Yoz Art Space

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一日一書 1534 寂然法門百首 5

2019-03-27 09:55:53 | 一日一書

青葉紅花非染使然

 

ぬしたれや柳の糸をよりかけていろいろにぬふ梅の花笠

 

 

【題出典】

如青葉紅花非染使然。故云自爾。(『法華玄義釈籤』)

青葉紅花は染めて然らしむるにあらざるがごとし。故に自爾という。

 

【歌の通釈】

作り主は誰か。柳の糸を縒りかけて、さまざまに縫う梅の花笠の。 

【考】

万物の色形は自然に備わったものであり、作為を加えたものではない。

 

以上『全釈』による。

 

 

古今集には、「梅の花笠」(梅の花をウグイスがさしかざす笠と見立てた表現)は、ウグイスが縫ったのだろうという意味の歌があります。この寂然の歌は、そんなのは例え話に過ぎないと否定して、梅の花だって、柳の青葉だって、誰かが意図して染めたわけじゃない。もともとそうなっているのだと、仏法の教えに従って述べているということです。

万物の起源をどこに求めるのかは、古今東西の宗教や思想が追究してきたこと。キリスト教などでは「神が創造したのだ」と端的に言うわけですが、それもそんなに単純な話じゃないでしょう。寂然風にいえば、それも例え話にすぎない、ということになるのかもしれません。「もともとそうなっている」(=自爾=自然)といっても、それでは説明にならないじゃないかということかもしれませんが、その「自然」の奥の奥に、「何か」が根源的に存在している、ということかもしれません。

 そんな難しい問題をはらんでいるわけですが、寂然は、梅の花を柳の糸で縫って作ったのはウグイスだよ、というような「俗説」に対して、そういうもんじゃないのだよ、自然というものはね、と歌って、一般の人々に、自然の奥深さを伝えているのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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一日一書 1533 森羅万象

2019-03-26 16:16:25 | 一日一書

 

森羅万象

 

半紙

 

 


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日本近代文学の森へ (99) 徳田秋声『新所帯』 19 様になる場所

2019-03-25 14:14:45 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (99) 徳田秋声『新所帯』 19 様になる場所

2019.3.25


 

 年の瀬からズルズルと新吉の家に居座ってしまったお国だが、とうとう晦日になってしまった。その間、別に男女の関係になったなどという急な展開はないが、新吉の気持ちは、お国の気持ちを測りかねて、揺れる。

 新年に向けての細々とした用意をお国にはしてくれるのだが、そこに描かれる年末の様子がとても印象的に描かれている。

 

 こういうような仕事が二日も三日も続いた。お国はちょいちょい外へ買物にも出た。〆飾りや根松を買って来たり、神棚に供えるコマコマした器などを買って来てくれた。帳場の側に八寸ばかりの紅白の鏡餅を据えて、それに鎌倉蝦魚(えび)や、御幣を飾ってくれたのもお国である。喰積(くいつ)みとかいうような物も一ト通り拵えてくれた。晦日の晩には、店頭(みせさき)に積み上げた菰冠(こもかぶ)りに弓張が点されて、幽暗(ほのぐら)い新開の町も、この界隈ばかりは明るかった。奥は奥で、神棚の燈明がハタハタ風に揺めいて、小さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。

 

「〆飾り」は分かるにしても、「根松」となると、ぼくにはもう分からない。「日本国語大辞典」には「根のついている松」とだけあって、用例にこの『新所帯』のこの部分が上げられているが、それ以上はどうも分からない。今では、スーパーなどで松の枝を買ってきて、玄関などに飾るわけだが、あれには根はついていない。昔は、あれに根がついていたのだろうか。後の部分に「小さい輪飾りの根松の緑」とあるから、小さな松で根の付いたものと考えるのがいいのかもしれない。

 「紅白の鏡餅」とある。ぼくは鏡餅は白だとばかり思っていたので、ネットで調べて見ると、石川県では紅白の鏡餅が今でも飾られていることがわかった。石川県での由来は書いてあったが、それでは東京ではどうだったのか。当時の東京でも、紅白の鏡餅が飾られていたのだろうか。それとも、作者の徳田秋声が金沢出身なので、思わずそう書いてしまったということなのだろうか。謎である。

 「鎌倉蝦魚」って何? て思って調べたら、何と伊勢海老のことだった。鎌倉近海でとれたので、「鎌倉海老」といったのだという。すでに井原西鶴の『好色五人女』(1689年)に出てきている言葉だ。明治末期まで使われていたとすると、いったいいつから「伊勢海老」になったのだろう。まあ、関西では昔から「伊勢海老」だったのだろうが。

 次に「喰積(くいつみ)」だ。これも「日本国語大辞典」によれば、「正月に年賀客に儀礼的に出す取りざかなで、蓬莱台や三方に米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)、勝栗、昆布、野老(ところ)、干柿などをそえたもの。お手かけ。」とある。これも見たことがない。なんか、地方ではあったような気がするが。「弓張」というのは、「弓張提灯」のこと。

 こうしてみると、年末ひとつとっても、今昔にどれほどの隔たりがあるかが実感される。明治という時代は、まだまだ江戸時代の影を色濃く落としていたのだ。

 こうしたこまかい事象をわかったうえで、この部分をゆっくり読み返してみると、連綿と続く年末年始のしきたりが、庶民の間に行き渡り、それが、なにかとせわしない日常に、節目と安定のようなものを与えていたことが想像される。決して豊かな生活ではなかったにせよ、ここには確かな生活があったのだ。

 そんな年末の何やかやと描写した後に、さらっと、お国の姿が描かれれる。これがまたいい。


 お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。


 ビシッと決まっている。

 お国はたいした美人でもないごく普通の女なのだろうが、これはまるで、「お富さん」だ。煙管は加えていないかもしれないが、とにかくここで絶大な威力を発揮しているのが「長火鉢」だ。これほど形の決まる家具もない。誰だってこの前に座って、キセルをくわえたり、鉄瓶で燗を付けたお銚子で一杯やれば、なにはともあれ「いっぱしの者」らしい雰囲気が生まれてしまう。

 結ったばかりの髪、ひっかけた小紋の羽織、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に座るお国。別に美人じゃなくても、なんだかすっかり様になっている。

 亭主は監獄に入っていて、呼ばれもしないのに亭主の友人宅に居座って、それで、「どことなく居場所がない」感が微塵もなくて、どこか堂々としてさえいる。それはお国の性格の故もあろうが、それを見事に演出しているのが「長火鉢」だ。いったい現代の、例えばマンションにおいて、同じ状況で女が「堂々と見える」場所があるだろうか。どんな服を着て、どんな顔をして、どこに座ればいいのか。ソファーに座っても、リビングテーブルに座っても、様にならないよね。まあ、男にもそんな場所はないんだけど。

 

 九時過ぎに、店の方はほぼ形がついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦を饗応(ふるも)うてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。黝(くろず)んだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢(つや)が見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音(あしおと)が、硬く耳元に響く。


 うまいなあ。うっとりする文章だ。特に「音」に注目だ。

 小僧たちがいなくなって「ひっそり」とした家。燈明の「ジイジイいうかすかな音」。「表を通る人の跫音」──それはおそらく下駄の音だろう──が「硬く耳元に響く」。カランコロンという乾いた下駄の音が、いつもより耳に近く、聞こえるということだ。完璧な日本語だ。

 部屋に「添わって」くる「寂しい影」、「黝んだ柱」、「火鉢の縁に冷たい光沢が見えた」などの視覚的イメージも、寸分の隙もない。

 新吉は、去年の暮れのことを思い出す。その暮れはお作と過ごしたのだ。それなのに、今はこうしてお国と過ごしている。そのことに、新吉は、後ろめたさというよりは、お国に対する「不快感」を感じるのだった。

 


 新吉は火鉢の前に胡坐をかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだ真(ほん)の来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。
「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子を銅壺(どうこ)から引き揚げて、きまり悪そうな手容(てつき)で新吉の前に差し出した。
 新吉は、「何、私(あっし)や勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。
「いいじゃありませんか。酒のお酌くらい……。」お国は新吉に注いでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。
 新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」
 お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口(ちょく)をなめる唇にも綺麗な湿(うるお)いを持って来た。睫毛の長い目や、生え際の綺麗な額の辺が、うつむいていると、莫迦によく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中(うちじゅう)引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終頭脳(あたま)に附き絡うていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念が兆して来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑や反抗心も起って来た。
 お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火(あんか)に当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」
「だが、そうやって私(あっし)のとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩に被(き)せるような調子で言った。
 お国は萎(しょ)げたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。
 しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召し食(あが)りませんか。」と叮寧(ていねい)な口を利く。


 手酌で杯を重ね、だんだん酔ってくるお国を見ていると、その色気に新吉は、つい、となるのかと思うと、そうじゃない。逆に「冷たい考え」が胸に流れるのだ。

 「冷たい考え」──とは何だろうか。こうやってこの女はオレをたぶらかし、オレの女になろうとしているのかと勘ぐったということだろうか。お国の亭主は監獄にいる。出てきたって、その先がどうなるかわかったものではない。それならいっそ新さんの女に、とお国が思ったとて、何の不思議があろう。そう新吉は思ったのだろう。

 お国の真意は分からない。新吉が手を出してきたら、そんときはそんときさ、どうせ「春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない」んだから。すべてはなりゆきまかせといった風情なのだが、新吉の突っ放すような口調に、なんだやっぱり新さんは、あたしなんかに興味はないのか、と、がっかりした、といったところだろうか。




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木洩れ日抄 55 劇団キンダースペース「生き地獄から戻った私!」「運命の奇跡」を観る

2019-03-19 12:50:20 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 55 劇団キンダースペース「生き地獄から戻った私!」「運命の奇跡」を観る

2019.3.19


 

 私達は2013年より、平和祈念展示資料館(総務省委託 新宿住友ビル33階)にて、同館に所蔵されている「平和の礎」から一般の戦争体験者の手記を拾い上げ、ひとり芝居として上演を続けています。
 今回は、満蒙開拓移民団の花嫁募集で満州(現・中国東北部)に渡った女性の、ソ連軍侵攻によって始まる命がけの逃避行の物語「生き地獄から戻った私!」と、過酷な状況下にあっても、人間としての誇りや信念を捨てず、強く正しく生き抜いた元兵士のシベリア抑留生活の記録「運命の奇跡」を、瀬田ひろ美・森下高志がひとり芝居として上演致します。
 戦争体験者の生の言葉を聞く機会が減ってきた今こそ、手記として文字になっているものを役者の肉体を通して体現し、戦争の状況を知ってもらう機会にしたいと望んでいます。


 これは、今回の舞台上演の最初に、瀬田ひろ美が語ったことである。ここで瀬田が言うように、キンダースペースは、6年にわたって、平和祈念展示資料館で、「ひとり芝居」を上演し続けてきた。瀬田に続いて森下も演じるようになり、昨年は、小林もと果も加わり、キンダースペースの大事な「仕事」となっている。

 資料館での上演は、狭い部屋に作った仮設の狭い舞台、わずかな照明効果、十分の効果の望めない音響、といった悪条件だが、それでも、演技が始まってしまえば、戦時下に生きた人々のおかれた状況や、かれらの心情が切々と伝わるいい舞台で、そこに集まった人々に深い感銘を与えてきたのだった。

 それが、今回、初めてキンダースペースのアトリエでの上演となった。資料館では、瀬田、森下、小林の誰か1人が演じてきたわけだが、今回は二本つづけての上演。しかも資料館での上演と同じく無料公演だ。太っ腹である。というよりは、この芝居にかける彼らの熱意の現れである。

 アトリエ公演ともなれば、照明、音響、そして、俳優の言葉の響きなど、何もかも違う。俳優の細かい表情がくっきりと見える。かすかな息の音もきちんと聞こえる。音響も効果絶大だ。

 そして何よりも痛切に感じたのは、瀬田、森下の演技の成熟だ。何度も何度も上演を重ねているうちに、苗村さん、若月さんの命が彼らに吹き込まれ、彼らの「体験」が、俳優の「体験」となった。

 瀬田の演じた「生き地獄から戻った私!」の壮絶なシーンの数々が、まるで映画を見るように舞台に広がる。これは、「ひとり芝居」だからこそできることではなかろうか。「ひとり芝居」(モノドラマ)は、言葉と俳優の肉体が、ぼくらの想像力を限りなく刺激して、そこに見事な「映像」を現出させるのだ。

 3人の我が子を次々と失っていく母の嘆きと悲しみが瀬田の繊細な演技で胸に迫った。ここでは、真っ白に塗られた3脚の椅子が、舞台に次々と「背を向けて」並べられていく象徴的な演出も見事だった。

 森下の演じた『運命の奇跡』も、森下の完璧なまでの演技で、舞台はまさに極寒のシベリアの捕虜収容所と化した。そして、そこに苦しみながらも生きる希望を捨てずに工夫の限りを尽くして生きた若月さんの姿をまざまざと蘇らせた。

 ぼくの父もまたシベリア抑留者であり、若月さんより一つ年上ということもあり、若月さんはどうしても父に重なる。そして、父が語らなかったことの大きさに改めて打ちひしがれた。ぼくは父の苦しみを忘れたことはないが、その苦しみを「体験」したわけではない。けれども、俳優の演技を通じて、今「体験」することができる。それは、決して楽しいことではないが、ぼくの人生のあり方をいつも根底から問い直させるきっかけとなっているのである。

 父は平成になる直前に亡くなったが、その後を生きた方々も、だんだんと数を減らしている。瀬田の「戦争体験者の生の言葉を聞く機会が減ってきた今こそ、手記として文字になっているものを役者の肉体を通して体現し、戦争の状況を知ってもらう機会にしたい」という言葉は重い。その志は尊い。だからこそ、この戦争体験手記の上演は、キンダースペースの大事な「仕事」なのだ。

 この貴重で上質な芝居が、もっともっと広く世に知られ、多くの人々に見てもらえる日のくることを心から願っている。





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木洩れ日抄 54 「夢よりもはかなき世のなか」の思いがけない講演会──柏木由夫退職記念講演@大妻女子大学 2019.3.9

2019-03-12 19:00:05 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 54 「夢よりもはかなき世のなか」の思いがけない講演会

        柏木由夫退職記念講演@大妻女子大学 2019.3.9

2019.3.12


 

 思いがけないことというものはあるものである。

 去年の暮れのことだったか、正確なことは覚えていないのだが、大学時代の畏友柏木由夫が、ぼくもこんど最終講義みたいなのをすることにしたんだけど、出席してもらえるだろうかと言ってきた。

 「ぼくも」と彼が言った背景には、今から4年前に、同じく大学時代の畏友嶋中道則が、東京学芸大で最終講義を行い、その際に、ぼくと柏木が招かれて出席したということがある。

 その時、ぼくはそもそも大学教授の「最終講義」というものがいかなるものであるかを全く知らず、嶋中が、ぼくみたいな大学とはとっくに縁が切れている人間にまで声をかけてくるということは、よっぽど人が集まらないに違いない。「最終講義」なんて言っても、集まったのが10人ぐらいじゃ洒落にならないもんなあ。それじゃかわいそうだから、オレみたいな者でも、「枯れ木も山もにぎわい」ということで声をかけてきたのだろうから出席せねばなるまい、なんて思っていたら、そのころまだ現役の大学教授だった柏木も、あんまり「最終講義」というものに関心がなかったようで、心境はぼくとあまり違わなかったらしく、学芸大に二人で向かう途中でも、いったい何人ぐらい集まるのかあと心配しながらバスに揺られていたのだった。

 ところが、着いてみると、会場にはぼくらの予想を遙かに超える人たちがぞくぞくと詰めかけており、これじゃあ「枯れ木」の出番なんかなかったなあと安心もし、またびっくりもしたのだった。

 嶋中の最終講義も無事終わり、その感想みたいなエッセイを書いてブログにアップしたのだったが、その中に、柏木がどうして最終講義にあまり関心がなかったかというと、彼の勤めている大妻女子大学の日本文学科では、最終講義をしない、という伝統のようなものがあったからだったということを書いた。

 大妻女子大学の定年は70歳ということで、柏木はぼくと嶋中より1つ年上だから、この3月で定年退職となるということは聞いていた。しかしその柏木が、最終講義を行う伝統がない(あるいは、最終講義なんてするもんじゃないという伝統がある)大妻女子大学の日本文学科で、こともあろうに最終講義をやるというのだ。だから、思いがけなかった。

 いったいどうしたの? やらないんじゃないの? って聞いたところ、どうやら事の発端は、ぼくのブログのエッセイらしいというのだ。これがまた思いがけなかった。

 なんでも、彼の教え子の女性(まあ、女子大なので女性しかいないわけだが)が、何かの折に(詳しく聞いたのに忘れてしまいました)、柏木の経歴とかその他の情報を得ようとして「柏木由夫」で検索したのだそうだ。そうしたら、なんと、ぼくのブログの中のエッセイ『仰げば尊し』(関連エッセイ「『源氏物語読書会』のことなど」もどうぞ。)がヒットしたというのだ。そこに書いてあった、


柏木は、大学教授なのだから、いくら学芸大とは無縁だからといって、ぼくと同じレベルで驚くのはオカシイと思うのだが、大妻の日本文学科では、そもそも「最終講義」という習慣がないのだそうだ。彼が言うには、たとえやったとしても、人なんか集まらないよ。学芸大の卒業生や教員も多いだろうから、卒業生とのつながりも強いんだね、大妻の場合は、卒業したらそれっきりが多いからねえ、とのことだった。


 という記述に、教え子の女性たちは、それじゃ私たちがやりましょう! ってことになったというのが発端だというのだ。これはまたなんという思いがけないことであろうか。いやはや大変な時代になったものである。

 で、昨日その柏木教授の「最終講義」があった。前もって立派な案内状が送られてきて、そのあまりの立派さに驚いた嶋中とぼくは、ビビりながら大妻女子大学へと向かったのだが、事前の柏木の言葉からは想像もできない華やかな会場で、集まった卒業生の数も遙かにぼくらの予想を超えていた。最初彼から聞いた、「7、8人ぐらいで図書室の片隅でやるぐらいだ」というのから、「いやどうも30人ぐらいは来るかもしれない」を経て、実際には80人を越える人たちで「図書室の片隅」(最初は狭い部屋を予定していたらしが、人数が増えていったので、広い部屋に変更されたらしい)は埋め尽くされた。

 日本文学科の「伝統」に配慮してか、「最終講義」とは銘打たずに、「退職記念講演」として、「王朝の恋歌 『和泉式部日記』の和歌 再考」という演題だった。

 『和泉式部日記』かあ、と感慨深いものがあった。柏木も講演の冒頭にしゃべっていたとおり、ぼくらが大学1年のとき、担任だったのが、中古文学の碩学鈴木一雄先生だったのだが、その鈴木先生の授業がこの『和泉式部日記』だったのだ。ところがそのほんの最初の部分を読んだだけで、あっという間に大学は未曾有の「大学紛争」時代に突入し、鈴木先生の授業も2、3回受けただけで頓挫してしまったのだった。

 けれども、その『和泉式部日記』の冒頭部、「夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十余日にもなりぬれば、木のした暗がりもてゆく。」という部分のプリントを目にし、読んだとき、不覚にも涙ぐみそうになった。

 あの鈴木先生の授業のあと、この『和泉式部日記』の冒頭部は、数回読んだだけで、その後はまったく読んでいない。それにもかかわらず、ぼくにはこの言葉が限りない懐かしさを伴って心の中に響いているのを感じたのだ。あの時のあの時間が、活き活きと蘇ってきたような気分だった。

 せっかく大学に入ったのに、入学して2ヶ月もしないうちに「ロックアウト」という事態となり、それから先のまったく見えない状況であがいてきたぼくらには、それぞれが言うに言えない苦労をしてきた。ぼくはさっさと大学を後にして、高校の現場でそれなりの修羅場をくぐったが、それでも結構気楽な人生を送ってきた。しかし、嶋中にしろ、柏木にしろ、初志貫徹して学問の道を最後まで捨てずに生きてきた。それがどれほどの忍耐と努力を要したかぼくには想像できない。そしてその忍耐と努力が、こうした形できちんと豊かな実を結んでいるのだ。そのことが、あの暗い絶望的な時代と幾重にも重なって脳裏をよぎる。

 思えば「夢よりもはかなき人生」としかいいようがないほど、ぼくらはあっという間に年をとってしまったけれど、この古典の言葉は、あの頃と同じ響きで、そしてまた一層味わいを深めた響きでぼくらに迫ってくる。それほど、古典というものは、言葉というものは力を持っている。そのことを、柏木の「最終講義」は教えてくれたように思う。嶋中がそうであったように、柏木もまたぼくにとっては大切な師だったのだ。

 講義の後の懇親会では、柏木の教え子たちが、次々と心のこもった挨拶をしたが、そのどれもが彼の誠実な教師生活を証するものだった。ぼくは頼まれた写真を懸命に撮りながら、彼の心底嬉しそうな顔をしみじみとした思いで眺めていた。

 懇親会の後、市ヶ谷の居酒屋で、遅くまで3人そろって至福の時間を過ごしたことはいうまでもない。こんなに思いがけない嬉しい会を企画してくださった柏木の教え子の皆さんには、心からの感謝を伝えたい。







 

源氏物語読書会。山本の自宅にて。1969年。三脚使って撮影。


源氏物語読書会。山本の自宅にて。1969年。




嶋中道則君20歳の誕生祝い。1969年。やはり山本の自宅にて。






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