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日本近代文学の森へ 227 志賀直哉『暗夜行路』 114  「理解する」ということ  「後篇第三  十二」 その5

2022-09-19 09:56:00 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 227 志賀直哉『暗夜行路』 114  「理解する」ということ  「後篇第三  十二」 その5

2022.9.19


 

 前回の「性欲」に関するぼくの「読み方」に、呆れた人も多かったのではないかと思う。で、もう一度、その部分を引用しておく。

 

 結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。しかし何よりも悪いのはやはり自分だと彼は思った。自制出来ない悪い習慣──そういって自身いつも責任を逃がれる気はないが、もしかしたら祖父からの醜い遣伝から自分は毎時(いつも)、裏切られるのだ。そんな気も彼はするのであった。何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。これから本統に慎み深い生活に入らなければ結局自分は自分の生涯をそのため破滅に導くような事をしかねない。そして結婚後は殊にこの事は慎まねばならぬ。そう考えた。彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した。

 

 「自制できない悪い習慣」「何しろ慎もう」「今日のことは今日のことだ」「結婚後は殊にこの殊は慎まねばならぬ」と、しつこいほどに書いていることに関して、ぼくは、「この『悪い習慣』とは、具体的にはどういうことなのかがよく分からないが、おそらく『性的な妄想』のことだろう。それしか考えられない。」なんて書いて、さらに、「目の前に直子の姿を見て、ああこの女とはやく性的な交渉をしたいと、そればかり思ってしまうということだろう。」と想像している。そして、「『何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。』と反省する謙作。そんなに悩むこともないだろうにと思うのだが」と、アタマの中が「分けが分からん」状態であることを、まあ、ある意味「率直」に書いている。

 この一連のぼくの「感想」を読んだ、中学以来の旧友が、次のようなメールをくれた。いちおう本人には転載の許可をもらっている(と思う)ので、長いが引用しておく。

 

 そうか、洋三はこういうふうに読んでるのか、と、とても腑に落ちた。
 「悪い習慣」は、妄想のような、そんな目で女を見るだけのことではなくて、じっさいに女を、冒頭の芸者屋であれこれ見ていた女たちのような女を、ただ性欲だけで、買って抱いて、性欲を晴らすことだと思ってた。妄想だけで済むようなことだとは、まったく思ってなかったのね。だから、きみの読み方でストンと腑に落ちなかったことが、すべて腑に落ちる気がしてる。
 直子が美しいかどうかではなくて、直子がみにくく見えるところは、直子を美しく見ていない謙作を、実際行動に移さずにはおかない性欲に蔽われている謙作を描いてると、ぼくは思い、それ以外の読み方をしていなかった。直子を美しくみている謙作は、直子との結婚で性欲から救われるという希望にあかるく輝いてる謙作なのね、ぼくが読んでいたのは。
 天網島で河庄の場面は、いいなづけの直子がそこにて見ているにもかかわらず、性欲に振り回されて、女房のおさんでなく、性欲をぶつける相手の小春と沈んでいく治兵衛に、じぶんの未来が重なるようで不安な、性欲に押しつぶされそうな謙作が、いつもの予定どおりの結末に向かって好演する「此役者」にすら暗い未来を見てしまうところが描かれてると思って、それ以外の読み方をしてなかったんだよね。天網島の粗筋紹介で舞台描写を済ませないところはさすがに20世紀の小説、とおもってた。
 どうじに、「慎もう」なんて言葉は、自慰に悩む男子高校生とか放蕩三昧の真面目な若旦那とか、その類いしか使わない言葉遣いだと思って、謙作の、この真剣な性欲の見方は、中学・高校のころのぼくのような、性欲を大変なことと考える子どもの真剣さを、青年になっても持ちつづけている、大変な・純粋な・正面切った「性」意識を描いてるんだろうなあ、と感じ入ってたのね。
 だからこそ、「彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した」のに、そのあとの結婚までの一週間、またも女を買いに行ったのか、とはらはらして読み出したら、きょうのところと、さらに、そのつぎの場面「南禅寺の裏から疎水」にそって2人並んで歩く、きみのいう、「映像」には決してならない天上の明るさに満たされたシーンで、読者のぼくも謙作と直子のように結婚前のしあわせを実感できると、読んでいました。
 じつは、上記「だからこそ」までを書いていたときは、半分きみの読み方があってる、と思い、半分は、ぼくの読みでも通るかも、と、半々でしたが、「南禅寺の裏」からを書いていたら、この場面の、ほとんど清らかな幸福感は、ぼくのように読んだほうが強く感じられるのでは、と思えてきました。
 次回を読んで、出したほうがいいメールだといま、おもってるのですが、こういうときは、読者の答案を先に送っておいたほうが公平だなと考え直して、いま出します。

 


 このメールを読んで、あんなに「分からなかった」ことが、すっきり分かった気がして、まさに「腑に落ちた」。というか、ぼくの読み方があまりに幼稚なので、穴があったら入りたくなったといったほうがいい。このメールの文章を読んだ後では、「ぼくの読み方」がまったく「間違っている」としか思えないし、事実間違っているのである。

 近ごろ、もう一人の旧友が、「遺伝論理」と「共感論理」についてさかんに書いている(こちら参照してください)のだが、いわゆる「論理的な理解」を求められる数学やら科学の世界では、「正解」は一つしかないが、文学などの「共感的な理解」を求められる世界では、決して「正解」は一つではない。そして世の中の大部分のことは、じつは「共感的な理解」によって成り立っているのだということを力説しているのだが、それは、ぼくも大いに共感するところだ。

 世の中の出来事を、「理解」しようとするとき、自分がどのようなことを経験してきたかということがおおいに影響するわけで、経験したことがないことには、「共感」しようがないけれども、それでも、小説などを読んで得た「疑似経験」(旧友はその言葉を使っていなかったが)とでもいうべきものによって、ある程度の「共感」を得ることはできる。しかし、その「経験」やら「疑似経験」が、それぞれ人によって異なるわけだから、その「共感」は、人によって違ったものとなるだろう。つまり「正解」は一つではないわけである。

 しかし、今回の事例の場合、「女を買う」などといった経験がまったくない人間には、「慎まねばならぬ悪い習慣」が、「それ」だとはすぐには気がつかない。そうすると、「妄想」だの「自慰」だのといったレベルで落ち着いて「理解」したような気になってしまう。それでも、古今東西の小説をちゃんと読んだという「経験」があれば、実際の経験がなくても、そのくらいの想像はつくはずなのに、そこが「分からない」というのが「幼稚」だというのだ。いくら文学の世界は「正解は一つじゃない」といっても、「間違った読み」はあるわけで、これじゃ、岩野泡鳴だの、吉行淳之介だの、さんざん読んできた意味がないじゃないかと、しばらく、反省しきりであった。

 しかし、それにしても、この長い長い「暗夜行路を読む」シリーズを、毎回根気よく読んでくれて、適切なコメントを送ってくれる旧友がいるということは、なんというありがたいことだろうか。読書会をやっているように楽しい。恥ずかしい思いをしても、楽しい。

 さて、しかし、少しだけ言い訳もしておきたい。

 冒頭に引用した部分のさらに前はこういう文章である。

 

 舞台では「紙屋治兵衛」河庄(かわしょう)うちの場を演じていた。謙作は何度もこの狂言を見ていたし、それにこの役者の演じ方が毎時(いつも)、余りに予定の如くただ上手に演ずる事が、うまいと思いながらも面白くなかった。そして彼は何となく中途半端な心持で、少しも現在の自身──許婚(いいなずけ)の娘とこうしている、楽しかるべき自身を楽しむ事が出来なかった。彼はむしろ現在眼の前にいる直子を見、二タ月前の彼女を憶い、それが同一人である事が不思議にさえ思われた。
 直子は淋しい如何にも元気のない顔つきをしながら、舞台に惹き込まれている。ぼんやりした様子が謙作にはいじらしかった。が、同時に彼自身、どうにも統御出来ない自身の惨めな気分を持て余していた。
 彼は努めて何気なくしていた。しかし段々に今は一秒でもいい、一秒でも早くこの場を逃れ出たいという気分に被われて来た。こういう事は彼に珍らしい事ではなかったが、場合が場合だけに彼は一層苦しい一人角力(ひとりずもう)を取っていた。お栄との結婚の予想が彼を一時的に放蕩者にしたように、此度もまた、多少病的にそうなった事が、彼を疲らし、彼の神経を弱らし切っていたのだ。
 芝居のはねたのはもう晩かった。戸外には満月に近い月が高くかかっていた。彼は直ぐ皆と別れ、籠を出た小鳥のような自由さで一人八坂神社の横から知恩院の方へ歩いて行った。とにかく一人になればいいのであった。知恩院の大きな山門は近よるに従って、その後ろに月が隠れ、大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。

 


 この文章に直接続くのが、冒頭に引用した部分である。「知恩院の大きな山門は近よるに従って、その後ろに月が隠れ、大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。」のすぐ後に、段落を変えて、「結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。」と続くのである。

 何が言いたいのかというと、ここには大きな「省略」があるということである。「(知恩院の)大きな山門は真黒に一層大きく眺められた。」とあるが、「その後」謙作はどこへ行ってなにをしたのかが、「まったく」書かれていない。書かれていない以上、想像するしかないわけだが、直ぐにその後に「結婚の第一歩がこんなにして始まった事は」云々と、自省の言葉が出てくるので、想像する時間がないままに、まあ、家に帰ったんだろうな、なんて思ってしまうわけである。だから「今日のことは今日のことだ」なんて、大げさなことをどうして言うのだろうという疑問につかまったりするわけだ。

 おまけに、「とにかく一人になればいいのであった。」の一文があることで、この後、馴染みなんだかどうだか知らないが、遊郭に行ったなんて、想像できない。しかも、謙作が京都に住むようになってから、一度として遊郭に出かけたという記述は出てこない。これがたびたび出てきたのなら、ああ、あそこへ行ったのかとすぐに分かるのだが。と、まあ、愚痴もいいたくなるわけだが、とにかく、肝心なことを志賀直哉は書かない。何故なんだろうか。読者に想像してもらいたいということではないだろう。むしろ、ここまで書いたんだから、あとは、何をしたかは、よほどトンチンカンなヤツでなければ誰だってわかるはずだということなのだろう。

 ぼくのようなトンチンカンやなヤツには「暗夜行路」を読む資格はない、というところがほんとうのところだが、それにしても、先に引いた旧友の文章は見事である。「河庄」の部分の読み方なんて、そんじょそこらの批評家の書ける文章じゃない。もっとも彼は、「そんじょそこらの批評家」を遙かに超えた立派な学者なんだから、当然といえば当然なのだが、この「読みの深さ」には頭がさがる。

 思えば、高校時代に突然「文転」して以来、文学的教養に欠けるぼくも、こうした友によって「文章読解力」も徐々に鍛えられてきたのだが、それも実に遅々たる歩みであったことをつくづく思い知る。國分功一郎の「いつもそばには本があった」という本では、「いつもそばに本がある」ことの大切さとともに「いつもそばには友がいた」ことの大切さが強調されていた。まことに宜(むべ)なるかな、である。

 


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一日一書 1724 寂然法門百首 72

2022-09-14 14:01:51 | 一日一書

 

志楽於静処

 

事しげき世をのがれにし深山辺に嵐の風よ心して吹け
 

半紙

 

【題出典】『法華経』従地湧出品

【題意】 志楽於静処

静かなる処を志し楽(ねが)いて

(地湧の菩薩は)静かなところを求めて、(多くの人がいる騒がしい所を避ける。)


【歌の通釈】
煩わしい世間を遁れてきた深山の辺に、嵐よ、私の行を妨げぬよう心して吹け。

【参考】
夏衣まだひとへなるうたたねに心して吹け秋の初風(拾遺集・秋・一三七・安法法師)


【考】
前歌同様、地湧菩薩のように、俗世間から離れて山林に住み、閑寂の中で修行しようという決意の歌。この歌は、題しらずとして、『新古今集』の雑部に入っている。当百首を出典としながら、釈教部に入るものと、その他の部に入るものとが分かれる現象は、『千載集』にも見られた。(63番歌参照)。また、『拾玉集』巻五散文にこの題文が引かれる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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木洩れ日抄 90  アタマのいい人にはかなわない

2022-09-08 10:18:24 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 90  アタマのいい人にはかなわない

2022.9.8


 

 アタマのいい人にはかなわないなあとよく思う。ぼくは、アタマが悪いから、はんぶん嫉妬が入っているけど、やっぱり、現代思想なんかの本を読んで、ドゥルーズはこう言ってるけど、まあ、あれは、あれだから、みたいに軽くしゃべることができる人って、心底うらやましい。

 もっとも、そういうふうに、なんでも知ったふうに軽やかにしゃべるからといって、その人がアタマがいいのかどうかも実は分からないし、そもそもアタマがいいってどういうことなのかもよく分からない。けれども、山田詠美の「ぼくは勉強ができない」じゃないけど、「ぼくはアタマが悪い」ことは、断言できる。

 先日、仕事の関係で、國分功一郎と千葉雅也の対談「言語が消滅する前に」(幻冬舎新書 2021)を読んでいたら、千葉雅也のこんな発言があって、びっくりしてしまった。千葉雅也が詩をよく書いているし好きだということが話題になったあと、國分が「いま聞いてて思ったんだけど、千葉君って、あんまり小説の話はしないよね。」と言ったことへの発言である。

 

 小説、苦手なんです。というか、人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人のあいだにトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラプルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いているから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

 

 國分は、「ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね。」と笑いながら、「千葉君が言ってるのは、いわゆる近代小説のことだよね。」と確認した。千葉は「そう。近代小説じゃなくて、もっと実験的な小説とかもっと古いやつだったら、僕も面白いと思う。」と応じていた。
それにしても、アタマがいい奴にはかなわないなあと、その時、つくづく思ったわけである。

 もっとも、千葉は、この本の「あとがき」で、「この箇所は一種のユーモアとしての誇張的な言い方なので、ギョッとする読者もいるかもしれない。その後、小説に対する考えはある面では変わり、ある面では変わっていない。人間ドラマのただなかに、現代詩にも似た抽象的な幾何学を見出すことができるようになった、と言えるかもしれない。それは、人間の愚かさを描くことを受け入れないままで受け入れるような、奇妙な弁証法である。小説はすばらしい、だからいつか書きたいと願っていて書くに至ったのではない。小説に対する、僕なりに根本的だと思う違和感を通して、小説とは何かという問い自体を含む小説を書くことになった。だからその経緯を残している。」と補足している。

 調べてみると、彼の書いた小説は、芥川賞候補にもなっている。よけいかなわないなあと、またまた嘆息である。

 千葉は要するに、言葉は「もの」だと思っていて、その言葉を使って、作品を構成することのできる詩というものが魅力だということらしいのだ。しかし、「近代小説」ときたら、もう、バカのオンパレードで、アタマさえよければ避けられる人間関係のトラブルをえんえん追いかけている。そんなものは読む必要なんかないんだ、と、まあ、そんなところだろう。

 だからたとえば、岩野泡鳴の小説なんか、おそらく1ページだって読めないだろうし、最近では、惜しくも亡くなってしまった西村賢太の小説なども、1ページ読んだだけで(読んだらの話だが)、すぐに放り投げてしまうに違いない。

 彼は、小説に対する考えは「ある面では変わり、ある面では変わっていない。」と言っているが、その二つの「ある面」とは何だろうか。その後の言葉から推測すれば、小説でも「抽象的な幾何学」を描けるようになったという行為の面では変わり、「近代小説」がバカな話ばかりだという認識の面では変わっていないということだろうか。彼の書いた小説を、一度読んでみたいと思う。

 「幾何学」と言えば、スタンダールの影響を受けた大岡昇平が、恋愛心理をまるでチェスの駒を動かすように描きたい、だか、描いただか、そんなことを言っていたのを思い出す。そういう小説なのだろうか。

 しかし「変わった」のか「変わってない」のか知らないけど、いったい「魂のステージ」って何だろう? いったいどこからこんな言葉がとび出てきたのだろうか。なにやら怪しい宗教の匂いすら漂う「魂のステージ」って、何? 対談だからとっさに出た半分冗談なのだということかもしれないが、それにしても奇っ怪な言葉である。

 別にそんな言葉を持ち出さなくても、「もしすべての人がアタマがよくなれば、トラブルは起きない」でいいのではないか。で、そのことに関しては恐らく千葉は「変わってない」に違いない(と思う)。「あとがき」では、「人間の愚かさを描くことを受け入れないままで受け入れるような、奇妙な弁証法である。」と、アタマの悪いぼくにはさっぱり分からないことを言っているのだが、結局は、「人間は所詮バカなんだという前提では書かないぞ」ということだろう。

 まあ、いずれにしても、書きたいように書けばいいわけだが、バカなぼくでも、言っておきたいことはある。

 人間というものが愚かなものだということは、「前提」などではなく、「事実」なのである。事実だからしょうがないのである。ぼくは、人間が愚かなものだということを「前提」としてものを考えたり書いているのではなくて、事実として愚かであり、バカであるぼくという人間が、考えたり書いたりしているだけのことである。

 ぼくはバカだから、日々人間関係においてトラブルを起こしているのである。むしろ、日々の人間関係でトラブルのない人間なんて、この世に存在するはずもないとさえ思っている。存在するとしたら、それこそ「魂のステージ」が「特上」の天使みたいな存在だろう。

 ぼくはバカだから、「人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくという」近代小説が、「アホらしくてしょうがない」どころか、「おもしろくてしょうがない」し、生きて行くうえでとても役にたっている。まさに「おもしろくてタメになる」わけである。しかし、いくらタメになったところで、それを生かすこともできずに、またぞろ人間関係の泥沼に足を突っ込んでいることに変わりはない。

 別に変に卑下しているわけでもなく、いじけているわけでもない。これは、ぼく個人の問題にとどまらず、人間はバカだということは、人間の歴史そのものが証明してきたところだし、いまもまさに証明されつつあることだ。

 そのバカな人間が、人間関係のトラブルに巻き込まれながらも、懸命に生きている。その様を、岩野泡鳴も西村賢太も、懸命に描いている。そこに、えもいわれぬ「哀愁」が漂うのだ。その「哀愁」こそが、文学の本質であろう。

 アタマのいい人が書く小説は、おそらくその「哀愁」が描けないだろう。もっとも、「哀愁」は、作品そのものに「内在」するというよりも、読む人のアタマのなかに生じるものだろうから、千葉雅也の小説を読んで、ぼくが「哀愁」を感じない保証はない。やっぱり、読むしかないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 226 志賀直哉『暗夜行路』 113  人間の「美しさ」とは何か?  「後篇第三  十二」 その4

2022-09-05 17:32:18 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 226 志賀直哉『暗夜行路』 113  人間の「美しさ」とは何か?  「後篇第三  十二」 その4

2022.9.5


 

 結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。しかし何よりも悪いのはやはり自分だと彼は思った。自制出来ない悪い習慣──そういって自身いつも責任を逃がれる気はないが、もしかしたら祖父からの醜い遣伝から自分は毎時(いつも)、裏切られるのだ。そんな気も彼はするのであった。何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。これから本統に慎み深い生活に入らなければ結局自分は自分の生涯をそのため破滅に導くような事をしかねない。そして結婚後は殊にこの事は慎まねばならぬ。そう考えた。彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した。


 「見合」のとき見た直子が自分が思っていたほど美しくなかったということはあったが、謙作は芝居を見ている最中に、「性欲の発作」に襲われる。もちろん、志賀直哉は「性欲の発作」なんて下品な言葉を使っていないが、それを抑えることができずに、「どうにも統御出来ない自身の惨めな気分」になるのだ。

 それは更に尾を引いて「自制出来ない悪い習慣」と書き続ける。この「悪い習慣」とは、具体的にはどういうことなのかがよく分からないが、おそらく「性的な妄想」のことだろう。それしか考えられない。目の前に直子の姿を見て、ああこの女とはやく性的な交渉をしたいと、そればかり思ってしまうということだろう。そのことを、謙作は、深刻にとらえる。「結婚の第一歩」がこんなことでは「幸先が悪い」と思うわけだが、それは自身への反省に導く。そしてそれは、あの忌むべき祖父からの「醜い遺伝」なのだとまで思うに至るのだ。どこまでも、祖父の「性的放縦」が謙作の身に蛇のようにまとわりついて離れない。

 「何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。」と反省する謙作。そんなに悩むこともないだろうにと思うのだが、自身の性欲にどこまでも敏感で、それ故に、なんとかしてそれを抑制しなければならないという思いで一杯になる。そして、結婚後に、自分にも祖父のような「醜い遺伝」によってとんでもない過ちを犯すことは絶対にあってはならないと決心するのだ。

 そういえば、最近読んでいる西村賢太の絶筆となった小説「雨滴は続く」は、この「性欲」の問題を、「問題化」することもなく、とにかく、真正面からぶつかっていく「私小説」だ。志賀が「反省」しているのが「妄想という悪い習慣」だとしたら、その「妄想」だけで、数百ページ書いてしまうという凄まじさだ。その西村を根本から脅かすのは、志賀のいう「醜い祖父」どころか、性犯罪で刑務所に入っていたという父の影だ。上流階級の典型のような志賀直哉と、社会の底辺に生きる西村賢太だが、結局、人間というのは、どうにも愚かしいものである。だからこそ面白い。
それにしても、結婚当初から、こんな思いにとらわれるなんて、思えば謙作も気の毒な男である。

 

 彼が直子と結婚したのはそれから一週間ほどしてからであったが、その前一度直子ら親子三人が彼の寓居を訪ねて来た事がある。曇った寒い日の午後だった。仙が台所で何か用事をしている時で、彼は石本と信行に出す端書を出しに二、三町ほどある、ボストまで出かけて行くと、彼方(むこう)から歩いて来る親子三人を遠くから見た。母だけ一足後れに、直子は先に立った兄にその大きな身体(からだ)を寄添うようにして何か快活に喋っている所だった。見違えるほど美しく、そして生々して見えた。謙作は心の踊るのを覚えながら立止まって待った。

 


 思ったほど美人じゃなかった直子が、こんどは「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」印象的なシーンである。

 美人とか美人じゃないとかいうけれど、生きている人間は、時に美しく、時に醜い。写真は、その「美しい」瞬間を切り取ることができるが、現実の人間には「瞬間」というものはない。流れていく川のようなものである。ドラマや映画でも、人間の美しさが際立つ場面があるが、それも「瞬間」ではなくて、「流れ」として認識される。

 しかし、小説のこうした場面は、映像とはまったく異なった印象を与える。写真のように切り取られた「瞬間」でもなく、映画のような「流れていく映像」でもない。それはおそらく「映像」ですらない。

 「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」直子は、その「瞬間」において捉えられているのではなく、最初に見たあの時から、謙作の勝手な妄想を経て、初めて相対した「見合」にいたり、そこでがっかりして、その挙げ句、よこしまな妄想に苦しめられたという謙作の心理的なプロセス全体を「すべて」包含して目の前に現出している「直子」である。

 うまく言えないが、言葉によって表現される小説と、映像によって表現される写真や映画とは、「まったく違う」表現なのだということだ。


 謙作も至極気持が自由だったし、万事気持よく行き、皆、愉快そうにしていた。仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。謙作は久しく出した事のない手文庫の写真──亡き母、同胞、母の両親、お栄、その他学校友達などの──を出して見せたりした。


 ここに「女主人公」という言葉が出てくるが、以前、謙作のことを「主人公」と書いてあることを問題としたが、やはり、ここでは「女のご主人さま」という意味となることが分かる。

 それにしても、「仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。」という描写は、仙という女の可愛らしさをさっと一筆で描きだしていて、感心する。「焦っていた」が効いている。

 

 

 


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