を東西に流れる北十間川が、隅田川と合流する地点近くに枕橋がありま
すが、その上流の隅田公園は、江戸中期頃から墨堤と呼ばれました。なんでも八代吉宗将軍は
ここへ多数の桜の木を植えて、江戸庶民の「行楽地」としたといいます。花見の季節には多勢
の人々が来て「土手を踏み固める」ので堤が頑丈になる。同時に御府内から渡し舟で川を渡る
ので船頭も儲かると、ここまで計算したかどうかは分かりませんが。隅田川の両岸はたいへん
な賑わいだったといいますね。
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流石 お江戸ですね いろんな話が残っており
歴史探訪の好きな方にとっては持って来いですね
山も無いのに何でこの様な渡しの名がと思いましたが・・山ノ宿町と言うのが嘗てありそれでこの様な渡の名が・・・
八代吉宗将軍様も庶民の事を考えて趣味やら経済やらで
頭をお使いに 良い政治家だったのでしょうね
勉強 有難うございました 失礼します
「山の宿町」何かとっても自然な
響きのする街の名ですね。
色々調べると、楽しみが湧いて
来るようですね。
橋が少なくて、渡し舟で人馬を運んでいました。
渡し船の話題はたくさんあります。
今の桜橋の所に 墨堤の桜の碑がありますが
八代将軍の話が記され 立派な政治家だと感心です。
桜の季節には 酔っ払いがいてフトンを川に
投げ込んだりしたそうです。