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日本近代文学の森へ (78) 「作者」と「作品」──「分析批評」のことなど

2019-01-07 17:40:17 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (78) 「作者」と「作品」──「分析批評」のことなど

2018.1.7


 

 ぼくが大学に入ったころは、いわゆる「分析批評」というものがはやっていたころで、小西甚一先生の授業で、初めてそのことを知った。

 これを簡単にいえば、「作品」と「作者」は切り離して考えるべきだ、ということで、例えば、テストなんかで、「この部分は作者のどのような考えが表されていますか?」というようなことは聞いてはいけないということだ。「作者の考え」なんか、作者自身に聞いてみなきゃ分かるはずないだろ、ということだ。

 大学受験の問題に取り上げられた小説の問題が、作者に聞いたら答が分からなかったなんてことも、話題になったこともある。

 つまりは、「作品」は、書かれてしまったら、それは「作者」から独立した存在となるのであって、「作品」をいくら読んでも「作者」にはたどり着くことはできないし、たどり着こうとしてはイケナイのだということだ。

 じゃ、小説なら小説をどう読めばいいのかと言うと、小説を読んで、この作者はどういう人なんだろうと考えるのではなくて、その小説の表現、言葉を、それだけを頼りに、そこに描かれた世界を味わえばよろしい、ということになる。「作者」はこういう人だったから、この表現はきっとこういう意味であろう、なんて思っちゃイケナイ。「作者」から離れて、極端にいえば、勝手に読めばいい、というようなことだったらしい。

 らしい、なんていい加減なことを言うのは、小西甚一先生の授業もその最初の方はちゃんと出ていたらしく、その講義ノートも、10ページほどは残っているのだが、その後のノートはまったく白紙で、どうも、一年を通してちゃんと出て勉強した形跡がないのである。だから、先生の教えも、うやむやなまま、ただ「分析批評」っていうのがあって、スゴイんだ、ぐらいの認識で終わってしまった。

 「分析批評」がはやった背景には、それ以前の文学研究が、「歴史主義」といったか、何かと、「作品」を、それが書かれた社会背景や作者の人生と重ねあわせて解読するという方法論が蔓延していたということがある。政治的な用語でいえば、左翼的(?)な態度である。その態度が気にくわなかったのか、作品解読から、社会情勢だの、歴史だの、はたまた作者の人生(人生となれば、社会情勢と無縁であるはずがない)だのを排除してしまえという流れが生まれ、政治的には右翼的(?)な態度となったのかもしれない。

 左翼とか右翼とか、そんな問題じゃないとは思うのだが、東京教育大学の大学闘争が、筑波移転反対闘争だったという事情の下で、国文学部の教授が、移転反対と賛成に分裂してしまい、その賛成派の旗頭みたいな存在に思えたのが小西先生だったように記憶しているので、まあ、そんな左翼だの右翼だのという話になってしまうのである。

 ぼくは、筑波移転なんて大反対だったが、ヘルメット被って教授を弾劾するようなことはしたくなかったから、運動には加わらず、さまざまな学生運動のセクトにも属さず、ロックアウトされた大学の周辺を友達3人でさまよっていたわけだが、文学における「分析批評」には、おおきな魅力を感じていた。卒業論文も、先行論文が少ないという理由で、室生犀星の研究をしたのだが、その論文も、多分に「分析批評的」だった。犀星の初期の詩における「青」と「緑」の意味するものを中心に書いたのだから、「分析批評」そのものだったのかもしれない。

 もっとも、その論文の評価を、卒業してから数十年後に風の噂で聞いたら、「感覚的に書いただけ」というようなヒドイ評価だったみたいで、結局は、「分析批評」のまねごとに過ぎなかったということらしい。「らしい」ばかり続くのは、その卒論の指導教官は、吉田精一の弟子(だったはず)の分銅淳作先生だったのだが、提出した後に、一度もお話ししないまま、卒業してしまったからだ。先生とは、論文を書く前の面接で、10分ほどお話ししただけだった。

 まあ、そんなことはともかく、とにかく大学時代の授業で、初めて知った「分析批評」を、その後、教師になって国語の授業をするようになっても、基本的な立場としてきたのだった。

 けれども、最近になって、「作品」と「作者」を切り離すなんて、おかしいんじゃないかって、痛感するようになってきた。たとえば、漱石の小説をいくら読んでも、夏目漱石という人間にたどり着けないのなら、意味ないじゃん、って思うようになったのだ。漱石は何を考え、どういう思いで生きたのか、そういうことを考えずに、『こころ』だの『明暗』だのを読んでもしょうがない。まして、田山花袋ってどういう人なの? あるいは明治時代ってどういう時代だったの? という興味抜きで、『蒲団』なんか読んだって、馬鹿馬鹿しいだけだ。

 やっぱり、問題は人間だ。「作者」だ。そう思うようになった。さっき「最近になって」と書いたが、こういうことを、数ヶ月前に、突然思うようになったということではない。大学を卒業して以来、徐々に考えが変わってきてはいたのだが、ここへ来て、はっきりと意識したということだ。

 なぜ、最近になって「はっきりと意識した」のか。それは、昨今の「AI」の問題があるからだ。




 

 


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