花の外には松ばかり
謡曲「道成寺」より
(半切四分の一)
●
久しぶりに、お能をみました。
先日、NHKで放送していた喜多流の「道成寺」。
やっぱり、能はいいなあ。
大学生の頃には、ずいぶん見たものです。
今回は、副音声の解説がとても分かりやすくて
ずいぶん、勉強になりました。
●
書の方は、いろいろ書いてみましたが
こんなのも。
どっちがよいのか分からないので載せておきます。
花の外には松ばかり
謡曲「道成寺」より
(半切四分の一)
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久しぶりに、お能をみました。
先日、NHKで放送していた喜多流の「道成寺」。
やっぱり、能はいいなあ。
大学生の頃には、ずいぶん見たものです。
今回は、副音声の解説がとても分かりやすくて
ずいぶん、勉強になりました。
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書の方は、いろいろ書いてみましたが
こんなのも。
どっちがよいのか分からないので載せておきます。
山本洋三「湖面」より
(半紙)
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前回と同じ詩集より。
全文は以下の通りです。
湖面
湖面に
躍りあがる魚の
一瞬の輝きのうちに
空は
色あせる
友よ
君に語る何事かを
ぼくはどうしても
思い出せない
かぶりなれた帽子を
なくした時のように
妙に首筋が寒いんだ
湖面に暗い風が立って
友よ
ぼくはもう二度と語れない言葉を
なくしてしまったようだ
●
この頃の詩は、どうも思わせぶりで
気取っていて、お恥ずかしい限りですけれど
まあ、これも第1連だけなら、それなりに読めるのではないかと。
あるとき、ふっと、いい考えが頭に浮かんでも
次の瞬間には、もう忘れている。
あれ、なんだっけ。
いいことだったんだけどなあ、と思いつつ
もう二度と思い出せない。
そんな感じが、当時のぼくの詩の一つのテーマだったみたいです。
77 「きょう」は長いか短いか
2014.4.27
同級生の友人に近況をメールして、そこに、「毎日が日曜日状態となったけど、何ていうのかなあ、とにかく、一日があっという間に過ぎるのでオソロシイ。どこかへ出かけたほうが少しでも、一日が長くなるかと、バカみたいに出かけてみても、時間の過ぎ方は、変わらないもんだね。結局、人生って、短いんだというのが毎日の結論です。」と書いたところ、「あっという間に過ぎる一日、とは思わなかった。なかなか過ぎないので、お寺まわりなどで紛らわし、夫婦二人きりの老後の練習をしているのかと思ってた。ぼくは、(定年になったら)家の片隅に置いてもらって、長い一日を、溜めた本を読んで、のんびり過ごそう、過ごせるぞと期待していました。そうか、短いのか。30年、40年、50年前の過去もつい昨日、どころか半日前ぐらいの気分だけど、きょうが短い、とは思わなかった。」という返事が来たので驚いてしまった。
歳を取ればとるほど、時間の経つのが早くなるのが当たり前だと思っていたし、その中には「きょう」も短いというのは当然含まれると思っていたからだ。
けれども、彼は、「30年、40年、50年前の過去もつい昨日、どころか半日前ぐらいの気分だけど、きょうが短い、とは思わなかった。」と、「30年、40年、50年前の過去」と「きょう」を分けて考えている。やっぱり、物事は経験しないと分からないということなのか、それとも、「きょう」まで短いと感じるのは、ぼくだけの特殊事情なのだろうか。
たとえば、鎌倉へ行ったり、公園に行ったりしない最近の日の様子は、こんな感じだ。
朝は、7時すぎまでベッドを出ない。5時半ごろにはたいてい目が覚めているのだが、トイレに行っても、またベッドにもぐり込み、ラジオを聞いたり、iPadでブログを読んだり本を読んだりして、ウトウトしたりグズグズしたりしているうちに、隣の部屋の家内が起きて階下へ行く気配で、ようやくベッドから出る。
朝食を食べながら、『花子とアン』を見たあと、まだ肌寒いので、コタツに入って横になると、また眠くなる。下手をするとそのまま1時間ぐらいコタツに入ったままウトウトしてしまう。週に2~3回、マッサージへ出かけるが、帰ってくるともう昼食だ。昼食を食べながら、『ヒルナンデス』を見たりしているうちに、あっという間に、1時を過ぎる。午後にはブログを書いたり、書を書いたり、教科書の仕事をしたりはするが、気がつくと6時近くになっている。夕食は6時と決めている。
最近は、夕食では(朝も昼もだが)米の飯は食べずに、そのかわり日本酒なら1合、ビールなら缶ビール一杯を飲む。それだけしか飲まないのに、かなりいい気持ちになる。夕食は7時には終了。昔は、夕食も15分ぐらいで食べてしまったものだが、最近では、家内の母と一緒に食べているので、それに合わせて、なるべくゆっくり食べることにしている。その後は、もう仕事めいたことはいっさいしないことにしているが、7時半ぐらいまでは、パソコンの前でなにやかやとやっていて、7時半ぐらいになると、片付けを終えた家内と一緒に、テレビを見る。
家内と一緒にテレビを見るようになってから、はや10年以上になると思うのだが、以前は、たいてい録画していた日本のサスペンス系のドラマを見ていた。しかし、さすがに、10年も見続けていると飽きてきてしまい、しかも、年々ドラマの質が落ちてくるので、どうしたものかと思っていたら、次男が「Hulu」を教えてくれた。月額1000円ほどかかるが、ドラマや映画が見放題というヤツである。映画は、それほどたいしたものがあるわけではないが、アメリカのテレビドラマがなかなかいい。
中でも『名探偵モンク』(原題「MONK」)が素晴らしい。これは、随分前に、たしかNHKで吹き替えで放送していたのをずっと見ていたのだが、これが、字幕で、全シリーズ(?)ある。最初のうちは字幕はどうかなあと思っていたのだが、今ではすっかり慣れてしまい、英語もだいぶ分かるようになってしまった。しかしそれも、45分ぐらいで終わるので、続けてもう1話見たり、『アグリーベティ』を見たりする。『アグリーベティ』は最初は面白かったけれど、シーズン2の真ん中ぐらいまで見て、だんだんばからしくなり、面倒くさくもなってきて挫折。それで、ごく最近では、日本のテレビドラマ『深夜食堂』やら『孤独のグルメ』を見たりしている。この2つは、1本が30分ほどなので、気軽に見ることができる。いったい、いつ放送していたのだろうか。
『深夜食堂』のプロデューサーに竹園元の名前が出るので、おっと思う。彼は、栄光時代の教え子である。ついでに思い出したが、『花子とアン』に出てくる綾小路先生役の那須佐代子は、青山高校時代の教え子である。いろいろなところで教え子が活躍しているのは嬉しい限りだし、思わず自慢したくなる。
まあ、そんなことをしているうちに、10時ぐらいになる。それから風呂に入り、その後、録画してある『吉田類の酒場放浪記』を1回分か2回分見て、11時にはベッドに入る。ぼくは寝付きがいいので、すとんと寝てしまう。
こう書いてくると、「けっこう長い」と思うけれど、実は、これが「あっ」という間に終わってしまうというのも実感である。長いようでもあり、短いようでもある。
長いか、短いか。結局は、どっちでもいいのだ。「きょう」がある。それだけでいい。
山本洋三「夢の時間」より
(半紙)
●
ぼくの唯一の詩集「夕日のように」の中の一篇。
全文は以下の通りです。
夢の時間
夢の岸辺に
うちあげられる
セザンヌのリンゴ
やさしい時間の輪郭を
明るくふちどり
閉ざされる果肉に
つつみこまれる遠い青空
──夢の時間はいつからはじまったか
鹿の脚の形した寝台は
唾液のようになまあたたかい
海の水にうっとりと浮かび
カモメの瞳
ほどの貝がおまえの閉じたうすいまぶたに
白い影をおとす
──やわらかくくずれるのは
おまえの想い出ばかりでない
海の水をたっぷり含んだ風が
おまえの杏のようにすっぱい頬に
冷たいトゲを刺してゆくその時
おまえはみなければならぬ
夢よりさめようとしてなお
夢の中へと逆流する
すきとおるおまえの後姿を
●
20代半ばごろの作。
何だかよく分からない詩ですが
その頃は、こういうイメージをひたすら追いかけていたようです。
全体としては、まとまりのないしょうもない詩ですが
第1連だけなら、わりといいかも。
後は、苦しまぎれに書いていますね。
昨日23日、天気がよいのでまたまた散歩に出かけました。
ひとりで、近くの久良岐公園に行って
のんびりしようと思って出かけたのですが
あまりに、風も心地よくて
このまま帰ってはもったいないと思い
バスに乗って、根岸森林公園へ。
久しぶりでしたが、ここもまた新緑の季節の真っただ中でした。
一面の芝生。
まるで、「花子とアン」のタイトルの絵のようです。
平日なので、ほんとに人が少なくて。
右上の方の白い塊は、寝っ転がっている女性です。
この公園は、根岸競馬場があったところ。
根岸競馬場は、日本の競馬発祥の地です。
八重桜もそろそろ終わりかかり
一面に花びらが散っていました。
風が吹くと、花吹雪。
散ってくる花びらを何とか写そうとしましたが、わかるでしょうか。
ときどき、のんびり散歩しているオジイサンがいたりして。
まあ、ぼくも、その一人ですが。
こういうベンチはいいですね。
ここにしばらく座って、ぼんやりしていました。
「木洩れ日が……」の句に合わせたいような光景です。
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カメラ:OLYMPUS OM-D E-M5
レンズ:OLYMPUS M.ZUIKO DIGITAL 12-50mm 1:3.5-6.3