Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
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一日一書 372 寶

2014-07-31 17:21:52 | 一日一書

寶(たから)

張即之「金剛般若波羅密経」による

 

10×10cm

 

 

越前和紙に書いてみました。

まだ乾いていません。

 


 

 ■本日の蔵出しエッセイ 「卵かけご飯」を探して(2/93)

ほんとに二度とお目にかかれない文章というのもあるんですね。



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一日一書 371 冬はつとめて

2014-07-30 16:13:52 | 一日一書

 

冬はつとめて(枕草子)

 

半紙

 

 

「つとめて」というのは早朝の意。

間違って「冬は努力しよう」なんてとらないようにしましょう。

冬に変に努力すると体によくないです。

夏もですけどね。

 

ここでは

宮廷の冬の朝の様子が生き生きと描かれています。

 

 

口語訳を念のために。

 

冬は早朝が素敵。

雪が降っているのは、言うまでもないけど、

霜が真っ白に降りているのも、またそうじゃなくても

とっても寒い時に、火などを急いでおこして、

炭火を持って忙しく行ったり来たりするのも

すごく冬の早朝に似つかわしいわ。 

昼になって、だんだん寒気がゆるんでくると、

火鉢の炭も、白い灰ばっかりになってしまって、なんかつまらない。



こう訳しても、火鉢なんか、もうないから

若い人には実感がないかもしれません。

つい最近まであったのに。

ということは、

つい最近まで、日本は平安時代と

あんまり変わっていなかったということです。

 

 


 

 ■本日の蔵出しエッセイ おすもうさん今昔(6/88)

豪栄道関、大関昇進おめでとう!


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一日一書 371 遊目

2014-07-29 17:41:50 | 一日一書

 

遊目(甲骨文字)

 

半紙

 

 

「見回す」の意。

今度は、穂先のきく兎髭筆で。

 


 

 ■本日の蔵出しエッセイ 酸ケ湯温泉にチョッとだけ

15年ほど前の、修学旅行引率の思い出です。

当時は、世の中も、のどかなものでした。


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一日一書 370 保安

2014-07-28 17:31:35 | 一日一書

 

保安(甲骨文字)

 

半紙

 

 

安心を保つ。安全を守る。

なかなか難しい世の中になってきました。

佐世保の事件などの報道に接すると

ほんとうに心が痛みます。

 

 

先週の金曜日に、「今井凌雪──人と書のすべて──」という展覧会を見て

甲骨文字を書きたくなりました。

筆は、前回と同じ水彩画用の筆で。

 


 

 ■本日の蔵出しエッセイ 意地が悪い(2/17)

はたして、そうなっているのでしょうか?


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100のエッセイ・第9期・91 夏休みかあ

2014-07-27 15:50:34 | 100のエッセイ・第9期

91 夏休みかあ

2014.7.27


 

 ふと気づけば、夏休みである。といっても、学生や子どもの世界のことだが、ぼくのようにずっと教師をやってきた人間には、やっぱり、夏休みかあ、と思うわけである。

 あと、もうちょっと頑張れば、夏休みだからと、必死で大嫌いな期末試験の採点に取り組み、やっとこさ採点を仕上げ、メンドクサイ成績会議を乗り越え、会議以上にメンドクサイ通信簿を書き終えて、終業式。さあ、夏休みだ、という何ともいえない解放感とワクワク感を、子どもの時代から数えれば、58回も経験してきて、もうそれが当たり前になっていたのに、今年は初めてそうした解放感もワクワク感もなく、何の切れ目もなく、気がつけば夏休み、という事態になった。

 そして、もう1週間が過ぎてしまった。7月もそろそろ終わりかかっている。

 この前見た、教え子の那須佐代子さんが出た「ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる」という芝居で、那須さんのセリフに「あんまり時間の経つのが早いので何にもできない。」というのがあった。ものすごく実感がこもっていて、ひどく共感した。何にもできないわけではないけれど、自分のやっていることと、時間の経過が、どうもしっくりと合わない。時間だけが、自分のやっていることと無関係に、さっさと過ぎて行ってしまうという感じといったらいいのだろうか。そういう事態を、突き詰めるとそういうセリフになるような気がする。

 58回も夏休みを過ごしてきて、毎回思ったのは、結局たいしたこともできないうちに終わってしまったということで、次はこういうことがないようにしようといつも思ってきたけれど、結局、同じことの繰り返しだった。そして、8月に入ると、いつも時間の流れが急速になって、あっという間に8月の下旬となる。夜になるとコオロギなんかが鳴き出し、「灯火親しむころ」という文句が口をついて出てくるようになると、決まって「ああ、もう夏休みも終わりかあ……」という嘆きに浸ることなる。

 しかし、今年は、その嘆きすらもなさそうだ。いつまでも終わらない夏休み。それは果たして幸せなことだろうか。何かが始まるのをワクワクしながら待ち、そしてそれが終わることに哀愁を感じる、それが生きるということのあるべき姿ではなかろうか。

 などと言いながら、やっぱりぼくは、ずっと「終わらない夏休み」を夢見てきたのも事実なのだ。今それが実現して、少々戸惑っているということなのかもしれない。まあ、「夏休み」は終わらないけれど、人生はいずれは終わることは確かなのだから、ものごとを長いスパンで考えて、「いずれ終わるさ」と思っていればいいのだろう。

 それならば58回も繰り返してきた悔いを、出来ることなら、少しでも減らしたい。でも過剰な期待は、結局は失望を生むというのも真実。少なくとも、この暑さでは、冷房をきかした部屋でダラダラと高校野球の地区予選でも見ているしかない。ほんとうに、それほど熱狂的な高校野球ファンでもないのに、地区予選なんか見ている自分が、不思議なヒトのような気がする昨今である。

 


 

  ■本日の蔵出しエッセイ 教師の夏休み(3/94) 



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