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一日一書 1732 寂然法門百首 80

2023-04-30 11:04:05 | 一日一書

 

菩提薩埵利物為懐


 人をみな渡す誓ひの橋柱たてし心はいつか朽ちせん
 

半紙

 

【題出典】『倶舎論』二三

 

【題意】 菩提薩埵は利物を懐と為し

菩薩は他者の救済に思いをかける。


【歌の通釈】
人をすべて救う誓いの橋柱を立てたその心は、いつ朽ちることがあろうか。

【考】
菩薩の行を志す者として、他者を救うために生きることを誓った歌。「橋柱」を中心とした縁語仕立ての歌で、【参考】に挙げた俊成歌に倣った詠み方。

【参考】わたすべき数もかぎらぬ橋柱いかにたてけん誓ひなるらん(長秋詠藻・序品・四〇三)

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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●今日は、この3月に亡くなった義弟・野俣隆の四十九日法要が行われます。義弟は、生前、この「寂然法門百首」シリーズを毎回見てくれて、応援してくれました。改めて感謝するとともに、この救いにあずかることを心より祈ります。

 

 

 


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「失われた時を求めて」を読む 2 不眠の夜 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その2

2023-04-27 10:25:36 | 「失われた時を求めて」を読む

「失われた時を求めて」を読む 2 不眠の夜 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その2

2023.4.27


 

 私は両頬をそっと優しく枕の美しい頬におしあてる。枕はふっくらとみずみずしく、まるでわれらが少年時代の頬のようだ。マッチをすって、懐中時計をみる。やがて夜中の十二時だ。それは病人が、やむなく旅に出て知らないホテルに泊まるはめになり、発作で目覚めたとき、ドアの下に一筋の光を認めて嬉しくなる瞬間である。ああ、よかった、もう朝だ! しばらくすれば使用人も起きてくるので、呼び鈴をならせば、助けに来てくれるだろう。楽になれると思うと、苦痛に耐える気力が湧いてくる。はたして足音が聞こえた気がする。足音は近づき、ついで遠ざかる。そしてドアの下に見えていた一筋の光は消えてしまう。じつは真夜中で、ガス灯を消したところなのだ。最後の使用人も立ち去り、一晩じゅう、手当も受けず苦しまなくてはならない。

 

 不眠の夜は、文学者にとって、いわば「必須」であるかのようだ。

 不眠とはほとんど無縁のぼくにしても、一年に何度かは、なかなか眠れない夜もある。その時、暗やみの中に聞こえる、たとえば、新聞配達のカブのエンジン音、始発の京急電車の走りぬける音などは、なぜか一種の「安堵感」を呼び起こす。病人でなくても、なぜか、ほっとするのだ。それほど、夜というものは、得体の知れない、不可知の領域のものなのかもしれない。

 プルーストの語るこの不眠の夜の苦しみは、ぼくの中では、とうぜんのように、リルケの「マルテの手記」の冒頭の部分を呼び起こす。

 「マルテの手記」の刊行は、1910年、「失われた時を求めて」の「スワン家のほうへ」の刊行は1913年だから、ほぼ同時代。プルーストは「マルテの手記」を読んでいたのだろうか。

 


 窓をあけたままで眠らなければならないのが閉口である。電車がベルを鳴らして轟々と部屋を通りぬける。自動車が僕の寝ている上を走り去る。どこかでドアが大きな音でしまる。どこかで窓ガラスが割れて落ちる。その大きな破片がからからと笑い、小さな破片が忍び笑いをする。そして、不意に反対の方角からうつろなこもった音が家の内部で聞こえる。だれかが階段をのぼって来るのだ。いつまでものぼって来る、来る。僕の部屋の前へ来た。いつまでも前に立っていて、そして、通りすぎる。そして、再び街路だ。娘の甲高い声がする、「いいえ、お黙り、もうたくさんよ。」電車が血相を変えて走って来て、娘の声をひいて走りすぎる。すべてをひきつぶして行く。だれかが叫んでいる。人々が走って行き、足音が入り乱れる。犬がほえる。なんという喜びだろう、犬だ。夜明け近くには鶏さえも鳴いて、なんともいえない安堵をおぼえる。そして、僕は不意に眠りこむ。

(リルケ「マルテの手記」岩波文庫版・望月市恵訳)

 


 こちらは、パリでの経験を書いているようだから、ぐっと都会的な猥雑な世界だ。けれども、「安堵」は、同じように訪れる。

 リルケは、「夜の物音」を列挙しながら、更に、「もっと恐ろしい音」について語る。

 

 これは夜の物音である。しかし、そういう音よりももっと恐ろしいものがある。それは静けさだ。大きな火事のときにも、同じようにひっそりとして緊張の極に達する瞬間がときどきあるようだ。ポンプの噴出がやみ、消防夫ははしごをのぼるのをやめ、だれもが息をひそめてたたずんでいる。頭上の黒い蛇腹が音もなくせり出し、高い壁が、立ちのぼる火柱の前で黒々と音もなく倒れ始める。だれも息をひそめ、首をちぢめ、仰向いて目をむきながら立ち、すさまじい結末を待っている。この都会の静けさはそれに似た静けさである。

 


 都会の夜の「静けさ」が孕んでいるもの。それはおそらく「死」だ。リルケは、この後、「死」について長く語っていく。

 いっぽう、プルーストは、この夜について、「夢」について、緻密に書き続ける。

 


 ふたたび眠りこむと、ときおりいっとき浅く目覚めることはあっても、それは羽目板がひとりでにきしむ音を聞いたり、目を開けて暗闇の万華鏡を見つめたり、意識に一時的に射した薄明かりを頼りに、すべての家具が、つまり寝室全体が眠りこけるのを味わったりする時間にすぎない。私にしても、そうして眠る一切のほんの一部にすぎないから、すぐにその無感覚の世界に舞い戻り、それと一体になる。あるいは眠っているうちに、永久にすぎ去ったわが原始時代に苦もなく戻ってしまうことがあり、幼稚な恐怖のあれこれに身をすくめる。たとえば大叔父に巻き毛をひっぱられる恐怖などは、巻き毛が切り落とされた日に──私にとっては新たな時代のはじまりの日に──雲散霧消していたはずである。ところが眠っているあいだはこの事件のことを忘れていて、大叔父の手から逃れようとしてようやく目が覚める。すぐにその事件は想い出すのだが、それでも念のため、頭をすっかり枕でおおってから夢の世界に戻るのだ。

 


 不眠といっても、まったく目が冴えているわけではなく、そこに浅い眠りが混じりこみ、いわば「夢うつつ」の状態となる。そうした「夢の世界」へ、プルーストは入り込んでいくのだ。

 「私にしても、そうして眠る一切のほんの一部にすぎないから、すぐにその無感覚の世界に舞い戻り、それと一体になる。」という部分は、注目に値する。
部屋の中の一切の家具は眠りこけ、自分も、その家具の一部にすぎない、という感覚。個人的な肉体が解体し、「自分」がなにかおおきなものと一体化するという感覚は、先日読んだばかりの山野辺太郎の小説「こんとんの居場所」にも出てくる。山野辺の場合は、睡眠ではなくて、あくまで覚醒時の体験として語られるのだが、それがそのまま壮大な「夢」あるいは「荘子の夢」につながっていくわけだが。

 こうした夢の世界で、「私」は、苦もなく「永久にすぎ去ったわが原始時代」に戻ってしまう。「永久に過ぎ去った」とはいえ、それは消滅したわけではない。それはぼくらの意識の深層(?)に、体積しているのだろう。それも、死んだ化石としてではなく、生き生きとした、いわば生命体として。それは、何かをきっかけにして、意識の表層に浮上してくる。あるいは、意識を覆ってしまう……。

 不眠の夜がもたらす「恩恵」は限りなく豊かだ。

 

 

 


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「失われた時を求めて」を読む 1 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その1

2023-04-19 12:29:38 | 「失われた時を求めて」を読む

「失われた時を求めて」を読む 1 《第1篇 スワン家の方へ(1)第一部 コンブレー》 その1

2023.4.19


 

 長いこと私は早めに寝(やす)むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。いまだ手にしているつもりの本は下におき、灯りを吹き消そうとする。じつは眠っているあいだも、さきに読んだことをたえず想いめぐらしていたようで、それがいささか特殊な形をとったらしい。つまり私自身が、本に語られていた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになりかわっていたのである。目が覚めても、数秒の間はそのような想いが残り、べつに私の理性に齟齬(そご)をきたすこともなく、目の上にうろこのように重くかぶさり、そのせいかロウソクが消えているのもわからない。ついでその想いも、やおら理解できなくなるのは、霊魂が転生したあとでは前世で考えたことがわからなくなるのと同じである。本の主題は私から離れ、私がそれにこだわるもこだわらないも自由になる。やがて視力が回復すると、まわりが真っ暗なのに驚きはしても、私の目には優しい安らぎの暗闇で、もしかすると精神にとっては一層そうだったかもしれない。それは根拠のない、理解不能の、まさしくわけのわからない真っ暗闇としてあらわれたからである。いったい何時になるのだろうか、と私は思った。汽車の汽笛が、あるときは遠く、あるときは近く、森のなかで一羽の小鳥がさえずるように聞こえてきて、距離の違いを際立たせ、描き出してくれるのは人けのない野原の広がりで、そこを旅人が最寄りの駅に急いでいる。旅人のたどる小道がかならずやその想い出に刻みこまれるのは、新しい場所を訪ね、慣れない行為をこなし、よその家のランプのもとで交わした直近のおしゃべりや別れの挨拶がいまも夜の静寂のなかで耳につくうえ、間近にせまった帰宅の心地よさを想い、心が昂ぶっているからだ。

 


 言わずとしれた「失われた時を求めて」の冒頭部分だ。

 これでこの本を読むのは二度目となるわけだが、何度目などということは問題ではない。何度読んだからもういいとかいうこともない。

 10年近く前に、全巻を読んだのだが、その「中身」は、ほとんど記憶にない。それじゃ読んだ意味がないだろうと言われればそれまでだが、本は中身を記憶するために読むのではない。この長大な小説の「中身」をもしぜんぶ覚えていたとしても、いったいそれが何の役にたつだろう。それこそ眠れない夜に──あったとしてだが──それを思い出して楽しむ──楽しめればの話だが──ことはできるだろう。けれど、それ以外に何の?

 「中身」は覚えていないが、この部分は、ほとんど覚えている。覚えてしまうほど何度も読んできた。つまりは、数え切れないほどの途中放棄。せいぜい100ページが限度で、数年放置してしまう。するとまた冒頭から読み始める。そして放棄。その繰り返しだった。

 ぼくは、昔から、眠れない夜というものとは無縁だった。今でも、寝付きは極めていい。さすがに、夜中に目が覚めることは多くなったが、それでも、一度目が覚めたらもう眠れないというような高齢者の嘆きとはほとんど無縁だ。いずれ、そうなるのだろうが。

 この冒頭部分は、えんえんと「眠れない夜」の思い出を語る。晩年の「私」が、かずかずの夜を思い出していくさまは、記憶こそが人生なのだとでも言っているかのようだ。そう、記憶こそが。

 ぼくが10年前に、この本をぜんぶ読んだことは事実で、また、その「中身」を「覚えていない」こともまた事実のように思える。しかし、ほんとうに「覚えていない」のだろうか。それでは「覚えている」とはどういうことか。本の文章を一字一句記憶している、ということではないだろう。話の「筋」を覚えているということでもないだろう。そもそもこの小説に筋らしい筋などはないのだから。

 「覚えていない」のではない。たぶん。この小説に出てくる、人物、土地、時代、そういったものと、ぼくは「接した」。もっといえば「経験した」。細部は「覚えていない」が、「経験した」ことは「覚えている」。その「経験」の中で、いちばん大事なのは、そこで動いた「感情」だ。その感情が、ぼくの中に層となって蓄積している。下のほうに積もっているものは、なかなか表面には出てこない。そのことを指して「覚えていない」と言っているわけだ。けれど、なんにもないわけではない。いつか、それは浮上するだろう。再読するということは、その浮上するものとの出会いを求めるということに違いない。新たな出会いである。考えてみれば、ぼくらは、常に、新しく出会い直さなければならないのだ。本でも、芸術でも、人間でも、自然でも、街でも。

 そして、そうしたこととまったく同じように、この小説の「私」も、自分の記憶の中に入りこみ、新しい出会いを求めようとしているように思える。まさに「失われた時を求めて」なのだ。

 これからこの本を読んだ記録を書いていこうと思っているのだが、このあまりにも膨大な小説について、まったくの門外漢もぼくが解説などできようはずもない。「源氏物語」だったら、素人なりに、一種の解説めいたことも書けたが、これは無理だ。

 かといって、かつて一回目の読書のときのように、フェイスブックに、今日は何ページまで読みました、といった報告を書いてもしょうがない。一回目のときは、それが、自分への励みになり、なんとか読了までもっていけたということはあったわけだが、今は、読了は必ずしも目標ではない。一度読み切ったのだから、それはもうどうでもいいのである。

 で、どうするか。読んだ部分の一部を引用し、何か思ったことを書き添えていくという形にしようかと思う。いずれにしても、「読む」ことが主たる目的で、「書く」ことは付随的なことにすぎない。

 寝る前に読んだ本のことを思い巡らしているうちに、何時の間にか眠ってしまい、「私自身が、本に語られていた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになりかわっていたのである。」という奇妙な事態。そんなことがあるのだろうか。自分自身が、「教会」という建物になってしまう、自分自身が「四重奏曲」という音楽になってしまう、自分自身が「抗争」という事件になってしまう、ということは、いったいどういうことなのか。ここは面白い問題を提起している。

 ここでは、「私」と「教会」、「私」と「四重奏曲」、「私」と「抗争」といった対立が解消して、いや、解消するというよりは、「私」が「教会」になってしまう。とすれば、「私」はどこへ行ったのか? と「理性」は問うだろう。それには答えられない。それが「理性の齟齬」だ。その「理性の齟齬」は、生じないというのだ。そんな不思議な「想い」も理解できなくなる。それは、「霊魂が転生したあとでは前世で考えたことがわからなくなるのと同じである。」というのだ。

 眠りに落ちようとするその不思議な時間の中で、「私」が体験するこの「想い」は、「理解」を超えて重要なものとなるだろう。

 それこそ、今、ふと思い出したのだが、学生のころ愛読していた辻邦生が、たしか講演かなにかで、これと似たことを言っていた。森の中を歩いていると、ふと自分が森を見ているのではなくて、森が自分を見ているような気がすることがある、というようなことだった。「主客逆転」ということだ。そういう感覚が大事なんだというようなことだったような気がする。

 「私」とは何か? というのは永遠の問いだろうが、少なくとも、「私」というものは、そんなにわかりきったものではないのだということは、心にとめておきたい。

 真っ暗闇の中で、「汽車の汽笛が、あるときは遠く、あるときは近く、森のなかで一羽の小鳥がさえずるように聞こえてきて、距離の違いを際立たせ、描き出してくれるのは人けのない野原の広がりで、そこを旅人が最寄りの駅に急いでいる。」という部分は、とても印象的で、大好きなところだ。

 「汽車の汽笛」が、「一羽の小鳥がさえずるように」という比喩を得て、二重の音になり、その音が、「人けのない野原の広がり」という空間を描き出す。すばらしい。しかも、「私」の想いは、その野原の中を急ぐ旅人の心の中にすっと滑り込んでいくのだ。

 「失われた時を求めて」は、長大な小説だが、こうした細部に、無限の楽しさが詰め込まれている。

 


引用は、岩波文庫「失われた時を求めて」吉川一義訳による。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 241 志賀直哉『暗夜行路』 128 生まれたての赤ん坊 「後篇第三  十七」 その3

2023-04-10 17:15:49 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 241 志賀直哉『暗夜行路』 128 生まれたての赤ん坊 「後篇第三  十七」 その3

2023.4.10


 

 着物を着更え、湯殿へ顔を洗いに行こうとした時に、看護婦が、「奥様がお眼覚めでございます」といいに来た。
 直子は仰向けのまま上眼使いをして、縁から入って来る彼を待っていた。その疲れたような血の気のない顔を謙作は大変美しく思った。
 彼は枕元に坐ったが、いう言葉が見出せず、
 「どうだい」と無雑作にいった。
 直子は静かにただ微笑した。そして静脈の透いた蒼白い手を大儀そうに出し、指を開いて彼の手を求めた。彼はそれを握りしめてやった。
 「苦しかったか?」直子は上眼で彼の眼を凝(じ)っと見詰めたまま、微(かす)かに首を振った。
 「そう。それはよかった」
 そういう直子が謙作には堪(たま)らなくいじらしかった。彼は頭をなぜてやりたい衝動を感じた。そして握った手を解こうとすると、直子はなおそれを固く握りしめて離させなかった。彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で頭をなぜてやった。
 「どんな児?──いい児?」直子は疲れから低い声でいった。
 「まだよく見ない」
 「眠っているの?」
 「うむ。──あなたもまだ見ないのか?」
 直子は点頭(うなづ)いた。

 

 相変わらず緻密な描写だ。握った手を離そうとしても、直子が離そうとしないので、「彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で頭をなぜてやった。」とある。つまり、片方の手は直子の手を握ったまま、もう一方の手で直子の頭をなぜてやった、というのである。

 「直子はなおそれを固く握りしめて離させなかったので、もう片方の手で頭をなぜてやった。」と書いたとしても意味は同じだ。しかし、「彼は坐り直し、畳に突いていた方の手で」と書くことで、謙作が片手を畳について座っていたこと、その姿勢が直子の方に傾いていたために、握った手を離さないまま、頭をなぜるには、坐り直す必要があったことが分かる。そんなことが分かったところで、何になるかと言われれば、この謙作の体の動きに、謙作の体温や息づかいが感じられるのだと言っておこう。

 そして、考えてみれば当たり前のことだが、直子の寝ている部屋が、自宅の和室であることがくっきりと分かる。今の感覚で、ぼんやり読んでいると、ベッドに寝ているように錯覚してしまいそうだが、この描写で、あ、そうだ、これは大正時代の話なんだと気づくわけである。

 なんだ、そんなこと、わざわざ気づくことでもないじゃないかと思われるかもしれないが、ぼくは、ふと、昨今のAIによる小説創作のことを思ったのだ。「大正時代・出産・若い父・若い母・父の暗い過去・無邪気な母」などとキーワードを入れて、さて、小説を書けといったら、どんな小説が出来てくるだろうか。それらしい小説は出来るかもしれないが、このような描写が果たして生成されるだろうか。

 進歩の著しいAIのことだから、この先の予測はつかないけれど、小説は──文学はといってもいいが──一人の人間の「肉体」から生まれるものだから、AIにはこういう描写は無理に違いないと思う。ここでぼくが言う「肉体」というのは、一人の人間が何十年という時間を生きてきて、その記憶の層が古い池の底の泥のように堆積しているところの「肉体」という意味だ。

 AIが進歩して、もしこの「暗夜行路」のような小説が書けるようになったとしても、逆にそこに生成されるであろう「肉体」に、ぼくらはどんな興味を持ったらいいのだろう。まあ、思いは尽きない。


 「御覧になりますか?」と傍(わき)から看護婦がいった。そして返事を待たず、屏風を除(の)け、被(かぶ)せたガーゼを取ると、割りに手荒く(と謙作には感ぜられた)蒲団を引き寄せ、直子の床にそれを附けた。
 真赤な変に毛深い顔で、頭の先がいやに尖り、それに長い真黒な毛がピッタリとかぶさっていた。眠った眼の丸く腫上っているのも気味悪かった。謙作はこんな赤児を初めて見るように思い、ちょっと失望した。
 「男だからいいようなものの、少し変な顔だな」と彼は笑った。
 「どんな赤さんでも初めは皆そうでございますわ」看護婦は謙作の言葉を非難するようにいった。
 赤児は指でも触れたら、一緒に皮がむけて来そうな唇(くちびる)を一種の鋭敏さをもって動かしていたが、それを開けると、急に顔中を皺(しわ)にして泣き出した。直子は首だけ其方(そっち)へ向け、手を差し延べて、産着のふくれ上った肩を指で押し下げるようにして見ていた。その眼が如何にも穏かで、そしてそれは如何にも、もう母親だった。
 「これが本統に変でなくなるかね」謙作には父らしいといえるような感情はほとんど湧いて来なかった。
 「今お顔が腫れていますが、それが干(ひ)けると、それはお可愛くなりますよ。立派なお顔立ちでございますわ」そう看護婦がいった。
 「そうですか、そんならまあ安心だが、このまま大きくなられた日には大変だからね」
 謙作はいくらか快活な気分になって、「奈良の博物館に座頭か何かの面でこういうのがあるよ」こんな串戯(じょうだん)をいったが、直子も看護婦も笑わなかった。そして、茶の間で膳拵(ぜんごしら)えをしていた仙の「旦那さんの、まあ何をおいやす」といって笑う声がした。
 「色んなとこ、電報、まだだろう?」
 「ええ」
 「そんなら直ぐ打っておこう」そういって、謙作は直ぐ二階の書斎へあがって行った。


 出産直後の赤ん坊を見て、ああ、かわいい! と言いながらも、なんだサルみたいだなあとちょっとガッカリするということはよくあることだし、ぼくにしても、二番目の子どもが生まれたとき、産室から看護婦さんだったか、医師だったかが、赤ん坊の両足を持ってぶら下げて、見せてくれたときは、おおきなハムみたいだなあと思って笑ってしまったような覚えがある。生まれた時から、美男・美女というような赤ん坊はマレであろうし、いたとしても、光源氏ぐらいなものだろう。(何しろ、光源氏は、その「光」という名前(あだ名)が、生まれたときに玉のように光り輝いていた、というところに由来するのだ。)

 しかしだ。この謙作の心の動きと言動は、さすがに、どうなんだろう。直子を見初めたときには、「鳥毛立女屏風の女」みたいだと繰り返し言っていたのに、自分の子どもが「奈良の博物館に座頭か何かの面」みたいだと言葉にするのは、冗談にしても笑えない。直子も看護婦も「笑わなかった」のも当然だ。当然なのに、謙作自身は、それに不服のような書きぶりで、その微妙すぎる空気を一挙に和ませるのは、例の女中の「仙」である。「仙」の名脇役ぶりは毎度のことながら水際立っている。

 しかし、それはそれとして、「真赤な変に毛深い顔で、頭の先がいやに尖り、それに長い真黒な毛がピッタリとかぶさっていた。眠った眼の丸く腫上っているのも気味悪かった。謙作はこんな赤児を初めて見るように思い、ちょっと失望した。」という一連の描写は、やはり異常だ。どこかに嫌悪の匂いが漂っている。

 普通の父親なら、赤ん坊がどんなに皺だらけでも、ハナペチャでも、せいぜい「これじゃサルじゃないか」といって、笑いながらも、限りないいとしさに涙ぐむだろう。そういう、いわば「突き抜けた愛情」のようなもの、「根底的な暖かさ」のようなものが、ここの謙作には微塵も感じられない。それを見逃すわけにはいかない。

 これが、次の章になると、この赤ん坊が、「どうも自分の子どものような気がしない」という思いにつながっていく。ここにも、謙作自身の出生の秘密が暗い影を落としているのだろう。

 

 

 

 


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