聖経『甘露の法雨』は
【神は人間の光源にして
人間は神より出でたる光なり。
光の無き光源はなく、
光源の無き光はなし。
光と光源とは一体なるが如く
人間と神とは一体なり。】
と記している。
例を自分にとれば
私は光であり、
すべての人が光なのである
なお光源というのは仏教でいえば
般若心経の説く「不生不滅」の
空の奥にある「真空妙有」(妙なる実在)のことであり、
クリスチャン・サイエンスの説く“神の子”と同じものであるが、
聖経『甘露の法雨』は
これを“生命の実相”“人間神の子”と説くのである。
人間が光であることは
新約ヨハネ伝が冒頭に書いている。
【(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<ヨハネによる福音書第一章1~5>
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。】
ところで人間は光であるということについてだか、
再び実例をとると
私は今テレビでニュースを聞きながらパソコンを叩いているが、
私の肉体人間を中心とする環境一切が神の“光”と言えるのである。
このように言う理由も
聖経『甘露の法雨』に根拠がある。
【されど健康なる力士も
虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる
影にして実在に非ず。
汝ら若し活動写真の映写機に
印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)なき
無色透明のフィルムをかけて
舞台面(スクリーン)にこれを映写すれば、
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただ舞台面にあるものは光明そのもの、
生命そのものにして
赫灼(かくしゃく)として照り輝かん。
汝ら今こそ知れ、
汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。】
つまり時間空間面上に表現されている、
私及び私の環境のすべてが
私の“生命の実相”の表現であるから、
「光」であるわけで
つまり「神の子・神の国」の
現象世界への投影であるのだ。
つまり一瞬一瞬のこの時この場において
神の理念(神の国)が展開されているのである。
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