TVおじさん

世相の鏡であるテレビから学び、時として批判も。メディア表現にも触れる。まだ元気、散策の想い出も綴りたい。

“なでしこジャパン”は大和撫子!!

2010-02-11 | ことば

女子サッカー・東アジア選手権で、なでしこジャパンは台湾を破って開幕2連勝。最終戦の相手は韓国、2連覇を期待したい。


三省堂の辞書をひくと大和撫子とは「か弱いながらもりりしいところがある、という意味で日本女性の美称」とし、女性に対する賛辞として紹介している。オリンピックなど国際大会での活躍は目覚しく、昨今の女性の社会進出と合わせ、粘りのあるあのたくましさを見れば、辞書の記述を少し見直す必要があるようにも思う。

 

こんな指摘もある。「おひとりさま」で一躍脚光を浴びた社会学者の上野千鶴子さんは、同じ三省堂から発行されている『きっと変えられる性差別語』というガイドラインの中で、日本女性に「無理して女性らしさを求める必要はなく“やまとなでしこ”を使用する必要はない」とアピールしている。これは、テニスの伊達公子さんが「海外の試合でもおにぎりが必要、やまとなでしこ的一面もある」と報じたのを取り上げて反論したもの。「やまとなでしこを理想の女性像と考えた記者が、日本女性ならどこかにそんな一面を持っているはずと信じ込んでいるのか。こんなステレオタイプを押しつけるのは願い下げにしたい」としている。


 “大和撫子”は“なでしこジャパン”に通じるようにも思うが、少し言葉のニュアンスが違うから、とく「差別的だ」といった批判も聞かない。チーム
のメンバー、サポーター、いずれももこの愛称を気に入っているようだ。





閉めると閉まる!?

2010-02-10 | ことば

以前からよくやり玉に上げられているのが、電車のドアが閉まるときのアナウンス。「ドアが閉まります」もしくは「ドアを閉めます」。


あの北原保雄氏は、

「閉める」という動作が加わって「閉まる」のだが、それをいちいち言わないで、その結果をとらえて「閉まる」というのは、日本語としてごく自然な言い方である。・・(略)・・「閉まる」はドアに焦点が置かれ、「閉める」は車掌の意思が感じられる。「閉まる」は人の意思による動作なので、押しつけの響きがある。


武庫川女子大言語文化研究所の佐竹秀雄所長も、神戸新聞紙上で

「混雑時、安全でスムーズに発車させるためには『扉を閉めます』が効果的だろう。いっそ関西弁で『もう閉めまっせ』とか言えば、心が和んでいいかもしれません」と言っている。

ひねくれ者と思われるかもしれないが、「閉めますのでご注意を!」、また「閉めます。挟まれてもしりまへんで!」とも聞こえてくるような感じがある。


もうひとつ、私には気になる表現がある。“優先座席”の表示とともに、「この座席を必要とされる方にお譲りください」と呼びかけている。これは好みの問題かもしれないが、「この座席は、必要とされる方に・・」とするか、「必要とされる方に、この座席を・・」としたほうがいいように思う。






屋根を葺く“茅”と“藁”

2010-02-10 | ことば

神戸市北区に住む私、毎日の散歩コースには、ほれぼれするような光景がある。

茅葺き屋根の建物。
下谷上の農村歌舞伎舞台、代々庄屋だったという江戸中期の内田家住宅、藍那地区の山の急斜面に建てられた民家。
見た目に美しいことは言うまでもないが、優しさ、温もりが感じられる。


今月6日の神戸新聞によると、

「神戸市北区は茅葺き民家が残る全国有数の地域で、約750棟が点在する」という。市民グループも保存に乗り出しているようだ。
ただ、知識のない私には、葺かれた屋根を見ても、一体”茅”なのか”藁”のなのか、区別がつかない。
播州出身の私は、幼いころ、こうした屋根を茅葺きとは呼ばず藁葺きと言っていたように思う。辞書を開くと茅は「屋根を葺くのに用いる草の総称。ススキ、チガヤ、スゲなど」と書かれている。
しかし、
専門家のホームページを見ると、農村歌舞伎の舞台は藁葺きとして紹介されているし、内田家は草葺きと記されている。この点についてはまた勉強したいと思う。

過日私は”田舎”を思う気持ちを語ったが、この北区では歴史の襞に日々じかに触れることができる。四季の移ろいも肌で感じることができる。歩く楽しみには事欠かない。





“田舎”ということばの響き

2010-02-08 | ことば

  私は猫の額ほどの小さな庭で、野菜作りの真似事をしています。心のどこかでひなびた田舎に憧れているのかもしれない。メディアでも、田舎に誘うほっこりした番組や記事があちこちで見られます。しかし、田舎という言葉は、時として嫌な意味合いを持って使われることがあります。


 「お前のような田舎もんが・・」「百姓の分際で・・」、ある新聞社のオーナーが発した「無礼なことをいうな。たかが選手が」、男女の共同意識が高まる中での「女のくせに出しゃばるな」など、聞きづてならない言葉は姿を消してはいないようです。


 広辞苑によると、“たかが”は「みくびった時に使う」とあり、“くせに”は「非難の意味をこめた」言い回しと説明しています。“分際”にいたってははっきり身分の上下を表した表現で、「学生の分際で生意気だ」といった例を挙げています。

 

 だからといって、何でもかんでも差別になるのではないかといって、問題のなさそうな言葉に安易に言い替えてしまうのでは、“ことば狩り”につながるだけです。都会と田舎、士農工商という身分制度、人によって受け止め方に違いはあるでしょうが、私は“百姓”という言葉に職業べっ視の意味が含まれるとは思いません。「お百姓さんの長年の経験があってはじめて、こんなにおいしい野菜ができるんです」というと差別感はありません。しかし、「たかが百姓風情が・・」というと、それは明らかに見下した表現になります。

 このように字面を並べるとつい理屈っぽくなってしまいますが、実際に言葉を発してみてください。「田舎暮らし」「お百姓さん」、いい響きです。





無粋な譬え

2010-02-05 | ことば

 本日の朝刊、一面の横見出しは”小沢氏 不起訴”、「幹事長職は返上せぬ」という。天声人語でこんな記述があった。


 京の五色、大阪の三彩に対して、江戸の着物の粋は茶色と黒だった。「四十八茶百鼠」と言われ、人々は微妙な色の違いを楽しんだという。百鼠とは、白と黒の間の濃淡さまざまなグレーのこと。江戸研究家の杉浦日向子さんの遺著に教えられた。濃淡の差はあれ、百鼠のどれかの色で民主党の小沢幹事長を眺める人は、少なくないだろう。


 私は昔、呉服の商売に携わったことがある。染色の世界でいう鼠つまり灰色、それに黒・白は、とりわけ発色が微妙で難しいようだ。生地・柄ゆき・着る人に合わせて、熟練の職人が創意工夫を凝らす。まさに汗の結晶で、鼠の色合い、濃さ・薄さはけっして汚れ・疑惑の度合いを測るものではない。小沢氏の所業を灰色と決め付け、疑惑を強調したかったのだろうが、そこに粋を象徴する“鼠”を持ち出すのは、無粋と言うものだ。