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一日一書 1751 寂然法門百首 100

2025-06-22 09:56:07 | 一日一書

 

水流趣海法爾無停

 
さまざまの流れあつまる海しあれば「
 

半紙

 

【題出典】『止観輔行伝弘決』五・中

 

【題意】 水流海に趣(おもむき)て法爾として停ることなし。


【歌の通釈】
様々の流れが集まる海があるので、ただでは消えまい、この百首の筆の跡は。

【考】
狂言綺語の和歌の流れは、行き着くところ実相の海に注がれる。教文を題としたこの百首は戯れ業ではなく、必ずや実相の海に導くものとなると自信をのぞかせる。その実相の理を縁として発心することこそが最上の発心であるという。つまり、和歌を詠むことは、実相を縁として発心する、すなわち天台の究極の教えである円教の発心につながるというのである。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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【考】にみえる「狂言綺語」とは「道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉。とくに仏教や儒教の立場から、いつわり飾った小説、物語の類をいやしめていう。また、転じて、すさび事、戯れ事、管弦などの遊びにもいう。きょうげんきぎょ。」(日本国語大辞典)との意味だが、和歌もまたその「狂言綺語」の類いと仏教からは軽んじられていた面があるのだろう。しかし、寂然は、その和歌も、仏教的な真理への導きになるのだと、この本の最後に述べています。

とくに、「ただには消えじみづぐきの跡」と、その自信のほどを力強く言い切るところに、感動を覚えます。自分が書いたものは、そう簡単には消えないぞ、という自信。それは、文筆に携わる人間の誰しもが、こころのどこかに潜ませているものでしょう。

ということで、ながながと(だらだらと)書き続けてきた「寂然法門百首」も、めでたく100回を書き終え、完結となりました。これを書き始めたのは、なんと、2019年1月4日でした。それから6年半も経ってしまったわけです。

「一日一書」と銘打っているのですから、そのとおりに書いていけば、100日で終わるはずですが、なまけもののぼくには、そんなことは到底できず、一回分を書くにも、どういう字体で書こうかと、一字一字を字典で調べていくのが、だんだん面倒になったりするうちに、ひどいときは年に数回しか書かないなんて事態となりました。

ちょうど半分くらいまで書いたころに、ファイルしてあるものを長男に見せたら、へええ、これはいいなあとため息交じりに言うので、まんざらお世辞でもあるまいと勝手に判断して、完結したらぜんぶお前にやるよ、と言ったのでした。それから数年たってやっとこそ完結したわけですが、100枚全部渡したら、かえって迷惑かもしれません。B4ファイル3冊にもなるので。

90を越えたあたりから、掲載していたgoo brogが11月でサービス終了とのアナウンスがあり、これはやばいと、突然スピードアップして、いままでのペースからしたら驚異的なスピードでむりやり完結させてしまいました。

ブログの方は、まるごと「はてなブログ」に移行できそうですが、そちらでの更新は、あまり考えていません。そのため、この「寂然法門百首」の100回分を「Yoz Home Page」に格納する作業を現在続けています。現時点で、71〜100までの格納を終了しています。これもなかなかメンドクサイ作業ですので、少しずつやっていこうと思っています。ブログでは、過去の記事を探すのが大変ですが、ホームページでは目次がありますから、すぐにアクセスできます。

いままで、ご覧頂き、どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。

 

 


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一日一書 1750 寂然法門百首 99

2025-06-21 11:14:31 | 一日一書

 

当知池水為清濁本

 
にごりなく池の心をせきわけて玉もあらはにすましてしかな
 

半紙

 

【題出典】『止観輔行伝弘決』一・四

 

【題意】 当に知るべし、池水は清濁の本と為ると。


【歌の通釈】
濁りのなりように池の心(水)を堰き止め分けて、珠も顕に澄ましたいものだ。

【考】
澄んだ水も濁った水も元は同じ水。同様に迷いも悟りもすべて同じ心から生ずるものなのだ。迷いに満ちた心も澄ませば悟りの本となる。このように悟るのを別教の発心という。池の水が濁ることのないように、水を堰き止め、そこに悟りの珠を澄ませたい、つまり心が濁らないように声聞・縁覚の心を堰き止めて菩薩の心を澄ませたい、と詠んだ。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 

 


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一日一書 1749 寂然法門百首 98

2025-06-19 14:33:52 | 一日一書

 

樹下有井井有月影

 
山の井の月の影とるはかなさに増さるは人の心なりけり
 

半紙

 

【題出典】『止観輔行伝弘決』一・四

 

【題意】 樹下に井有り、井に月影あり。

【語釈】通教=天台の化法四教の第二。大乗の入門的な教えのこと。声聞・縁覚・菩薩に共通であるから「通」という。空を直観的に理解する段階。

【考】題の『止観輔行伝弘決』に説かれる、水面に映る月を取ろうとして木の枝から五百匹の猿が落ちたという寓話は、


【歌の通釈】
山の井に映る月影を取ろうとするはかなさより、一層はかないのは人の心なのだなあ。

【考】
題の『止観輔行伝弘決』に説かれる、水面に映る月を取ろうとして木の枝から五百匹の猿が落ちたという寓話は、実体のない諸現象に執着する愚かさを言ったもの。歌では、それよりも人の心ははかなく愚かだと詠む。すべてに実体はないことを直感して発心するのを通教の発心という。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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「発心」とは、「悟りを得ようとする心を起こすこと」ですが、それを広くとって考えると、何かを知ろう、とか、研究しようとか、決心することにもつながるでしょう。有名な、ニュートンのリンゴの話にしても、目の前のリンゴがポトリと地面に落ちたことを見て、あ! と思った。それがすぐに「万有引力の発見」そのものを意味するというより、研究のきっかけだったということではないでしょうか。

人間というものは、ただぼんやりしていては、心になにもおこらない。水面に何かが落ちて、波紋がひろがる。そのようにして「発心」は起こる。

「水面に映る月を取ろうとして木の枝から五百匹の猿が落ちた」という話は、なんとも壮大で、馬鹿馬鹿しさの極みですが、その寓話を聞いて、「バカだなあ」とただ笑っているのではなくて、「なんてバカなんだ。でも、俺たちのほうがもっと大バカだ。」と思ったところに「発心」が生まれる。

この水に落ちた500匹の猿に、昨今の、世界中で飛び交い落ちているミサイルの幻影を見る思いがします。

 

 


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一日一書 1748 寂然法門百首 97

2025-06-18 20:28:36 | 一日一書

 

観耕之時已発誓竟

 
はぐくまんと思ふ心は春の田のかへすに鳥のあさる見しより
 

半紙

 

【題出典】『止観輔行伝弘決』一・四


【題意】 観耕之時已発誓竟

耕を観る時已(すで)に誓を発し竟(おわ)る

 

【歌の通釈】
(菩提心を)育てようと思う心は、春の田を耕し、掘り起こされた虫を鳥があさるのを見てより起こったのだ。

【考】
以下、三蔵教、通教、別教、円教の四教の発心を説く。(中略)つまり、『摩訶止観』にいう第一から第四の菩提心が、四教の発心に当たるという理解である。『往生要集』大文四にも、この『摩訶止観』の箇所を引き「言ふ所の初とは、これ三蔵教の界内の事を縁とする菩提心なり。」(大正蔵84・51下27/岩波思想・109)と釈す。この歌は、釈尊が太子であった時、田を耕し掘り出された虫を鳥が啄んで食べてしまうのを見て、発心したというエピソードを詠んだもので、「春の田をかへす」「鳥のあさる」と歌ことばを用いて流麗に表現した。このように、命あるものは必ず滅すると理解して発心するのを三蔵教の発心という。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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一日一書 1747 寂然法門百首 96

2025-06-16 20:50:51 | 一日一書

 

娑羅林

 
たれもみな今日の御法(みのり)を限りとて鶴の林になくなくぞきく
 

半紙

 

【題出典】一般に通行した固有名詞であり、出典を特定せず。

 

【題意】 娑羅林(さらりん・しゃらりん)

【語釈】娑羅林=釈迦が『法華経』の次に『涅槃経』を説いた場所。 鶴の林=題の娑羅の林のこと。釈尊が涅槃に入る時、白色に変化しあたかも白鶴のようであったことから「鶴の林」という。

【歌の通釈】
誰もがみな、今日の説法が最後だと思って、鶴の林で泣く泣く聞くことだよ。

【考】
涅槃時の歌。娑羅の林の中、釈尊が最後の説法を行うのを、聴衆が泣きながら聞くという場面を詠んだ。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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娑羅林とは、「娑羅双樹(さらそうじゅ)」の林のことです。「娑羅双樹(さらそうじゅ)」については、以下のような解説があります。

1 フタバガキ科の常緑高木。高さ約30メートルに及び、葉は光沢のある大きな卵形。花は淡黄色で小さい。材は堅く、建築・器具用。樹脂は瀝青(れきせい)(チャン)の代用となり、種子から油をとる。インドの原産。さらのき。さらじゅ。しゃらそうじゅ。 2 釈迦がインドのクシナガラ城外のバッダイ河畔で涅槃(ねはん)に入った時、四方にあったという同根の2本ずつの娑羅樹。入滅の際には、一双につき1本ずつ枯れたという。しゃらそうじゅ。 3 ナツツバキの俗称。
〈デジタル大辞泉〉

このうちの「3」の「ナツツバキ」は、日本でもよく植えられています。これが「娑羅双樹」と同じだというわけではありません。あくまで、「ナツツバキ」の「俗称」です。

 


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