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日本近代文学の森へ (206) 志賀直哉『暗夜行路』 93  描写の奥行き  「後篇第三  五」 その2

2021-12-27 15:30:06 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (206) 志賀直哉『暗夜行路』 93  描写の奥行き  「後篇第三  五」 その2

2021.12.27


 

 お栄のことを、相手の女性にどう伝えるべきなのか、あるいは伝えないほうがいいのか、謙作は迷っていたが、こんな結論に至った。

 

 お栄に関する事も打明けねばならぬと思いながら、謙作にはこの事の方は、ひどく苦しかった。何故かわからなかった。そんな事を今いうという事が、あの美しい人に対し、冒漬である、そんな気持に近かった。石本もそれには触れようとしなかったし、彼もある時、打明ける機会に隠さなければいいのだと考え、それは殊更にはいわない事にした。

 

 まあ、懸命な判断である。

 謙作が家に帰ると、石本からの使いが来ていて、今夜S氏に会ってもらいたいとのこと。それで謙作は、すぐに出かけた。石本は一人で待っていて、こんなことを言った。


 石本は一人で彼を待っていた。
 「本人に就いての精しい事は何も分らなかったが、極く大体の事は聴いた」こう石本はいった。それによると、老人は明治三十年代の代議士だった人でS 氏とは同じ政党の関係で前からの知り合いだという事、そしてその女の人は老人の妹の娘で、敦賀の女学校を二年前に出て、嫁入り前の支度かたがた衣裳を買いに来たのだという事、この程度の事だった。


 ここで、ようやくかの女性についての、概略が明かされたわけである。

 それで、その後、謙作は、石本とS氏とともに、飯を食いに出かけることなった。


 間もなくS 氏が誘いに来た。S氏は五十余りの額のぬけ上がった痩せた人でその薄い柔かな髪の毛を耳の上から一方ヘ一本並べに綺麗になでつけていた。そして石本の事を道隆という名で道様道様と呼んでいた。
 すっぽん料理へ行く事にして三人はその宿を出た。そして或る所から電車に乗り北野の方へ向った。

 

 S氏は、石本の「旧臣」だったので、「道様道様」なんて呼ぶのだろうが、もちろん、「石本家」の「旧臣」だったということだろう。まあ、よくある話だが、庶民にはよく分からない感覚である。それはそれとして、この数行で、S氏の風貌が一筆書きで描かれたようにくっきり浮かびあがり、そのうえ、この「道様道様」で、石本との関係までわかる。相変わらず見事な書きっぷりである。

 書きっぷりといえば、この後に出てくる「すっぽん屋」の描写も素晴らしい。


 すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へ入り、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当りにあった。金あみをかけた暗い小行燈(こあんどう)が掛けてあり、そしてその低い軒をくぐると、土間から、黒光りのした框(かまち)の一ト部屋があり、其所(そこ)から直ぐ二階へ通ずる、丁度封印切りの忠兵衛が駈け降りて来そうな段々があって、これも恐らく何百年という物らしく、黒光りのしている上に、上の二、三段は虫に食われてぼつぼつと穴があいていた。それをそのままにしてあった。これも一つの見得には違いないが、悪くないと謙作は思った。
すっぽんも、うまかった。昔このすっぽん屋が、蝦蟇(ひきがえる)を捕りに来たという話を謙作は北野の方の池のある屋敷へ住んでいた人から聴いた事があったが、今はそういう事はないに違いないと思いながら食った。


 なんという無駄のない、それでいて、細密な描写だろう。極めて映像的で、そのまま映画になりそうな描写だが、「封印切りの忠兵衛が駈け降りて来そうな段々」となると、もう言葉ならではの世界となる。

 「封印切りの忠兵衛」についての、岩波文庫の注はこうなっている。「人形浄瑠璃『冥途の飛脚』の主人公。遊女梅川に迷った忠兵衛が、金に困って他人の金の封印を切るという筋。」

 この芝居は、歌舞伎で見たことがあるが、その歌舞伎独特の暗いなかにも華やかな色調が、この場面の奥行きを深いものにしている。

 そして、その階段の板の描写に至っては、うなってしまう。映像表現なら、この「穴」をアップで撮ればいいが、「それをそのままにしてあった。これも一つの見得には違いないが、悪くないと謙作は思った。」のところは表現できない。まさか、「そのままにしてあるのか。うん、一種の見栄だろうが、悪くないな。」なんてセリフを主人公にしゃべらせるわけにいかない。逆にいえば、映画を見るということは、ある意味途方もない「努力」「想像力」を要するということなのだ。

 「すっぽん料理」のことにしても、老舗にしても、どこかあやしげな店の「陰」の部分を、否定しながらも、書き込むことで、やはり奥行きが出る。ひょっとしたら、出てきたのは「すっぽん」じゃなくて「ヒキガエル」だったのかもしれないという想像は、このエピソードを書いたことで生まれるわけで、何も書かずに「うまかった」だけとは雲泥の差がある。

 どうやら、この結婚話は、うまくいきそうな気配である。

 

 

 


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一日一書 1709 寂然法門百首 57

2021-12-09 11:21:49 | 一日一書

 

群賢各随所安


 
ひとりなほ仏の道をたづねみんおのおの帰れ法(のり)の庭人

 


半紙

 

字体:木簡

 
【題出典】『止観輔行伝弘決』一・一


 
【題意】  群賢各おの所安に随え。

多くの賢者よ、それぞれ思う所に従え。


 
【歌の通釈】
ひとりでさらに仏道を追究しよう。それぞれの道に帰りなさい。法を求め集まる人々よ。


【考】
天台大師が人々を教化する中で、次第に法を得るものが少なくなっていったの、自らの修行の妨げとなるとして、人々を帰して、一人で行に励むことを宣言する場面を詠んだもの。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

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▼ぼくも、教師を42年もやってきたのですが、「教える」ことは、かえって「学ぶ」ことの妨げになるような気のするときもあったような気がします。とくに、ぼくが興味を持っていることを、かなり情熱的に、バカみたいに力んで話しても、あまり反応がないときは、ああ、こんなことしゃべらなきゃよかった、と後悔したものです。「一人で行に励む(学ぶ)」ということは大事なことですね。

 

 

 


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日本近代文学の森へ (205) 志賀直哉『暗夜行路』 92  尾をひく「出生」の問題  「後篇第三  五」 その1

2021-12-08 20:30:24 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (205) 志賀直哉『暗夜行路』 92  尾をひく「出生」の問題  「後篇第三  五」 その1

2021.12.8


 

 謙作の結婚の話は案外うまく進みそうになった。それは信行の学校友達の山崎という医学士が丁度、その老人を診ている博士の助手だった事から、急に色々な事がはっきりした。女の人は老人の姪であるという事、敦賀の在のいわゆる物持ちの家の人であるという事、そして、京都へは老人の見舞いを兼ね、冬物の衣裳その他を買うために出て来たのだというような事まで分った。
 それからもう一つ謙作のために幸だった事はその老人を博士へ紹介して寄越した市会議員のS という人が偶然にも石本のいわゆる旧臣だった事である。この事は東三本木の宿でその人の名が何気なく山崎の口から出た時に女主が「そのお方さんやったら、石本さんの元の御家来やと思うとりますが……」といったので分った。

 


 今までああでもあろう、こうでもあろうと想像しかできなかった細部が、この数行で一気にすっきり解明される。瞬間的に霧が晴れたような思いがする。 

 「在」というのは、「(「在郷(ざいごう)」の略)いなか。在所。特に、都会から少し離れた所をいうことが多い。また、地名の下に付けても用いる。」(日本国語大辞典)の意。

 「いわゆる物持ち」という語句もちょっと分かりにくいが、「物持ち」というのは、「多くの財産を所持する人。財産家。素封家。」(日本国語大辞典)の意で、明治の初期ごろから使われていた言葉らしい。

 ここに出てくる「石本」というのは、前回出てきた、「手蔓」を作るのに便利だという公卿華族の男だが、ほんとうに、手蔓があったわけだ。「市会議員のS という人が偶然にも石本のいわゆる旧臣だった」ということで、石本は「公卿華族」だと紹介されていたが、元は武家だったのだろう。「華族」という名称は、明治になった使われたが、いろいろな呼び名があって、混乱していたらしい。後に華族で統一されたようだ。

 Wikipediaによれば、【華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。】ということになる。

 宿の女主人からも「石本さんの元の御家来やと思うとりますが」などという言葉がすっと出る時代。まだまだ、江戸時代はそんなに遠くはなかったのだ。

 このように周囲の人間が、謙作のために奔走してくれることに対して、謙作は、素直にありがたいと思うことができるようになっていた。


前に「君たちにそういう心配はしてもらいたくない」とか「そういう老婆心が不愉快なのだ」とかいった自分が一年経たぬ内に結局その事で世話にならねばならなくなった事を彼は面白く感じた。「それ見ろ。あんな立派な口をききながらとうとうあたまを下げる事になったろう」こんな風に石本が思うかも知れない、と考えた。そう思うなら思ってもよろしいと彼はまた考えた。


 謙作の強烈な自我は、氷が溶けるように、徐々に柔らかくなっていったのかもしれない。


要するに自分は不幸な人間ではないと謙作は考えた。自分は全くの我儘者である。自分は自分の想う通りをしようとしている。それを人は許してくれる。自分は自分の境遇によって傷つけられたかも知れない、しかしそれは全部ではない、それ以上に自分は人々から愛されていたのだ。こんな事を思った。


 ずいぶんと柔らかくなったものである。謙作が悩み苦しんできた出自の暗さは、謙作を「不幸」にしたが、「それ以上に自分は人々から愛されていたのだ」と思い至ったというのだ。そして、この件を石本に頼んでよかったと思った。

 ところが、人間の気持ちというのは、なかなか一筋縄ではいかないもので、細かい行き違いはどうしても生じてしまう。その辺のことを、志賀直哉は、実に細密に描いている。

 石本が、先方にもこちらの事をできるだけ詳しく話したほうがいいね、といったのに対して、そうしてくれといいながら、こちらのことというのは「何(ど)の程度までをいうのか不安心に思った。多分、総てをいってくれるのだろうとは思ったが、自分さえ近く知った自分の出生を、本統によく石本も知っているかしら? それが疑われた。」のだ。それで、「つまり僕の出生の事もいってくれるんだね」と謙作は言ったのだが、謙作はそれを「言ってほしい」というつもりで言ったのに、石本は「僕の出生の事のことまで言ってしまうのか?」という意味だととってしまって、「いやな顔」をして、「その事は隠さず打明けねばならぬという事をくどくどといい出した」のだ。

 そういう石本に対してイライラしながらも、自分も、この件を兄に話すときに、ちゃんと言っておかなかったからいけないんだと反省もする。しかし、ちゃんと言わなかったのは、無意識だったのか、意識的だったのか、自分でもよく分からない。やはり、この出生の問題は、根深く謙作のこころを支配し、苦しめているというのが現実なのだ。

 石本との行き違いはあったものの、謙作はあまりこだわらずに済ませることができたのだが、一方では、やはり、どうしたら、この出生のことを相手に伝えることができるだろうかと考える。石本に任せておけばいいとは思えなかったのだ。


 謙作は自分の事を彼方へ打明ける一つの方法として、自伝的な小説を書いてもいいと考えた。しかしこの計画は結局この長篇の序詞に「主人公の追憶」として掲げられた部分だけで中止されたが、その部分も何かしら対手に感傷的な同情を強いそうな気がして彼はそれを彼方(むこう)へ見せる事をやめた。そして彼は後になってそれを聴いたが、石本は謙作がその事について尾の道から信行へ出した、最初の手紙を持って来ていて、その中のお栄に関する部分だけを消して先へ見せたという事である。


 謙作にとっては、小説を書くということが、生きる手段でもあったということがよく分かる。それは、志賀直哉にとってもそうだったのだろう。

 結局、石本は、後に、謙作が信行に書いた手紙の一部を見せることで、この出生の事実を先方へ知らせたということなのだが、「お栄に関する部分だけを消して」というのはどういうことだろう。手紙でお栄に触れているところは、最後の部分だから、そこは見せなかったということだろうか。

 謙作の手紙というのは、尾道で兄からの手紙で、初めて出生の秘密を知って、はげしく動揺した後に、気を取り直して兄に書いたものだ。謙作の苦しみと決意が述べられている長文のもので、なるほど、これを見せるという手があったのかと、感心した。

 

 


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