como siempre 遊人庵的日常

見たもの聞いたもの、日常の道楽などなどについて、思いつくままつらつら書いていくblogです。

坂の上の雲 最終回 「日本海海戦」

2011-12-30 14:40:10 | 「坂の上の雲」メモリーズ

 さて。
 みなさん、いよいよ今日のそのときがやってまいります。3年がかりの「坂の上の雲」が、ついに全編最終回。前ふりの期待の何年かをいれれば、のべ5、6年くらい「坂・雲」ウォッチングを続けてた気がしますが、それもこれでおわりです。
 最終話を見終わって、「終わったなあ…」としみじみ思いはしましたが、感慨というか、なにかこう、「まだ足りない」「もっと見たい」という気持ちのほうが強かったのは意外なことでした。このドラマ、毎回1時間半に、時間の尺以上の内容を盛り込んで、非常に濃いんですけど、それでもやっぱり、全部で13話というのは、この物語の尺には全然足りないと思います。せめて第3部だけでも5回か6回は欲しかった。
…ってなことで、この最終回、一番感動したのは
「映像の力ってすごい!!」ということでした。
 いえ、映像ばっかすごくて内容は…なんてことは全然ないんですが、なんというか、CGの映像が、それ目的で自己完結してるんじゃなく、物語と有効にかみ合っているというか。この壮大なCGあって初めて出せる説得力、というのに非常に感じ入ったことでした。
 昨今、映画の世界でも猫も杓子も3D、どーみてもろくな内容じゃないものを、にぎにぎしく3Dで興業打ってるのを多く見かけます。今回の「坂・雲」最終回のようなのは、今後ひとりあるきして発達するだろう映像技術の、正しい方向性を示した例として、たいへん心強く感じられました。ドラマの最後の最後に、そういう意味でも希望の持てる内容になっていたのは、ほんとに良かったと思います。
 んでは、見てまいりましょうか、

最終回 「日本海海戦」

○東郷ターンと日本海海戦の展開

 前回のつづき、「トーゴーは気が狂ったのか!?」というロジーちゃん(ロジェストウェンスキー提督)の目の前で、日本連合艦隊が、旗艦・三笠を先頭に、ぐるりん!!と謎の大回転を初めたところからです。
 これが、世界海戦史上空前絶後の作戦として有名な、敵前大回頭、いわゆる丁字戦法、またの名を東郷ターン、なんですが、これ今日の研究では、前もって緻密な計算とかはしてなかったとか、敵前大回頭自体がなかったなど、諸説あるのは存じております。が、ここはあくまで、まあ二百三高地のときと同じなんですけど、原作とドラマに準拠してレビュウを進めたいと思います。
 この、東郷ターンの展開と戦況の推移など、なかなか興味深いものがあるのですが、ドラマの中ではわりとあっさり説明してました。それに倣ってサクッと説明すると、旗艦三笠を先頭にした連合艦隊と、敵旗艦スワロフとオスラビアを先頭に2列で来るバルチック艦隊の進路は、ちょうど対面で向き合う形だったわけですね。そんで、三笠とスワロフが射程距離内に入ったとき、東郷団長の手がサッと上がり、そこから敵前大回頭…ようは、相手と同方向の進路にUターンで方向転換してから、敵の真正面に横付けする、というやり方をしたわけです。そのほうが、うまくいけば砲撃のチャンスも、命中率も高くなる、ということらしい。

奮戦した三笠の舵

 まあこのことを検証してるといつまでたっても終わりませんので…。また、ドラマ内でも誰も上空のヘリから観戦しているわけじゃないので、戦況の時系列より、艦上の人々の視界に入るもの中心の映像です。
 これがまた凄惨で…。原作を活字で読んでいたり、歴史の本とかを読んでても、あんまりこういう凄惨な現場って頭に描かなかったんですよね。連合艦隊の被害は軽微で、胸のすくような大勝利、みたいなことしか。まあ、旅順はあの通り血みどろなんですけど、日本海海戦は逆にクールでスマートな完勝、というイメージでしたが、いやいやいや…そんなもんじゃない。血みどろですがな。エライことになってるわ。主にロシアが
 敵前大回頭への対応がうまくできなかったロジーちゃんは、以後、連合艦隊の集中砲火を浴びることになります。なんでどうして!?と呆然としてるまに、水兵は火だるま、甲板は大火事。ボーダーの服を着た…あれは石炭係の囚人の強制労働とかなんでしょうか? そういう人も司令長官もいっしょくたに血みどろになり、ロジーちゃん「なんでこんな艦に乗せたんだあ!」とか言われてボーダー服から詰め寄られる場面もあります。

 まあ…あれですよ、陸戦海戦を問わず、戦場場面を腕によりをかけて血みどろにするというのは、古今戦争もの映画ではふつうの方法で、そこに(そんなに深くない)戦争批判とか厭戦感情みたいなのを盛り込むのも当たり前の手ですけど、今回、「坂・雲」の海戦描写も微妙にそういう方向にいったのは、最初、なんかこう…薄い違和感を覚えました。
 坂・雲の日本海海戦で表現されるナショナリズム感情というのは、実際かなりデリケートな問題であり、司馬さんが生前「坂の上の雲」の映像化を許さなかったというのも、おそらくそこが理由だと思うんですよね。それも検証していると長くなるので、保留にして先にすすめますが、日本海海戦の映像化にあたって、たぶん苦労したとおもうのは、ありきたりの厭戦表現に転ばず、「坂・雲」の特徴である明るいナショナリズムを生かしつつ、かつ戦争美化にもしないという…これは、非常にデリケートだし、誤解する人はするだろうし、かなりの信念がないと出来なかったと思う。
 そこで、お待たせしました、呼び物のスーパーCGということなんですけどね。日本海上を大回転する連合艦隊。炎上するスワロフ。火だるまになって海に落下する水兵とか、目の前で沈んでいくオスラビア…などなど。
 これが、どうだCGすごいだろう的な自己完結にならなくて、なんかこう、いままで感じたことないリアルな圧迫感をドラマに付加するのに成功したのは、ほんとに手柄だと思いますよ。というか、わたし見ていて、うわあCGすげーなとか、ぜんぜん思わなかったですもん。
 血みどろや沈没場面もすごいけど、地味に感動するのは三笠の兵隊さんたちの奮戦ぶりね。むかしのことで、全艦放送とかはないので、伝声感&伝言で情報がまわっていきます。騒音の凄い大砲回りでは、伝言ボードで伝達されます。その必死さとか、それぞれの持ち場で最大限の力をだし、確実に仕事をこなしている…というあたりも、ホントに健気でねえ。思わず涙しちゃいましたけど、まあ、映像の説得力というものは、とくに戦争反対とかの演出をつけなくても、ふつうな感情移入を呼ぶということですよね。また、そういう感情のほうが、演出で押し付けられるより、見ているほうには胸に落ちる場合もあるということです。


 で、主人公の真之(本木雅弘)は、終始一貫つらそうな、胃が痛そうな、精神的にギリギリ、みたいな顔をしています。
第1部から出てきてましたけど、基本的にはこの人は神経が細く、流血とかのビジュアルに耐えられるようにできないんですね。そのわりに、あの屍山血河の二百三高地のときは、「陸軍なにやってる、さっさと落とせ」とかガーガー言ってましたけど…。ようは戦術や戦争そのものじゃなくって、ビジュアルとして視界にはいってくる光景に弱い。正直だなあ(笑)。こういうところもお兄ちゃんとはだいぶ違います。
旗艦スワロフが戦闘能力をうしない(その後沈没)、ロジーちゃんも哀れ戦線離脱。指揮権は第二艦隊のネボガトフに託されて、まもなく、戦艦ニコライ1世に白旗が上がります(この白旗、記念艦みかさに実物が展示されてますけど、テーブルクロスかなんかなんですよね。白旗の準備自体がなかったらしく)。
それをみた淳さんは、わーっと頭に血が上り、長官、長官白旗です!降伏してます!すぐ砲撃停止してくださいっっ!!長官長官武士の情けですっっ!!とかいって動揺しまくります。ですが、団長すこしも騒がず、砲撃停止の指示もだしません。「見やんせ、敵はまだ前進しておるじゃなかか!」と。パニクった淳さんには、そのへんの判断ができませんでした。騒ぐ淳さんを厳しい目で見る団長。
 東郷長官は終始一貫冷静で、最初に立った立ち位置から一歩も動きませんでした。三笠が直撃をくらったときも、ちょっと肩を揺らしただけで、どっしり動かなかった。ああかっこいい…。ものの本には、海戦が終わったとき、艦橋の床は東郷の靴の下だけ乾いていたとあります。ほんとにそんな感じですね。
 で、ついにニコライ1世が前進をやめたとき、東郷はやっと片手をあげて、全艦砲撃やめ!Z旗おろせ!!と指示をだすんですね。
 これは、全体がみえない現場の兵隊にとっては、事実上の勝利宣言です。連合艦隊は一瞬放心したあと、感動にふるえます。あの、「旅順は見えるか」の海軍バージョンですね。

 さて、このあと、戦国時代でいえば城受け取りのような手続きがあります。団長から「秋山、ゆけ」と命じられた淳さんは、小舟にのってニコライ一世に行き、ネボガトフ少将から正式な降伏の申し入れをうけます。
 このとき、悲惨なことになったニコライ一世の船底で、戦死者が、適当に山に積まれているのを見てしまい(戦死者の処置のしかたも、丁寧に簀巻きにしてあげてる日本と違いますね。まあ死人の数も違うんだけど)、ショックで、おもわずフラフラ近寄って、膝をついて合掌します。
 これもある意味、淳さんが、自分の立てた作戦で導いた結果をみとどけた…ということなんでしょうけど、そこはあまりくどく意味をつけず、必要以上に美化した表現をしなかったのは、非常に好感が持てました。

○淳さんの帰宅と日本の反応など

 といったところで、若干首をかしげるシーンが挿入されます。根岸の子規庵にあつまるホトトギス同人のみなさんが、てんで勝手に、日本頑張れ、淳さん頑張れとか気勢をあげてるんですが、そこに、すげえ恰好つけた夏目漱石(小沢征悦)がやってきます。
 おおこの家は大和魂がウヨウヨしておるねー、とか言って、大和だましいってものをギャグにするんですが、聞いてきた律さん(菅野美穂)が、「なんか、バカにしてるみたいで不愉快」とバシッと漱石の軽薄な態度を批判します。
 それを聞いた漱石は、いやー、あの、吾輩は戦争に負けてロシアの植民地になって日本語で表現ができなくなったりするのが怖いのマジで。でもそれを、軍人に一方的にすがって頑張ってもらうしかないって状況が、なんかすげえ腹たって、ついついギャグにしちゃいましたが御免なさい、とかいってシドロモドロに謝ります。
 で、このあと、子規庵のちかくのお稲荷さんで、真剣にお祈りをしている季子さん(石原さとみ)を見て漱石もジーンと感動し、すす、すいません!とかいって一緒に拝む、ということになるんですけど、はっきりいって、なにが言いたいシーンかわかんなかったし、無理があった気がする。
 いえ、これって漱石のような知識人が当時抱いていた複雑な感情の、それなりに正直な吐露だとは思うんですけど、それをストレートにいわせて、純真に国を思う真心に触れさせて恥じ入られる、みたいな描写は不要だったんじゃない?インテリの辛辣な批判とかは、入れるならそのまま入れたほうがよかったと思う。
 それかここで半端に漱石を出さないとか…(というかこれ、単に小沢征悦の出番を作りたかっただけですかね?)。ただ、この時期の漱石の書いたものについては、ちょっと読んでみたいと思いましたがね。

 日本海海戦大勝利が号外で知らされて、日本中が狂喜するなかで、秋山家のお母さんの貞さん(竹下景子)がまず言った一言は、「淳は、生きておるかね?」でした。あたりまえの反応だけど、なんかこーいうのに、無条件でジーンときますよね。
 で、淳さんは無事に連合艦隊と一緒に帰還して、おかあさんのところに帰ってくるんですけど、それは悲しいことにお母さんのお通夜の夜。遠い満州でお母さんの訃報をうけた好古あにさん(阿部寛)も、まっさきに「淳は間に合うたかのう」と、そのことを心配します。
 こういうのって、いいよねえ。ごくごく素朴に、日露戦争奇跡の勝利、みたいなオフィシャルな歴史のできごとと、家族の歴史がリンクして、同じ重さで扱われてる。このドラマって、日露戦争勝利にいたる歴史ドラマというよりも、秋山家と正岡家の家族の歴史の物語だったんだなあ…、と、しみじみ腑に落ちますよ。また、そういう平凡な物語は、日露戦争にいった兵隊さんたち全員にもあったわけですよね。そんなことまで広がっていく、シンプルだけど味わい深い場面でした。
 戦争から帰ってきた淳さんは、ものすごく落ち込んでいて、虚脱状態になってます。で、お母さんのお通夜の夜、眠れなくてフラフラ外に出ようとする淳さんを、季子さんが、「どこに行くんですか」「離せ」「いやです離しません」と全力で止めるわけです。
 で、海軍をやめる、やめて坊さんになる、坊さんになって戦争で死んだ人たちを供養する、と口走って号泣する淳さんを、季子さんどうしていいかわかんないわけですよ。ずっと無事を祈って待ってた夫が、帰ってきて、よかったよかったで終わらない。夫のココロの闇の深さというか…。ちなみに、それをその場で感傷的に解決しなかったのもよかったと思います。

○ひとつの情景、そのほか

 その、崩壊寸前にいった淳さんを救済したのが、亡くなった子規(香川照之)の存在だったんですね。戦争がおわってしばらくして、淳さんは、軍服でなくふつうの恰好をして、子規庵にいきます。
 近くの茶店で一服したときに、店の女の子に「このあたりに正岡子規って人の家があるのを知ってるか」と振って、「えー、義太夫のお師匠さんかなんかですか?」と言われたりします。
 まあ、子規が生涯かけた業績といっても、そんなもんですよね。その子にしても、子規の名前も知らないし、自分の話してる相手が、日本を沸かせた海戦勝利の立役者だとも夢にも思わないわけで。そうやって、自分や子規の無名さを再確認することで、淳さんは平常心を取り戻していきます。
 子規庵にいっても中に入らず、帰っていく後姿を八重さん(藤真利子)が見て、「あれは淳さんみたようじゃったが…」と律に言います。律も、一瞬血相変えて追いかけていくんだけど、すぐ引き返してきて、平常な顔をして
「淳さんなら軍艦に乗っておいでじゃけえ人違いじゃろう…」
「ほうかのう…」
「そうに決まっとります…」

このやりとりの、母子の微妙な表情が、なんというか良かったですね。ほんとにいろんな複雑な感情があるんでしょうけど。
 律にとっては、もう会えない相手を、軍艦にのっておいでの淳さん、手の届かない英雄、として置いておくことで、自分の過去の想いを埋めて、とりあえず納得できるものもあるんじゃないでしょうか。また、そういう娘を黙って見守っているお母さんの表情も、味わい深かった。
 で、そのあと淳さんは子規のお墓参りにいくんですが、そこで、その時は無いけど後で建てられる墓誌の碑のことが紹介されます。
 そこには、子規が生涯かけた俳句のことはなにも書かれてなく、名前と生国と没年と、父親の旧藩でのお役目と、日本新聞の社員で月給40円、ということが淡々と書いてある、と。
 それすごくグッと来てしまったんだけど、けっきょく、明治のかれらは、「英雄にならなかった人たち」なんですよね。日本人に英雄・偉人は、精神的に合わない。たまさかそういうものになったとしても、本人たちに、そういうものに対する羞じらいが先に立つような。
 
 もうひとつ味わい深いシーン。凱旋してきた乃木大将(柄本明)は、皇居の廊下で、児玉源太郎(高橋英樹)に呼び止められます。「乃木よ、乃木の爺よ、その恰好で陛下に拝謁するのはいかがなものかのう」といって。
 児玉にしても、この勝利が完ぺきな勝利だとは思ってない。「これからどうなるのか。どう変わっていくのか…」と憂えるのですが、乃木は、「何ひとつ変わりゃせん」とボソッと返すわけです。
 何が変わらないと言いたいのか。日本人の本来の熱狂体質というのが、良くも悪くも変わらない、坂の上の雲を見て楽天的に突き進んでいくのは今後も変わらない、ということでしょうかね。
 まあ実際、日本人のオプティミズムは間違った方向にまっすぐ突き進んでいくわけですけど、児玉も乃木も、そういうのを見届けることはなくって、これから間もなく亡くなってしまうんですよね。児玉は疲労のあまり燃え尽きて、乃木は明治天皇に殉死する、という形で。

 あと、もう一つ印象的だったのは、ポーツマス講和条約に出発する小村寿太郎(竹中直人)を、伊藤博文(加藤剛)が送り出すところです。「君が帰朝のおりには、だれも迎える者がいなくても、余だけは必ず君を出迎える」というんですが、なんかもう…。伊藤にしても、講和条約でロシアから賠償金取れるとは思ってない。手ぶらで帰ってきた小村が、どんなバッシングをうけるかも予想できてて、これは維新いらいの日本をみつめてきた長老ならではですよね。日本の実力のほどを、骨身にしみてわかってる。
 で、じっさい、ポーツマスから不本意な講和条約を手土産に帰ってきた小村を、バッシングの嵐のなかで伊藤はひとりで出迎えるのです。最大の敬意と感謝をつくして。ここは、なにもセリフもないんだけどほんとうにジーンときました。
(ああそれと加藤剛さんに最終回の見せ場があったのが、すごく嬉しい。1年目は、やっぱり70歳過ぎているかたたちは序盤で見せ場を終わらせてしまうのね、とか思ってしまったもんね。加藤さんお疲れ様でした) 
そして、このように戦争のリアルな現実を背負った人たちがみんな世を去って、単に戦勝という神がかり伝説だけが残った日本には……

 そしてお話の最後は、故郷伊予松山で再会し、いっしょに釣りをして往時をなつかしむ秋山兄弟の場面です。
 往時をといっても、戦争中はどうだったとか、そういう話はいっさいしなくて、昔は貧乏で貧乏で、そういえば釣りなんかしたこととなかったねえ、とか。
 それで、あにさんがポツッと、「淳、おまえはようやったよ…」と。
で、最後は、真之がそのあと49歳の若さで亡くなり、好古が、退役してから故郷の松山で中学の校長先生になって(ここでも馬で通勤しているしww)、長生きして、最後は(この老けメイクすごかった…)、「馬引け、いくぞ、奉天へー!」とうわ言いいつつ、多美夫人に「あなた、馬から落ちちゃいけませんよ」とくぎを刺されながら亡くなる、というところで、ついに全巻のおわりです。

 最後のレビューはえらく長くなりましたが(笑)、お付き合いいただきありがとうございました。
私事ですが、坂の上の雲を最後まで見届ける、ということをとりあえずの目標に、やる気も息も絶え絶えながら細々とblogつづけてまいりましたが、このように満足のいく形でしめることができまして、ホントによかったとおもっております。
とはいっても、冒頭で申しましたように、なんか全体的に見たりない。まだ来年もあるんじゃないか…という妙な期待を捨てきれなくて困っております。ホントに、大河ドラマは10か月くらいでぜんぜん構わないので、あと1年、番外編かなんかで続けてくれないかなあ。

ってな叶わぬ期待を抱きつつ。皆様さようなら~。


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