今号は、甲州市塩山「下萩原」の往古を辿ってみます!
「しもはぎわら」は先に紹介した赤尾村から重川を隔て
て東にある。※参照:大日本地名辞典より。
北は中萩原村、南は牛奥村。東の大窪山から南流する
重川との間の複合扇状地(斜面)に展開する村である。
現在も、各民家の窓から南アルプスを背景に甲府盆地
を望める素晴らしい風景を有する・・・!
特に穏やかな日差しの日は、都会の人々は羨む風景!
塩山下萩原は写真中央の恩若峰(982.6m)と源治郎岳(1476.6m)の扇状地!
筆者は登山したことはないが、大菩薩峠の登山口にあたる上日川峠から
「日川尾根」を辿って、中日川峠、下日川峠を経て、1540m峰の分岐を
経て、源治郎岳(1476.6m)へ行ける。約65分でNTT無線中継所へ着き、
そして約40分で源治郎岳に至ると云う。表側(下萩原)からの案内はない。
源治郎岳頂上から急尾根を下り”モグチョッピラ”と言う鞍部に着く。
アカマツの植林地でヤブコギの覚悟がいるようです。
雑木の間からは、南アルプスを背景にした甲府盆地が望めると云う。
往古、山頂の南西に「桝石」と呼ばれる大岩で木曾義仲の乳母夫である
中原兼遠の従臣岩竹源治郎が、源頼朝の手勢に追い詰められて、この
岩の上で自刃したと云う伝説が、山名の由来となっているとのこと。
※参照:甲州観光協会HP。
「源治郎岳」の紹介は少ないが、小林経雄著「甲斐の山山」を参照した。
注)筆者も嘗ては全て踏破したいと思い調べたが、縁がなかった山です。
因みに恩若峰(982.6m)は、登山客が楽しめるコースではないようです。
※当初の写真のように東山連峰の尖鋭にあり、見晴らしは良さそうだが、
恩若峰も頂上が登山客向けに整備されていないそうだが、見晴らし処は
探せばあるようです。
上日川峠から下日川三角点(1627.1m)を経て、日川無線中継所までは、
西側が唐松帯にて、富士から南アルプスまで眺められるようです。
NTT電波塔(日川無線中継所)から日川へは林道が下っている。
塩山下萩原は、江戸時代享保9年(1,724)家数70、人数243,馬11とあるが、
現在の下萩原は、平成28年(2016)調査で、世帯数174、人口:492となり、
世帯数、人口ともに往時の2倍強になっている。
甲府盆地東山の扇状地に開け、昔は煙草、木綿が盛んに栽培されたが、
今は、サクランボ、桃・葡萄等果物栽培が盛んです!
先に紹介した赤尾の「雨敬橋」を渡った辺りから、6月の”シーズン”には、
「サクランボ狩り」の幟(のぼり)に誘われます。
往古は、古豪三枝氏の御屋敷があったようです。今も字名「御所」が残る。
塩山市教育委員会資料による。注)但し、図面上の色づけは筆者メモにてご容赦。
塩山市史 第一章考古資料36によると・・・
「平城」は、所在地:下萩原字平城。
立地環境:下萩原集落の北方の扇状地に占地しており、西側は
重川の急崖に面している。付近には、黒川金山へ通じるいわゆる、
”黒川道”も走っている。※不詳だが、”黒川道”は、往古三枝氏の
御殿から黒川金山への開発道であったのではないかと考察される。
注)筆者は、安田義定の調査もしたことがあるが、その時・・・、
黒川金山の鉱脈(砂金)は、三枝氏の時代から開発が始められた
とみられ、それが安田義定氏から武田氏に継がれて、武田信玄の
時代に発掘のピークを迎えたように考察した!改めて学んだ視点!
「甲斐国志」古跡部には「村北にあり、下粟生野に接す。東南に
湟(堀)あり、深さ5丈余り長さ4町余り、北方にも湟(堀)あり、
西は面川(重川)に臨む。今、その内は畑となり”平ら城”と呼ぶ。
北に”御殿”と称する所あり。柏原の渫(セツ=堰(せき))から古
は城中の用水のために堀し由、里人は伝えて三枝守国の居城なり
と云う。「絶えて、証左なし」と記されており、江戸後期の平城
の状況と村人の間に伝えられてきた伝承が紹介されている・・・。
「東山梨郡誌」には、さらに「柏原天皇が当城に隠れ、この堰が
柏原天皇の用水に使われたためこの名が付けられた」旨追記され
ている。※三枝氏は、伝承では守圀の時代に、罪を蒙って甲州・
東郡の野呂村に配流され、土着した古代甲斐国の在庁官人と云われ
ているが、守国伝説には信憑性がなく。既に、「続日本後記」の
承和11年条に初見される甲斐国の古代氏族であった可能性も大きい。
残念ながら証しはなく、資料や古文献もなく、更に遺構もないが、
付近に「御殿」、「柏原大神社」など柏原天皇の名を伝える地名
が残り、「柏原堰」との深い関わりを想定させる・・・。
と「塩山市誌」には記されている。筆者が予習して訪れてみると、
地名:下萩原字「御殿」、「要害沢」、「平城」、「平田」は、
往古の下萩原の様子を伝えていた。※但し、遺構、解説版等はなし。
筆者は、地元の伝承は尊重したいので、ここに掲載している。
特に、”地名”として伝わるのは、凄いことだと考えています。
下萩原「柏原神社」の現況は、神秘的な緑豊かな境内・・・!
特に境内に伝わる塩山市天然記念物「クロモジ」の大樹は貫禄と歴史を
語る。
「柏原神社」は、江戸時代末期、慶応2年(1866)「白山権現」と呼ばれ、
「正一位白山権現」の扁額が示す通り、格式高い由緒ある神社である。
山梨県神社庁の由緒沿革によると、『創立年月不詳。※筆者推定では
史実はないが、「柏原堰」、三枝氏の「御殿」など地名の残るところから、
後柏原天皇の御代に、勧請・創建された可能性はあると考察できる。
山梨県神社庁明細帳に正徳3年松平甲斐守検地の時、社領高二石三斗
五合寄付・・・、始め「白山権現」と云い、慶応2年(1866)9月28日「柏原
神社」と称す。享保9年(1724)正月「正一位」を戴く。
延宝9年(1724)6月神殿再建。寛延3年(1750)11月再(神)殿再築。
明治3年(1870)、社領上地。明治7年(1874)、村社に列す』と記される。
境内や「柏原神社本殿」は、いつも、綺麗に清掃されている!
特に「夏祭りの季節」には、神社の境内は、いつも綺麗に清掃されている。
今でも里人の有力者に崇拝されている鎮守の神だと云える。
時系列で解いていくと・・・、「後柏原天皇」とは、
『在位:明応9年(1500年11月16日)~大永6年(1526年5月18日)』の御代、
この「下萩原」に一時隠れられていたと言う伝説を”史実”であったとすると、
下萩原に「三枝御殿」があったことが頷ける。
柏原天皇は、「後柏原天皇」のことと云われ、後柏原天皇は、往時、この
下萩原に隠れられていたと云う伝説があり、「柏原堰」は「御殿」に仮住い
の頃、重川から用水を引いた名残と伝わる。
慶応2年(1866)には、「正一位白山権現」と称し、扁額が本殿に見える。
慶応2年の後、「正一位柏原神社」を賜り、この扁額に変更されたようだ!
近年に、「正一位柏原神社」へと神社名が改名されている。
※考察すると、里人の伝承が「柏原神社」の名称へと導いたと考察される。
往時の山梨県内の神社で「正一位」に格付けされた神社は数少ない。
この「下萩原」に存在したとは・・・!?
下萩原の臨済宗向嶽寺派「法谷山東林寺」は現代に息づく・・・!
塩山・下萩原村には、今も継承される「法谷山東林寺」がある。
甲斐国志巻75,仏寺部第3によると・・・。
臨済宗向嶽寺派「法谷山東林寺」は、向嶽寺末。黒印寺内320坪。
除地3段6畝。本尊十一面観音※行基作と云う。
享禄3年(1530)3月再興開山天林和尚※天林義籌(ぎちゅう)永正6年10月28日寂ス。
※天林義籌(ぎちゅう)和尚が、享保3年(1718)3月再興と伝わる。
寺記には、本尊:観音大士、由緒:永正二巳巳(1505)二月二十日
創建。開山:天林和尚 堂宇:桁間七間、梁間五間半。
境内五百壱坪。・・・と記されるが、考察に値する。
注)慶長8年(1603)東林庵宛に寺内寄進の判物を与えらる(寺記)
往古は東林軒、東林庵と称し、
※建立、文亀中(1501~1504)~永正2年(1505)、後柏原天皇
御代となり、下柏原に白山権現が勧請された時期とダブルが・・・、
天林和尚による再興が享禄3年(1530)かと考察できる。
学習①下萩原は、あの微笑仏の「木食百道」が出身!
また、「下萩原」は「木食白道」(もくじきびゃくどう)宝暦5年(1755)~文政8年
(1827)、江戸時代の仏教行者で造仏聖(仏教彫刻家)の出身地でもある。
生家は今はないが、独特の微笑が表現された「微笑仏」を全国に残した
木食行道の弟子で、各地に約160体以上発見されていると云う。
筆者も、山梨県内で何体か見たが・・・、木彫の素晴らしさを感じる
「心も和むような微笑ましい木彫仏像仏」である。
学習②下萩原「三枝氏の『御殿』跡」は、今、果物畑!
「三枝氏」の先祖は・・・!? 「御殿」跡は、散策と学習の要点・・・!
下萩原の「三枝氏」御殿(地名:字御殿の名)跡の伝承は面白い。
「三枝氏」のことは山梨において初めて知ったが、不詳のことがかなり
あるも、「この下萩原に、三枝館「御殿」に纏わる伝承があった!」
しかも、「三枝守国の館「御殿」であった」と伝わる。※伝承は危うい処もある一例。
「塩山市史」では、史実にないものは、そのままに!
「塩山市史」第一章、第3節荘園の発達と在庁官人三枝氏の活躍・・・項、
『甲斐の三枝氏は、大化前代に見える古代氏族「三枝直」にまで遡るの
であろうが、三枝直との繋がりは全く伝えておらず、平安時代に甲斐に
流罪になった三枝守国を先祖とするのが、一般である。』と記される。
果たして、下萩原の字「御殿」は、三枝守国の館跡であったのか!?
時系列に並べると、時代考証は異なる時代ではないか?・・・、未解決!
「塩山市史」:第2節 律令国家の成立と於曽鄕
~大化改新と「甲斐国」の成立によると、国域の確定において・・・、
大化の改新(645)8月、改新政府は東国に国司を派遣している。
当時の東国とは、尾張、美濃以東、若しくは、遠江以東の東山道・東海道
諸国を指すから、当然、その中に、甲斐国も含まれていた。
往時の日本国の北端は「甲斐国」であったと思われるが・・・、
この時代には、三枝氏は甲斐国にいた豪族であったはずで・・・!
平安時代に、都から派遣されて来た「三枝守国」ではないと考察される。
この時の国司は国単位の派遣ではなかったが、命じられたのは管内の
戸口、田地の調査、武器の収公などであった・・・と云われる。
守国伝説:「三枝守国」伝説の内容は、次の通り・・・。
・・・・・・・、三枝氏が平安時代に存在したことは、諸資料等により確実で
あるが、守国伝説の真偽とは別に同氏の存在は認められて良い。
系図によれば、守国の嫡子守将が野呂介、二男守忠が立河介、三男
守継が於曽介(※バックナンバー下於曽の於曽屋敷跡参照)、四男守党が林部介を
称したとあり、「甲斐国志」は三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻
(或は萩原)を三枝七名といい、窪田、石坂、山下、葛間(久津間)、
内田等の氏族も三枝姓からの分かれと伝えている。
塩山市史では「三枝氏」のことを不詳は不詳のまま記載!
三枝直:承和4年(837)に逝去した三枝直平麻呂は山梨郡の住人である
(古代・中世5)。三枝部は、5世紀末~6世紀初頭に在位した顕宗天皇の
時代(在位:顕宗元年(485)1月1日~同3年(487)4月25日)に設置された
名代で、三枝直はその現地管掌者だった氏族である。
史料的には確認できないが、その存在は当然三枝部が設置されたはず
の顕宗天皇時代まで遡ろう。【磯貝正義「甲斐の古代氏族について」、
「甲斐史学」丸山国雄会長還暦記念特集号】三枝氏の後世での活躍は
後述する・・・と記される。
学習③・・・あとがき
自習NOTEによると、古代「甲斐国」は、第21代雄略天皇の時代に国域が
定められたのではないかと考察できる伝承の足跡があり、第23代顕宗
天皇(在位485~487)の時代に設置された名代だとすれば、三枝直は、
その現地管掌者(※現地豪族)が務めたその氏族ではないかと考察する。
従って、三枝守国伝説は平安時代になって都から左遷同然に甲斐国へ
赴任した三枝部であったとしても不思議ではない。
三枝氏は熊野神社事件で敗訴、没落していく話は、信憑性も高いし・・・。
そして武田(信虎)氏の時代、滅亡した三枝氏を復活させた話もあり、
後に徳川氏に仕えた話もあり、子孫が現代に至っている話は有名です。
このように下萩原を探訪したが、「三枝氏」の御殿跡でかなり楽しんだ!
しかし、今は果物畑の風景のみを見るも、遺構も史蹟案内すらないので、
山と自然に興味がなければ、退屈する里山であろうが・・・、風景の美しい
里山であることには違いない。次号は、塩山千野(千野郷)を辿ります。