大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る!
~第10章東屋宮(あずまやきゅう)編~
5世紀中、ヤマト王権から遣わされた物部氏一族が現大蔵経寺境内辺りに館
を構えた。ここから本シリーズの論拠が始まっている。
ヤマト王権は雄略天皇御代、大連物部目に命じて倭国東端の要衝甲斐国の覇権
統治のため、物部氏一族を派遣し東海道~若彦路を超えて甲斐国に入国した!
若彦路の武居にあるワカタケル封地伝説(※ワカタケル王は雄略天皇に比定)。
雄略天皇が甲斐国造塩海宿禰に命じて「金桜神社里宮」を建立したと云う社伝
が語る古代甲斐国と雄略天皇の時代考証が深く関わっている。
伝説や社伝などを論拠にして始まった”古代甲斐国の歴史ロマンを辿るシリーズ”
も・・・、この第10章で終盤となる予定。
第1章から第8章菩提山長谷寺編、第9章行基ゆかりの廃・鎮目寺跡編を訪ねて見て、
「古代甲斐国の歴史ロマンを辿る道」で、欠かすことのできない「四阿山と東屋宮」。
今号は、第10章(最終章):東屋宮(あずまやきゅう)編を紹介します。
山梨岡神社摂社「東屋宮」!この御神体山「四阿山」の山容中腹に神が宿る!
写真上には赤鳥居は微かに写るが、写真右の幟のある参道を上り、山腹の
参道を左へ進むと赤い鳥居が門構えとなり、その先に「東屋宮」は祀られている!
~東屋宮(あづまやきゅう)~
山梨岡神社(以下本社と記す)の北方約1km、北山の中腹に鎮座し、日本武尊、
弟橘姫命を祀る。社伝によれば、日本武尊が東征の折、当地の山路で休息した
ことに因み、その旧跡を「四阿山権現」と称して尊を祀ったのに創まると云う!
※ウイキペディア山梨岡神社摂末社の項
~日本武尊東征伝説も謎解きが残っているが、訪ねて見た~
春の例大祭(毎4月3日~5日)に参道に挙がる吾妻屋宮(東屋宮)の幟!
この大幟を目印に、ここから参道を上る!この目印の石門の幟は史跡
「関の地蔵堂」を見つけると参道入り口は、そのすぐ上にある。
参道の中間で導いてくれる幟は四阿山山腹の「東屋宮」の道標となる。
日頃は、目印の幟もない。参道は雑草が茂って歩き憎いので要注意!
筆者も秋に一度訪ねたが、道が草で荒れているので春祭りまで待って訪ねた。
白いガードレールの左方面は菩提山長谷寺方面へ、四阿山は直進が正参道。
現在は殆どの方が、車で上るので菩提山方面へ行き、手前梵字橋跡付近で
右へ折れる道が付けられていて、軽自動車等でお参りされるが駐車場はない。
荒れ果てた参道を上ると、このような「拾一丁」の石標が残っていた!
東屋宮参道、拾一丁の道標。江戸時代は参拝客も多く、隆盛だったようだ!
古い参道に咲いた一輪のヤマツバキの花!春の慰みとなって目に入る!
東屋宮の貫禄のある赤鳥居が迎える!そのうち新構築されるらしい!
赤鳥居はまだしっかりした門構えである。その奥には”猪ゲート”が見える!
参道を登り切り、最後の石段を登ると、その上に貫禄の拝殿がある。
石段もかなり年期が入っているが、この石段を登ったら御利益を得られると・・・!
東屋宮は社記によると、本社(山梨岡神社)の古社地(日光山高千穂
の峰)であると云う伝えもあり、また、式内社「甲斐奈神社」に比定する
説もある。※甲斐国志は一説として掲げるのみ、甲斐叢記は断定している。
天明年間(1781~1789年)に著された加賀美遠清の「向陽随筆」には、
かつて山梨の総社で国に大事・変災が生じると勅使を差遣されたとの伝えを
主張するが、事実であったとしても早い時期に本社の摂社とされたようです。
と釈注が記されている。
東屋宮神殿は、厳かな社を構える!拝礼!
拝殿の右側に回ると厳かな神殿がある。その右崖の洞窟に小祠が祀られる。
天正11年の家康の朱印状で、本社とは別に国衙、鎮目、万力などの諸郷から
1貫300文が「甲州四阿山領」として安堵されている。・・・・。
1989年(平成元年)に火災で全焼したが、1992年(平成4年)に再建された。
ウイキペディアによる記述をもとに歩いて見ると、神殿が新しいはずである!
立ち枯れしているが春日居町指定天然記念物の”杉”が古社を物語る。
現在は、殆どの人がこの道路を車で上って参拝しているらしい。駐車場はない。
この道路の入り口は菩提山長谷寺の梵字橋跡付近にあり、右へ折れる道が敷かれる。
春日居町の天然記念物に指定されて、地上約5mの枝の分岐点より土中に
根を下ろした奇形木として植物学上貴重な木であったが、1989年(平成元年)の
火災でご神木の大杉も焼失したと云う。
写真中央に写る焼失して立ち枯れた大杉は栄枯盛衰を物語るかのような存在感。
「焼失段階での推定樹齢は約350年」とされる。
筆者が考察するに、古代より伝わる日本武尊東征帰路の立ち寄り伝説は・・・、
ヤマト王権の雄略天皇御代、大連物部目氏の命じて派遣された物部氏一族に
置き換えると物語が解けるというか、繋がってくるので様々な論拠を展開している。
古代甲斐国の覇権・統治のために遣わされた物部氏一族が、現大蔵経寺
境内辺りに館を構えて、甲斐国の統治体制を整えるために、現大蔵経寺山中
と山麓を具に巡察して、将来の甲斐国の統治体制(国造や国司の本拠とする
役所体制と警護体制等)を構想したのではないかと考察している。
従って、推定の論拠であるもこの「四阿山」こそ古代甲斐国「国府」を春日居に
置くことになった立地選定の際の展望の山であったのではないかと考察している。
そうすれば、後に生まれた「甲斐奈神社」説、「四阿山権現」と称す日本武尊伝説、
山梨岡神社の古社説などの伝説が生まれてくる論拠となっている訳も理解できる。
神殿奥の洞窟に祠が祀られる。平成再建時に往古を忍んで祀った祠! ?
筆者は、この洞窟祠こそ創建時の小祠のレプリカではなかったかと想像する。
時代を5世紀とすれば、論拠とした現大蔵経寺山中”御室山山上”の旧蹟物部宮
の小祠と同じような祠であったのではないかと考察できる。
この洞窟が往古の穴か否かは不詳だが、この小祠を祀った方に伺ってみたい。
~大蔵経寺山南麓に眠る古代甲斐国の歴史ロマンを辿る~シリーズのYS記自習
NOTEによると、「四阿山」は「四阿権現」として「東国」を東征したとする日本武尊
を後世に朝廷が脚色した「日本武尊の東征伝説」に基づく伝記であろうが・・・、
この伝説こそ、雄略天皇の御代、物部氏一族が5世紀に甲斐国に遣わされた時代。
即ち、ヤマト王権が古代甲斐国の統治基盤を築く歴史の始まりではないかと考察
している。注)中世になると武家社会に代わり、甲斐国は武田氏の統治時代に至る。
御神体山に相応しい四阿山に登って下界を見渡すと広がる甲斐国の風景!
※写真は現在の風景。恐らく、往時は殆ど建物も見えない広い原野であったろう!
何のデータも地図もない時代に見た風景は、直感的だが目視録に値する。
往古、物部氏一族がヤマト王権の命で甲斐国松本に拠点を置き、甲斐国の
統治拠点となる地域を具に巡察していくうち、将来、現春日居辺りに拠点
(後世の国府)を置くことが望ましいのではないかと考えたと考察している。
四阿山から見た現春日居町辺りの風景を臨んで、この辺りに”国府”を置くの
が望ましいのではないかと朝廷に報告したのかもしれないと想像するのみ。
残念ながら、証となる古文献もなく、特に排仏派の物部氏宗家が滅亡後、
物部氏一族の記録も朝廷において殆ど消滅改竄されたと云われるので、
見方を変えれば・・・、故に”歴史ロマンは膨らむ”と考えることにしている。
四阿山の東屋宮は、まさに往古の東征伝説の因りを伝えるため
日本武尊と妃橘姫命の二神を祀った古山宮と云える!
観光客向きではないが、古代甲斐国の歴史ロマンの香りが漂う!
~甲斐国志~ 巻之二十二 山川部第三 一)四阿山 鎮目村の項
下方に山梨岡・御室山あり 神社の部、古跡の部に記せり。
注)上記写真及び記述の通り、四阿山は見るからに古代御神体山の山容である。
その項に続き・・・、参考に記すが・・・、
○菩提山 四阿山の西に並べり この山道遠く望めば女陰に似たり、因って母胎山
と書す。注)本シリーズバックナンバーの菩提山長谷寺編に詳しく紹介している。
山上に古城、新城、小手城と称するところあり、熢火台の跡なるべし。
注)特に中世になって武田氏の時代にも、山城(烽火台)が県内にはり巡らされ、
大蔵経寺山を始め、菩提山辺りは、要衝の位置にあったと云う証が伝えられる。
笈型(篝火)は御室山の上にあり、仏事の部、古跡部に記せり。
注)閑話休題・・・、
篝火は甲斐国志の頁を具に捲ると甲斐国には五ケ所の送り火が記されるので、
筆者の調べによると、京のように五大送り火があった時代があったと思われるも、
各項毎に調べて見たが、四ケ所が確認できたものみ。五ケ所目の境川地域は
甲斐国志に記すものの、全く不明であった。従って、山梨県などの広報では
恐らく、根拠もなく現在確認されていると云う理由で「四大送り火」と表現している
ので要留意。甲斐国志も集約した記載があれば現在も有名な行事となっている。
○入会山 本村及び松本より入る・・・と記される。
~甲斐国志~神社の部~「四阿権現」鎮目村の項。
「四阿山権現」鎮目村・・・社地は北方山の中腹にあり、麓より拾丁餘あり。
御朱印領 一石八斗餘、社記相伝えて「日本武尊、妃橘姫命」二神を祀る
「甲斐奈神社」なりと云う。祭礼は6月18日挙国群衆す。平日も登排者多し。
天正十一年発未四月十八日一貫二百文の御朱印及び御代々の御朱印を
相蔵む。神主は中村和泉口十四男七女七。・・・と記される。
~春日居町誌~
社地は鎮目小字日向3777番地。80坪(旧社地は264㎡)。
東屋宮(山梨岡神社摂社)、吾妻宮(あずまやぐう)、四阿山(あずまやさん)
とも云う。
祭神は、日本武尊、妃橘姫命(おとたちなばひめのみこと)
祭日 4月3日、4日、5日(旧祭日6月18日)、4月3日吾妻宮より山を下り、
山梨岡神社に遷され、祀られて、5日に山宮へ帰られる。
注)吾妻宮の例祭は4月4日のみ。
建物 本殿、梁間二間、桁間二間二尺、こけら葦(江戸時代中期の建物と推定)、
拝殿 梁間二間、桁間三間、鳥居二基、槻の木1基、高二間半、横二間、石鳥居1基
高6尺、横6尺、但し石鳥居は昭和28年の終戦の月に頂上付近の落石により
、数個に破壊されている。拝殿前の石段、段急洗鉢がある。
江戸時代には参拝者が多かったようだが、今は静寂の中に厳かな空気だけが漂う。
17年春、例祭前日に参道が整備されている山道を家内に付き合ってもらって、
きつい坂も一部分あったが。歩いて登ってみたら、往古の思いが香る古宮であった!
春日居を見渡せる風景に・・・、登って良かったと思います。
本編の「四阿宮」は今は草ボウボウだが、往古の存在感は考察できるものがある。
また、バックナンバーで紹介した「山梨岡神社は、往古は「御室山」そのものが、
「御神体山」として崇められ、「春日居国府設置計画」は不詳だが、里宮として
遷座され、国府を警護する鎮目軍団を備えるために境内を有す神社として創建
されたのではないかと考察することができるのである。合掌・・・!