新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!

東京から移住して”新甲州人”になった元観光のプロが探訪する”山梨の魅力再発見!”
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41)武田三代の「躑躅ケ崎館」は今は「武田神社」として甲州人の守護神!

2013-01-10 | 山梨、魅力の歴史資源!

41)新春は、武田三代の”躑躅ケ崎館”跡に建つ「武田神社」へ初詣!

祭神”武田信玄”は、今も”甲州人の守護神”として崇敬をされています!

新春のブログは、「武田神社」の初詣で始まります。

武田神社への参道                       001_042001_052武田神社(躑躅ケ崎館址)の境内図 

 

 

 

 

 

 

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武田神社

所在は、山梨県甲府市古府中町2661

往古の地名は、”躑躅ケ崎(つつじがさき)”と呼ばれた。

武田神社は、1519年(永正16年)、信玄の父”武田信虎”が、石禾(いさわ)館(笛吹市石和の川田館)から甲斐国守護職武田家の本拠地を移した”躑躅ケ崎館跡”に建立された神社。

武田神社の創建は、1919年(大正8年)。旧社格は県社。

あの”武田信玄”を祭神として祀っている。例祭は、信玄公の命日4月12日。

・「躑躅ケ崎館」と呼ばれた館跡は、今でも、東、中、西曲輪の遺構や土塁を残し、明確に館跡の様相が伺える貴重な歴史遺産でもあります。

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「武田神社」

あの”武田信玄”が祭神・・・、今も、甲州人の崇敬を集める!

武田信玄は、戦国時代1541年(天文10年)21才の時甲斐国主となって、国の騒乱を治め、甲斐国の安泰と拡大を図り、天下の平定を目指した武勇の人で、甲州人の英雄!

武田信玄の”国づくりの理念”は・・・、

「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、あだは敵なり」

人の和こそ山河の嶮しさに匹敵すると信じて”国づくり”をしたことと、生涯、敵に一歩たりとも甲斐の地を踏ませることはなかったことで、まさに守護神に相応しい名将として崇敬されている!また、孫子の兵法「風林火山」の戦略を軍旗を掲げ、鉄壁の布陣を敷いたことで、後世に名を残す勇将である。

武田神社は、躑躅ケ崎館の跡地(信虎、信玄、勝頼の武田氏3代の居館跡)に建てられていて、甲斐国の名将”武田信玄”を祭神としていることもあって、初詣だけではなく、日頃より甲府市民、いや山梨県民に特に崇拝されている神社で、いつも、大勢の観光客や参詣の人々が訪れています。

武田神社へのアクセスは、甲府駅北口から路線バスが運行されています。

山梨交通バス時刻表を確認して下さい。

注)元旦の武田神社へは初詣バスが10分~15分おきに運行されているのでとても便利です。

甲府北口には、甲府市観光協会の「レンタサイクル甲府」が営業しています。

 ?055-254-6300 お洒落で楽々の電動自転車もあるので、お勧めです。

   9:00AM~17:00PM営業  注)年末年始のみ休業

徒歩でも約30分で行けます。ルートは甲府駅北口から武田通りを歩いて一本道。武田24将の屋敷が配置された往古の町並みを偲びながら歩くのも一興です。

武田神社正門 

002

武田神社は、戦国時代に武田城下町の中枢にあった”武田氏館跡”に、武田信玄を祭神として、1919年(大正8年)に建立された神社で、「古城」、「御屋形跡」と呼称される武田氏を偲ぶ由緒正しき歴史資源そのものである。

・武田家滅亡後、一条小山へ甲府城が築城されると、甲府城下町は、現在の中心部へ移ってしまったが、明治期に史蹟保存運動が起こり、1880年(明治13年)明治天皇が巡幸に際して社寺保存のため保存金を下賜されたことを契機に、信玄霊社建設運動が起こる。当時の県令藤村紫朗は古城地の公有化を進めた。

1915年(大正4年)大正天皇の即位記念に武田信玄が従三位に追贈されたのを機に「武田神社奉献会」が設立され、1919年(大正8年)に社殿が竣工した。

武田信玄の命日にあたる4月12日に初の例祭が行われたとある。※社記による

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元旦の初詣は、約5万人・・・! ※毎日新聞1月3日より

武田神社初詣の行列風景             武田神社本殿(奥に神殿) 003 004

 

 

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躑躅ケ崎館の井戸は2ケ所確認されている!

その一つが、当主の日常居住屋敷と思われる中曲輪跡の”水源井戸”。

武田神社の神殿005006                  躑躅ケ崎館の井戸跡       

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大手門の周辺発掘跡の解説版          大手門(躑躅ケ崎館正門)の石塁跡 

008_2

007_2

 

 

 

 

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躑躅ケ崎館は、外濠、内濠、空濠の三重構造であった!

躑躅ケ崎館の内濠跡                009010躑躅ケ崎館の空濠跡

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躑躅ケ崎館には、2箇所の井戸が存在する・・・、もう一つ!

水琴窟の処にある名水「姫の井戸」は、信玄の子息誕生の産湯に使用されたと云う。

能舞台「甲陽武能殿」                 011 012水琴窟の名水「姫の井戸」 

 

 

 

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・「甲陽武能殿」は、平成18年5月18日竣工で、武田神社崇敬会によって奉献されたもの。

注)武田神社崇敬会は、武田信玄公のご神威を拝戴し、ご神徳の宣揚と祭祀の厳習を以って、武田神社を奉賛することを目的として、平成9年10月に発足した。

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 武田神社宝物殿                            

013

・大正8年の神社創建以来、全国武田家関係者等よりゆかりの遺宝の奉納を受け昭和47年に開館。

・金小実(こざね)南蛮胴具足(武田家相伝)、信玄公軍扇、吉岡一文字(重要文化財)、武田二十四将図(江戸中期)、信玄公画像土佐光貞作(江戸時代)など、武田信玄公にまつわる数々の遺品が展示されています。

・その他、後奈良天皇綸旨、北条氏政書状、足利義昭御内書、一色義棟書状他、武田信玄の書状などが収蔵されているので、歴史好きには興味深々です。

詳しくは武田神社のHPをご覧ください。

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帰路は、躑躅ケ崎館を中心に配置されている武田24将の屋敷跡と町並みの形成や甲府五山の一つ円光院(三条夫人の墓所)や岩窪の”信玄公墓所”(旧土屋右衛門昌次邸内址で信玄公が3年間埋葬されていた処)、大泉寺(信玄の父、信虎の墓所)などを経て、甲府駅まで歩いて見ると、また新しい発見があるのではないでしょうか!?

次号で”甲府五山”を紹介する予定ですが・・・、ここで”甲府北山野道の小松の里&板垣の里”と”甲府五山”の魅力散策を詳しく紹介します。

円光院、信玄公の墓、大泉寺などの話は、次号をお楽しみに!

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躑躅ケ崎館”のあれこれ・・・!?

ウイキペディア、武田神社資料などより抜粋

「躑躅ケ崎館」:

武田家居館は、躑躅ケ崎の地に建立されたことで、「躑躅ケ崎館」と呼ばれた。

江戸時代以後は、甲府城が一条小山(一蓮寺跡)に築かれて、城下町が南へ移ったことで、躑躅ケ崎館址は、「古城」、「御屋形」跡と呼ばれて偲ばれている。

躑躅ケ崎館は、甲斐国守護時代の武田家の本拠地として、居館と家臣団屋敷や城下町が一体に形成されていて、まさに”府中”(現在の地名は古府中)として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代の甲府の原形になっている。

山梨県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地に位置する。

東西を藤川と相川に囲まれ、背後に詰城である「要害山城(標高770m)」を配置した構造になっていて、自然を最大限活かした防衛機能と府中を開くのに相応しい地形を兼ね備えた立地でもあった。

しかも北山の信玄公誕生の地と言われる要害山城の麓には、往時より兵士の湯治に適う積翠寺温泉もあって、戦に備える信虎の戦略が伺える地形だ。

南は、甲府盆地を一望し、御坂山塊に富士山を垣間見て、白根三山、鳳凰山を望め、相模の北条、駿河の今川軍の侵略をいち早く察知して備えられる立地であったと思われる。

武田信虎(信玄の父)は、将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によると、当初の館は、将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。

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構造・遺構:

広さは周囲を含めて東西約200m南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万㎡)と推定されている。

外濠、内濠、空濠の三重構造で中世の武家館であるが、東曲輪(くるわ)、中曲輪からなる規格的な主郭部と西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、後半三曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造られている)等から構成されて、甲斐武田氏の城郭の特徴が良く現れた西曲輪虎口や空濠、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。特に三日月濠は武田氏の築城の特徴と云われ、籠城しやすく攻められにくい構造で、信玄の時代に山本勘介の築城術で造営されたとも云う。

内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常的な居住館、西曲輪は家族の住居があったと考えられています。

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武田城下町:

武田城下町は、居館を機軸に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、京の町並みを意識していたことが指摘されている。

居館の建設と並行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中の機能整備が行われて、城下町の北面には、家臣団屋敷(24将を中心に)が配置され、南面には、商人、職人町が整備されている。

城下町南端の一条小山(後に甲府城が築城)には鎌倉期に創建された一蓮寺の門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺の門前町が発達している。また、東西の出入口武には、三日市場や八日市場などの市場が開設され、城下町と外部の境界にあたる上木戸には、刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた境町には牢屋もあったと云われる。

外縁には、詰城として城砦群が発達して、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山にも山城が築かれ、居館と詰城、支城による府中防衛体制も整えられた町づくりが行われている。※ウイキペディア躑躅ケ崎館より

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積翠寺温泉: ”信玄のかくし湯”として現存する 

標高540~700mの地域に、要害温泉、古湯坊温泉の2つの源泉がある。

泉質は塩化物泉(低張性弱アルカリ性温泉)

PH値平均 7.8

源泉温度 平均25.6℃

湧出量  毎分84.7?

※臨済宗妙心寺派に属する積翠寺には、信玄の産湯と伝わる井戸が残っている。

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要害山城:標高770mの丸山中腹の傾斜地を中心に築かれていた。

「高白斉記」によれば、築城は武田信虎時代、永正17年(1520年)6月であると云う。注)武田氏が居館を石禾川田館から躑躅ケ崎に移転した年の翌年。

駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸ケ城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれたと云う。

遺構:本丸に至る通路や枡形、曲輪、濠切り、見張台等の遺構の他、要所を固める石垣もよく残っていて、戦国時代の城郭として、中世豪族の居館形態を示す貴重な史跡となっている。

永正17年には、今川軍の福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐国へ侵攻し、甲府へ迫って来た時、信虎は、正室の大井夫人を避難させ、福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で、嫡男(勝千代、後の信玄)を出産したと云われる。

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武田24将の屋敷跡:

南北に幾筋もの大通り(小路)、東西にも街路が設けられ、家臣の屋敷、寺院、商人や職人の居住地が定められていた。

甲府略志の「古府之図」をもとに、武田24将の屋敷跡が明らかになっていて、各屋敷跡には、24将を紹介する案内版が設置されている。但し、原美濃守虎胤(とらつぐ)の屋敷跡は不明。

※詳しくは、信玄公のまち 古府を歩く|武田24将の屋敷跡を訪ねる!

 http://www.city.kofu.yamanashi.jp/shingenkou-no-machi/residence.html

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