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人間は神より出でたる光なり

2019-09-09 09:26:38 | 日記

聖経『甘露の法雨』は

【神は人間の光源にして

人間は神より出でたる光なり。

光の無き光源はなく、

光源の無き光はなし。

光と光源とは一体なるが如く

人間と神とは一体なり。】

と記している。

例を自分にとれば

私は光であり、

すべての人が光なのである

なお光源というのは仏教でいえば

般若心経の説く「不生不滅」の

空の奥にある「真空妙有」(妙なる実在)のことであり、

クリスチャン・サイエンスの説く“神の子”と同じものであるが、

聖経『甘露の法雨』は

これを“生命の実相”“人間神の子”と説くのである。

人間が光であることは

新約ヨハネ伝が冒頭に書いている。

【(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)

<ヨハネによる福音書第一章1~5>

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。】

ところで人間は光であるということについてだか、

再び実例をとると

私は今テレビでニュースを聞きながらパソコンを叩いているが、

私の肉体人間を中心とする環境一切が神の“光”と言えるのである。

このように言う理由も

聖経『甘露の法雨』に根拠がある。

【されど健康なる力士も

虚弱なる病人も

印画液の作用によりて生じたる

影にして実在に非ず。

汝ら若し活動写真の映写機に

印画液によりて生じたる色々の模様(くもり)なき

無色透明のフィルムをかけて

舞台面(スクリーン)にこれを映写すれば、

やがて老いて死すべき健康なる力士もなく

虚弱なる病人は無論なく

ただ舞台面にあるものは光明そのもの、

生命そのものにして

赫灼(かくしゃく)として照り輝かん。

汝ら今こそ知れ、

汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。】

つまり時間空間面上に表現されている、

私及び私の環境のすべてが

私の“生命の実相”の表現であるから、

「光」であるわけで

つまり「神の子・神の国」の

現象世界への投影であるのだ。

つまり一瞬一瞬のこの時この場において

神の理念(神の国)が展開されているのである。


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