新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
旅人目線の特選記事を抜粋して発信!

勝沼ぶどう郷、"中世の勝沼"を歩いて見るのも楽しい!16-08

2016-08-02 | 山梨、秘めた魅力の再発見!

勝沼ぶどう郷は、盛夏の今頃・・・、ぶどうの収穫が始まる!

9~10月が旬!2016年は10月1日(土)に”勝沼ぶどうまつり”予定!

もし、「勝沼」を訪れるなら、”中世の勝沼”を歩いて見るのも面白い!

勝沼のある朝、”朝の月”がこんなに美しかった! あの感動は忘れられない!

最近、甲府盆地の東端にある勝沼は、時々”猛暑日本一”を記録することがある。

しかし、その地形・土質と環境こそ、”ぶどうの勝沼”が育まれた由縁でもある!

その勝沼と塩山、大和が合併した「甲州市」は”猛暑甲州”で有名になりつつあるが、

日中気温と朝夕の寒暖差が大きく、水はけの良い扇状地にあるため、ぶどう栽培に

適していることから、早くから葡萄栽培が盛んで、甲州種を醸造した甲州ワインは

今や世界ブランドになりつつある。


 注)「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見」バックナンバーもご覧下さい。

24)「恒例の勝沼ぶどうまつりはリピーターが多い」 2011-10-11

23)「甲州・勝沼の魅力は葡萄とワインだけではない」2011-09-16

を発信しましたが、勝沼も奥深いのでその続編として”中世の勝沼”を訪ねます!

注)14年11月OCNの都合で「ブログ人」が廃止になったため、その原をGOOブログへ引越しました。

  デザイン変更等一部画面の削減があったため、一部見苦しい部分もあるかと思いますがご容赦下さい。


久し振りに・・・、”中世の勝沼”を歩いて見ました・・・!

ブログ8月号は、「中世の勝沼」をテーマに紹介します!

史跡「勝沼氏舘跡」、この地に居舘を構えた武田五郎信友が「勝沼氏」を名のった!


「勝沼氏舘」は中世の連郭式平城。遺構は土塁、掘等原形が復元されている。

中世、武田信虎の弟、五郎信友が勝沼を本拠にして「勝沼氏」を称した。

昭和48年(1973)に環境整備事業により発掘調査が行われ、

甲州市教育委員会「甲州市文化財調査報告書第8集」によると・・・、

「勝沼氏舘」は15世紀には既に舘が築かれていたことが分かっている。

勝沼五郎信友は永正17年(1520)の岩殿七社権現・棟札の筆頭に、

武田左衛門大輔信友と記され、大永6年(1526)の境川村石橋八幡

棟札にも武田信虎と並んで名が見え、その勢力の大きさが伺われている。

勝沼信友は天文4年(1535)8月22日北条氏綱との戦いで都留郡

で戦死している。注)信友の後は五郎(丹波守)信元が嗣ぎ、信虎の代、

天文11年(1542)信濃大門峠戦、天文15年(1546)上信国境笛吹峠戦、

天文16年(1547)信濃海野平戦、天文19年(1550)信濃深志城戦、

天文22年(1553)信濃桔梗原で小笠原長時との合戦などに参じている。

このように信濃侵攻に名を馳せているが、信濃平定はならず・・・、

信玄の時代まで持ち越している。注)信玄は信虎追放等甲斐国内を粛正。

永禄3年(1560)11月、嫡子勝沼信元の代に、逆心を企てたとして・・・、

武田信玄に誅殺され、勝沼氏は断絶している。尚、雨宮家に嫁いでいた妹

は離縁され、柏尾山大善寺に入り「理慶尼」と号している。


 勝沼氏館跡と勝沼周辺のこと・・・その概要!

1)立地:甲府盆地の東辺、日川扇状地の扇頂部にある。勝沼舘の主要郭は、

  日川が形成した高さ20mの右岸段丘崖に沿って配置されている。

2)地名:現在の甲州市勝沼町勝沼の小字名は、正徳5年(1712)頃の

  検地記録以降、変化していないようで、昔のままの町名が残っている。

  夏秋(なつやけ)、西埜、上ノ山、東、工屋、加賀屋敷、向原、筋違

 (すじかい)などの他、一部の地名は慶長6年(1601)の検地の折、

  若干改められたところもあるが・・・、慶長検地以前、勝沼氏館跡の

  一帯の字名は「西埜」で、”原地”となっていたと推定されている。

3)街路:旧勝沼村の道は、甲州街道が舘の北郭の北辺掘に沿い東西に通過

  したことにより、街道の一帯は大きく変化したが、これ以外の「勝沼村

  一筆下絵図」に記される道は、中世以来の道が存在していると云われる。

4)「勝沼氏館」発掘調査において、ピットに焼土が充満した小鍛治施設を

  伴う工房遺構も見つかっている。既にここで黒川金山から運ばれた金鉱

  を「金」に精練していた遺跡が発掘されている。

  注)黒川金山からどの道を通って金鉱を運んだのであろうか?その道が萩原道~小佐手小路だと云う!

5)他、出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師質土器や、

  瀬戸美濃産灰釉皿、天目茶碗、中国産の青磁や白磁などの陶磁器類を始め、

  鉄砲玉や刀装具などの武具類、金箸や金槌、毛抜き、茶臼、金属製農具や

  硯などの日用品、六器台皿などの宗教用具など幅広く出土している。

6)舘跡周辺には、加賀屋敷、奥屋敷などの地名も残っていたが、舘跡の発掘

  調査により、周辺の街路や町割など旧蹟の実態も明らかになったと云う。


中世勝沼氏舘時代の名残がある「小佐手小路」を歩いて見る! 

小佐手小路(古道の面影)は、勝沼氏館大手門から鍵の手を曲がり北へ!

小佐手小路(おさでこうじ)は、勝沼氏館の大手門から、城門の前の道を

指す、真っ直ぐ北へ延びる道であったことから、御先手小路(おさきてこうじ)

と呼ばれていた。後世、これが転じて小佐手小路になったと云われます。

注)往古、黒川金山から武田家が金鉱石を運び出す道として、「金の道」の呼

ばれる数本の古道があったが、この道も萩原道から繋がる勝沼への「金の道」

であったのか!?注)源次郎岳を越え、棚横手を経て柏尾山へ通じる山道も、

隠し金の道と云う説もあるが、金鉱を運び出す道は秘密裏の道なので謎が多い!?

一説には、勝沼氏が小路の先にある小佐手郷に出向くとき通った道であった

ことから名がついたとも云われます。注)小佐手郷の小佐手氏は武田家の親類だが不仲説もある。

勝沼氏は武田家の筆頭御親類衆であり、郡内地方や相模国、武蔵野国の目付

として重要な役割を果たしました。小路の両側には家臣団の屋敷が建ち並ん

でいたと云われます。


 小佐手小路」の鍵の手になる「祐徳山泉勝院」は勝沼氏の菩提寺!

小佐手小路のつきあたりに、勝沼氏の菩提寺と云われる「泉勝院」!


甲斐国志によると、祐徳山泉勝院は、曹洞宗小佐手村東林院の末、

黒印600坪、境内二町一町半 本堂9間5間半、本尊釈迦とあり、

開基は勝沼氏の局勝月院誓庵理奥鳳大姉なり。弘治3年2月10日逝す。

福正院光山輝公禅定門、長遠寺快翁道俊大禅定門の牌子ありと称す。

勝沼氏と称す崇正院華岳妙永大姉を後の開基と云う。古の開山は分明らず。

今は本寺の三世を勧請せり。寺宝に勝沼氏の遺器とて饌具(せんぐ)、

行厨、食箱、偏提等に三階菱或いは圏内に花菱を亀甲の上に重ね付けたる。

・・・と記される。

ご夫人によると、勝沼古事記に由来のことが書かれているが、「武田信虎

と勝沼信友兄弟の父は武田信縄、母華岳妙栄は遠い中山廣厳院を菩提寺と

していたため、小佐手村の東林院を代参寺にしてもらえることになったが、

勝沼氏は、小佐手の領主と境の橋で口論となり、勝沼郷の横手に無住の寺

があったらこれを遷し、菩提寺とすることに決め、泉勝院を建立した。

江戸時代末期までは、泉勝院には勝沼氏一族と母華岳妙栄の位牌ともに、

勝沼氏が治めた品物などが伝えられていたそうですが、今は拝見出来ない。

泉勝院(本堂)は緑に囲まれて厳かな環境の寺!

注)ご夫人に勝沼フットパス資料を頂く。


泉勝院の鍵の手を左に曲がると、風情ある「原茂ワイン」がある!

「原茂園」は、ワインとカフェレストランが、勝沼の人気スポット!


「原茂ワイン」は、中世の勝沼を歩くには、絶好の休憩ポイントでもある。

「原茂ワイン」の「カフェ カーサ・ダ・ノーマ」は、4~11月の季節営業。

特に中高年には、地元産の「おぼろ豆腐」380円は盛夏でも慰みになる。

エスプレッソ500円、カプチーノ648円、紅茶(ポット)500円、

ぶどうジュース500円、ランチもカリー1525円、ブランチ1755円、

など気軽なカフェレストランである。注)但しメニューは2015年の案内。

詳しくは、http://www.haramo.com


「原茂園」から、北へ伸びる道は、地元勝沼では「萩原道」と呼び・・・、

西野原を経て、下萩原、中萩原、上萩原・裂石と結び、往古の黒川金山への

道と繋がる。

注)この萩原道を通り金鉱石を運び、勝沼氏館でつぶ金・碁石金鋳造したと云う。


萩原口へ北へまっすぐ進むと「水辺公園」その東側の上に「勝沼ぶどうの丘」がある!

小佐手水辺公園の風景、ここは小佐手の灌漑用水池。ここから東林院が見える。


小佐手信俊開基と云われる「曹洞宗祐月山東林院」(小佐手村)


 甲斐国志によると、曹洞宗塚原村恵運院の末、御朱印6石8斗。境内方2町。

山林二町半十二町年首7年目拝賀す。寺記に云う文安4年(1447)、

小佐手信俊開基す。人物部に委ねし。開山は笑宗英、文明4年示寂。

本堂十間半九間半、正観音、禅堂五間四間半、薬師を安置す。衆寮、庫裏、

鐘楼、総門等あり。又護寺神日記宮は小佐手氏の舘より遷し祀ると云う。

末寺8箇。注)今は6年前に住職が他界後ご夫人が寺守、本寺兼帯とのこと。

「宝永元年3月17日、剣鋒浄俊禅定門(小佐手右京太夫)の位牌を伝えている

と云うが、確かめる術はない。


 「小佐手氏館跡」・・・今は、東雲保育園駐車場とぶどう畑になっていた!

現東雲保育園駐車場の角が屋敷址の南限。


 小佐手氏館跡(室町時代の築城)・・・勝沼町教育委員会の現地標識版によると、

小佐手氏は15世紀前半の甲斐守護武田信重の子永信を祖とし、系図に因れば、

5代にわたり続き、16世紀初頭武田信虎によって滅ぼされたと云う。

小佐手の東林院は菩提所、伏木神社は鬼門鎮護、林昌寺は祈願所、自福院は小佐手

氏の守り本尊を伝える寺、日宮は小佐手舘より遷されたなど、小佐手氏との関係を

伝える社寺がある。

舘の所在地については、小佐手絵図に描かれた小屋敷、城門くね、御所之前、馬場

などの地名から小佐手字中村の一帯と考えられ、平成元年に行われた御所之前発掘

調査により、現在の東雲保育園敷地北端で舘の南限を画すと思われる溝が発見され

ている。

注①小佐手永重は、武田信重の子九郎永重。武田信虎に滅ぼされて以来天正10年

(1582)の武田家滅亡後に小佐手信家、信次兄弟が徳川家康に召し出され、子孫は

幕臣として仕えたと云う。(注)一連寺過去帳には、永禄年間にオサテ殿が見える。

また寛政重修諸家譜」に、武田家滅亡後、薩垂峠で戦死した信広の子信房が徳川

家康に仕えたとある。以降、子孫は徳川旗本家として続いたと云う。

注②於佐手とも書く。甲斐国山梨郡に見える小佐手の地は、長手とも書き、地名の

由来は、この地が東境の東林山々すそから、この地の中央部にかけて細長い媺高地

が続くので「長手」と呼び、「小佐手」となったとも言う。

注)は武家家伝ー小佐手氏より参照。


 葡萄のメッカ「岩崎」には、中世の伝「岩崎氏館」があったと言う・・・!

勝沼氏館のから明治時代にワインの醸造で隆盛した頃の「祝橋」を渡ると「下岩崎」

と言う地域がある。ここは勝沼でも伝統のあるぶどう生産地であるが・・・、

ここにも、中世には、伝「岩崎氏館」があったと言う。

岩崎氏は武田信光の子信隆が岩崎氏を名のったのに始まる。武田系譜でも古い家系。


伝岩崎舘跡は、勝沼バイパス沿い・・・今は葡萄畑になっていて標識はある!

 

伝「岩崎氏館」は、甲府盆地の東端、山梨県東山梨郡勝沼町大字下岩崎にあった。

この甲府盆地の東端は、大和朝廷の時代から、日本国の東端の要衝として捉えられ、

甲斐国においても、笹子峠を越えた先の郡内(現都留郡)を治めた小山田氏に対峙

するために配置された武田家直系の布陣であったと言われる。

この「伝岩崎氏館」は、昭和50年、勝沼バイパスの建設工事に伴って行われた岩崎

氏舘跡発掘調査報告書にも記されているように、結局のところ確たる証しは得られ

なかったようだ。また、確かな文献がないために、13世紀中頃から15世紀中頃に

かけて、岩崎氏6代が居館したところと伝えられるのみである。

舘跡付近の標高400mくらいのところで、京戸川扇状地の末端部に位置している。

舘跡の規模は判然としないが、中核部と思われる周囲の北側崖の部分を除き、濠状の

凹部になっていて、その中核部は地元民から、岩崎氏の舘跡(立広砦とも言う)と

伝わっている。このあたりの小字名は、中核部の内立広を始め、外立広、坂下、坂上、

唐竹、上駒井。下駒井、山田、深田、雁屋敷、御所畑などの地名が残っている。

注)勝沼フットパスWEB情報によると、三菱創業者の岩崎弥太郎の祖先、岩崎氏は

甲斐源氏の武田棟梁職を現す御旗、楯無鎧を8代にわたり相伝し、岩崎直信の時、守護

武田信重に伝えたと云う。その岩崎氏の末裔と云われる。


明治10年(1877)、この岩崎の地に、日本葡萄酒株式会社が設立され、

地元の高野正誠と土屋龍憲の青年二人が、当時最先端のワイン醸造技術を

学びにフランスへ派遣されたことはワイン史上でも有名なことである。

このように、勝沼は特に古代、中世、近現代の文化が入り交じって面白い。


 バックナンバーでも記しているが・・・、

代、大和朝廷時代に、いち早く聖徳太子の命で勝沼入りをしたと伝わる・・・秦河勝、

調子丸仙光、調子麿(史実不詳なれど、更に命を受けたその代理ではないかと云う)等

が創建した伝わる古刹「三光寺」、「仙光寺」、「万福寺」は、何れもこの勝沼にある。

仏教の教えに基づく国造りのために、甲斐国の東端の要衝として仏教修行道場を創建する

ために来たといういう伝説などはとても興味深い・・・。注)筆者は伝説も重視している。

史実が証せたら、日本で2番目の古刹となる甲府盆地東山の菱山「菱溪山上宮院三光寺」

は、旧蹟三岳寺が寺伝とは云え西暦595年創建伝の古刹で、何と日本最古の仏教寺院

「四天王寺」が593年創建と言われるので、大変興味深い勝沼の未知の世界ではないか?

勝沼等々力には、598年調子丸仙光開山と伝わる「諏訪山仙光寺」、604年調子麿開山と

伝わる「等々力山万福寺」があるが、まさに聖徳太子伝説の世界でもある。

そして町域には古代三豪族枝氏の氏寺である「柏尾山大善寺」を始め幾多の古刹がある。

中世には、甲斐国武田氏の国内平定の要衝として、勝沼は重要な位置にあり、

上述の岩崎氏、小佐手氏、勝沼氏舘(小山田氏服従の後、目付として築城された)が

配置されていた。

近世には、江戸時代に成立した九筋二領により、日川を境に、北部が山梨郡栗原筋に、

南部が八代郡石和筋に属した。領主は幕府直轄領となり、石和代官所支配となった。

勝沼村には、甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され、

等々力村の万福寺では甲斐国で初の富くじ興業が行われている。

勝沼、上岩崎、下岩崎、菱山村の四ケ村では甲州葡萄の栽培がいち早く行われ、甲州ハ

珍果の一つとして盛んになり、今や葡萄とワインの勝沼と云われるくらいになっている。

慶応4年(1868)、大善寺付近において旧幕府軍(近藤勇)の甲陽鎮撫隊が新政府板垣

退助率いる征東軍に敗れている。※甲州勝沼の戦いがあったところでも有名。

明治36年(1903)、中央線が甲府まで開通するが、町域には駅がなく、東山梨郡の

交通・経済の中心は、隣の塩山に移った。大正2年(1913)、菱山に勝沼駅が開設され

現在に至っている。

まだまだ、勝沼の魅力は、語り尽くせないが・・・、続きはまたの機会に・・・!


 



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