「失われた時を求めて」を読む 1 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その1
2023.4.19
長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。いまだ手にしているつもりの本は下におき、灯りを吹き消そうとする。じつは眠っているあいだも、さきに読んだことをたえず想いめぐらしていたようで、それがいささか特殊な形をとったらしい。つまり私自身が、本に語られていた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになりかわっていたのである。目が覚めても、数秒の間はそのような想いが残り、べつに私の理性に齟齬(そご)をきたすこともなく、目の上にうろこのように重くかぶさり、そのせいかロウソクが消えているのもわからない。ついでその想いも、やおら理解できなくなるのは、霊魂が転生したあとでは前世で考えたことがわからなくなるのと同じである。本の主題は私から離れ、私がそれにこだわるもこだわらないも自由になる。やがて視力が回復すると、まわりが真っ暗なのに驚きはしても、私の目には優しい安らぎの暗闇で、もしかすると精神にとっては一層そうだったかもしれない。それは根拠のない、理解不能の、まさしくわけのわからない真っ暗闇としてあらわれたからである。いったい何時になるのだろうか、と私は思った。汽車の汽笛が、あるときは遠く、あるときは近く、森のなかで一羽の小鳥がさえずるように聞こえてきて、距離の違いを際立たせ、描き出してくれるのは人けのない野原の広がりで、そこを旅人が最寄りの駅に急いでいる。旅人のたどる小道がかならずやその想い出に刻みこまれるのは、新しい場所を訪ね、慣れない行為をこなし、よその家のランプのもとで交わした直近のおしゃべりや別れの挨拶がいまも夜の静寂のなかで耳につくうえ、間近にせまった帰宅の心地よさを想い、心が昂ぶっているからだ。
言わずとしれた「失われた時を求めて」の冒頭部分だ。
これでこの本を読むのは二度目となるわけだが、何度目などということは問題ではない。何度読んだからもういいとかいうこともない。
10年近く前に、全巻を読んだのだが、その「中身」は、ほとんど記憶にない。それじゃ読んだ意味がないだろうと言われればそれまでだが、本は中身を記憶するために読むのではない。この長大な小説の「中身」をもしぜんぶ覚えていたとしても、いったいそれが何の役にたつだろう。それこそ眠れない夜に──あったとしてだが──それを思い出して楽しむ──楽しめればの話だが──ことはできるだろう。けれど、それ以外に何の?
「中身」は覚えていないが、この部分は、ほとんど覚えている。覚えてしまうほど何度も読んできた。つまりは、数え切れないほどの途中放棄。せいぜい100ページが限度で、数年放置してしまう。するとまた冒頭から読み始める。そして放棄。その繰り返しだった。
ぼくは、昔から、眠れない夜というものとは無縁だった。今でも、寝付きは極めていい。さすがに、夜中に目が覚めることは多くなったが、それでも、一度目が覚めたらもう眠れないというような高齢者の嘆きとはほとんど無縁だ。いずれ、そうなるのだろうが。
この冒頭部分は、えんえんと「眠れない夜」の思い出を語る。晩年の「私」が、かずかずの夜を思い出していくさまは、記憶こそが人生なのだとでも言っているかのようだ。そう、記憶こそが。
ぼくが10年前に、この本をぜんぶ読んだことは事実で、また、その「中身」を「覚えていない」こともまた事実のように思える。しかし、ほんとうに「覚えていない」のだろうか。それでは「覚えている」とはどういうことか。本の文章を一字一句記憶している、ということではないだろう。話の「筋」を覚えているということでもないだろう。そもそもこの小説に筋らしい筋などはないのだから。
「覚えていない」のではない。たぶん。この小説に出てくる、人物、土地、時代、そういったものと、ぼくは「接した」。もっといえば「経験した」。細部は「覚えていない」が、「経験した」ことは「覚えている」。その「経験」の中で、いちばん大事なのは、そこで動いた「感情」だ。その感情が、ぼくの中に層となって蓄積している。下のほうに積もっているものは、なかなか表面には出てこない。そのことを指して「覚えていない」と言っているわけだ。けれど、なんにもないわけではない。いつか、それは浮上するだろう。再読するということは、その浮上するものとの出会いを求めるということに違いない。新たな出会いである。考えてみれば、ぼくらは、常に、新しく出会い直さなければならないのだ。本でも、芸術でも、人間でも、自然でも、街でも。
そして、そうしたこととまったく同じように、この小説の「私」も、自分の記憶の中に入りこみ、新しい出会いを求めようとしているように思える。まさに「失われた時を求めて」なのだ。
これからこの本を読んだ記録を書いていこうと思っているのだが、このあまりにも膨大な小説について、まったくの門外漢もぼくが解説などできようはずもない。「源氏物語」だったら、素人なりに、一種の解説めいたことも書けたが、これは無理だ。
かといって、かつて一回目の読書のときのように、フェイスブックに、今日は何ページまで読みました、といった報告を書いてもしょうがない。一回目のときは、それが、自分への励みになり、なんとか読了までもっていけたということはあったわけだが、今は、読了は必ずしも目標ではない。一度読み切ったのだから、それはもうどうでもいいのである。
で、どうするか。読んだ部分の一部を引用し、何か思ったことを書き添えていくという形にしようかと思う。いずれにしても、「読む」ことが主たる目的で、「書く」ことは付随的なことにすぎない。
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寝る前に読んだ本のことを思い巡らしているうちに、何時の間にか眠ってしまい、「私自身が、本に語られていた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになりかわっていたのである。」という奇妙な事態。そんなことがあるのだろうか。自分自身が、「教会」という建物になってしまう、自分自身が「四重奏曲」という音楽になってしまう、自分自身が「抗争」という事件になってしまう、ということは、いったいどういうことなのか。ここは面白い問題を提起している。
ここでは、「私」と「教会」、「私」と「四重奏曲」、「私」と「抗争」といった対立が解消して、いや、解消するというよりは、「私」が「教会」になってしまう。とすれば、「私」はどこへ行ったのか? と「理性」は問うだろう。それには答えられない。それが「理性の齟齬」だ。その「理性の齟齬」は、生じないというのだ。そんな不思議な「想い」も理解できなくなる。それは、「霊魂が転生したあとでは前世で考えたことがわからなくなるのと同じである。」というのだ。
眠りに落ちようとするその不思議な時間の中で、「私」が体験するこの「想い」は、「理解」を超えて重要なものとなるだろう。
それこそ、今、ふと思い出したのだが、学生のころ愛読していた辻邦生が、たしか講演かなにかで、これと似たことを言っていた。森の中を歩いていると、ふと自分が森を見ているのではなくて、森が自分を見ているような気がすることがある、というようなことだった。「主客逆転」ということだ。そういう感覚が大事なんだというようなことだったような気がする。
「私」とは何か? というのは永遠の問いだろうが、少なくとも、「私」というものは、そんなにわかりきったものではないのだということは、心にとめておきたい。
真っ暗闇の中で、「汽車の汽笛が、あるときは遠く、あるときは近く、森のなかで一羽の小鳥がさえずるように聞こえてきて、距離の違いを際立たせ、描き出してくれるのは人けのない野原の広がりで、そこを旅人が最寄りの駅に急いでいる。」という部分は、とても印象的で、大好きなところだ。
「汽車の汽笛」が、「一羽の小鳥がさえずるように」という比喩を得て、二重の音になり、その音が、「人けのない野原の広がり」という空間を描き出す。すばらしい。しかも、「私」の想いは、その野原の中を急ぐ旅人の心の中にすっと滑り込んでいくのだ。
「失われた時を求めて」は、長大な小説だが、こうした細部に、無限の楽しさが詰め込まれている。
引用は、岩波文庫「失われた時を求めて」吉川一義訳による。