湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

いつとはなしに眠りにおち微風を禿頭に感じて目が覚める。
このような生活に変わったらブログが更新されないかもしれません。

◇ 社会人になった頃の私の住環境

2015年04月11日 23時24分27秒 | 昔々の思い出
  先日入寮した新寮生は
  全員が初めて家族と離れての生活となります。

  同じ状況であった自分の若い頃(1970年代半ば)を想いました。

社会人になった私の最初の勤務地は佐賀市でした。
最初の住まいは、会社の人が世話してくれた下宿でした。
70歳ぐらいのご夫婦で運営されており、
下宿人が5名(?)ぐらいいたと思います。
(遠い昔のことなので記憶が曖昧です)

   家族と離れて暮らすのはもちろん初めての経験でした。
   それまで炊事・洗濯・掃除(年末大掃除の手伝い以外の)など
   したことがありませんでしたが、不安はなく
   一人だけの自由気ままな生活ができるとワクワクしていました。

下宿の部屋は狭い4畳で、畳が横に4枚並べて敷いてある変な造りでした。
狭い窓が1ヵ所あるのですが、
窓を開けたら目の前に自動車整備工場のトタン塀があり
晴れの日も太陽が数時間しか差し込まないという、
素晴らしくない環境でした。



下宿の食事も、お替りして食べたいと思うようなメニューでは
ありませんでした。
下宿代が幾らだったのかも覚えていませんが
精一杯の心づくしだったのかもしれません。

下宿のお爺ちゃんは将棋が好きな方で、
『将棋を指せるか?』と聞かれたので
熱心にやったことがなかった私は
『駒の動かし方は知っています』と答えました。

相手が見つかったと喜んだお爺ちゃんは
早速、狭い私の部屋に将棋盤を持ち込んで対局となりましたが、
あっさりと私の方が勝ってしまいました。

負けず嫌いなのか、その日何番か差すことになりましたが
私は "勝つことしか" できませんでした。

それから、休日にはよく対局するようになりました。

気が咎めたのですが、時々 "勝たないでおく" ようになりました。

整備工場の騒音や、厳しい門限(締め出されたこともあります)、
そしてお爺ちゃんとの不本意な将棋対局もあり
1年ほどで引っ越すことになりました。


新聞広告欄(*)で見つけて移り住んだのは
これまた変な造りの木造2階建ての間借り専用家屋でした。

  * : 地方紙の「佐賀合同新聞」(こんな社名だったと思います)には
     その当時、アパート、下宿、間借の広告が沢山載っていました。
     1畳あたり1,000円が相場だったと思います。
     この部屋は古ーいせいもあり、5,000円以下だったと思います。

私の部屋は1階に3部屋あるうちの真ん中でした。

  ※私の部屋の明かりは、部屋の真ん中に下がっている
    オレンジ色に光る裸電球一個(笠もない)でした。
  ※廊下の板や部屋の柱は古くて黒光りしており、
   部屋出入口の引戸もガタツイテいました(鍵は南京錠)。

間取りから推測すると、赤線というものがあった時代に、
その "業務" で使われていたのかもしれません。
大正時代が舞台となった映画のセットにも使えるような建物でした。

もしかしたらその建物には(2階を含め)
私以外は女性ばかり住んでいたのかもしれません。

 1階の片側に大家さん母娘、反対側には私を真ん中に女性二人でした。
 外にある階段を昇降する2階の住人とは
 顔を合わせることがありませんでしたが、
 少なくとも男の声を聞いたという覚えがありません。

大家さんは
頑丈で真面目そうな私を見て、
用心棒にうってつけと考えたのかもしれません。

若い女性二人が
薄い壁を隔てて両隣に住んでおり
洗面とトイレが共同でした。

 ※風呂は無かったので、私は会社にある風呂を利用していました。
   女性たちは銭湯に行っていたようでした。

雨に日には共用スペースの板張りのところに
ロープを張って女物の洗濯物が干されていました。

  ワンルームマンションなどがある当節では
  考えられないような劣悪な環境
  (ある意味では良い環境)であったと思います。

私のことを人畜無害の男(空気のような存在)と
見ていたのでしょう。

私は自炊しないで専ら外食でしたが、
お二人は共用スペースにある小さなガスコンロを使って
自炊されていました。

それぞれの部屋で夕食をご馳走になったこともあります。

  美容師学校に通っているという10代女性のほうの狭い部屋では
  隠すこともなく干されているインナーにビックリしましたが、
  小さい卓袱台を囲んで炊き立てのご飯をいただきました。
  おかずが何だったか覚えていませんが、
  慎ましいものだったと思います。

  化粧っ気がない笑顔で気さくに話しかけてくる、
  あっけらかんとした人でした。
    ※そして、美人でした。

  20代女性の部屋は私と同じ6畳だったと思いますが
  大きなベッドが置かれており、化粧品の匂いが充満していました。
    ※やや美人でした

ある意味「桃源郷」のようだったその間借家も
朴念仁(?)の私は1年ほどで引っ越すことになりました。

主たる理由は、
部屋がゴミで埋もれてきたからです。
(過ちを犯したわけではではありません)

6畳の真ん中に布団を敷きっぱなしにしていました。
畳表面が見えている部分が限りなく狭くなってきて
足の踏み場もなくなり、
部屋内の移動もままならなくなったのです。

  ある夜など、
  寝ている布団の横のゴミの中でガサゴソ音がするので見ていると、
  小さい可愛いネズミが出てきて目が合いました。  

引っ越して身辺(文字どおりの)を綺麗にすることにしました。

引越しのための片づけは意外と簡単でした
大量にあるのはゴミばかりで
引越荷としては
衣装ケース1個(だったか)と14インチ白黒テレビ1台と布団一式(**)
程度だったからです。

  ** : 結果的に敷布団は捨てることになりました。
      万年床をあげたら下の畳が腐ってボロボロだったのです。
      敷いたままであったため湿気がこもったのでしょう。
      敷布団の裏もカビで汚れているようでした。
      昔は美人だったかもしれない未亡人の大家さんに謝りました。
      あきれて言葉にならなかったようでした。

我ながらよく病気にならなかったものだと思います。

お隣さんの妙齢の二人の女性に見送られて
(だったか、よく覚えていませんが)
不思議な造りの間借家を後にしました。

 ここまで読んでこられて「嘘のような話」
 と思われるかもしれませんが、
 1970年代に実際にあった話です。

  良かったことばかり思い出しては
  「古き良き時代」といって懐かしむのが古い人間の習いでしょうから
  現実には惨めなことも多かったはずですが ・・・      

 ここでの生活は三文小説の題材になりそうな気がします。


3ヶ所目(これも新聞で見つけた)は
佐賀城大手門の直ぐ近くにある木造2階建ての間借家でした。
今度のところは2階の角部屋で南側と東側に窓があり
大手門が目の前に見え、陽が燦々とふりそそぐ居心地のいい環境でした。


6畳の部屋いっぱいにカーペットを敷きました。
そしてダブルベッド(***)を置きました。

 *** : 当時は家具の町として全国的に有名だった
     大川市まで足をのばして家具屋を何軒かまわって選んだものです。
     ダブルクッション(上段はポケットスプリング)で
     大枚10万円近い値段だったと思います。
     ダブルにした理由は、私の寝相が悪かったから(今でも)と
     "何かのときの為になるのでは" と思ったからです。
     寝相の悪さは40年たった今でも直っていません。

前のところのように、トイレ・洗面台も共用(キッチン無し)で、
古い建物でしたが部屋だけは見違えるように変わりました。
前ほどゴミを散らかさないようにもなりました。

ただ、隣人とのお付き合いはなく
ここに住んでいた間に男の住人と交わした言葉は
引越してきたときの挨拶だけでした。
顔も覚えないまま1年後には見送られることなく転勤でおさらばしました。

   ダブルベッドの搬出は買ったときと逆のルートで、
    2階窓からロープをかけて降ろしました。
   (デカくて廊下や階段を曲がれないので)

佐賀市に住んだのは3年余りでしたが、
3ヵ所に移り住みました。

一所に落ち着かないという風来坊のような生活は暫らく続き
社会人になってから30歳になるまでの独身時代、
計7カ所を転々としました。

 このように一見飽きっぽいように見える私の行動は
 新たな発見・経験・体験を求めたがる私の性格から
 きているのだろうと思います

 それは仕事にもいえることでした。
 「新しい職場で、新たな課題を見つけ、
     新たな手法をもって、新たな成果を出す」
 これを働き甲斐の一つと考えていました。

 その結果、同じグループ会社内でしたが
 定年退職するまでに20ヵ所以上の職場を渡り歩きました。


 家族があり還暦も過ぎた私なので
 現実的には無理かもしれませんが
 今でも、世界の色んなところを放浪してみたいという希望を
 捨て切れていません。
     スーパーカブでトコトコとでも ・・・