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日本近代文学の森へ 288 志賀直哉『暗夜行路』 175 「非常な努力」 「後篇第四 十九」その1

2025-08-24 13:17:00 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 288 志賀直哉『暗夜行路』 175 「非常な努力」 「後篇第四 十九」その1

2025.8.24


 

 謙作は、とうとう登山を断念して、寺へ帰ってきた。その姿に、お由は驚いた。


 彼は十時頃、漸(ようや)く寺へ帰って来た。よく途中で、参ってしまわなかったと思うほど、彼は疲切っていた。玄関の板敷で赤児を遊ばせていたお由が、入って来た謙作の様子を見、謙作に声をかけるよりも、驚きから、「お母ァさん、お母ァさん」と家の中に向って、大声に呼立てたほど、謙作の様子も顔色も悪かった。
 寺の上さんも驚いた。直ぐ離れに寝かせたが、熱が高く三十九度── 暫くすると、それが四十度に昇った。頭を氷で冷す一方、直ぐ麓の村へ医者を呼びにやり、ついでにその使に京都への電文を持たせてやった。それは謙作が譫言(うわごと)にたびたび直子の名を呼んだからでもあった。


 ここで注目しておきたいのは、前の章(十八)の記述が、ほぼ謙作の視点で書かれているのに対して、この章は、視点は謙作をやや離れて、第三者の視点になっているようだということだ。この「視点」の問題というのは、小説にとっては非常に重要な問題で、一般には「一人称視点」「三人称視点」というように区別される。実験的な作品では「二人称視点」も使われることがあるが、まあ、あんまりない。(多和田葉子の作品にあった。)

 「一人称視点」を厳密に守るとなるとけっこう大変で、主人公(「私」でも「彼」でもかまわないが)の見た光景しか書けないことになる。当然、他人の心の中は書けない。「ぼくは彼女が好きでたまらない。でも、彼女がぼくのことをどう思っているか分からない。」というような書き方になる。

 いっぽう「三人称視点」は、別名「神の視点」とか「全知視点」とか呼ばれているとおり、誰の心の中も書くことができる。「彼は彼女が死ぬほど好きだ。しかし、彼女は彼のことなどまるで眼中になかった。」なんてことが平気で書ける。つまり「作者」あるいは「語り手」は、「神」の位置にいるから、なんでも知っているのだ。

 ふつうの小説は、この二種類の視点が、入り交じっていることも多く、そのあたりが小説を読むおもしろさでもあるのだ。

 いわゆる「私小説」では、当然のことながら、「一人称視点」で書かれる。ただ誤解しちゃいけないのは、「一人称視点」だからといって主人公が「わたし」とか「ぼく」とかいった一人称で示されるわけでは必ずしもないということだ。例えば田山花袋の『蒲団』は、「私小説」だと言われているが、「わたし」ではなく「渠(かれ)」が主人公の人称として使われている。

 で、この『暗夜行路』はというと、主人公は「謙作」と呼ばれ、それは作者である志賀直哉と同一人物ではない。だから「私小説」ではないのだが、その多くの部分では、「謙作」は限りなく「志賀直哉」に近い人物となっていることもあり、それゆえに、『暗夜行路』は、「自伝的小説」と呼ばれることもあるわけだ。その辺が、微妙で、またおもしろいところだ。

 ここでの「視点」に注目すると、「よく途中で、参ってしまわなかったと思うほど、彼は疲切っていた。」という部分では、「彼」を「私」に置き換えても問題ない。「よく途中で、参ってしまわなかった」というのは、謙作の思いであり、それは「第三者」が知り得ないことだからだ。だからここの「彼」は「私」でもいいのだ。

 しかし、その謙作を見たお由が、驚いたあと家の中に向かって大声で叫んだ部分で、「謙作の様子も顔色も悪かった。」というのは、明らかに第三者(ここでは「お由」)から見た(つまり視点)光景である。寺の上さんが、医者を呼びにやったり、直子への電文を持たせたりした、とか謙作が譫言で直子の名を呼んだ、という記述もみな「三人称視点」で書かれているのである。この辺に注意したい。

 さて、医者はどうなったのか。


 村の医者が来たのは夜八時過ぎだった。上さんとお由とはそれまで幾度(いくたび)、戸外へ出て見たか知れない。日が暮れると、ほとんど人通りのない所で、それが、いつもと全く変りない静かな夜である事が、あたかも不当な事ででもあるように二人には腹立たしかった。要するに二人とも、親切者には違いなかったが、女二人だけの所で、もし謙作に死なれでもしたら大変だと思うのだ。とにかく、早く医者に来てもらい、この重荷を半分持ってもらいたい気持で一杯だったから、提灯と鞄を持った使を先に、巻脚絆草畦穿(まききゃはんわらじば)きという《いでたち》の年寄った小さな医者の着いた時には、二人の喜び方は一卜通りではなかった。


 この部分では、「語り手」は、上さんとお由に入りこんで、その心の中を書いている。二人とも親切者には違いないが、謙作が重荷で、はやく厄介払いをしたいのだ、という分析は、謙作のものではないだろう。謙作は意識不明ではないが、うつらうつらしているという状態だ。ここは、「語り手」が(まあ、志賀直哉といってもいいが)、それが、上さんとお由の心の中をするどく剔っているということになる。親切と見える人たちの心の中にもエゴイズムがあるということを、志賀は見逃さないのだ。


 「先生が見えましたよ。もし! 先生が見えましたよ」
 先に一人走って来たお由が、彼の枕元に両手をつき、顔で蚊帳を押すようにして、亢奮しながら、こう叫んでも、謙作は薄く眼を開いただけで、何の返事もしなかった。しかし医者が入って来て、容態、経過を訊ねた時には、声は低かったが、案外はっきりそれに答えていた。鯛の焼物──五、六里先から、夏の盛に持って来るのだから、最初から焼いてあるのをまた焼直して出す、──それが原因らしいという事は、側(そば)に寺の者のいる事を意識してか、少し曖昧にいっていた。医者は一卜通りの診察をした後、特別に腹のあちこちを叮嚀に抑え、「此所(ここ)は……?」「此所は……?」と一々訊ねて痛む場所を探した。結局急性の大腸加多児(かたる)で、その下痢を六神丸で無理に止めたのがいけなかったと診断した。そしてヒマシ油と浣腸で悪いものを出してしまえば、恐らく、この熱も下がるだろうといった。下痢の事は使の者に聞いていたので、医者はそれらを鞄の中に用意していた。
 浣腸はほとんど利目(ききめ)がなかった。ヒマシ油の方が三、四時間のうち利くだろうし、とにかくそれまでこの離れにいて見よう、出た物を調べる必要もあるからという医者の言葉だったので、寺の上さんは早速医者と使いの男へ出す、酒肴の用意をするため、庫裏の方へ行った。
 「何をされる方ですね」
 医者は次の間へ来て胡坐(あぐら)をかき、其所(そこ)に置いてあった既に冷えた茶を一口飲んで、お由に訊いた。
 「文学の方(ほう)をされる方ですわ」
 「言葉の様子では関東の人らしいな」
 「京都ですわ」
 「京都? ほう、そうかね?」
 医者とお由がこんな話をしているのを謙作はそれが自分とはまるで関係のない事のように聴いていた。
 「……どうですやろ」小声になってお由が訊くと、医者も一緒に声を落し、
 「心配はない」と答えた。

 


 医者が来たということを興奮して叫んでも、謙作は返事をしなかったというのは、先ほどの「分析」が謙作のものであったかもしれないとの思いを抱かせるが、どうなんだろうか。謙作の心のうちを書かないのは、やはり「三人称視点」だからだろう。

 それにしても、鯛の焼物だったとは! 20キロも遠くから、暑い盛りにおそらく歩いて運んできたのだろうから、刺身じゃなくても傷むのは当然かもしれない。

 「大腸加多児」という病名は今では使われていないが、このころの小説にはときどき出てくる。今で言えば「感染性腸炎」あたりだろうか。


 謙作は半分覚めながら夢を見ていた。それは自分の足が二本とも胴体を離れ、足だけで、勝手にその辺を無闇に歩き廻り、うるさくて堪らない。眼にうるさいばかりでなく、早足でどんどん、どんどん、と地響をたてるので、やかましくて堪らない。彼は二本の足を憎み、どうかして自分から遠くへ行かそうと努力した。夢という事を知っているから、それが出来ると思うのだが、足はなかなか自分のまわりを離れてくれない。彼の考えている「遠く」というのは靄(もや)の中、──しかも黒い靄で、その中に追いやろうとするが、それは非常な努力だった。段々遠退いて行く、遠退くにつれ、足は小さくなって見える、黒い靄が立ちこめている、その奥は真暗な闇で、其所まで、足を歩かせ、闇に消えさせてしまえば、それを追払えると思うと、もう一卜息、もう一卜息という風に力を入れる、それには非常な努力が要った。そして、一っぱいにそれが張ったところで、ちょうど張切ったゴム糸が切れて戻るように、消える一歩手前で、足は一遍にまた側へ戻って来る。どんどん、どんどん、前と変らずやかましい。彼は何遍でもこの努力を繰返したが、どうしても、眼から、耳から、その足を消してしまう事は出来なかった。
 それからの彼はほとんど夢中だった。断片的には思いのほか正気のこともあるが、あとは夢中で、もう苦痛というようなものはなく、ただ、精神的にも肉体的にも自分が浄化されたということを切りに感じているだけだった。
 翌朝早く年とった医者は帰り、代りに午頃、食塩注射の道具などを持った余り若くない代診が来たが、その時は、熱は下がったが下痢するものが米の磨汁(とぎじる)のようで、手足の先が甚(ひど)く冷え、心臓の衰弱から、脈が分らない位になっていた。大人の急性腸加多児としては最も悪い状態で、代診はもしかしたらコレラではないかと心配していた。とにかく、早速強心剤の注射、それと食塩注射。太い針を深く股に差し、ポンプで徐々に食塩水を流込むのだが、その部分だけが不気味に脹れあがり、謙作は苦痛から涙を出していた。

 


 不思議な夢だ。二本の足だけが勝手に体を離れてどんどん行ってしまう。自分の周りでうるさい地響きをたてる。闇のなかで、その足を追い払おうとするのだが、それには「非常な努力」を要した。

 この「非常な努力」という言葉が深く印象に残る。謙作の一生は、この一言に尽きるとさえ思えてくる。謙作のまわりでやかましい音をたてる二本の足。どうしても追い払えない二本の足。それは、自分の足だが、自分から分離していった足だ。その足を消し去りたい。その足から自由になりたい。その一心で、謙作は「非常な努力」を、「もう一卜息、もう一卜息」と頑張ってきたのだ。

 そんな中、直子がやっと到着する。

 いよいよ、この小説の本当の最後だ。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 287 志賀直哉『暗夜行路』 174 大山の影 「後篇第四 十八」その3

2025-08-22 12:35:55 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 287 志賀直哉『暗夜行路』 174 大山の影 「後篇第四 十八」その3

2025.8.22


 

 さて、いよいよ山登りだ。そして、この長い長い小説のほんとうのクライマックスだ。


 山登の連(つれ)というのは大阪の会社員たちで、大社詣の帰途(かえり)、この山に寄った連中だった。謙作は二、三時問の昼寝で睡気の方はよかったが、昼飯に食った鯛にあたったらしく、夕方烈しい下痢をして、妙に力が脱け、元気がなかった。どうしようかちょっと迷ったが、六神丸(ろくしんがん)を定量の倍ほど呑んだら、どうやらそれも止ったので、やはり思い切って出かける事にした。


 のっけから不穏な状況だ。「鯛にあたった」というが、刺身だったのだろうか。「六神丸」というのは、漢方薬だが、江戸時代から使われていて、今では改良されたものが売られている。調べてみると、「身体がだるくて気力が出ないようなときや、暑さなどで頭がボーッとして意識が低下したり、めまいや立ちくらみがしたときの気つけにもすぐれた効果を発揮します。」(救心製薬HP)とある。食中毒には効き目がないのだ。脱力感があったので、飲んだのだろうが、まあ、昔はこんな感じだったのだろう。定量の倍というのも、乱暴な話だ。


 十二時頃寺を出た。提灯を持った案内者は五十近いおやじだった。会社員たちは若かったが、彼らは一週間の休暇を出来るだけ享楽したい気持で、殊更(ことさら)元気だった。洋服に地下足袋、それから茶代返しに違いない小さなタウルを首に巻き、自然木の長い金剛杖をてんでについていた。
 「おっさん、その一升瓶を破(わ)らんように気をつけてや。おっさんにも御馳走(ごつつお)するさかいな」
 こんな事を後ろから大声にいう者があった。
 「何遍いうのや。そんなに心配なら、自分で担(かつ)いで行け」
 「お前らも飲むものを一人で担いで行けるか。阿呆」
 皆(みんな)が元気なだけ、謙作はその夜の自分の体力に不安を感じた。一緒に行って途中で自分だけ弱る事を考え、負けまいと意地張る事でなお苦しい想いをし、同年輩という事、そして自分だけが関東者だという事で下らぬ競争意識など持ちかねないと思うと不安を感じた。
 「山にはもうよほど久しゅうおいでですか」肩を並べて歩いていた男が話しかけた。
 謙作が一人別だという事を気の毒に思うらしく、この男はつとめて対手(あいて)になるようにしているらしかった。
 「半月ほどいます」
 「よう厭(あ)きられんですな。この山に二日凝然(じつ)としれいわれても私どもには、よう我慢でけまへんな」
 前に歩いていた太った男が、振返り、
 「聞かしとるな。うまいこと惚気(のろけ)とるぞ。──この男は旅行に出た晩から、帰りたがっとるです。最近、彼は妙齢の婦人と結婚したであります」といって、大きな声で笑った。
 「こらッ」その男も仕方なく、照れ隠しに太った男の背中を強く平手で叩いた。

 


 この会社員たちは、地元の連中なのか、あるいは大阪あたりから遊びに来たのか、関西弁が効果的だ。ただ、最後の「帰りたがっとるです」「結婚したであります」といった「です」「あります」という言い方は、確か、山口あたりの言葉じゃなかったろうか。調べてないのでよく分からない。

 ここで、ちょっとびっくりするのは、「会社員たちは若かった」と書いてあるから、謙作は、「もう若くない」のかと思っていると「同年輩ということ」と出てくることだ。そうだ、謙作は、妙にジジクサイけど、まだ「若い」のだ。

 この謙作の年齢については、すでに本多秋五がこんなことを書いている。

 

 『暗夜行路』を読んで、一番気になるのは主人公の年齢である。時任謙作が読者の前に登場したときほぼ二五歳だとすると、彼が伯耆大山へ出かけるのはそれから五年目のことだから、ほぼ二九歳ということになる。伯耆大山の時任謙作がほぼ二九歳の青年だなどとは誰も思わないだろう。(中略)伯耆大山の謙作が老けすぎて見えるばかりではない。謙作は小説の発端からしてすでにその気味がある。(岩波新書「志賀直哉」)

 

 「時任謙作年譜」を作った阿川弘之も、この文章を引用して同意して、こんなふうに書いている。

 

 私もさう思ふ。年代不整合の問題と同じくらゐ、これは気になる問題である。吉原の引手茶屋へ仲の町の一流芸者を呼んでの堂々たる遊興ぶり、女たちや行きずりの人々に対する謙作の口のきき方、浮世絵の蒐集、美術品鑑賞に窺へるその方面の眼識、いづれを取っても、二十五、六の青年のものとは考へにくい。
(「時任謙作年譜」)

 

 で、どうして大山登山の謙作がこうもジジクサイかというと、どうも、この最終あたりを書いていた時の志賀直哉が、「暗夜行路」を書き始めたころ(30歳)より大分年をとってしまっていた(54歳)ため、その年齢が謙作の年齢に無意識的に反映してるんじゃないかといったようなことを阿川は言っている。

 まあ、それならしょうがないが、確認しておきたいのは、この大山登山の時の謙作の年齢は、30歳であるということだ。

 その謙作が、激しい食あたりで、元気をなくしているとはいえ、「同年輩」の若いサラリーマンたちの心情とはあまりにかけ離れていることは、ちょっと違和感もあるが、謙作がこれまで苦しんできたことを思うと、そのくらい精神的に老けたってしょうがないとも思える。

 「妙齢の婦人と結婚した」若いサラリーマンと、謙作の対比は、見事で、謙作の孤独の輪郭を際立たせている。同年輩ゆえに、彼らへの対抗意識、そして関西人に負けまいとする意地。そんなことはくだらないとわかっていても、なんだか、張り合ってしまう謙作は、そういう自分の性格にも不安を感じてしまうのだ。

 

 竹さんがよく仕事をしていた場所から十町ほど進むともう木はなく、左手は萱(かや)の繁った山の斜面で、空は睛れ、秋のような星がその上に沢山光っていた。路傍(みちばた)に風雨に晒(さら)された角材の道しるべが少し傾いて立っていた。それが登山口で、両方から萱の葉先の被(お)いかぶさった流の底のような凸凹路(でこぼこみあち)を、皆は一列になって、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、お山は晴天(せいてん)」こんな事をいいながら、身体を左右に振りながら登って行った。前に四人、後(うしろ)に二人いると、皆(みんな)と同じ速さで歩かないわけにゆかず謙作は、段々疲れて来た。彼はそれでも我慢して登るつもりであったが、少し不安になった。一時間ほど登ると大分高い所へ来感じがした。夜でもそれが分った。そしてその辺で、とにかく、一卜休する事にした。
 謙作は疲れた。気持にも身体にももう張りがなかった。これ以上同じ速さで皆について行く事は到底出来そうに思われない。彼は案内者に、
 「身体が本統でないから、私は此所(ここ)から帰る。二時間ほどすれば、明くなるだろうし、それまで此所で休んでいる」といった。
 「そうですか。それはいけませんな」そういって案内者は、「どんな具合ですか」と訊(き)いた。
 謙作は大した事ではなく、ただ、下痢のあとで、体力が衰えているだけ故、心配せずに残していってくれといった。
 「さあ、それにしても、どうしたらいいかね」
 「本統に心配しなくていいんだ。遠慮せずに登って下さい」
 「我慢出けまへんか。──なあ君、まだ大分(だいぶん)あるんかね」
 「今の倍以上登らんなりませんな」
 「降りる方はいいが、これ以上登るのは自信がない。どうか心配しないで残していって下さい」
 皆が慰めるような事をいうのに一々答えるのも少し億劫(おっくう)になった。結局、彼一人残る事になったが、謙作への遠慮か、暫くして皆は黙り勝ちに登っていった。謙作は用意して来たスエーターを着、それを包んで来た風呂敷を首に巻き、そして路から萱の生えた中へ入り、落ちつきのいい所を探して、山を背に腰を下ろした。彼は鼻で深い息をしながら、一種の快い疲れで眼をつむっていると、遠く上の方から、今登って行った連中の「六根清浄、お山は晴天」という声が二、三度聴えて来た。それからはもう何も聴えず、彼は広い空の下に全く一人になった。冷々した風が音もなく萱の穂を動かす程度に吹いていた。

 


 謙作は、とうとう、ひとり取り残された。連れの若者たちが、どんどん遠ざかっていく様子が、実に見事に描かれている。特に、最後の「彼は鼻で深い息をしながら」から最後までの二文は、名文というしかない。

 そして、ここからは、それ以上の名文が続く。

 「暗夜行路」が話題になるとき、きまってこの部分の「大自然に溶け込む感じ」が取り上げられるが、今回、数十年ぶりに読んでみて、いいしれない感動を感じた。

 いろいろメンドクサイ、どうでもいいようなことがゴチャゴチャ書かれ、途中で放り出したくなる「暗夜行路」だが、そこを乗り越えて進んできたのは、まさに「ここ」を読むためだったのだと深く納得されるのだ。他を読まずに、ここだけ読んでも、ある程度の感動は得られるだろうが、「いろいろあったからこそ」のこの「境地」なのだと深く理解できれば、味わいもまたひとしおである。

 

 疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然というのは芥子(けし)粒ほどに小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、── それに還元される感じが言葉に表現出来ないほどの快さであった。何の不安もなく、睡(ねむ)い時、睡(ねむり)に落ちて行く感じにも多少似ていた。一方、彼は実際半分睡ったような状態でもあった。大きな自然に溶込むこの感じは彼にとって必ずしも初めての経験ではないが、この陶酔感は初めての経験であった。これまでの場合では溶込むというよりも、それに吸込まれる感じで、或る快感はあっても、同時にそれに抵抗しようとする意志も自然に起るような性質もあるものだった。しかも抵抗し難い感じから不安をも感ずるのであったが、今のは全くそれとは別だった。彼にはそれに抵抗しようとする気持は全くなかった、そしてなるがままに溶込んで行く快感だけが、何の不安もなく感ぜられるのであった。
 静かな夜で、夜鳥(よどり)の声も聴えなかった。そして下には薄い靄(もや)がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。しかし、もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはないと思った。しかし永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。
 彼は膝に臂(ひじ)を突いたまま、どれだけの間か眠ったらしく、ふと、眼を開いた時には何時か、四辺(あたり)は青味勝ちの夜明けになっていた。星はまだ姿を隠さず、数だけが少くなっていた。空が柔かい青味を帯びていた。それを彼は慈愛を含んだ色だという風に感じた。山裾の靄(もや)は晴れ、麓の村々の電燈が、まばらに眺められた。米子(よなご)の灯(ひ)も見え、遠く夜見ヶ浜(よみがはま)の突先(とっさき)にある境港(さかいみなと)の灯も見えた。或る時間を置いて、時々強く光るのは美保の関の燈台に違いなかった。湖のような中(なか)の海はこの山の陰になっているためまだ暗かったが、外海(そとうみ)の方はもう海面に鼠色の光を持っていた。
 明方の風物の変化は非常に早かった。少時(しばらく)して、彼が振返って見た時には山頂の彼方から湧上るように橙色(だいだいいろ)の曙光(しょこう)が昇って来た。それが見る見る濃くなり、やがてまた褪(あせ)はじめると、四辺(あたり)は急に明るくなって来た。萱(かや)は平地のものに較べ、短く、その所々に大きな山独活(やまうど)が立っていた。彼方(あっち)にも此方(こっち)にも、花をつけた山独活が一本ずつ、遠くの方まで所々に立っているのが見えた。その他(ほか)、女郎花(おみなえし)、吾亦紅(われもこう)、萱草(かんぞう)、松虫草(まつむしそう)なども萱に混って咲いていた。小鳥が啼きながら、投げた石のように弧を描いてその上を飛んで、また萱の中に潜込んだ。
 中の海の彼方から海へ突出(つきだ)した連山の頂(いただき)が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島(だいこんじま)にも陽が当り、それが赤鱏(あかえい)を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟(けむり)が所々に見え始めた。しかし麓の村はまだ山の陰で、遠い所よりかえって暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰られて来た。地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。

 


 「自然との融合」ということはよく言われ、そうした体験をした人も多いのだろうが、正直なところ、ぼくにはそうした体験はない。中学生以来、山にもよく行ったし、昆虫採集で野山を駆け巡ったものだが、それはまた別の体験で、自然はあくまで「対象」であって、その中に、溶け込んでいくとか、吸い込まれていくとかいった感じをしみじみと味わったことはなかったのだということを、この部分を読んで、改めて知ったといっていい。

 「暗夜行路」は、人間関係でいろいろ悩んだ主人公は、最後は大山に登って「自然との融合」を感じて救われた話だよと、簡単に要約してしまってはいけないのだ。

 

 静かな夜で、夜鳥(よどり)の声も聴えなかった。そして下には薄い靄(もや)がかかり、村々の灯も全く見えず、見えるものといえば星と、その下に何か大きな動物の背のような感じのするこの山の姿が薄く仰がれるだけで、彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏出したというような事を考えていた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。しかし、もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはないと思った。しかし永遠に通ずるとは死ぬ事だという風にも考えていなかった。

 


 「もし死ぬならこのまま死んでも少しも憾(うら)むところはない」と謙作が思うのは、謙作の「自我」に劇的な変化があったからだろう。いつも「不快」と「快」の間で不安定な自我、どこまでも自己中心的な自我、いったん癇癪を起こすと妻だって列車のホームから突き落としてしまうといった始末に負えない自我、そういう自我をもてあまし、なんとか生まれ変わりたいと思ってやってきた大山で、謙作は、やっとその重苦しい自我が、まるで靄のように自然の中に溶け出していくのを感じたのではなかったか。

 では、その「自我」はどこへ行ったのか。それは分からない。謙作は、この後、直子の元に帰って、見違えるように生まれ変わった姿を見せることができたのかは分からない。ただ、謙作の「自我」は、この部分の最後に現れる、「大山の影」がそれを象徴しているように、今のぼくには感じられる。

 

 


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日本近代文学の森へ 286 志賀直哉『暗夜行路』 173 誤読の顛末 「後篇第四 十八」その2

2025-07-21 09:32:55 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 286 志賀直哉『暗夜行路』 173 誤読の顛末 「後篇第四 十八」その2

2025.7.21


 

 いやはや、とんでもない誤読をするものであると、我ながら呆れている。前回、いちおう赤字で誤読でしたという旨を書き入れておいたが、なんだかゴチャゴチャしてしまったので、改めて書いておきたい。

 問題は、謙作が郵便脚夫から電報を受け取ったとき、ドキッとして、こう思ったという記述だ。

 

 謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。

 

 友人のHは、ここを読んですぐに、「居所が分からず」の「居所」を謙作の居所、つまりは手紙や電報の宛先となる住所のことだと理解したわけだ。それなのに、ぼくは、「居所」を「自殺した直子の居所」だととってしまい、この連想のあり方に驚かされる、なんて書いているので、そりゃないでしょ、と直ぐに電話をくれたというわけだ。

 ちなみに、このHという友人は中学以来の友人で、我が家からあるいても15分ほどのところに住んでいる。専門は心理学なのだが、文学好きで、この「志賀直哉を読む」も毎回アップするとすぐに読んでくれて、「誤植」を指摘してくれるありがたい存在である。

 その彼の指摘を聞いて、彼は、君のような読み方もあるかもしれないけれどと、控えめに言ってくれたのだが、話しているうちに、ぼくのとり方は、とんでもない勘違いであることが鮮明になった。というか、なんかここ変だよなあと頭の中が混乱しながらも、強引に感想を書いてしまった居心地の悪さが、ああ、そもそもがオレの勘違いだったんだと、スッキリしたといった方がいいだろう。

 しかし、それにしても、勘違いどころか、言葉をまったく理解してないいうレベルだ。「居所」とは、今さら辞書で調べるまでもないことだが、「住んでいるところ」「住まい」「住所」という意味なのだから、「遺体の居所」なんて表現があるわけがない。まったく呆れるほかはない。

 それなのに、どうしてそんなアホな誤読をしてしまうのか。これは、ぼくの根本的な欠陥なのだが、ものすごく思い込みが激しいというか、前後関係を把握する能力に乏しいというか、記憶力がないに等しいというか、そういうものの「集大成」だといえば、それでオシマイだが、まあ、それはそれとして、未練がましいことをいえば、ここを読んだとき、直子が謙作が今住んでいるところを知らないはずはない、という「思い込み」があったということだろう。

 Hも電話で、直子が謙作の「居所」を知らなかったという記述はどこかにあるのか? と言っていたが、改めて調べてみると、謙作が直子に手紙を書いたのは、この前の一度きりで、今ここに着いたとか、今はここに落ち着いているとかいった手紙は一切書いていないのだ。今では考えられないことだが、直子は、だから謙作の「居所」を謙作の最初の手紙が来るまでまったく知らなかったのだ。

 直子はすぐに謙作に返事を書いたのだろうが、しかし、その返事が届くには数日かかるだろう。謙作はきっと返事を待ちわびているだろうと思って、とりあえず電報を打ったのだ。その電報がかえって、一瞬、謙作を不安に陥れ、「自殺」まで考えさせることとなった。

 で、結局、ぼくの「誤読」の原因というのは、「居所」という言葉の意味をちゃんと捉えることができなかったという超基本的な読解力の欠如と、直子は謙作の「居所」を知っていたはずだという根拠を無視した思い込みの二つだということになる。

 この連載も、あと2回というところまでやっとこぎ着けたのに、またぞろこんな誤読で、古井由吉のいう「綱渡り」をやってしまった。これに懲りずに、もう少しだけ、お付き合いください。

 


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日本近代文学の森へ 285 志賀直哉『暗夜行路』 172 「自分のこと」がいちばん分からない 「後篇第四 十八」

2025-07-20 15:13:33 | 「失われた時を求めて」を読む

日本近代文学の森へ 285 志賀直哉『暗夜行路』 172 「自分のこと」がいちばん分からない 「後篇第四 十八」その1

2025.7.20


 

 山登りは延期になり、数日が経った。竹さんの家の状況は分からないし、竹さん自身の消息も分からない。謙作は竹さんのいないことを淋しく思ったが、とにかく、山登りの連れを他に探してもらうことにした。


 謙作は竹さんの帰るのを待って山登りをしようと思っているのではなかったが、竹さんとの約束が駄目になると、つい億劫な気持で、延していたが、こう天気続きで今度降り出すとまた降り続きそうにも思われ、今の間に山登りをしてしまおうと思った。そして帰ると、彼は早速寺のかみさんに山の案内者を頼んだ。
 「連れはどうでもいいから、なるべく、明日の晩という事にして下さい」
 「そうですか? 一人に一人の案内人は無駄なようにも思いますが、天気が変ると、あの時出かければよかったというような事になるかも知れませんからね。……まあとにかく、案内人の都合を訊合(ききあ)わして見ましょう。いいお連があるかも知れないし」
 「そうして下さい」
 庫裏の土間に立って、二人がこんな事をいっている所に、戸外(そと)から巻脚絆に草鞋(わらじ)穿きの若い郵便脚夫が額の汗を拭きながら入って来た。彼は尻餅をつくように框(かまち)に腰を下ろし、紐で結んだ一卜束の手紙を繰り、中から二、三通の封書を抜きとり、其所(そこ)へ置いた。
 「どうも御苦労さん。今日あたりは《えらい》だろうね。お茶がいいかね。水がいいかね」
 「水を頂きましょう」
 「砂糖水にしようか」
 「すみません」
 謙作は郵便脚夫が手紙の束を繰る時、ちょっと眼で直子の字を探したが、勿論まだ返事の来るはずはなかったので、
 「それじゃあ、連があってもなくても、なるべく明日の晩という事にして下さい」台所へ行く上さんにこう声をかけ、自分のいる離(はなれ)の方へ引還そうとした。
 「そうそう」
 郵便脚夫は急に何か憶い出した風で、上着のボケットを一つ一つ索(さぐ)って、皺(しわ)になった電報を取出すと、「ええと……時任さんは貴方(あなた)ですね」といった。
 謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。
 「お宅からですか?」コップを載せた盆を持って出て来た上さんがこういった。その如何にも暢気(のんき)な調子が謙作を一層不安にした。
 「オフミハイケン、イサイフミ、アンシンス、ナオ」
 「ありがとう」謙作は郵便脚夫に礼をいい、無意識にその電報をいくつにも畳みながら、自分の部屋へ還って来た。
 何故、そんなにドキリとしたか自分でもおかしかった。彼は電報の返事を全然予期しなかった事が一つ、それに手紙を出してしまうと、もっと早くそれをいってやるべきだった、というような事をこの二、三日切(しき)りに考えていた、更に竹さんの家(うち)の不快(いや)な出来事が彼の頭に浸込んでいた、その聯想が電報で一遍に彼の頭に閃いたのだ。何れにしろ、馬鹿気た想像をしたものだと彼は心に苦笑したが、「とにかく、これでよし」と、彼は急に快活な気分になった。そして何度か電報を読み返した。

 


 直子への手紙を出してから、謙作はとくにそこのことについてそれほど心配しているふうでもなかったが、郵便脚夫から電報を渡されると、ドキッとして、「直子が死んだ」と思った。

 このあたりの書き方にはびっくりする。

 ドキッとして、すぐに「直子が死んだ。」と思ったのは、渡されたのが電報だったからだ。電報というのは、やっぱりドキッとする。それはごく普通の反応だ。

 しかし、それに続けて「自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」と断定するところがすごい。「自殺」はいいとしても(別によくはないが)、その後の、「居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」というのは、ずいぶんと飛躍した推測だ。自殺は、すぐに、川への身投げか、海への入水か、とにかく、遺体が見つからないという状況を連想する。その連想のあり方に驚かされるのだ。

 そして「彼は自分の動悸を聴いた。」と続く。「自殺だ」→「やっと遺体が発見されたのだ」→「ドキドキした」となるわけだが、それをいっさいの心理的描写を抜きにして、妄想的断定を書いた後に、自分の身体の動揺を書く。それを、将棋の駒でも置くように、ポンポンと並べる。

 

と、こう書いて、最初はアップしたのだが、アップしてすぐに友人から電話があり、そりゃおかしいんじゃないかとの指摘があった。「自殺して、遺体がなかなか発見されなかった」というんじゃなくて、「居所」というのは謙作の住所のことで、それが分からなかったから、「今まで知らすことができなかった」のであって、謙作からの手紙が来たので、やっと「居所=謙作の住所」が分かって、電報がきたのだ、ということじゃないか? ってことだった。

まさにその通りだ。なんで「居所」を、直子の「遺体」だと思ったのだろうか。まったくとんでもない勘違いだ。友人の指摘が正しい。で、この辺を全面的に書き直そうと思ったけど、以前にも、こういうぼくの勘違いがあったので、まあ、そのまま残しておこうと思った。そういうわけで、この部分でのぼくの「驚き」は、勘違いからくる「驚き」であることを確認しておきたい。

「Yoz Home Page」に収納するときは、この部分は修正したいと思います。

 

 そうしておいて、「コップを載せた盆を持って出て来た上さん」を登場させて、「お宅からですか?」と暢気な調子でしゃべらせる。その「暢気な調子」が「謙作を一層不安にさせた」と書く。このような対比的な書き方で、謙作の不安をいっそうあおることになる。

 しかし、その後の謙作の動作や心理の描写をいっさいしないで、いきなり電報の文面を示す。ここがまた尋常じゃない。

 不安になりながら、おそるおそる電報の文面に視線を投げる。その謙作の目に飛び込んでくる言葉。この一連の流れの中に、いくらでも心理的動揺を示す表現を入れることができるのに、それを志賀はしない。完全に空白にする。

 思えば、それこそが現実なのかもしれない。現実というのは、あっという間に襲ってきて、ぼくらを呆然とさせる。そこに心理的な表現の入る余地はないのだ。

 電報を「無意識にいくつにも畳みながら」部屋に戻った謙作は、そこではじめて、自分のこころの動きを反芻して、「苦笑」することになる。なんで謙作は、いきなり「自殺」とか、「遺体が見つからない」とかいった連想をしたのかが、ここで明かされるわけだ。竹さんの事件が、そういう連想を生み出したのだと、謙作は納得する。「とにかく、これでよし」として、「急に快活な気分になった」謙作は、電報を何度か読み返す。電報を読み返す謙作の姿に、謙作の安堵がいたいほど感じられるのだ。


 その晩、彼は蚊脹の中の寝床を片寄せ、その側(そば)に寝そべって、久しぶりに鎌倉の信行に手紙を書いた。彼は自分がこの山に来てからの心境について、細々(こまごま)と書いてみるのだが、これまでの自分を支配していた考が余り空想的であるところから、それから変化した考も自分の経験した通りに書いて行くと、如何にも空虚な独りよがりをいっているようになり、満足出来なかった。そういう事を書く方法を自分は知らないのだとも思った。そしてそれよりも直子かお栄の手紙で自分の旅立ちを知り、心配しているかも知れない信行を安心さすだけの手紙を書く方がいいと思い直し、五、六枚書いた原稿紙の手紙を二つ折りにして、傍(わき)のポート・フォリオヘ仕舞込んだ。

 〈注〉ポート・フォリオ=書類入れ。(ずいぶん、ハイカラな言い方を使っていたものだ。)

 

 謙作は信行に手紙を書く。信行にはこの旅について、なにも言ってなかったのだ。その手紙を書きながら、「自分の経験した通りに書いていく」と、それが「空虚な独りよがり」を言っているような気がして満足できない。そして謙作は、こう思う。「そういう事を書く方法を自分は知らないのだ」と。

 ここは、非常に大事なところだ。「そういうこと」とは、つまりは「自分の心境」だ。自分の気持ちがどうであって、そこからどう変化して、今に至るかという経緯は、ほんとうなら、謙作自身が一番よく知っているはずだ。それなのに、それを「経験した通りに」書いていくと、どうも違うなあという気持ちになる。満足できない。そして「そういう事を書く方法」を自分は知らないのだというのである。

 これは痛切な述懐で、志賀直哉自身、そのことを充分承知したうえで、その方法を探り続けていたのではないだろうか。『暗夜行路』が、いわゆる「私小説」とは一線を画しているのは、その故であろう。といって、「私小説」が、この方法に無自覚であったとは言えないとも思うのだが、その辺の研究は山ほどあるのだろう。

 この小説を書くことの根本的な問題について、古井由吉が、講演でこんなふうに語っている。


本来小説は、書き手が熟知というか、ほんとうによく知っていることを書く、これがあるべき姿ですよね。それこそ筆も豊かになるし、展開も力強く、細部も満ちる。日本で、明治三十何年に自然主義が発生したときに、人はそういうふうに考えた。自分がよく知っていることを、偽りや虚飾なく書くと。そこからいつのまにか私小説というものが出てきて、日本の文学の主流みたいになる。自分がよくよく知っているのは「自分のこと」だから、自分のことをありのまま、虚飾なく書くことが文学のまことだ、そういう論理なんです。でも、この論理に落とし穴があることはわかるでしょう。自分のことが、いちばんわからないんですよね。
それでも仮に、自分のことは、ほかのことに比べればつぶさに知ってると、そういうところから出発しましょう。で、書きはじめますね。書いてるうちに、どうも自分が考えたことと文章が違う、そういう疑惑にとりつかれる。これが最初のつまづきです。ところが、これがまた逆転するんですよ。一所懸命書いてると、文章のほうに、文章としての現実味が出てくる。それに照らしあわせて、自分が思っていたこと、自分が自分について知っていたことは、はたしてそうなんだろうかと、逆に自分の知っていたつもりのことに疑問をいだきだす。思っていることは書いていることに、もちろん影響を与えるし、書いたことがまた跳ねかえって、思っていたことを揺するんですね。いままで思いこんでたものが、書いてみると違った光で見えてくる。これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。
小説の終わりというものは、ある程度のキャリアを経れば、書いてるうちにおのずから興奮はあるでしょう……絶望の興奮ってやつかな、それに疲れもたまってくる。疲れと興奮のないまぜになったものに悼さして、わあっと駆けこむ。ぽとりと落とす。

 

「読むこと、書くこと」(平成十四年六月二十二日早稲田大学第一文学部文芸専修課外講演会/「早稲田文学」平成十四年九月号)『書く、読む、生きる』草思社文庫・2025年刊所収

 

 

 この古井由吉の文章は、そのまま『暗夜行路』という小説の格好の解説となっているように思える。

 「自分のこと」がいちばん分からない、という認識は、志賀の根底にあったと思う。だから時任謙作という主人公を設定し、そこに「自分のこと」を注ぎ込んだのだが、書けば書くほど分からなくなってくる。そのうち、古井のいう「逆転」が起きて、「文章のほうに、文章としての現実味が出てくる」といった事態が生じる。それと「自分」をどう重ね、どう離れるか、といった難題に苦しんだ結果が、完結までの26年ということではなかっただろうか。とにかく、『暗夜行路』の結末は、「これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。」がぴったりくるのであって、古井は、ここを『暗夜行路』を頭において書いたんじゃないかと思われるほどである。この文章は、『暗夜行路』の最終章で、ふたたび参照できるかもしれない。


 「もうおやすみですか」と襖の外から声をかけ、寺の上さんが顔を出した。丁度いい連(つれ)があり、明晩十二時頃から頂上行きをするからと、それを知らせに来たのだ。
 「どうもありがとう。そうしたら、明日はせいぜい朝寝をするから、戸を開けないようにして下さい。昼寝が出来ないから、なるべく寝坊をしておくのです」
 「承知しました」寺の上さんはなお、敷居際に膝をついたまま、声を落し、「それはそうと、竹さんのお上さんはとうとう死んだそうですよ」といった。
 「そうですか。…•••そしてその男の方は?」
 「男の方は助かるかも知れないという……」
 「それから、竹さんの事は何か聴きましたか」
 「その竹さんですが……殺した奴が覗(ねら)いはしないかと皆大変心配しているそうですわ」
 「変な話だな。殺した奴はまだ捕まらないのですか」
 「そうなんです。山へ逃げ込んだらしくてね」
 謙作は不快(いや)な気がした。
 「しかし竹さんを覗う理由は何にもないじゃありませんか。そんな馬鹿な事はないでしょう」
 「そんな奴はもう気違いみたようなものですからね。やはり、竹さんも油断はしない方がいいですよ」
 「それはそうに違いないが、竹さんは大丈夫ですよ」
 「ああいう人ですから、そりゃあ大丈夫とは思いますけど……」
 謙作は腹立たしい気持になった。そして、「この上竹さんが、またやられる……そんな馬鹿な事があって堪(たま)るものか」と思った。

 

 明日の山行きは決まった。竹さんのお上さんは亡くなってしまった。お上さんの情夫は重症を負ったがどうなったかは分からない。殺した男は、逃げてまだ捕まっていないが、竹さんを今度は狙うんじゃないかと皆が心配している。どうして竹さんが狙われなきゃいけないんだと、謙作は腹をたてる。確かに変な話である。しかし、謙作が腹を立ててもしょうがない。しょうがないけど、やっぱり腹立たしい。それは分かる。

 このエピソードは、古井由吉の言う「綱渡り」みたいなものなのかもしれない。

 そして「第四 十八」は次のように終わる。


 翌日(あくるひ)、謙作は出来るだけ朝寝をするつもりだったが、癖で、いつも通り、七時過ぎると眼を覚ました。前夜、信行への手紙を書き、少し晩(おそ)くなったところに、竹さんの不快(いや)な話を聴き、また一方では、自分の手紙を見た直子の事など、それからそれと考えると彼は寝つかれなくなった。遠く鶏の声を聴き、驚いて時計を見ると、二時少し廻っていた。
 彼は眼は覚めたが、このまま起きてしまっては恐らく四時間も眠っていないと考え、無理に眼を閉じ、もう一度眠ろうとしたが、ただうつらうつらとするだけで、本統には眠れず、それでも十時頃漸く床を離れた。頭が疲れ、体もだるかった。今晩の山登りは弱るに違いない。しかしこの調子ならかえって昼寝が出来るかも知れぬと思った。

 

 


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日本近代文学の森へ 284 志賀直哉『暗夜行路』 171 小説の神様 「後篇第四 十七」 

2025-07-17 10:52:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 284 志賀直哉『暗夜行路』 171 小説の神様 「後篇第四 十七」 

2025.7.17


 

 禅の坊さんとちょっとしたいさかいがあって、不愉快な気持ちになった謙作だったが、まあ、あんまり拘るまいと思っていたところ、その夕方、意外な話を聞くはめになった。


 夕方、想いがけない話をお由から聴き、謙作はすっかり不快(いや)な気持になった。竹さんの女房が痴情の争(あらそい)で、情夫と一緒に重傷を負い、危篤だという知らせがあり、竹さんは倉皇(そうこう)、今、山を下って行ったというのだ。
 「可哀想ですわ、竹さんはそんな悪いおかみさんでも少しも憎んでいないのですからね、きっとこんな事になると思っていた、と泣いていたそうです」
 「気持の悪い話だな」
 「斬った方は竹さん以前からおかみさんと関係のあった人で、斬られたのも竹さんのお友達で、一緒に山へ来た事のある人だそうです」
 「その細君というのは、助かりそうなんですか」
 「竹さんの帰るまで持たないだろうと誰かがいってましたわ」
 「もし助かっても、そんなの、もう駄目だな」彼は吐捨てるようにいった。
 「それが、竹さんには、そういかないらしいですわ」
 謙作は不思議な気がした。しかしそういう竹さんだから、その渦に巻込まれなかったのだ、と思った。
 「実は先刻(さっき)会って、明日の晩、山を案内してもらう約束をして来たばかりなんだ」
 「そうそう。お母さんがいってました。——でも、代りの人があるそうです」
 叡山に次ぐ天台の霊場などいわれる山に来て、なおかつ、こういう事を聴かねばならぬというのは如何にも興醒(きょうざめ)だった。ただ竹さんが、完全に事件の圏外にいて、その災厄を逃れた事はよかった。彼はその朝、お由から竹さんの話を聴き、竹さんが多少、変態なのではないかしらと思ったが、今はそれより、竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。さっき気楽に話合っていた、恐らくその頃、山の下ではそんな血塗騒(ちまみれさわぎ)が演じられていたのだ。如何に超然たる竹さんでも、今頃は参っているだろう。女を憎んでいないとすれば、恐らく悲嘆に暮れているかも知れないと、彼は思った。

  【注】倉皇=あわただしいさま。あわてるさま。いそぐさま。副詞的にも用いる。(日本国語大辞典)


 この事件のことを知り、謙作は、なぜだらしのない女房に文句ひとつ言わず、いいなりになっていたのかという疑問に対して、「竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と分析する。

 竹さんはマゾヒズムとも言える「変態」かもしれないと思いつつ、一方では、「女房を完全に知るための寛容さ」だったのかもしれないと考える。そして更に「(女房の)性質と、(女房の)これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と結論づける。(女房の)を補ってみたが、妥当だろう。

 しかし、竹さんは、そこまで意識的だったとは思えない。どんなにひどい仕打ちを受けても、竹さんにはその女房しかいなかったのだ。我慢するしかなかったのだ。それが現実であろう。ただ、謙作から見れば、そうでも解釈しないと竹さんを一人のまともな人間として捉えることができない。あるいは、そう解釈してまで、竹さんを肯定的に受け入れたいということだったのかもしれない。「そんなヤツ、変態だ。」といって切り捨てることはできなかったのだ。

 物語も最終盤に来て、ずいぶん重い話を持ち出したものだと思うが、このとんでもない痴話げんかの果ての「血塗騒」も、もちろん謙作にとって他人事ではなかった。謙作の苦悩の根源にある「不貞」と、この話はつながっているからだ。謙作のこころはそちらに向かう。

 「注」をつけておいたが、「倉皇」という言葉は、初めて知った。誤植じゃないかと思ったけれど、調べたら、相当前から使われていた言葉のようで、漱石の「吾輩は猫である」にも用例があった。(「細君は〈略〉倉皇針箱と袖なしを抱へて茶の間へ逃げ込む」)今では完全に「死語」だ。このように、長いこと使われてきたのに、突然まったく使われなくなる言葉というのは、いったいどうしてそうなるのだろう。不思議なことである。

 

 謙作は母の場合でも直子の場合でも不貞というよりむしろ過失といいたいようなものが如何に人々に祟(たた)ったか。自分の場合でいえば今日までの生涯はそれに祟られとおして来たようなものだった。総ての人が竹さんのように超越出来れば、まだしも、──その竹さんとても不幸である事に変りはないが、──そうでない者なら、何かの意味で血塗騒を演ずるような羽目になるのだ。謙作自身にしても、もし自恃(じじ)の気持がなく、仕事に対する執着がなかったら、今頃はどんな人間になっていたか分らなかった。
 「恐しい事だ」謙作は思わずこんな事をいった。
 「本統に恐しい事ですわ」とお由は謙作とは別な気持で答えた。そして、「でも、私には竹さんのおかみさんの気持が分りませんわ」といった。
 「そんな女を少しも憎めない竹さんも変っている」と謙作はいった


 自分の生涯は、「不貞」あるいは「過失」に祟られどおしだったと謙作は思う。それを完全に超越しているかに見えた竹さんも、不幸であることに変わりはないが、「血塗騒」には巻き込まれなかったとはいえ、間接的は巻き込まれている。それが「超越してない者」なら、この情夫のように事件の当事者となってしまう。

 謙作は、自分には「自恃」と「仕事に対する執着」があったから、そうした当事者にもならず、なんとかまともな生活を送ってくることができた。そう考えるのだ。

 謙作の言った「恐ろしいことだ」という言葉は、人間が心の中にとんでもない闇を抱えていることに対する「恐ろしさ」だ。

 つい最近、キンダースペースの「モノドラマ」で、志賀直哉の「范の犯罪」を見たのだが、そこに描かれる無意識の殺意、のような恐ろしさを、ここでも感じる。人はだれでも、そういう闇を抱えていて、それが、ふとしたときに表面化してしまう。そして、ふとしたことで、それが殺人にまでなってしまう。

 実は、その「恐ろしさ」を、謙作は、直子を列車から突き落としたとき、痛切に感じていたのではなかったか。直子は腰から落ちたからよかったものの、打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない状況だったのだから。

 お由の「本統に恐しい事ですわ」という言葉が、謙作のそれとは「別な気持」であったのは当然である。お由は、ただこの血なまぐさい事件に驚いているだけだからだ。

 

 翌日はよく晴れ、山登りには好適な日であったが、謙作は昨日の暗い気分が滓(かす)で残っていて、妙に億劫(おっくう)で、気が進まなかった。とにかく、その晩の山登りは止(や)める事にした。
 午後彼は阿弥陀堂へ行き、その縁で一時間ほど、凝然(じっ)としていた。子供から母を憶う時、よく一人、母の墓へ出かけたが、同じ気持で、此所(ここ)へ来る事を彼は好んだ。人はほとんど来ず、代りに小鳥、蜻蛉、蜂、蟻、蜥蜴(とかげ)などが沢山其所(そこ)には遊んでいる。時々、山鳩の啼声(なきごえ)が近い立木の中から聴えて来た。
帰途、不二門院(ふじもんいん)という荒寺へ行った。見上る大きな萱屋根が更に大きな杉の木の間に埋(うず)まっている。久しい空寺(あきでら)らしく、閉めた雨戸の所々、板が剥取(はぎと)られてあった。彼は下駄穿(げたば)きのまま入って見た。
 正面には本尊も何もない大きな仏壇があり、その両側が一間ほどずつ開けはなしの押入れのようになっていて、何十とも知れぬ大きな位牌がほこりにまみれ、立ったり倒れたりしていた。代々の住職、大檀那(だいだんな)という人たちの位牌らしく、桃山建築にあるような唐破風(からはふ)のついた黒塗金字の大きな位牌が算(さん)を乱しているのは余りいい気持ではなかった。恐らく野鼠、木鼠(きねずみ)の仕業だろう。
 暗い庫裏(くり)の長い土間に大きな《ながし》があり、その上に畳一畳ほどの深い水溜(みずため)の枡があった。半分は屋内に、半分は屋外に出ていて、筧(かけい)から来る山の清水が、それから滾々(こんこん)と溢れていた。杉の枝を漏れる夏の陽が山砂の溜った底の方まで緑色に射込み、非常に美しく、総てが死んでしまったようなこの寺で、此所だけが独りいきいきと生きていた。彼はまた、反対側の書院の方へも行って見たが、荒れかたが甚しく、周囲四、五町、人家のない森の中の淋しい所ではあるが、住めれば住んでみてもいいような気で、見に来たが、その事は断念した。


 これはまたなんという素晴らしい描写だろう。何度も何度も書いてきたことだが、この「暗夜行路」という小説には、本筋とはあまり関係のない部分に、際だって優れた文章がある。なくたって、いっこうに構わない部分なのに、いやに気合いをいれた文章を綴るのである。

 この荒寺の様子も、いちおう自分の住むところの候補として見に行ったということではあるのだが、それにしても、その荒廃の様子が、4K映像でみるような解像度で描かれている。

 まずは、阿弥陀堂の描写。人気のない境内に遊んでいる小動物たち。聞こえてくるヤマバトの声。謙作の心のなかに静かによみがえってきているであろう母の墓地で過ごした時間の遠い記憶。

 その後、不二門院の荒廃ぶり。こんなにもこの寺が荒れているのも、おそらく明治の廃仏毀釈の影響であろう。さまざまな位牌が埃をかぶって散乱しているさまを、「算を乱している」と表現する。この言葉もまた分からないので、調べてみると、「算を乱す=算木を乱したように、列を乱す。ちりぢりばらばらになる。散乱する。算を散らす。(日本国語大辞典)」とあった。この言葉もほとんど「死語」だ。

 そうした室内の荒廃ぶりのあとに描かれる「半分は屋内に、半分は屋外に出て」いる「畳一畳ほどの深い水溜の枡」の美しさ。屋内の仏壇だの位牌だのがすべて埃まみれですすけているのに、この「深い水溜の枡」に、山の清水が滾々と溢れている様は、簡潔な描写だが、ため息がでるほどだ。


 彼がまた寺に帰って来た時、赤児を抱いたお由が石段の上に立っていた。
 「留守に昨日の人は来ませんでしたか」
 「来ませんわ。それにそんな都合のいい所なんて他にあるわけがありませんわ」お由はその坊主にいくらか反感を現わしていった。
 「来なければ丁度いい。実は今、不二門院へ行って見たが、荒れ方があまり甚(ひど)いので……」
 「ほう、とても、とても」とお由は首を振った。上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児が、涎(よだれ)に濡れた手を謙作の方に差出し、身体(からだ)を弾ませながら大きな声をあげ、なお、抱かれるつもりか身体を無闇に彼の方に屈(ま)げて来た。
 「この間、コンデンス・ミルクを嘗(な)めさしたんで、味をしめたな」謙作は笑いながら、
 「駄目だ、駄目だ」と、そのまま自分の部屋へ入って行った。

 


 阿弥陀堂、不二門院を描く文章の後に、すっと力を抜いた文章がきて、しめくくる。解像度の高い写真のとなりにある、ラフな画像のスナップ。あるいは、緻密に描かれた水彩画のとなりに、ペンでさっと描かれたスケッチ、といったところだろうか。

 そのスケッチも独特で、「上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児」なんて、なんとも奇妙で、肉感的で、その後のヨダレをだらだら垂らして体を曲げてくる様子といい、リアルでユーモラスだ。

 この章の最後の一文は、「『駄目だ、駄目だ』と、そのまま自分の部屋へ入って行った。」と極めて簡潔だが、それがとても効果的だ。天才的としかいいようがない。まあ、「小説の神様」だからね。それを否定する人もいるけど、やっぱりぼくは否定できない。

 小説は、たった一行でも、心に残る文章があれば、それでいいのである。

 

 

 

 

 


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