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日本近代文学の森へ (84) 徳田秋声『新所帯』 4 歯切れのよい文体

2019-01-23 16:11:42 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (84) 徳田秋声『新所帯』 4  歯切れのよい文体

2019.1.23


 

 さて、見合いの翌日、さっそく和泉屋がやってくる。


 明日は朝早く、小僧を注文取りに出して、自分は店頭(みせさき)でせっせと樽を滌(すす)いでいると、まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男がある。柳原もの【*1】の、薄ッぺらな、例の二重廻しを着込んだ和泉屋である。
 和泉屋は、羅紗の硬(こわ)そうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶して、そのまま店頭へ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入(たばこい)れを抜いて莨を吸い出した。
 「君の評判は大したもんですぜ。」と和泉屋は突如(だしぬけ)に高声で弁(しゃべ)り出した。「先方(さき)じゃもうすっかり気に入っちゃって、何が何でも一緒にしたいと言うんです。」
「冷評(ひやか)しちゃいけませんよ。」と新吉はやっぱりザクザクやっている。気が気でないような心持もした。
「いやまったくですよ。」と和泉屋は反り身になって、「それで話は早い方がいいからッってんで、今日にでも日取りを決めてくれろと言うんですがね、どうです、女も決して悪いて方じゃないでしょう。」と和泉屋は、それから女の身上持ちのいいこと、気立ての優しいことなどをベラベラと説き立てた。星廻りや相性のことなども弁じて、独りで呑み込んでいた。支度はもとよりあろうはずはないけれど、それでもよかれ悪しかれ、箪笥の一棹ぐらいは持って来るだろう。夜具も一組は持ち込むだろう。とにかく貰って見給え、同じ働くにも、どんなに張合いがあって面白いか。あの女なら請け合って桝新(ますしん)のお釜を興しますと、小汚い歯齦(はぐき)に泡を溜めて説き勧めた。
 

  徳田秋声の文章は、歯切れがよくて、明快だ。泡鳴の意味不明な独善的表現や、花袋の感傷的でたどたどしい文章を読んだあとでは、真水のようにすっきりした感じがする。「店頭」と書いて「みせさき」と読ませたり、「突如」と書いて「だしぬけ」と読ませたりするのは、この泡鳴にも花袋にもあったことで、口語の表記の仕方が未成熟であったことを思わせるが、こういう表記をやめれば、ほとんど今の文章と変わらない。いわゆる「言文一致体」の完成である。

  明治の中頃から始まった言文一致への動きは、ようやく自然主義文学によってその達成をみたということを、昔どこかで習った覚えたあるが、ムベなるかなである。

 この辺の、新吉と和泉屋のやりとりなどは、いきいきとしている。特に、和泉屋の描写がうまい。「まだ日影の薄ら寒い街を、せかせかとこっちへやって来る男」などという表現は、さっと鉛筆でスケッチしたような描写で心地よい。続く「和泉屋は、羅紗の硬(こわ)そうな中折帽を脱ぐと、軽く挨拶して、そのまま店頭へ腰かけ、気忙しそうに帯から莨入(たばこい)れを抜いて莨を吸い出した。」などは、まったく無駄のない言葉遣いで、くっきりと和泉屋の動きを描きだしている。

 それにしても、この和泉屋という男、作者にとっては気に入らないヤツのようで、悪意すら感じる描かれ方だ。その極めつけが、「小汚い歯齦(はぐき)に泡を溜めて説き勧めた」というところ。口に泡をためてしゃべるというのは、どうにも品のない様だが、「小汚い歯齦」とダメ押しされると、和泉屋の卑俗さがこの一言で決定的になる。実にうまい。

 映画だったら、殿山泰司なんかにやらせたい役どころ。そんなことをふと思うのも、この小説を読んでいると、溝口健二あたりの映画のワンシーンのような気がしてくるからだ。ひょっとして映画化されたことがあるんじゃなかろうかと思って調べてみたが、どうも映画化はされてないようだ。映画化されているのは、『甘い秘密』(吉村公三郎監督、佐藤友美 1971)『爛』(増村保造監督、若尾文子 1962)『あらくれ』(成瀬巳喜男監督、高峰秀子 1957)『縮図』(新藤兼人監督、乙羽信子 1953)ぐらいのようだ。それにしても、豪華なラインナップだ。これらの小説を全部読んで、この映画も全部みたいという気持ちになる。

 さて、和泉屋の言葉を聞いて、新吉も、ようやく決心する。


 新吉は帳場格子の前のところに腰かけて、何やらもの足りなそうな顔をして聴いていたが、「じゃ貰おうかね。」と首を傾(かし)げながら低声(こごえ)に言った。
「だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴な宅(うち)だとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。」
「そんなもんじゃありませんよ。物は試し、まあ貰って御覧なさい。」
 和泉屋はほくほくもので帰って行った。


 結婚を決めるのに、「じゃ貰おうかね。」と自信なさげな新吉だが、やはり、問題は金ということになる。一生懸命に働いてきたけれど、まだまだ結婚できるほどの身代じゃないと、不安なのだ。

 和泉屋は「ほくほくもので帰って行った」というのだが、なぜ「ほくほくもの」なのだろうか。単に世話好きなだけじゃなくて、なにか、「役得」があるのだろうか。お作の方で乗り気なものだから、なんらかの「成功報酬」を約束されているに違いない。


 それから七日ばかり経ったある晩、新吉の宅(うち)には、いろいろの人が多勢集まった。前の朋輩が二人、小野という例の友達が一人──これはことに朝から詰めかけて、部屋の装飾(かざり)や、今夜の料理の指揮(さしず)などしてくれた。障子を張り替えたり、どこからか安い懸け物を買って来てくれなどした。新吉の着るような斜子(ななこ)の羽織と、何やらクタクタの袴を借りて来てくれたのも小野である。小さい口銭(コンミッション)取とりなどして、小才の利きく、世話好きの男である。
 料理の見積りをこの男がしてくれた時、新吉は優しい顔を顰《しか》めた
「どうも困るな、こんな取着(とりつ)き身上(しんしょう)【*2】で、そんな贅沢な真似なんかされちゃ……。何だか知んねえが、その引物とかいう物を廃(よ)そうじゃねえか。」
 小野は怒りもしない。愛嬌のある丸顔に笑みを漂(うか)べて、「そう吝(けち)なことを言いなさんな。一生に一度じゃないか。こんな物を倹約したからって、何ほども違うものじゃありゃしない。第一見すぼらしくていけないよ。」


 ずいぶん早い展開である。見合いしてから一週間足らずで、もう婚礼である。この「はやさ」は、落語でよく出て来る婚礼にも見られる。長屋のハッツァンに大屋さんから話が持ち込まれると、もう、その夜には嫁入りだ。いくらなんでも早すぎるよなあと思って聞いてきたが、こういうところを読むと、案外それが実際だったのだと思い知らされる。

 ダメならダメでいいというような投げやりな新吉だったが、いざ婚礼となると、出費が気になって仕方がない。

 小野という男は、新吉と同郷の友達のことらしいが、この男が頼まれもしないのに、婚礼のあれこれを取り仕切るという、これまた世話好きときている。この友達は、なんでこんなに親切なのかというと、「口銭(手数料)」かせぎのだ。ボランティア精神に富んでいるわけじゃなくて、ケチな下心があるわけである。

 下心があるにしろないにしろ、和泉屋とか小野とかいった世話好きな男というものは、今ではどこにもいないような気がする。それとも、ぼくの周辺にいないだけなのか。ぼくの頭に浮かぶのは、せいぜい、町内のバーベキューなんかで、肉を嬉々として焼く男ぐらいのものだ。それとても、映像で見て知っているだけのことで、知り合いにいるわけじゃない。

 そんな「世話好き」な小野は、料理屋の口銭もあるのか、せっせと見積もりをとってくる。それをみて新吉は、そんな贅沢はしたくないと思うのだが、小野はそんな話には耳を貸さない。ケチケチするなよ、一生一度のことだろ、って笑っている。

 まあ、新吉の気持ちも分かるが、小野のいうことももっともだ。ぼくなんかは、金がなくても、こういうときはパッと使ってしまうタチだから、こんなところでケチるのは気に入らない。けれども、商人というものは、きっとこうした心性があるのだろう。ちなみに、ぼくの浪費癖は、職人の家に生まれた故だと思っている。



【*1】

【柳原もの】東京都千代田区北部を流れる神田川の万世橋から浅草橋まで十町余(約一・三キロ)の南の岸一帯を、江戸時代に柳原と呼称した。神田川沿いに堤防があり、これを柳原土手と呼び、河岸を柳原河岸と称した。一説に、太田道灌が長禄二年(一四五八)江戸城を整備した際、その鬼門除けとして、この地に柳数株を植樹したのが地名の起りとするが、元和四年(一六一八)秋、神田川の河幅拡張と築堤工事が行われ、土手に柳が植えられたものと思われる。寛永九年(一六三二)刊行の「武州豊島郡江戸庄図」には「ヤナキツゝミ(堤)」と記載されている。この柳は明暦三年(一六五七)の大火で焼け、享保年間(一七一六―三六)徳川吉宗の命により、その地名に因んで柳が植えられ、やがて繁茂して遠近の目印となり、飛鳥山の桜、御殿山のぬるでとともに江戸名勝の一つとなった。江戸時代中期より土手下に古着の店が列び、「柳原物」と呼ばれて昭和の初期まで繁昌した。土手は明治の初年に撤去され、柳原通りと呼ばれた。


『国史大辞典』

【*2】
【取り着き身上】始めたばかりで何事もととのわない世帯。『大辞林』




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