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山梨市牧丘・城古寺に建つ二階堂道蘊と足利尊氏の石塔二基~続編~!2017-02

2017-02-04 | 山梨、往古の歴史と伝説!

牧丘・城古寺に建つ「二階堂道蘊と足利尊氏」の宝篋印塔二基!

鎌倉幕府の二階堂道蘊と室町幕府を興した足利尊氏の宝篋印塔が何故並んでいるのか!?

また、牧丘・城古寺に、何故、敵対した武将の供養塔があるのか・・・!?

地元「牧丘タクシー」の親切で、現在窪平・替地にある「常牧山浄居寺」を尋ねて見た。

それは、・・・あの七朝帝師”夢窓国師”が結ぶ由縁があったようだ!

城古寺宝篋印塔二基・・・葡萄畑の中に、ひっそりと中世の歴史を刻む! 

ブログ2016年12月号で、この牧丘・城古寺にひっそりと建つ「宝篋印塔二基」に

ついて教えを乞いたいと発信しましたが、残念ながら応答もなく年を越しました。

年明けに、この地域では抜群の情報通である「牧丘タクシー」社長を通じて、何方か

心当たりを探して頂いたところ、現在、牧丘窪平にある常牧山浄居寺の前住職しか

ないだろうということで紹介して頂き、念願の教えを乞うて来ました。

今号は、その学習と解説をもって興味がある方へのダイジェスト報告と情報開示します。 


 牧丘タクシー」の情報通は、「牧丘タクシーのホームページ」を見ればわかります。

 山梨県の観光情報、地域情報発信サイトにて季節の新鮮な情報提供をされています。

 特に、山梨県の峡東地域(甲州市、山梨市、笛吹市域)のことなら、頼りになります。

 これほどUP・TO・DATEな情報はありません。

 最近、かなりアクセス利用者も増えて、人気度も上がっています。

 ぜひ一度「牧丘タクシー」で峡東を案内してもらって見て下さい。但し、情報通の

 運転手さんをお願いするには、予め観光タクシーの予約をしておいた方がベターです。

 きっと、「山梨の魅力再発見の旅」が楽しめますョ。

 「牧丘タクシーHP」・・・http://www.makiokataxi.com

 JR中央本線「塩山駅」下車。※首都圏からは電車の日帰り旅も可能です。

 塩山駅に「牧丘タクシー」は待機していますが、観光の場合は念のため予約を!


牧丘・城古寺宝篋印塔二基は、あの夢窓国師が結んだ由縁であった!

牧丘・城古寺の宝篋印塔は、二階堂道蘊と足利尊氏が葡萄畑の中に並んで建つ!

注)この辺りはあの夢窓国師が開山した常牧山浄居寺の南端境内跡と云われる!?

  牧丘の地名として、字名「城古寺」、小字名は「石塔」として伝えられている。


 山梨市教育委員会指定有形文化財、城古寺宝篋印塔は、ぶどう畑の中に二基

建つが、解説版の通り一基は二階堂道蘊、一基は足利尊氏の供養塔と伝えられる。

筆者は、2016年に現地宝篋印塔を踏査して、ブログ12月号で紹介した。

牧丘の地に、何故、あの二階堂道蘊と足利尊氏が並んで供養されるのか・・・!?

武田信玄の菩提寺「乾徳山恵林寺」開基の二階堂道蘊は往古の牧荘領主として

認知されて、地元では有名であるが・・・、

注)旧「牧ノ荘」領主は、甲斐源氏安田義定の時代より、二階堂道蘊、武田氏の千野館を築いた第11代信成

  ・12代信春以降の時代へと引き継がれている。

  補足)戦国時代に本拠を甲府躑躅ケ崎舘を遷した武田累代の信虎・信玄時代は、対武蔵、相模の北条等に

  備えて、要害山城と結んで通称「秩父裏街道」と呼ぶ軍用道を中牧に通じ、城古寺城を要衝としている。

しかし、室町将軍・足利尊氏は、何故、牧丘に由縁があるのかは不詳である。

山梨市にも問い合わせをしたが不詳とのことで、本ブログにて詳しく教えを乞いた

いと問い合わせたところ、応答者もなく、続けて文献資料の検索を続けたところ、

山梨流の定番ではあるが、「甲斐国志」と「牧丘町誌」を深読みし直してみると

ともに、改めて牧丘で唯一由縁があると思われる窪平にある常牧山浄居寺の前住職

にお伺いをしてみた訳です。

ご丁寧に、当寺の由緒書を頂戴し、その中に記される旧蹟浄居寺と今も供養される

宝篋印塔について、有り難く説明を受けることができました。

それら再検証の結果、自習NOTEとして次のように記すことにしました。


常牧山浄居寺 往古は臨済宗、現在は甲府・曹洞宗大泉寺末

常牧山浄居寺 山門と本堂   ※現在の所在地は、山梨市牧丘窪平字替地


 寺伝による浄居寺略史を解析すると、常牧山浄居寺は・・・、

第93代後伏見天皇の御代(永仁6年~平安3年、1298~1301年)、

正安年中(1299年~1301年)、元の寧一禅師(※一山一寧)が、

旧城古寺村へ錫(しゃく)を転じ草庵を結び、草創となすも、後に第94代

後二条天皇の御代(※正安3年~徳治3年、1285~1308年)に夢窓国師

が甲斐路行脚の砌り・・・当所(窪平)に錫を留め、金山の西隅に地を卜(居住)

し、草庵を結び、自らを浄居庵と名付け、いつか二階堂四良右衛門道蘊の帰依する

処となり、寧一禅師の由縁の地に一宇を建立し、寺領百二十貫を授与し、国師を

勧して開祖と仰ぎ、常牧山浄居寺と号す。

時に嘉元3(寅戌)1305年8月18日なり、夢窓31歳の時。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

従って、この寺伝の如くに深読みすると・・・「常牧山浄居寺」は・・・、

嘉元3年(1305年)創建、本開山は夢窓国師、開基は二階堂道蘊なるが、

実は、甲斐国志 巻之七十四 仏事部第二「常牧山浄居寺」窪平村によると、

曹洞宗大泉寺の末、除地三畝歩 開山は一山一寧禅師(正安元年化す謚(おくりな)を

妙茲弘済国師の号を賜う)、その後、夢窓国師住す・・・と記す。

※YS注記:牧丘町誌などは、開山を夢窓国師とし、一山一寧を勧請開山としている。

筆者も「夢窓年譜」を解析して見たが、牧丘町誌の解析に考えを惹かれるも、寺伝も重視したいもの。

足利家の興立七堂伽藍、三方下馬禁制等ありしとなん。

旧浄居寺村にあり、天正中築城に因って、本村(窪平)へ移し、替地を賜う。

今にその地を替地と名付く。

戦争の世再、興なり難く、逸見筋浅尾新田に移す、当寺は旧跡たれば、元和中、

陽山宗広再建して、当宗となれり。本尊は正観音、恵心の作と云う。

仏殿に、一寧(開山一山一寧)並びに夢窓(礎石)の宝塔、足利尊氏の牌子あり。

法名:浄居国清寺殿仁山妙義大禅定門としている。

(※足利尊氏は)按に京都にては「等持院」、鎌倉にては「長寿寺」と号す。

豆州名古屋に天長山浄居国清福寿万年禅寺と云う寺あり。

畠山国清の寺なり。関東五山の下十刹の上と云う格式なり。

尊氏将軍を国清寺とは云うべからず。

足利尊氏並びに二階堂信濃守の石塔と言い伝うるあり。

般若経写本二巻、地蔵尊 経蔵の本尊なり、胎内仏弘法作と云う。

また、牧丘町誌でも同じことが解説されているが、浄居寺前住に伺うと、

その法名は、当寺で手向けたものであるとしている・・・と。


二階堂道蘊と足利尊氏は、夢窓国師の縁で並んで供養されている!

従って、本題の二階堂道蘊と足利尊氏が並んで供養されている理由は・・・、

浄居寺では、寺歴上、足利家によって七堂伽藍を造営賜ったこともあるし、

開基を二人として、「城古寺石塔にある二階堂道蘊と足利尊氏の宝篋印塔二基」

を毎年、4月28日に法要を営んでいると云う。

筆者は、あの夢窓国師に帰依した二階堂道蘊と足利尊氏の二人を開基として、

法供養を修する常牧山浄居寺の希少な精神は、永劫に伝えられるべきと思う。


 



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