庭の花たちと野の花散策記

山野草と梅が大好きの「雑草」。花以外は思考不可の植物人間の庭の花と野の花散策記です。

常磐神社の烈公梅が咲き始めています 浪華の梅との関係を推理する

2018年02月27日 | 水戸の梅
 常磐神社の烈公梅
 常磐神社の烈公梅
徳川光圀公・徳川斉昭公をお祀りした常磐神社参道の烈公梅の古木に今年も花が咲き始めました。
烈公梅は昭和8年に弘道館と偕楽園のすべての梅の木を調査をしたときに、弘道館の裏手孔子廟近くで発見された梅です。その時これまで他では見たこともない品種であることから、烈公梅と名付けられ、水戸の六名木に選ばれました。
今では六名木は6種類の品種ということで、公園内のあちこちに六名木がありますが、当初選ばれた六名木は樹形に風格があって、花の良さなどから6本の梅の木が選ばれました。現在は選ばれた6本の内生きて花を咲かせているのは正庁裏の江南所無だけと思われます。

一方常磐神社は明治7年に現在地に社殿が造営されて、明治15年に別格官幣社に列格したそうです。
 昭和初期の常磐神社
上の古写真は昭和初期のものと考えられるものです。
どうやら昭和初期にはすでに参道に梅の古木があったようです。ということは常磐神社創建時期にこの梅が参道に植えられた可能性が高いということです。
 常磐神社創建当時に多くの梅の木の中から選ばれて参道に植えられたということです。このことから義公や烈公と深く関わりがあって当時の弘道館で大切にされていた梅に違いないと考えられます。

つまりは、この梅が烈公梅と命名される以前から、義公や烈公にゆかりのある梅の木ではなかったかということです。今となってはこの梅がどうして烈公の名をいただくことになったかは定かではありません。しかし、命名された昭和8年当時はあるいは義公や烈公にゆかりのある梅の木であることが知られていたからこそ烈公梅と命名されたということも考えられます。

義公と烈公ともにゆかりのある梅の木といえば、浪華の梅です。現在の浪華の梅はこの烈公梅によく似ていますが、わずかに違うようにも思われます。浪華の梅は一度枯れたことがあるそうで、ひこばえを植えたらしいこと、あるいはもとの木に似た花の梅の木が植えられたかもしれません。そう考えるともとからあった浪華の梅=烈公梅ということもないとはいえません。

 現在の常磐神社
これは現在(2017年12月)の常磐神社です。梅の木はかなりの老木になっています。
 常磐神社の烈公梅1
 常磐神社の烈公梅2
梅まつり期間中は出店の中です。
烈公梅は祭りを楽しんでいるのでしょうか。それとも祭りの喧騒に迷惑しているのでしょうか。

厳しい冬の最中にも百花に先駆けて花を咲かせるのですから、まつりの喧騒の中でも楽しんで咲いているのかもしれません。
やっぱり梅は 笑って風雪を侵して開く でしょう。


浪華の梅については後日詳しくブログに書いてみたいと思っています。
 
 いくつかの資料による事実と伝え聞くことをもとに、雑草が大胆に推理した烈公梅の謎解き推理小説の骨子をかいつまんで書くと、以下のようになります。
 
 大日本史の編纂所である彰考館は、当初黄門様の時代には水戸江戸屋敷内にあったものが水戸城二の丸に移り、ながらくここで大日本史が編纂されていました。斉昭公が二の丸の彰考館を訪れたときに、彰考館に植えてあった浪華の梅について説明を受けています。
 浪華の梅はいわば彰考館のシンボルツリーでありました。学問に励めば梅が開き・・・と文を好む梅の木は編纂者たちを叱咤激励していたと思われます。
 明治の御代になって間もなく彰考館は二の丸から三の丸弘道館の裏のほうに移され、3~5年はそのところにありました。
 そのあと市中に移り、最後に偕楽園南崖の大日本史完成の地碑のところで明治39年に大日本史が完成したのです。
 浪華の梅は彰考館に常について回るべき彰考館のシンボルツリーですから、当然ながら、彰考館が弘道館裏手へ移ったときも、浪華の梅を移そうと考えたことでしょう。
 とはいえすでに古木です。大木だったでしょう。そこで古木はそのまま二の丸に残されて、比較的小さい木か、新しい苗が弘道館裏の彰考館脇に移植されたことが想像されます。これは明治の初めのことです。
 時は下って昭和8年に弘道館裏で新しい梅の木が発見されました。風格のある幹、珍しい花を咲かせるこの梅の木は烈公梅と命名され、また同時に水戸の六名木に選ばれました。
 一方二の丸の彰考館跡地に残されていた古木の浪華の梅は常磐神社創建後に常磐神社に移植されました。城内より移植したとの記録があることから、三の丸からではなく、二の丸から移植されたと思います。
 このように常磐神社ではお祀りした義公、烈公に深くかかわる木ですから、本殿わきに古木を植えたほかに、参道にも植えられたと思います。
 この常磐神社の本殿わきに植えられた浪華の梅は一度枯れたようです。枯れた木のひこばえを植えなおしたという説もあるようです。また本殿わきから義烈館前に移植されています。この過程でもとの浪華の梅の枝変わりした似た花の木に変わった可能性も考えられます。あるいは花が似ている別の木が植えられたかもしれません。
 こうして現在の3種類の梅の木が現存することになりました。
1 三の丸弘道館裏で烈公梅と命名された梅の木。
2 二の丸または三の丸からの常磐神社参道の烈公梅そのものといえる梅の木。
3 二の丸から本殿へさらに義烈館前に移された浪華の梅。
じつはこれらはもとは皆同じ二の丸の彰考館に植えてあった浪華の梅であったということです。
いかがでしょうかこの推理は。
コメント (2)
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