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2019-01-19 14:58:57 | 一日一書

 

 

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日本近代文学の森へ (82) 徳田秋声『新所帯』 2 荒涼とした新婚生活への予感

2019-01-19 10:08:29 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (82) 徳田秋声『新所帯』 2 荒涼とした新婚生活への予感

2019.1.19


 

 酒屋仲間の和泉屋の言葉に、新吉はすぐには乗らなかった。不安だったからである。

 新吉はすぐには話に乗らなかった。
「まだ海のものとも山のものとも知れねいんだからね。これなら大丈夫屋台骨が張って行けるという見越しがつかんことにゃ、私(あっし)ア不安心で、とても嚊(かかあ)など持つ気になれやしない。嚊アを持ちゃ、子供が生れるものと覚悟せんけアなんねえしね。」とその淋しい顔に、不安らしい笑みを浮べた。

 「雪深い山国育ち」の割には、話す言葉は江戸っ子っぽい。

 ここで気になるのは「淋しい顔」という表現だ。この後、何度か出て来るのだが、ここまでの記述を見るかぎり、田舎から出てきて、一生懸命働いてきた若い新吉に「淋しい顔」というのは、しっくりこない。その「淋しさ」はどこからくるのだろうか。注目したいところだ。

 新吉は不安だったが、、やっぱり女房をもらう「必要」があると考えた。


 けれども新吉は、その必要は感じていた。注文取りに歩いている時でも、洗湯(せんとう)へ行っている間でも、小僧ばかりでは片時も安心が出来なかった。帳合いや、三度三度の飯も、自分の手と頭とを使わなければならなかった。新吉は、内儀(かみ)さんを貰うと貰わないとの経済上の得失などを、深く綿密に考えていた。一々算盤珠(そろばんだま)を弾いて、口が一つ殖(ふ)えればどう、二年経って子供が一人産れればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極めをつけて、幾年目にどれだけの資本(もと)が出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。
 三月ばかり、内儀さんの問題で、頭脳(あたま)を悩ましていたが、やっぱり貰わずにはいられなかった。
 お作はそのころ本郷西片町の、ある官吏の屋敷に奉公していた。
 産れは八王子のずっと手前の、ある小さい町で、叔父が伝通院(でんずういん)前にかなりな鰹節屋(かつぶしや)を出していた。新吉は、ある日わざわざ汽車で乗り出して女の産れ在所へ身元調べに行った。


 その「必要」はどこにあったのかが、きちんと書かれている。要するに手が足りなかったのだ。懸命に働くばかりで、女郎買いなどしている様子もみえないから、そっちの「必要」ではなさそうだ。

 それにしても、いろんな人間がいるものだ。この新吉という男は、どこまでも、計算ずくで、まず結婚の経済上の特質を綿密に考えたとうのだから、驚く。

 驚く、というのは、ぼくが結婚したのは、新吉とほぼ同じ23歳のときだったが、そういうことは「いっさい」考えなかったからだ。新吉と違って「恋愛結婚」だったからと言ってしまえばそれまでだが、「一々算盤珠を弾いて、口が一つ殖(ふ)えればどう、二年経って子供が一人産れればどうなるということまで、出来るだけ詳しく積って見た。」というようなことは、まったく考えも及ばないところだった。

 「貧乏人のお坊ちゃん」と言われたぼくだとしても、少しは、「経済」のことも考えるべきだったのだろうが、一年教師を務めただけで、ほとんど貯金もないのに、結婚生活を始めてしまった。やっぱりいつも父が「オマエは極楽とんぼだ」と嘆いていたのも宜なるかな、である。

 新吉は違う。こういう人こそ「苦労人」というのだろう。何から何まで、自分で考え、先の先まで計算する。「一年の店の利益、貯金の額、利子なども最少額に見積って、間違いのないところを、ほぼ見極めをつけて、幾年目にどれだけの資本(もと)が出来るという勘定をすることぐらい、新吉にとって興味のある仕事はなかった。」というあたりを読んで、ああ、こういう仕事への興味の持ち方もあるのか、社会に出て、会社を興すとかいった人たちの関心はこういうところにあったのかと今さらながら納得した。

 新吉のような「苦労人」にとっては、結婚もまた愛だの恋だのという問題ではない。経済優先だ。いつも「金」が頭をいっぱいにしている。結婚するからには、相手の方の経済状態やら家柄が気になる。普通なら仲人役の和泉屋が調べてくるのだろうが、新吉は自ら身元調査に出かけるのだ。

 「八王子のずっと手前の、ある小さい町」とあるが、いったいどこだったのだろう。日野とか豊田とかいったあたりだろうか。


 お作の宅(うち)は、その町のかなり大きな荒物屋であった。鍋、桶、瀬戸物、シャボン、塵紙、草履といった物をコテコテとならべて、老舗と見えて、黝(くろず)んだ太い柱がツルツルと光っていた。
 新吉はすぐ近所の、怪しげな暗い飲食店へ飛び込んで、チビチビと酒を呑みながら、女を捉えて、荒物屋の身上(しんしょう)、家族の人柄、土地の風評などを、抜け目なく訊き糺(ただ)した。女は油くさい島田の首を突き出しては、酌をしていたが、知っているだけのことは話してくれた。田地が少しばかりに、小さい物置同様の、倉のあることも話した。兄が百姓をしていて、弟が土地で養子に行っていることも話した。養蚕時には養蚕もするし、そっちこっちへ金の時貸しなどをしていることも弁(しゃべ)った。
 新吉自身の家柄との権衡(けんこう)から言えば、あまりドッとした縁辺(えんぺん)でもなかった。新吉の家(うち)は、今はすっかり零落しているけれど、村では筋目正しい家(いえ)の一ツであった。新吉は七、八歳までは、お坊ちゃんで育った。親戚にも家柄の家(うち)がたくさんある。物は亡くしても、家の格はさまで低くなかった。
 けれど、新吉はそんなことにはあまり頓着もしなかった。自分の今の分際では、それで十分だと考えた。


 「権衡」とか「縁辺」とか、聞いたこともない言葉が出て来る。「権衡」とは「はかり」のことで、つまりは「つりあい」ということだ。「縁辺」とは、「婚姻による縁続きの間柄。親族。」という意味。「ドッとした」というのも耳馴れないが、「たいした」ぐらいの意味だろう。

 新吉としてみれば、自分の家柄はたいしたものじゃないけれど、それでも「筋目正しい家」だというプライドがある。だから、八王子の方の田舎の荒物屋が、多少の財産めいたものがあったにしても、「家の格」からすれば、釣り合いがとれないというわけだ。

 けれども、新吉は、そんなことには頓着しなかった。自分は裸一貫家を飛び出してここまできたが、「家の格」なんてことをいえた「分際」ではないと自覚しているわけだ。それで、いわば、妥協したのである。

 それにしても、新吉がお作のことを「怪しげな暗い飲食店」で「チビチビ酒を呑みながら」細かいことまで聞き出す姿というのは、なんとも嫌な感じである。

 この「嫌な感じ」というのはどこから来るのだろうかと考えてみると、どうも作者の書きぶりからくるのだと思い当たる。「チビチビ酒を呑む」というのは、新吉が大酒飲みではないことを意味する以上に、新吉のケチ、辛気くささを意味するように思える。一合ほどの酒を頼んで、最低限のつまみで(つまみもなかったかもしれない)、ちょっとずつ呑んで時間をかせぎ、その間に、女から「抜け目なく」聞き出す。この「抜け目なく」も嫌な感じ。

 そして、お作の出自やら、家の経済状態やらを把握したうえで、まあ、これぐらいがオレにはお似合いだと考える思考回路が、なんというか、自己肯定感が低さを示していて、それが新吉の「淋しさ」の原因なのかもしれない。

 見た目はシュッとしたイケメンなのに、心根は、ケチくさく、抜け目ない新吉。働きものだけど、金のこと、商売のことで頭がいっぱいの新吉。嫁をもらうにしても、その嫁を、働き手であと同時に、経済的な損失のリスクを伴う存在、さらには、それ以上の経済的なリスク(つまり子ども)を生み出す可能性のある存在として意識する新吉。

 徳田秋声は、そんなふうにこのたった25歳の淋しげな若者を描き出してみせる。読んでいて、心が躍らない。ワクワクしない。これに比べたら花袋の『田舎教師』なんて、心は躍らないけど、どこかロマンチックな夢にあふれている。その夢がはかなく破れていくけれど、そこには「青春」の片鱗がある。『蒲団』にしても、背徳的だけれど、女弟子に夢中になってしまう中年男の妄想には、それなりの「夢」がある。しかし、この徳田秋声が描く若者には、「夢」のかけらもない。あるのは、ただ、どこか荒涼とした「生活」ばかりである。この二人の「新婚生活」とはいかなるものであろうか。

 

 

 

 

 

 

 


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