そして武士の大リストラ…廃藩置県と秩禄処分
皆さんこんにちは。「篤姫」いらい久しぶりの出直し学習会です。
ほんとうはこれがメインで、このblogは始まったはずなのに(なつかしの風林火山の初期をご参照)、今年は…今年は…よよよ。なんだかやりかた忘れてしまった。
いや、でも2009年の悪夢の11ヶ月のことはスッパリと忘れ、脱力しきった体に活をいれ、心を入れ替えて出直すつもりで、学習会も頑張ってみたいと思います!
みなさんよろしくお願いします。
第1回は、ドラマ第1話のなかで通低音のように流れていた問題、明治近代化のはじまりに伴う、武士の世の終わりについて、さらってみたいと思います。
年表的にいいますと、
1867(慶応3)年 大政奉還 王政復古の大号令
1868(慶応4 明治元) 江戸城無血開城 五箇条の御誓文 戊辰戦争
1869(明治2)戊辰戦争終結 版籍奉還 官制改革
1871(明治4)廃藩置県
1872(明治6)徴兵令交付 地租改正 征韓論めぐり西郷隆盛が下野
1873(明治7)佐賀の乱 秩禄処分
1875年(明治9)廃刀令 神風連の乱 萩の乱 秋月の乱
1876(明治10)年 西南戦争
…と、まあ明治の最初の10年間に、よく政府が潰れなかったと思うほどの反動を乗り越えているわけですよね。
ドラマ内でも触れられてましたように、明治維新の戦いは、各藩完全に自腹を切って、天皇への無料奉仕としてやったものです。一部の功労者を除き、諸藩の兵隊レベルには見返りや報酬は一切ありませんでした。
かわりに、明治政府の出発にあたって要求されたのが版籍奉還、つまり、天皇からお預かりしていた各藩の領地を、いったん天皇(=明治政府)に返還するという手続きです。きのうまでのオラが藩を返還しろって、これふつう、寝耳に水のショックな話…だと思うんですが、各藩の藩主は、以外やすごく素直にこれに応じたといわれます。
その理由の大きなものとして、
「従来、藩主は徳川家から領地を委託されていたのですが、その徳川家がもう無い。そのかわりに、あらためて天皇から、領地を再度委託される、つまり所領安堵のための手続きという勘違いがあった」
と、いうことが上げられます。
これについては、新政府の舵取りをはじめた木戸孝允などの巧妙なコントロールがありました。天皇からあらためて所領安堵の確証がないと、今後領地は保証できないくらいのことは言って脅したのも利いたようです。
じっさい、あくまで暫定ですが、各藩主は県知事として、実質いままでと変らない立場に留まっていられました。
ところが、ここが巧妙なところで、いったん天皇に版籍を奉還した諸藩は、徳川時代は完全独立採算だった藩政に、中央政府の関与を許すことになります。新政府は、各藩の行政・人事などから、財政までをコントロールし、中央集権化をバリバリ進めていきました。
ここから、中央も地方もふくめ、全国一律、政治形態をガラッと替える官制改革がはじまります。各藩ごとにある複雑な家格とか、ローカルなヒエラルキーを全廃してしまい、藩士は一律に士族に、その家来の陪臣は卒族に…と、身分もスッパリまとめて整理、デフラグしてしまったんですね。
同時に、いままでは農民からだけ取っていた年貢は金納にし、士族・卒族からも平等に課税するということがはじまります。
そして、徴兵令の交付。
これは武士にとっては、税金取られるよりショックなことでした。武器を持って祖国防衛の前線に出るのは、数百年にわたって武士の仕事であり、武士はその対価として俸禄をうけとり、そういう役目柄の日々の鍛錬や精神修養などが存在し、そういうことで武士という人種がなりたってきたのですから…。
なので、武士の血をもたない農民や、農工従事者のせがれが武器をもたされ、兵士として前線にでるということは、武士にとっては、その拠って立つアイデンティティの崩壊です。
全国の士族から炎のように噴きあがったブーイングのなか、政府は改革を断行します。徴兵令の施行の下準備として、全国均一の戸籍もつくられ、中央がどこも中間委託をせず、国民のすべてを握り、国家収入のすべてを管理する時代がやってきました。
このような下準備をへて、明治4年、廃藩置県が実行に移されるのですが、これは、一般国民を相手にした一種のクーデターのようなものでした。
クーデターを断行したのは、薩摩、長州、土佐からなる連合隊で、天皇による「廃藩置県の大号令」をかかげて全国に打ってでた。いうなればあの「錦の御旗」リバイバルです。
この廃藩置県は、このタイミングで強引にやってしまわないと、新政府はほんとに即座に潰れたかもしれないという、ギリギリの崖っぷちで成し遂げられたのです。
というのは、維新後の脱力感から立ち直った諸藩の官僚は、自分たちの力でもういちど独立採算を…という気力を取り戻し始めてました。じっさい、地方にはそういう有能な人がたくさん居ましたし、ヒエラルキーの撤廃で、下のほうの身分からも優秀な人材が競りあがってきて、地方の小藩をにぎったら、政府を脅かす下克上…ようするに、真の意味での市民革命になってしまいかねない。いや、ならないほうがおかしい。
という状態で、外に目を向ければ状況はますます切迫しています。一刻も早い不平等条約の改正、そして外国の侵略を許さない軍制を作ること。そういう急務を抱えて、国内でいつまでもゴタゴタしているのは自殺行為なのですね。
かくして、廃藩置県は明治4年のある夏の日(7月14日)、突然、そして粛々と行われます。藩主達を藩主の座から追い出し、旧藩の人脈を各藩から絶ってしまい、城を潰し、旧藩時代の政治方針は一掃されました。
大久保利通などが死を覚悟したこの大改革が、意外とスムーズに進んだのは、各藩の財政状態という現実的な問題もありました。
徳川時代から、多くの藩はもう財政的に機能しなくなっており、整理不可能な借財を抱えて首が回らず、立ち往生してしたんですね。なので、カンタンにいえば自己破産して、借金を政府が整理してくれるなら、それはまあ、悪い話でもない…と考えた殿様や士族が少なくなかったようです。
もちろん、そのための地ならしとして、版籍奉還が行われていたわけですけども。
財政的な問題では、藩財政より深刻なのが、士族の抱える経済的な問題だったりしました。
維新後、士族はすべていままでどおりの家禄や扶持を、それぞれ帰属する藩からいままでどおり受け取ってました。廃藩置県で藩がなくなると、給料の出所が消滅するわけです。
もともと武士の給与は、労働対価として支払われるのではなく、基本的には個人でなく家についていて、家とともに世襲されていくものだったので、版籍奉還とともにそういうものが消滅するのは、たいへんな構造改革だったわけです。
廃藩置県の前は、新生日本の国家予算の30~40%が士族と華族の禄として消えてました。このなかには、維新の功臣として表彰された人(おしなべて微禄の下級武士や公家)が、論功行賞でもらった賞典禄(永代禄、一代禄、期間限定などのランクあり)がかなりのウェートをしめていて、これが存在する以上、軍制の整備や富国強兵などは予算がとれずないわけです。
そして、明治7年になって、新政府はいよいよ断行します。
秩禄処分を。
つまり、徳川時代260年にわたって続いてきた武家の家禄というものを、全廃してしまうということですね。もう武士に給料は出せない。各自で自由な労働なり生産なりにたずさわり、自己責任で生きていけえ!っつうわけです。
もちろん、いきなり給与ストップでは路頭に迷うので、秩禄返還と交換で、相応の退職金が出ます。政府は、それぞれの禄高から換算した一定の割合…1年分から4年分くらいを、額面の半額を現金、のこりを政府の借金として公債にして支給します。早期に秩禄返還を申し出たものには、ちょっと割り増しもありました。現代のエコカー割引と、ちょっと似ていますね。
自己責任で生計を立てろというのは、今の感覚では当たり前のことですけど、突然これをいわれた武士としてはたいへんなショックでした。特に、ダイレクトに維新戦争を目撃してなく、明治政府を政権交代くらいにしかおもってなかった地方の藩士は…
「どどどうするだ、家禄が貰えんようになったら。うち食って行けん。まーもともと大した家禄じゃねえだし、それでおとうとおっかあとオンナしと、ボコの3人と、中間と下女を雇ってただから万年赤字だし、家中総出で内職もしてただ。カサ張りとか籠とか作ってただ。だけんそれで生計立ててたっちゅうこんじゃねえだ。ここ大事だ。武士のうちはそういうもんじゃねえだから。微禄でもなんでも、きまった家禄が毎年出るっちゅうのは、殿さんとオラんとうの契約っちゅうの? おまんのウチは武家だぞっちゅう御墨付きみたいなもんずら。もう殿さん居んだからっちゅって、300年続いた家の証しまで白紙にするっちゅうのは話がちごうじゃねえだか、おい。しかも城はぶっ壊すわ、廃仏毀釈だかなんだかで、主家代々の菩提寺もメタぶっこわして、藩祖様の木像もなんもぶっさらって粗大ゴミに捨てただ。しかもよ、来年から武家は刀さして外歩いちゃいけんっちゅうだと、おい。なんちゅう話だ、そら。ほんなもん許して、鎌倉以来の武家の名分がたつだか。しつこいようだけん金のこんじゃねえだ。ま、金は貰えんと、ウチまじで困るだけんど…。だけん半分が公債なんちゅこんじゃアテにならんら、おい。あんなもん要するに紙切れずらよ。薩長の衆のやるこんだ、いつでも反故にするわ。汚ねえだから、あいつら。やっぱ山吹色のアレですぐ貰えんこんには、信用ならんっちゅ話だわ」
(すんません、このローカル武士の心の叫びは、ご当地甲州の言葉で代弁してみました。でもじっさい甲州は直轄領だったんで、武士は全員江戸から派遣された幕臣で、こういう言葉を喋る武士は存在しなかったんですよね)
新政府の公平なところは、自分たちの、維新のごほうび賞典禄も一律に廃止しちゃったことですね。もちろん、大久保利通本人がもらった最高ランクの永代禄もチャラでした。
士族としては、とりあえずまとまったお金が手にははいったものの、一生たべていける金額じゃなし、どうしていいか分かりませんでした。
そのお金をもとでに、なれぬ「武家の商法」などをやってスッテンテンになったり、借金を返したりしたらなし崩しに尽きてしまって、あとは路頭に迷うとか、気の毒な話がゴロゴロしています。
武士の商法の涙ぐましい話はたくさんあるのですが、たとえば、山口県・萩の観光名所の旧武家屋敷町には、どこの庭にも夏蜜柑の木が植あって、それは風情があるんですけど、それというのはは秩禄処分のときに、士族に生計の道を教えるため、換金作物として奨励したからなんだそうで。そういうのを、士族授産といいました。ほんとうに、もとサムライとその家族達は、手とり足取り教えてもらわないと収入を得ることもできず、もらった一時金の使い道も分からなかったのですねえ。
こうして、すこしずつハダカにされ、自力で生計を立てることに直面し、誇りを奪われた武士の怨嗟は、全国に広がっていきます。秩禄処分のころから士族反乱が頻発し、止められないエネルギーとなって西南戦争になだれ込んでいくわけですから、ある意味、それは歴史の因果というものかもわかりません。
皆さんこんにちは。「篤姫」いらい久しぶりの出直し学習会です。
ほんとうはこれがメインで、このblogは始まったはずなのに(なつかしの風林火山の初期をご参照)、今年は…今年は…よよよ。なんだかやりかた忘れてしまった。
いや、でも2009年の悪夢の11ヶ月のことはスッパリと忘れ、脱力しきった体に活をいれ、心を入れ替えて出直すつもりで、学習会も頑張ってみたいと思います!
みなさんよろしくお願いします。
第1回は、ドラマ第1話のなかで通低音のように流れていた問題、明治近代化のはじまりに伴う、武士の世の終わりについて、さらってみたいと思います。
年表的にいいますと、
1867(慶応3)年 大政奉還 王政復古の大号令
1868(慶応4 明治元) 江戸城無血開城 五箇条の御誓文 戊辰戦争
1869(明治2)戊辰戦争終結 版籍奉還 官制改革
1871(明治4)廃藩置県
1872(明治6)徴兵令交付 地租改正 征韓論めぐり西郷隆盛が下野
1873(明治7)佐賀の乱 秩禄処分
1875年(明治9)廃刀令 神風連の乱 萩の乱 秋月の乱
1876(明治10)年 西南戦争
…と、まあ明治の最初の10年間に、よく政府が潰れなかったと思うほどの反動を乗り越えているわけですよね。
ドラマ内でも触れられてましたように、明治維新の戦いは、各藩完全に自腹を切って、天皇への無料奉仕としてやったものです。一部の功労者を除き、諸藩の兵隊レベルには見返りや報酬は一切ありませんでした。
かわりに、明治政府の出発にあたって要求されたのが版籍奉還、つまり、天皇からお預かりしていた各藩の領地を、いったん天皇(=明治政府)に返還するという手続きです。きのうまでのオラが藩を返還しろって、これふつう、寝耳に水のショックな話…だと思うんですが、各藩の藩主は、以外やすごく素直にこれに応じたといわれます。
その理由の大きなものとして、
「従来、藩主は徳川家から領地を委託されていたのですが、その徳川家がもう無い。そのかわりに、あらためて天皇から、領地を再度委託される、つまり所領安堵のための手続きという勘違いがあった」
と、いうことが上げられます。
これについては、新政府の舵取りをはじめた木戸孝允などの巧妙なコントロールがありました。天皇からあらためて所領安堵の確証がないと、今後領地は保証できないくらいのことは言って脅したのも利いたようです。
じっさい、あくまで暫定ですが、各藩主は県知事として、実質いままでと変らない立場に留まっていられました。
ところが、ここが巧妙なところで、いったん天皇に版籍を奉還した諸藩は、徳川時代は完全独立採算だった藩政に、中央政府の関与を許すことになります。新政府は、各藩の行政・人事などから、財政までをコントロールし、中央集権化をバリバリ進めていきました。
ここから、中央も地方もふくめ、全国一律、政治形態をガラッと替える官制改革がはじまります。各藩ごとにある複雑な家格とか、ローカルなヒエラルキーを全廃してしまい、藩士は一律に士族に、その家来の陪臣は卒族に…と、身分もスッパリまとめて整理、デフラグしてしまったんですね。
同時に、いままでは農民からだけ取っていた年貢は金納にし、士族・卒族からも平等に課税するということがはじまります。
そして、徴兵令の交付。
これは武士にとっては、税金取られるよりショックなことでした。武器を持って祖国防衛の前線に出るのは、数百年にわたって武士の仕事であり、武士はその対価として俸禄をうけとり、そういう役目柄の日々の鍛錬や精神修養などが存在し、そういうことで武士という人種がなりたってきたのですから…。
なので、武士の血をもたない農民や、農工従事者のせがれが武器をもたされ、兵士として前線にでるということは、武士にとっては、その拠って立つアイデンティティの崩壊です。
全国の士族から炎のように噴きあがったブーイングのなか、政府は改革を断行します。徴兵令の施行の下準備として、全国均一の戸籍もつくられ、中央がどこも中間委託をせず、国民のすべてを握り、国家収入のすべてを管理する時代がやってきました。
このような下準備をへて、明治4年、廃藩置県が実行に移されるのですが、これは、一般国民を相手にした一種のクーデターのようなものでした。
クーデターを断行したのは、薩摩、長州、土佐からなる連合隊で、天皇による「廃藩置県の大号令」をかかげて全国に打ってでた。いうなればあの「錦の御旗」リバイバルです。
この廃藩置県は、このタイミングで強引にやってしまわないと、新政府はほんとに即座に潰れたかもしれないという、ギリギリの崖っぷちで成し遂げられたのです。
というのは、維新後の脱力感から立ち直った諸藩の官僚は、自分たちの力でもういちど独立採算を…という気力を取り戻し始めてました。じっさい、地方にはそういう有能な人がたくさん居ましたし、ヒエラルキーの撤廃で、下のほうの身分からも優秀な人材が競りあがってきて、地方の小藩をにぎったら、政府を脅かす下克上…ようするに、真の意味での市民革命になってしまいかねない。いや、ならないほうがおかしい。
という状態で、外に目を向ければ状況はますます切迫しています。一刻も早い不平等条約の改正、そして外国の侵略を許さない軍制を作ること。そういう急務を抱えて、国内でいつまでもゴタゴタしているのは自殺行為なのですね。
かくして、廃藩置県は明治4年のある夏の日(7月14日)、突然、そして粛々と行われます。藩主達を藩主の座から追い出し、旧藩の人脈を各藩から絶ってしまい、城を潰し、旧藩時代の政治方針は一掃されました。
大久保利通などが死を覚悟したこの大改革が、意外とスムーズに進んだのは、各藩の財政状態という現実的な問題もありました。
徳川時代から、多くの藩はもう財政的に機能しなくなっており、整理不可能な借財を抱えて首が回らず、立ち往生してしたんですね。なので、カンタンにいえば自己破産して、借金を政府が整理してくれるなら、それはまあ、悪い話でもない…と考えた殿様や士族が少なくなかったようです。
もちろん、そのための地ならしとして、版籍奉還が行われていたわけですけども。
財政的な問題では、藩財政より深刻なのが、士族の抱える経済的な問題だったりしました。
維新後、士族はすべていままでどおりの家禄や扶持を、それぞれ帰属する藩からいままでどおり受け取ってました。廃藩置県で藩がなくなると、給料の出所が消滅するわけです。
もともと武士の給与は、労働対価として支払われるのではなく、基本的には個人でなく家についていて、家とともに世襲されていくものだったので、版籍奉還とともにそういうものが消滅するのは、たいへんな構造改革だったわけです。
廃藩置県の前は、新生日本の国家予算の30~40%が士族と華族の禄として消えてました。このなかには、維新の功臣として表彰された人(おしなべて微禄の下級武士や公家)が、論功行賞でもらった賞典禄(永代禄、一代禄、期間限定などのランクあり)がかなりのウェートをしめていて、これが存在する以上、軍制の整備や富国強兵などは予算がとれずないわけです。
そして、明治7年になって、新政府はいよいよ断行します。
秩禄処分を。
つまり、徳川時代260年にわたって続いてきた武家の家禄というものを、全廃してしまうということですね。もう武士に給料は出せない。各自で自由な労働なり生産なりにたずさわり、自己責任で生きていけえ!っつうわけです。
もちろん、いきなり給与ストップでは路頭に迷うので、秩禄返還と交換で、相応の退職金が出ます。政府は、それぞれの禄高から換算した一定の割合…1年分から4年分くらいを、額面の半額を現金、のこりを政府の借金として公債にして支給します。早期に秩禄返還を申し出たものには、ちょっと割り増しもありました。現代のエコカー割引と、ちょっと似ていますね。
自己責任で生計を立てろというのは、今の感覚では当たり前のことですけど、突然これをいわれた武士としてはたいへんなショックでした。特に、ダイレクトに維新戦争を目撃してなく、明治政府を政権交代くらいにしかおもってなかった地方の藩士は…
「どどどうするだ、家禄が貰えんようになったら。うち食って行けん。まーもともと大した家禄じゃねえだし、それでおとうとおっかあとオンナしと、ボコの3人と、中間と下女を雇ってただから万年赤字だし、家中総出で内職もしてただ。カサ張りとか籠とか作ってただ。だけんそれで生計立ててたっちゅうこんじゃねえだ。ここ大事だ。武士のうちはそういうもんじゃねえだから。微禄でもなんでも、きまった家禄が毎年出るっちゅうのは、殿さんとオラんとうの契約っちゅうの? おまんのウチは武家だぞっちゅう御墨付きみたいなもんずら。もう殿さん居んだからっちゅって、300年続いた家の証しまで白紙にするっちゅうのは話がちごうじゃねえだか、おい。しかも城はぶっ壊すわ、廃仏毀釈だかなんだかで、主家代々の菩提寺もメタぶっこわして、藩祖様の木像もなんもぶっさらって粗大ゴミに捨てただ。しかもよ、来年から武家は刀さして外歩いちゃいけんっちゅうだと、おい。なんちゅう話だ、そら。ほんなもん許して、鎌倉以来の武家の名分がたつだか。しつこいようだけん金のこんじゃねえだ。ま、金は貰えんと、ウチまじで困るだけんど…。だけん半分が公債なんちゅこんじゃアテにならんら、おい。あんなもん要するに紙切れずらよ。薩長の衆のやるこんだ、いつでも反故にするわ。汚ねえだから、あいつら。やっぱ山吹色のアレですぐ貰えんこんには、信用ならんっちゅ話だわ」
(すんません、このローカル武士の心の叫びは、ご当地甲州の言葉で代弁してみました。でもじっさい甲州は直轄領だったんで、武士は全員江戸から派遣された幕臣で、こういう言葉を喋る武士は存在しなかったんですよね)
新政府の公平なところは、自分たちの、維新のごほうび賞典禄も一律に廃止しちゃったことですね。もちろん、大久保利通本人がもらった最高ランクの永代禄もチャラでした。
士族としては、とりあえずまとまったお金が手にははいったものの、一生たべていける金額じゃなし、どうしていいか分かりませんでした。
そのお金をもとでに、なれぬ「武家の商法」などをやってスッテンテンになったり、借金を返したりしたらなし崩しに尽きてしまって、あとは路頭に迷うとか、気の毒な話がゴロゴロしています。
武士の商法の涙ぐましい話はたくさんあるのですが、たとえば、山口県・萩の観光名所の旧武家屋敷町には、どこの庭にも夏蜜柑の木が植あって、それは風情があるんですけど、それというのはは秩禄処分のときに、士族に生計の道を教えるため、換金作物として奨励したからなんだそうで。そういうのを、士族授産といいました。ほんとうに、もとサムライとその家族達は、手とり足取り教えてもらわないと収入を得ることもできず、もらった一時金の使い道も分からなかったのですねえ。
こうして、すこしずつハダカにされ、自力で生計を立てることに直面し、誇りを奪われた武士の怨嗟は、全国に広がっていきます。秩禄処分のころから士族反乱が頻発し、止められないエネルギーとなって西南戦争になだれ込んでいくわけですから、ある意味、それは歴史の因果というものかもわかりません。
出直し学習会は初見です!詳しい解説、ありがとうございます。
1867~76年の年表を見ると、本当に凄まじい勢いで改革が進んでいったのが分かりますね。当時の武士達の困惑ぶりが目に浮かぶようです。廃藩置県や秩禄処分や西南戦争etc…日本史の教科書にゴシック太字で載っていましたが、こうやって解説して頂くとそのエネルギーのベクトルと言いましょうか、、「流れ」が分かります。
勉強になりました!坂・雲本編のレビューと共に、学習会の方も楽しみにしています^^
わははは。今年は思いっきりサボッちゃいましたねえ、出直し学習会。
西南戦争の前のとこは、先だってまで見ていた「翔ぶが如く」にも詳しかったのですが、ほんとに、このあたりの歴史は、教科書でサッと触れられることの奥に、凶暴なエネルギーがいっぱいあって、ものすごい緊張感のなかで時代が移ってしたんだなあと思います。
来年は龍馬伝もあるので、好きな時代ですから、また張り切ってしまうかも(笑)
歴史の流れを俯瞰する学習会は、ドラマの楽しみを更に深くします。「坂雲」、「龍馬伝」ともに宜しくお願いしま~す!
歴史の教科書では、さもスムーズに進んだかのように記述されている維新の大事業も、実際は試行錯誤と混乱の連続だったようですね。
大改革には、既得権の大幅な切り捨てが伴うのは不可避ですから、やむを得ないともいえますが。
明治維新以来の変革といわれる今日の政権交代も同様、産みの苦しみに直面しています。
果たして、明治の先達のように難局を乗り越えられるか否か?
因果は巡ると言いますが、大久保利通の子孫を、かつての奥羽越列藩同盟の中核地だった岩手県を地盤とする政治家が打ち破ったことにも、不思議な因果を感じます。
ほんと、学習会もなんだかやり方忘れちゃいましたよ(笑)。
この明治前半の20年くらいというのは、教科書だとサクサクと記述されてしまうんですが、その改革の一個一個に、手探りで暗闇を進むみたいな、たいへんな苦労と、悲喜こもごものドラマがあったと思うんですよね。
>大久保利通の子孫を、かつての奥羽越列藩同盟の中核地だった岩手県を地盤とする政治家が打ち破った
あ、なるほど!
ただ、岩手のあの方が、泥水をすすって汚名を着ても、私に帰せず日本改造をやりぬく人であってくれれば良いんですけど、そこがね…。
あと、首相のご先祖は備前岡山藩士であった由で、明治政府では文官として地位を固めたとのことですが、こちらも…
ふる雪や明治は遠くなりにけり、となるのでしょうか(笑)。