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日本近代文学の森へ (86) 徳田秋声『新所帯』 6 淋しい新吉

2019-01-28 17:28:26 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (86) 徳田秋声『新所帯』 6 淋しい新吉

2019.1.28


 

 なんだかんだといっているうちに、婚礼の晩となった。新吉は、床屋に行って、それから湯屋に行く。こんなところも、落語を聞いているようだ。こういう一種の生活上のルーティンというのがきちんとあるということはすごく羨ましい。落語を聞いていて心地よいのも、そうしたルーティンを踏まえてリズミカルに話が進んでいくからだろう。

 新吉は貧しくて、ケチだけど、その生活を見てみれば、案外豊かだともいえる。婚礼の晩だから特別なのかもしれないが、床屋に行って、湯に行って、帰ってくると、「婆さん」がいる。婚礼の晩でなくても、「婆さん」はそこにいて、夕食を作ってくれるはず。新吉は長火鉢の前に座って、莨を呑むくらいの余裕はあるのである。現代の男には、そんな余裕はない。下手をすれば、夕食を作ってはもらえても、皿洗いはしなけりゃならないかもしれないし、莨は禁止されているかもしれない。第一どっかと座る長火鉢がない。


 三時過ぎになると、彼は床屋に行って、それから湯に入った。帰って来ると、家はもう明りが点(つ)いていた。
 新吉は、「アア。」と言って、長火鉢の前に坐った。小野は自分の花嫁でも来るような晴れ晴れしい顔をして、「どうだ新さん待ち遠しいだろう。茶でも淹れようか。」
「莫迦(ばか)言いたまえ。」新吉は淋しい笑い方をした。


 ここにも「淋しい」が出てくる。それは、この婚礼への支出がかさむからではない。もっと、深いところからくる「淋しさ」だ。新吉がもし、大店のボンボンだったら、婚礼の前に「淋しさ」など感じることはないだろう。祝福してくれる親や親戚、友人などに囲まれて、人生でももっとも華やかな時間を過ごすことになるだろう。けれども、せっかくの婚礼なのに、新吉はここで使ってしまう金が惜しくてならない。惜しいというよりは、そんなことを惜しがらねばならない自分が悲しいのに違いない。

 小野にむかって、君とは違うんだと言った新吉の言葉には、そうした悲しさ、悔しさが滲み出ていた。小野には、そんな新吉の気持ちは分かろうはずもなく、自分のほうが浮かれている。


 するうち綺麗に磨き立てられた台ランプが二台、狭苦しい座敷に点(とも)され、火鉢や座蒲団もきちんとならべられた。小さい島台や、銚子、盃なども、いつの間にか、浅い床に据えられた。台所から、料理が持ち込まれると、耳の遠い婆さんが、やがて一々叮寧に拭いた膳の上に並べて、それから見事な蝦や蛤を盛った、竹の色の青々した引物の籠をも、ズラリと茶の室(ま)へならべた。小野は新聞紙を引き裂いては、埃の被らぬように、御馳走の上に被せて行(ある)いていた。新吉は気がそわそわして来た。切立ての銘撰の小袖を着込んで、目眩しいような目容(めつき)で、あっちへ行って立ったり、こっちへ来て坐ったりしていた。
「サア、これでこっちの用意はすっかり出来揚(あが)った。何時(なんどき)おいでなすってもさしつかえないんだ。マア一服しよう。」と蜻蛉の眼顆(めだま)のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。
「イヤ御苦労御苦労。」と新吉もほかの二人と一緒に傍に坐って、頭を掻きながら、「私(あっし)アどうも、こんなことにゃ一向慣れねえもんだからね……。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
 新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚(みより)の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕ぎつけて来た、長い年月の苦労を思うと、迂廻(うねり)くねった小径をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火(ともしび)が、風もないのに眼先に揺いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。


 新吉の淋しい笑いをよそに、狭い部屋がたちまち宴会場へと変わっていく。テキパキとした描写は、まるで、舞台の転換をみているようだ。小野が新聞紙をご馳走の上にかぶせていく様など、細かいところが実に生き生きと描かれている。その小野が「蜻蛉の眼顆(めだま)のように頭を光らせながら、小野は座敷の真中に坐った。」なんて、それまでの小野の新聞紙をかぶせる姿が、池の面に卵を産み付ける蜻蛉のように見えてきて、笑ってしまう。こんなに見事な文章というのは、そうめったにお目にかかれるものではない。

 ケチで偏屈な新吉だが、このあたりにくると、なんだかいとおしくなってくる。新吉の「淋しさ」は、「この晴れ晴れしい席に、親戚(みより)の者と言っては、ただの一人もない」ことからも来ているのが分かってきて、かわいそうになるからだ。そしてそれ以上に、新吉の思いが切なく胸を打つ。

 ケチであろうが、偏屈であろうが、コツコツと努力して苦労して、曲がりなりにも商売を続けてきた。そして、なんとか、自分の金で婚礼もできるところまでこぎ着けた。こういった長い苦労の上の達成感は、やはり、いつの時代でも胸を打つものがある。昨日優勝した玉鷲のように。

 「花のような自分の新妻が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。」──新吉は、いっとき、夢をみたのだ。このときばかりは、婚礼費用のことなど、頭のなかからはすっかり消えていたことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 


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