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木洩れ日抄 74 珍答案と平野謙

2021-07-29 21:17:26 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 74 珍答案と平野謙

2021.7.29


 

 ながいこと、ぼくは、大学教授ほど気楽な職業はないと羨望の念を抱かないこととてなかったのだが、ようやくヨワイ71にして、いろいろな場面で大学教授の方と知り合いになり、その仕事の内実をそこはかとなく知るに至って、まことに、申し訳なく、高校教師こそが実は気楽な職業であったのだと、ハタと気づいた次第である。

 ぼくは、中学高校の教師を実に42年の長きにわたって勤めたのだが、その仕事の中でも、採点がいちばん苦痛だった。採点に準ずるものとして、生徒の書いた作文(読書感想文とか)を読むのも苦痛でしょうがなかった。そういうのがないから、大学教授はいいなあとアサハカにも思っていたのだが、そういう思い込みは、ぼく自身が、未曾有の学園紛争のただ中に大学時代を過ごしたために、大学教授と個人的な関係をほとんどむすぶことができず、したがって、彼らの生活の実態を知らぬまま、教師になってしまったからだと思われる。

 もっとも、中高以来のぼくの大切な友人のほとんどは、大学教授となったのだが、彼らからは、あまり生活の愚痴を聞いたことがなかった、もしくは、聞いても適当に聞き流していたのかもしれない。

 つい最近、長年書棚に「死蔵」状態にあった「平野謙全集」を、コロナ禍のつれづれに、自炊したのだが、その最終巻の「第13巻──はじめとおわり」には、様々な文章が雑多に収められていて、それを寝っ転がって、iPadで、ぱらぱら読んでいたら、実におもしろい文章に行き当たった。

 書かれたのは昭和36年で、このころ、平野謙は、早稲田大学の政経で講師をやっていたらしい。その時の、思い出話である。

 平野謙は、ずっと批評家として生きてきた人で、学者ではないのだが、非常勤(?)講師を頼まれたらしい。ほかには、いつだか忘れたが明治大学でもやっていたことがあるはずだ。

 あるとき、試験答案を読んでいたら、とてつもなく面白い答案があって、夜中にひとりでゲラゲラ笑ったというのだ。こんなふうに書いている。

 

人なみに学年末の教師らしい経験をなめたついでに、在学生の試験の答案の一傑作をここに披露しておきたい、と思いたった。私蔵しておくのは惜しいのである。

 

 おいおい、その学生の「著作権」はどうなるんだい? って今ならツッコミが入りそうだけど、まあ、その学生が平野謙のこんな文章を目にする機会なんてコンリンザイありそうもないから、それでいいと思ったのだろう。

 で、平野はその答案をまるまる引き写してみせる。

 ぼくも、「著作権」が多少気になるが、まあ、どうせ公開されてしまったものなので、ぼくが「私蔵」しておくのは「惜しい」ので、そのまま紹介したい。


 鷗外は、明治十七年帝国大学の医学部を卒業してから、翌明治十八年独逸に留学し、明治二十三年まで衛生学について主として学問を学んだ。この『舞姫』は、彼が留学中の事柄を想起して書いた作品である。主人公は長谷川達之助といい独逸に留学している間に、一女性エリスと知り合う。この女性は、日本の花売娘のような職業についていて、客にこびを売りながら物を買ってもらう。達之助はあわれな彼女に同情し、いたわっている内に、お互の間に恋愛関係が生じる。この事が上役の耳に入り、問題となる。長谷川という男は、元来消極的で、決断力が乏しく、上役の命令をそのままうのみにして従うという気の弱い青年であったので、エリスと一緒に帰国したものか、このまま独逸に残って引きつづき学問を研究して行くべきか迷った。たまたま母が亡くなったという通知を受けとる。結局、単身帰国することになる。帰国の旅費はエリスを捨てるという条件で出してもらう。帰国はしたが頼るべき人とてなく一人ぽっちになっているところへ、エリスが彼を追ってくる。生涯を共にすることなく帰国へとエリスを踏みきらす。
 この作品で鷗外は恋愛至上主義を唱え、当時の男女関係が、セックスにはしる醜いものであることに対して、プラトニックラブの尊さを世にとうている。この事は、硯友社文学に対しての戦でもある。言文一致のスタイルで書かれていて、これまでにない新鮮さを出している。

 


 そして、こんなふうに書いている。


 これが答案の全文だが、キレイな読みやすい字で書かれていて、私などよりよっぽどうまい。ほとんど誤字もなく独逸、恋などという字はみな正字である。ケシも一個所をのぞいて全くない。そのケシは最後の「言文一致」というところで最初言文一致と書き、それを二本棒で消して右側に「雅文調」左側に「言文一致」と書きこんで、右側の書きこみの上にはX 印がつけてある。筆者の迷いを示すもので、私は左側を採った。できれば全文を凸版にとってみせたいくらいである。筆跡だけからいえば、最上級に属する。人情として、字のキレイな答案に好意を持ちがちなのはやむを得ぬところで、私は最初からこの筆者に好感をいだいた。

 


 昔、都立高校で教師をしていたころ、試験の平均点が、どうしても女子の方が高くなってしまったものだが、それは、ぼくが女子をヒイキしたからではなくて、平野がいうように、「字のキレイな答案」は、圧倒的に女子に多く、それで女子の答案に「好感をいだいた」からであろう。こんなことを書く平野謙にも、ぼくが好感を抱いてしまうのもまたムベなるかなといったところである。

 さて、「問題はその内容である」と平野は続ける。

 

 この答案を読んだときは、及落会議までに卒業論文と学年末試験の採点が間にあいそうもなくなって、宿屋にとまりこんでいたのだが、深夜私はひとりでゲラゲラ笑いながら読んだ。隣室の人が気にするかと思ったが、笑わずにいられなかったのである。

 

 そうだろうか? これが「ゲラゲラ笑う」ほどおかしな答案だろうか、と思っていると、いちいちその「おかしさ」について説明してくれる。「ここにはいろんな誤りがあるが、その思いちがいには一々根拠があって、私にはおかしかったのである。」のだという。

 最初から違う。鷗外が医学校を卒業したのは明治14年で、ドイツ留学に出かけたのは明治15年だ。しかし、そんなのは序の口である。平野も、「それは別にしても」と軽くスルーしている。

 しかし、平野に説明されなくても、少なくとも、「舞姫」を読んだことがある人間なら、主人公が「太田豊太郎」であることぐらい知っているはずだ。現在の日本の多くの人々も、かつては高校の国語の時間で「舞姫」を、「なんだわけわかんねえ」とか、「なんだこのトヨタロウって男は!」とか思って読んだはずで、たとえ、その名前を忘れてしまったとしても、「長谷川達之助」などというまったく関係のない名前が出てくるわけがない。

 しかし、それではこの名前はこの学生がでっち上げたものかというとそうじゃない。平野は言う。

 

断わるまでもなく、これは二葉亭四迷の本名長谷川辰之助がまぎれこんだもの。

 

 すごいじゃないか。「舞姫」を読んでないのに、二葉亭四迷の本名を知ってるなんて!

 次に、おおくの読者が「え?」って思う(はず)なのは、エリスの職業が「花売り娘」となってるところ。平野は言う。


エリスの職業は花売り娘ではなく、下っ端の踊り子である。下っ端の踊り子を『舞姫』などとよぶのは似合わしくない、と石橋忍月が難じたのは有名な話だ。なぜ花売り娘などという奇想天外の職名がとびだしてきたかといえば、幸田露伴の『風流仏』の女主人公を説明するとき、いまでいえばバアの花売り娘みたいなものと私がいったのを思いちがいしたためだろう。


 そうか、石橋忍月(評論家山本健吉の父)は、そんなナンクセをつけていたのか、しらなかった、と感嘆するまもなく、「風流仏」の話だ。「いまでいえばバアの花売り娘みたいなもの」っていう説明をする平野謙ってやっぱり面白い。しかも、それをまじめに聞いていて、「なに? 花売り娘って?」と思いつつ、覚えている学生。笑える。その「仕事」の説明として「客にこびを売りながら物を買ってもらう」なんて、必死に想像したさまが思い浮かぶ。

 さて、肝心のラスト。発狂してしまって、置き去りになるエリスはどこへやら、追いかけてくる。もっとも、この間違いには同情すべき点もあって、平野はこう書いている。

 

エリスは懐妊し、発狂することになっていて、日本まで追っかけてくるはずはないが、小説とちがって、やはりエリスという正体不明のドイツ女が鷗外の帰朝まもなくあらわれ、森一家はその対策に苦慮した、というような余談を私がしゃべったのを、この筆者はおぼえていたのだ。

 

 なるほど、ぼくも、授業でもそういう「余談」は話した覚えがある。そこがごっちゃになったわけだ。ま、ご愛敬だね。しかし、その後の一段落がひどすぎる。的外れもはなはだしいのだ。


 しかし、そういう筋書きの小説がなぜ「恋愛至上主義」を表現したことになるかはマカ不思議というしかない。これは北村透谷の生涯がまぎれこんだためで、恋愛という観念が日本に確立したのは透谷ら《文学界》同人の功績だ、だからこそ透谷らは硯友社一派と対立せざるを得なかったのだ、と私は説明したのである。また、『当世書生気質』にはセックスだけあって恋愛はない、というようなことも私はいった。言文一致か雅文調かで、筆者が再考せざるを得なかったのは、『浮雲』も『舞姫』も、現物を読んでいない証拠だろう。だから、筆者は両テンビンを賭けたのだが、どちらにしても、『舞姫』のエキゾティシズムが当時清新な印象を与えたことはまちがいない。


 「舞姫」を読むにあたっては、まずその「雅文調」がネックになるわけで、昨今では、これを高校の教科書に入れるかどうかで、いつも編集者は頭を痛めている。会社によっては、現代文訳をつけるとか、原文を「わかちがき」するとか、いろいろ工夫しているところである。それなのに、「舞姫」が「雅文調(文語)」だったっけ? それとも「言文一致(口語)」だったっけ? なんて迷い、その迷いを筆跡として答案に残すなんて、「読んでません」と告白しているに等しい。

 しかしまあ、これだけの文章を作り上げるというのは、さすがは早稲田の学生ということだけのことはあって、たいした才能である。そして、平野はこんなふうに評するのだ。

 

 こう説明すると変哲もなくなって、私の感じたおかしみはうまく伝わらないけれど、すくなくともこの学生が前期の私の話をほとんど全部きいていることは明らかで、私はこの筆者の出席率に好感をいだかざるを得なかった。

 

 ほんとにそうだ。政経学部の学生が、日本近代文学の授業を欠席もせず、居眠りもせずにこんなにちゃんと聞いているなんて感動的ではないか。

 この後、平野は、「エリスをエリカあるいはハリスと書く学生」とか「『吾輩は猫である』を『我が背は猫である』」とかに比べたら、はるかにこの学生の誤りは「恕すべきだと思う」としている。

 そうかなあ。「エリカ」のほうが「長谷川達之助」よりは、「恕すべき」だと思うんだけどなあ。でも、「長谷川達之助」の出所はたぶん自分の余談だから、うれしいんだろう。平野は書いてないけど、講義の中で、言文一致とか、二葉亭四迷とか、ついでにその本名とかについて語ったに違いないから。

 さて、この短い文章の最後はこんなふうになっている。

 

 私のひそかな嘆きは、花袋の『蒲団』は純然たる私小説ではない、と毎年口をすっぱくして力説しても、『蒲団』の答案となると、依然として『風俗小説論』の中村光夫説(昭和三十六年三月)が最有力だということである。無論、中村説だから減点するというようなケチなことは私はしないが、やはり人情として、私の話をよく聞いてくれた学生には自然好意を持つことになるのである。

 

 そうか、平野謙は、「蒲団」についての自説を大学でも「毎年口をすっぱくして力説」していたのか。「蒲団」の最後の例の場面について、平野謙は「あれは不自然だ。虚構だ。」とするのに対して、中村光夫は事実だといって譲らなかった論争があったことは知っていたが、こんな場面で出くわすと妙に生々しくて楽しい。

 ちなみに、平野が「不自然だ」というのは、主人公の男が、去って行った女の夜具に顔を突っ込んでその匂いを嗅ぐという有名な最後の場面で、食いつめた文学青年が夜逃げをしたわけでもあるまいし、良家の令嬢が、荷造りもしないまま、夜具を押し入れに突っ込んだままで国に帰るはずがないじゃないか。絶対にきちんと片付けて出て行くはずだ。そこに虚構がある。といった指摘をしたのだ。それに対して中村光夫は、なんでそんなこと断定できるんだ。そういうことだってありうるじゃないかとか言って反論したはずだ。この平野の記述によれば、どうも中村光夫のほうが分がよかったようだ。

 それにしても、「ひそかな嘆き」だの「中村説だから減点するとういうようなケチなことはしない」だのといって、悔しがっているのが面白い。やっぱり、平野謙は、正直で、愛すべき人である。

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 73 開会式の日のこと

2021-07-26 20:51:55 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 73 開会式の日のこと

2021.7.26


 

 今回のオリンピック開催のゴタゴタを目の当たりにして、開会式なんて見るもんかと思ったわけだが、そのとき、前回の東京オリンピックの開会式のことがありありと思い出されて、思わず苦笑した。

 それはぼくが中3の秋のこと。栄光学園は、それまで親しんだ横須賀の田浦から、大船の新校舎へと引っ越したばかりだった。引っ越しは、夏休み中に行われ、荷物運びなどで生徒も動員された。といっても希望者だけだったけど。うちのトラックも叔父が運転して、引っ越しを手伝ったりもした。

 新しい校舎での生活が始まったのが、2学期。ぼくはそのころ、生物部の部活に学業も忘れるほどに熱中していて、成績はさがる一方だったが、そんなことはまるで気にならず、いろいろな企画を考えては実行に移していた。

 生物部では、ずいぶん前から「SNOCH」という部誌を年に一度発行していたが、それだけでは物足りないので、新しい雑誌を自分たちで作ろうということになり、さっそくその第一号を作り始めた。誌名は、「冬虫夏草」と決めた。「SNOCH」の方は、印刷所に出して作ったが、「冬虫夏草」のほうはガリ版だ。

 雑誌作りに何人が参加したのか忘れたが、とにかく、週に2回しか許されなかった部活はガリ版切りに費やした。

 そのさなかに、オリンピックがやってきたのである。

 東京オリンピックは、戦後日本の最大イベントで、日本中が熱狂したと伝えられているが、もちろん、そんなことはない。熱狂した人たちも多かったが、熱狂しなかった人たちも多かったはずだ。ただ、そういうひねくれ者のことは、伝えられないだけのことだ。

 ぼくがどんな気持ちで東京オリンピックを迎えたのか覚えていないが、とにかく、開会式に興味がなかったことは確かなのだ。それなのに、驚くべきことが起きた。

 当日になって、校長が──校長の独断だったのかどうか知らないが──全校生徒に向かって、「今日は開会式だ。部活は中止して、すぐに家に帰り、開会式を見ろ。」と言ったのだ。

 言葉はその通りだったとは思えないのだが、趣旨はそうだった。「開会式を見たいものは、部活をしないで、すぐに家に帰ってもよろしい。」ではなかった。一方的に「部活中止」を通告したのだ。「帰れ」と強制したのだ。

 頭にきた。ぼくにとっては、部活命の学校生活だった。今でも思うのだが、勉強勉強と嵐のような強制に息の詰まる日々の中で、なんとか学校生活を送ることができたのも、6年間、一度も休まず、遅刻・早退もせず、通いきれたのも、みんな生物部のおかげだった。部活がなければ、ぼくは中高の生活をまっとうできなかったかもしれない。

 しかも、その部活は週に2回、平日の1回と、土曜日の1回のみと限定されていた。土曜日の部活こそ、なによりもぼくにとっては大切は時間だった。しかも、今は、新しい雑誌を作ることに燃えている最中だ。いくら校長でも、この時間をぼくから奪うことはできないはずだ。オリンピックがなんだ、開会式がなんだ。冗談じゃない。

 怒り狂ったぼくは、仲間に呼びかけ、部活をやることに決めた。数人が残った。放課後、ほんとうに、みんなかえってしまった。新しい校舎は、しずまりかえってしまった。教師すら影形もない。

 うすぐらい、生物部室で、残った数人は黙々とガリ版を切りはじめた。初めのうちは、満足感がぼくらのなかにあったと思う。しかしである。そこが中学生の悲しさなのか、次第に心細くなってきた。というか、このチャンスを逃すと、開会式は二度と見ることができないかもしれないなあと思ったのだろうか、くわしい心境はよく覚えていないのだが、数人の中の誰からからともなく、「やっぱり見たいね」という言葉が漏れた。その言葉を言ったのは、ひょっとしたらぼく自身だったのかもしれない。

 言ってしまったらオシマイである。ぼくらは、すぐに部室を飛び出した。開会式開始の午後2時は目前に迫っている。

 目指すは、校舎の敷地の端にある「教員アパート」(「栄光アパート」と呼んだと思う。)である。栄光学園には、創立当初から、教員用のアパートがあった。大船でも、2棟のコンクリート造りの教員アパートがあったのだ。

 先生たちもみんなそこへ帰っていた。どの先生のところに行こうか、たぶん迷ったはずだ。ぼくらが選んだのは、英語のO先生の家だった。ちょっと怖い先生だったが、若かった。だから見せてくれるかもしれない、と思ったのかもしれない。

 先生は、びっくりして「ばかやろう! だから帰れって言っただろう!」と言いながらも、テレビのある部屋に入れてくれた。そのとき、小さな白黒テレビには、入場してきたギリシャの選手団が映し出されていた。

 その後、どのくらい、そこに居座ったのか、そこから引き上げてから、更に部活を続けたのか、まったく記憶がないが、たぶん帰りはしなかっただろう。

 今思うと、そこで、もうひと踏ん張り意地を通しておきたかったと思わないでもない。そうしておけば、オレはあの嵐のような熱狂の中でも、「見なかったんだぜ」って自慢できたのになあとも思う。そんな自慢なんて何にもならないけど。

 しかし、あの静まりかえった校舎の小さな部室で、心の中で「チクショー! チクショー!」って何度も叫びながら、ガリ版を切っていた中学生の姿が次第に影を大きくしてくるような気がするのは、なぜなんだろう。自分の心の大事なところにずかずかと入り混んでくるある「力」に、幼いぼくは懸命にあらがっていたのかもしれないと思うと、妙にセンチメンタルな気分になるのである。

 

 


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日本近代文学の森へ (195) 志賀直哉『暗夜行路』 82  気高い心  「後篇第三  一」 その5

2021-07-25 14:04:39 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (195) 志賀直哉『暗夜行路』 82  気高い心  「後篇第三  一」 その5

2021.7.25


 

 影絵のように見えた「美しい人」のイメージを心に抱きつつ、謙作は、考え、歩く。


 彼は自分の心が、常になく落ちつき、和らぎ、澄み渡り、そして幸福に浸っている事を感じた。そして今、込み合った電車の中でも、自分の動作が知らず知らず落ちつき、何かしら気高くなっていた事に心附いた。彼は嬉しかった。その人を美しく思ったという事が、それで止まらず、自身の中に発展し、自身の心や動作に実際それほど作用したという事は、これは全くそれが通り一遍の気持でない証拠だと思わないではいられなかった。そして何という事なし、あの気高い騎士ドンキホーテの恋を想い出していた。彼は大森でその本を読み、その時はそれほどに感じなかったが、今自身の心持から、ドンキホーテの恋も、それを彼が滑稽を演ずる前提とのみ見るべきではない事に考附(かんがえつ)いた。勿論トボソのダルシニアと今日の人とを比較するのはいやだった。しかしドンキホーテの心に発展し、浄化されたその恋は如何に気高い騎土を更に気高くし、更に勇ましくしたか、──彼には変にそれがピッタリと来た。
 彼は自身のそれをどう進ますべきか、そういう事を考える気もなく、ただ、彼に今、起っている快い和らぎ、それから心の気高さ、それらに浸っていた。四条通りをお旅まで行き、新京極の雑沓を人に押されて抜けながらも彼の心は静かだった。そして寺町を真直ぐに丸太町まで歩き、宿へ婦って来た。


 美しい人を見た謙作は、そのことで心が「常になく落ち着き」「和らぎ」「澄み渡り」「幸福に浸っている」ことを感じる。「外部」としての、「美しい人」を「見た」ことで、自分の心に変化が起きたのだ。その変化のさまを、謙作は、じっくりとたどっていく。

 東京で「見た」女は、謙作の心をひいたけれど、そうした作用を及ぼすことはなく、ただ謙作の心を惑乱させるだけだった。惑乱させて、その挙げ句に幻滅させる、そういう経緯ばかりをたどった。

 それに対して、今度の「美しい人」は、謙作の心を、穏やかな澄んだ状態へと導いた。その心の状態は、やがて「気高さ」へと到達していることに謙作は気づくのだ。

 「その人を美しく思ったという事」は、「その人」が「美しかった」ということではない。人間が「美しい」かどうかなど、客観的に決められるものではない。「美しく思った」というのは、謙作の心がそう捉えたということだ。美はそこにしかないのか、あるいは、「客観的」に存在するのかという問題は、おそらく美学の古くて新しい根本的な問題だろう。謙作の立場は、決定的に、自分の心、つまりは、感覚や感性に重点をおいている。

 志賀直哉の「リアリズム」が、「主観的リアリズム」だと言われることがあるが、それはこういうところから来るのかもしれない。しかし、ここは「リアリズム」ですらないのではなかろうか。「その人」は、確かに、謙作が「美しい」と感じるような「美的要素」を備えてはいただろう。けれども、志賀は「その人」の「美的要素」については一切書かないのだ。問題は、自分が「その人を美しく思ったという事」に絞られる。
単純に言えば、ある女性を見て、「ああ、いいな。きれいだな。」と思ったということだ。それは誰にでもあることで、普通はそのこと自体はすぐに忘れてしまう。もちろん、その女性の面影がいつまでも心に残るということはあるにしてもだ。

 しかし、謙作は、「その人を美しく思ったという事」が「それで止まらず」に、「自身の中に発展し、自身の心や動作に実際それほど作用したという事」を重要なこととして考える。「きれいだな」と思ったことが、自分の行動に作用した──つまりは、家に帰ってからもう一度出かけて行ってその姿を見た──ということ、それを「通り一遍の気持でない証拠」だと謙作は思うわけだが、それとても、「よほどその女性が気に入った」証拠だということに過ぎない。

 真に重要なのは、その心が単にその女性への思慕に止まらずに、「心の気高さ」に到達するということだ。短絡的にいうと、「きれいな人を見たら、気高い心になった。」ということになり、これはあまり目にしない構図である。

 普通は──なにが「普通」なのかほんとは分からないが──こうはならない。ろくでもない人間なら、きれいな女性を見たら、欲情にかられ、なんとかこの女をものしたいとか不埒なことを考えるだろう。「心の気高さ」どころじゃない。「心の醜さ」を自覚──ならまだいいほうで、露呈することにもなりかねない。

 謙作の場合は、極端にいえば、「その人」のことは問題にならない。「その人」がどう自分の心に作用し、どのような心の状態に導いたかだけが問題なのだ。これは、「リアリズム」でもなんでもない。「主観的リアリズム」ですらない。

 その「心の気高さ」をドン・キホーテのそれに比するのは、なんとも滑稽だが、それすらも謙作(志賀)は恐れない。そして、こういうのだ。「彼は自身のそれをどう進ますべきか、そういう事を考える気もなく、ただ、彼に今、起っている快い和らぎ、それから心の気高さ、それらに浸っていた。」と。

 しつこいようだが、謙作の心を占めているのは、「自分の心の状態」であって、「その人」のことではない。なんと不思議なことだろう。普通なら、その人のことで頭がいっぱいで、かろうじて自分の心を覗いたら、「俺はなんて汚い男なんだ、なんて汚れた男なんだ」という自己嫌悪ばかり、というのが相場じゃなかろうか。

 謙作に「自己嫌悪」がなかったわけではない。むしろ東京にいたころの謙作の心を占めていたのは、一種の「自己嫌悪」だった。その「自己嫌悪」が、「美しい人」によって一掃された、ということだろうとも考えられるが、どうにもしっくりこない。

 こういう謙作が、この「美しい人」に対して行動を起こし、やがて妻にするというストーリーのようなのだが、さて、いったい謙作はそのことによってどう変わっていくのか、あるいは変わっていかないのか、怖いようでもあり、また限りなく興味深いことでもある。

 余談だが、最近、小林秀雄と伊藤整の「作家論」を拾い読みしていたら、小林秀雄が初期の評論で志賀直哉を高く評価しているのに対して、伊藤整は、その初期の評論で、「おもしろくない」と一蹴しているのに、ちょっと驚いた。志賀直哉をどう評価するか、そのことで、その批評家や作家の考えがあぶり出されるのは面白い。その意味では、やはり志賀直哉は、「重要な」作家であることは間違いない。

 伊藤整の文章は、まことににべもないが、面白いので、ちょっと紹介しておく。伊藤整が27〜8歳のころの、若々しい評論である。

 

「クローディアスの日記」を少年時代に、しかも小説ということを考えもせず、理解してもいなかった頃に、ある機会で読んだが、消し難い印象を受けた。そして誰の作であったかは忘れていた。後に志賀直哉という小説家を知り、その人の作品を読んでゆくうちにまた「クローディアスの日記」を読み、実にうまい、と思った。ところが志賀直哉という小説家が存在理由を獲ている作品は、「暗夜行路」だとか「和解」だとかいう自伝的な小説であることを知り、殆んどあらゆる文壇人がこれ等の作品を神聖視していたし、またいるので、それ等を読んで見たが、およそ問題にならない位に面白くもなく感銘もないのであった。作文として、ある人間の経験談として、克明に正確に書かれてあるのは事実であったが、特に大哲学者だとか、大詩人だとか別に大きな仕事を残している人の自伝というならばその意味で志賀直哉の問題志賀直哉読みもしようが、単に自分が「クローディアスの日記」なる小説に感心したことのある一小説家の正確な自叙伝を読むということだけでは無益に近いことのように思われた。死んだ梶井基次郎氏が作家として志賀氏を尊敬していて私にも読むことを奨めたが、読んでみて面白くなかった由を言ってやったことがある。志賀氏の自叙伝小説がある量感をもっていることは漠然と感ずるけれども、白樺時代の文学青年の得手勝手な生活やロレンスなどが十枚でも書けるような生存の悩みを何百枚もだらだらと書き続けてそれを他人に読ませうるものとしている気持は、育ちや環境の違う私にはとても我慢出来なかった。自叙伝にしてももっと省略すべきものは省略し、集中すべきものは集中すべきであろう。でなければスタイルや扱い方に何か特殊のものを示さなければなるまい。


「志賀直哉の問題」(「伊藤整全集第19巻」所収。昭和8年)

 


 伊藤整だけでは、公平を欠くので、小林秀雄の方も。こちらも27歳の小林の健筆。いやはや、伊藤整といい小林秀雄といい、今更だけど、頭いいなあ。

 


 嘗て日本にアントン・チェホフが写真術の様に流行した時、志賀氏は屢々(しばしば)チェホフに比された。私は今、氏に封する本質を外れた世の品評、言はば象に向つて、「お前の鼻はちと長過ぎる様だ」と言った様な一切の品評を無視しなければならないと信ずるのだが、志賀氏をチェホフに比するといふ甚しい錯誤は、餘り甚しい錯誤である点で、利用するに便利である。或る批評家は言った。「『或る朝』はチェホフの作品の様にユウモラスだ」と。
 チェホフは廿七歳で「退屈な話」を書いた時、彼の世界観は固定した。それ以来、死に至る迄彼の歌ったものは追憶であり挽歌であった。彼の全作は、彼が獲得した退屈といふ世界観の魔力から少しも逃れてゐない。嘲笑するためには彼の心臓は温く、哄笑する為には彼の理智は冷く、彼は微笑した。この最も宇宙的な自意識を持った作家の笑は、常に二重であった。人間の偉大と弱小との錯交を透して生れた。笑ひつつ彼の口許は歪んだ。彼の全作に定著された笑が、常に理智的であり、倫理的である所以である。
 然るに、志賀直哉氏の問題は、言はば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ。氏の歌ったものは常に現在であり、豫兆であって、少くとも本質的な意味では追憶であった例はないのである。氏の作品は、チェホフの作品の如く、その作品に描かれた以外の人の世の諸風景を、常に暗示してゐるが如き氛気(ふんき)を決して帯びてはゐない。強力な一行為者の肉感と重力とを帯びて、卓れた静物画の様に孤立して見えるのだ。かういふ作家の表現した笑は、必然に単一で審美的なのである。「助六」を見て、意休の頭に下駄がのる時、人々は笑ふであらう。嘗て「助六」の作者が、この行為にひそませた嘲笑が、今日何んの意味を持つてゐないとしても、この表現に一種先験的な笑がある以上、人々は笑ふのである。志賀氏の作品の笑は、この世界の笑である。美の一形態としての笑である。

「志賀直哉──世の若く新しい人々へ」(「新訂 小林秀雄全集 第4巻」所収 昭和4年)

 


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一日一書 1700 寂然法門百首 50

2021-07-21 10:44:49 | 一日一書

 

未来々々転々不窮


 
むかしより仏の道のしるべにて行く末絶えぬ御法とぞきく
 

半紙


 
【題出典】『摩訶止観』一・上


 
【題意】  未来未来転々して窮(きわ)まらず

(摩訶止観は)未来に延び広がり際限ない。


 
【歌の通釈】

(摩訶止観は)久遠の過去より仏の道の標であり、未来も窮まりなく絶えることもない御法だと聞くよ。

 

【考】
題文の前後を含めた内容を素直に歌とし、永遠の仏道の標としての『摩訶止観』を讃嘆する。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


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一日一書 1699 寂然法門百首 49

2021-07-10 14:26:34 | 一日一書

 

一句染神微劫不朽


 
露ばかり衣にかくる玉よりぞ三世まで照らす光そふなる
 

半紙


 
【題出典】『天台法華疏記義決』六・末


 
【題意】  一句をも神に染むれば、微劫に朽せず

(経文の)一句でも心の染めれば、永遠に朽ちない。


 
【歌の通釈】


ほんのわずか露のように衣の裏にかかる玉(わずかに染めた経文)から、過去・現在・未来の三世まで照らす光が発せられるのだ。

 

【考】

わずかな経文の文句をも心に染めれば、それは永遠に消えることはなし。そしてそれは悟りを求める菩提心となる。これを、小さな露のような玉が永遠の光を発する景により表現した。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


▼仏典だけではなく、聖書にしても、あるいは、文学作品にしても、その本の一節の「言葉」が、どれだけぼくたちを救ってくれることだろう。そのことを、しみじみと思います。

 


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