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日本近代文学の森へ 286 志賀直哉『暗夜行路』 173 誤読の顛末 「後篇第四 十八」その2

2025-07-21 09:32:55 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 286 志賀直哉『暗夜行路』 173 誤読の顛末 「後篇第四 十八」その2

2025.7.21


 

 いやはや、とんでもない誤読をするものであると、我ながら呆れている。前回、いちおう赤字で誤読でしたという旨を書き入れておいたが、なんだかゴチャゴチャしてしまったので、改めて書いておきたい。

 問題は、謙作が郵便脚夫から電報を受け取ったとき、ドキッとして、こう思ったという記述だ。

 

 謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。

 

 友人のHは、ここを読んですぐに、「居所が分からず」の「居所」を謙作の居所、つまりは手紙や電報の宛先となる住所のことだと理解したわけだ。それなのに、ぼくは、「居所」を「自殺した直子の居所」だととってしまい、この連想のあり方に驚かされる、なんて書いているので、そりゃないでしょ、と直ぐに電話をくれたというわけだ。

 ちなみに、このHという友人は中学以来の友人で、我が家からあるいても15分ほどのところに住んでいる。専門は心理学なのだが、文学好きで、この「志賀直哉を読む」も毎回アップするとすぐに読んでくれて、「誤植」を指摘してくれるありがたい存在である。

 その彼の指摘を聞いて、彼は、君のような読み方もあるかもしれないけれどと、控えめに言ってくれたのだが、話しているうちに、ぼくのとり方は、とんでもない勘違いであることが鮮明になった。というか、なんかここ変だよなあと頭の中が混乱しながらも、強引に感想を書いてしまった居心地の悪さが、ああ、そもそもがオレの勘違いだったんだと、スッキリしたといった方がいいだろう。

 しかし、それにしても、勘違いどころか、言葉をまったく理解してないいうレベルだ。「居所」とは、今さら辞書で調べるまでもないことだが、「住んでいるところ」「住まい」「住所」という意味なのだから、「遺体の居所」なんて表現があるわけがない。まったく呆れるほかはない。

 それなのに、どうしてそんなアホな誤読をしてしまうのか。これは、ぼくの根本的な欠陥なのだが、ものすごく思い込みが激しいというか、前後関係を把握する能力に乏しいというか、記憶力がないに等しいというか、そういうものの「集大成」だといえば、それでオシマイだが、まあ、それはそれとして、未練がましいことをいえば、ここを読んだとき、直子が謙作が今住んでいるところを知らないはずはない、という「思い込み」があったということだろう。

 Hも電話で、直子が謙作の「居所」を知らなかったという記述はどこかにあるのか? と言っていたが、改めて調べてみると、謙作が直子に手紙を書いたのは、この前の一度きりで、今ここに着いたとか、今はここに落ち着いているとかいった手紙は一切書いていないのだ。今では考えられないことだが、直子は、だから謙作の「居所」を謙作の最初の手紙が来るまでまったく知らなかったのだ。

 直子はすぐに謙作に返事を書いたのだろうが、しかし、その返事が届くには数日かかるだろう。謙作はきっと返事を待ちわびているだろうと思って、とりあえず電報を打ったのだ。その電報がかえって、一瞬、謙作を不安に陥れ、「自殺」まで考えさせることとなった。

 で、結局、ぼくの「誤読」の原因というのは、「居所」という言葉の意味をちゃんと捉えることができなかったという超基本的な読解力の欠如と、直子は謙作の「居所」を知っていたはずだという根拠を無視した思い込みの二つだということになる。

 この連載も、あと2回というところまでやっとこぎ着けたのに、またぞろこんな誤読で、古井由吉のいう「綱渡り」をやってしまった。これに懲りずに、もう少しだけ、お付き合いください。

 


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日本近代文学の森へ 285 志賀直哉『暗夜行路』 172 「自分のこと」がいちばん分からない 「後篇第四 十八」

2025-07-20 15:13:33 | 「失われた時を求めて」を読む

日本近代文学の森へ 285 志賀直哉『暗夜行路』 172 「自分のこと」がいちばん分からない 「後篇第四 十八」その1

2025.7.20


 

 山登りは延期になり、数日が経った。竹さんの家の状況は分からないし、竹さん自身の消息も分からない。謙作は竹さんのいないことを淋しく思ったが、とにかく、山登りの連れを他に探してもらうことにした。


 謙作は竹さんの帰るのを待って山登りをしようと思っているのではなかったが、竹さんとの約束が駄目になると、つい億劫な気持で、延していたが、こう天気続きで今度降り出すとまた降り続きそうにも思われ、今の間に山登りをしてしまおうと思った。そして帰ると、彼は早速寺のかみさんに山の案内者を頼んだ。
 「連れはどうでもいいから、なるべく、明日の晩という事にして下さい」
 「そうですか? 一人に一人の案内人は無駄なようにも思いますが、天気が変ると、あの時出かければよかったというような事になるかも知れませんからね。……まあとにかく、案内人の都合を訊合(ききあ)わして見ましょう。いいお連があるかも知れないし」
 「そうして下さい」
 庫裏の土間に立って、二人がこんな事をいっている所に、戸外(そと)から巻脚絆に草鞋(わらじ)穿きの若い郵便脚夫が額の汗を拭きながら入って来た。彼は尻餅をつくように框(かまち)に腰を下ろし、紐で結んだ一卜束の手紙を繰り、中から二、三通の封書を抜きとり、其所(そこ)へ置いた。
 「どうも御苦労さん。今日あたりは《えらい》だろうね。お茶がいいかね。水がいいかね」
 「水を頂きましょう」
 「砂糖水にしようか」
 「すみません」
 謙作は郵便脚夫が手紙の束を繰る時、ちょっと眼で直子の字を探したが、勿論まだ返事の来るはずはなかったので、
 「それじゃあ、連があってもなくても、なるべく明日の晩という事にして下さい」台所へ行く上さんにこう声をかけ、自分のいる離(はなれ)の方へ引還そうとした。
 「そうそう」
 郵便脚夫は急に何か憶い出した風で、上着のボケットを一つ一つ索(さぐ)って、皺(しわ)になった電報を取出すと、「ええと……時任さんは貴方(あなた)ですね」といった。
 謙作はドキリとし、不意に、直子が死んだと思った。自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。彼は自分の動悸を聴いた。
 「お宅からですか?」コップを載せた盆を持って出て来た上さんがこういった。その如何にも暢気(のんき)な調子が謙作を一層不安にした。
 「オフミハイケン、イサイフミ、アンシンス、ナオ」
 「ありがとう」謙作は郵便脚夫に礼をいい、無意識にその電報をいくつにも畳みながら、自分の部屋へ還って来た。
 何故、そんなにドキリとしたか自分でもおかしかった。彼は電報の返事を全然予期しなかった事が一つ、それに手紙を出してしまうと、もっと早くそれをいってやるべきだった、というような事をこの二、三日切(しき)りに考えていた、更に竹さんの家(うち)の不快(いや)な出来事が彼の頭に浸込んでいた、その聯想が電報で一遍に彼の頭に閃いたのだ。何れにしろ、馬鹿気た想像をしたものだと彼は心に苦笑したが、「とにかく、これでよし」と、彼は急に快活な気分になった。そして何度か電報を読み返した。

 


 直子への手紙を出してから、謙作はとくにそこのことについてそれほど心配しているふうでもなかったが、郵便脚夫から電報を渡されると、ドキッとして、「直子が死んだ」と思った。

 このあたりの書き方にはびっくりする。

 ドキッとして、すぐに「直子が死んだ。」と思ったのは、渡されたのが電報だったからだ。電報というのは、やっぱりドキッとする。それはごく普通の反応だ。

 しかし、それに続けて「自殺したが、居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」と断定するところがすごい。「自殺」はいいとしても(別によくはないが)、その後の、「居所が分らず、今まで知らす事が出来なかったのだ。」というのは、ずいぶんと飛躍した推測だ。自殺は、すぐに、川への身投げか、海への入水か、とにかく、遺体が見つからないという状況を連想する。その連想のあり方に驚かされるのだ。

 そして「彼は自分の動悸を聴いた。」と続く。「自殺だ」→「やっと遺体が発見されたのだ」→「ドキドキした」となるわけだが、それをいっさいの心理的描写を抜きにして、妄想的断定を書いた後に、自分の身体の動揺を書く。それを、将棋の駒でも置くように、ポンポンと並べる。

 

と、こう書いて、最初はアップしたのだが、アップしてすぐに友人から電話があり、そりゃおかしいんじゃないかとの指摘があった。「自殺して、遺体がなかなか発見されなかった」というんじゃなくて、「居所」というのは謙作の住所のことで、それが分からなかったから、「今まで知らすことができなかった」のであって、謙作からの手紙が来たので、やっと「居所=謙作の住所」が分かって、電報がきたのだ、ということじゃないか? ってことだった。

まさにその通りだ。なんで「居所」を、直子の「遺体」だと思ったのだろうか。まったくとんでもない勘違いだ。友人の指摘が正しい。で、この辺を全面的に書き直そうと思ったけど、以前にも、こういうぼくの勘違いがあったので、まあ、そのまま残しておこうと思った。そういうわけで、この部分でのぼくの「驚き」は、勘違いからくる「驚き」であることを確認しておきたい。

「Yoz Home Page」に収納するときは、この部分は修正したいと思います。

 

 そうしておいて、「コップを載せた盆を持って出て来た上さん」を登場させて、「お宅からですか?」と暢気な調子でしゃべらせる。その「暢気な調子」が「謙作を一層不安にさせた」と書く。このような対比的な書き方で、謙作の不安をいっそうあおることになる。

 しかし、その後の謙作の動作や心理の描写をいっさいしないで、いきなり電報の文面を示す。ここがまた尋常じゃない。

 不安になりながら、おそるおそる電報の文面に視線を投げる。その謙作の目に飛び込んでくる言葉。この一連の流れの中に、いくらでも心理的動揺を示す表現を入れることができるのに、それを志賀はしない。完全に空白にする。

 思えば、それこそが現実なのかもしれない。現実というのは、あっという間に襲ってきて、ぼくらを呆然とさせる。そこに心理的な表現の入る余地はないのだ。

 電報を「無意識にいくつにも畳みながら」部屋に戻った謙作は、そこではじめて、自分のこころの動きを反芻して、「苦笑」することになる。なんで謙作は、いきなり「自殺」とか、「遺体が見つからない」とかいった連想をしたのかが、ここで明かされるわけだ。竹さんの事件が、そういう連想を生み出したのだと、謙作は納得する。「とにかく、これでよし」として、「急に快活な気分になった」謙作は、電報を何度か読み返す。電報を読み返す謙作の姿に、謙作の安堵がいたいほど感じられるのだ。


 その晩、彼は蚊脹の中の寝床を片寄せ、その側(そば)に寝そべって、久しぶりに鎌倉の信行に手紙を書いた。彼は自分がこの山に来てからの心境について、細々(こまごま)と書いてみるのだが、これまでの自分を支配していた考が余り空想的であるところから、それから変化した考も自分の経験した通りに書いて行くと、如何にも空虚な独りよがりをいっているようになり、満足出来なかった。そういう事を書く方法を自分は知らないのだとも思った。そしてそれよりも直子かお栄の手紙で自分の旅立ちを知り、心配しているかも知れない信行を安心さすだけの手紙を書く方がいいと思い直し、五、六枚書いた原稿紙の手紙を二つ折りにして、傍(わき)のポート・フォリオヘ仕舞込んだ。

 〈注〉ポート・フォリオ=書類入れ。(ずいぶん、ハイカラな言い方を使っていたものだ。)

 

 謙作は信行に手紙を書く。信行にはこの旅について、なにも言ってなかったのだ。その手紙を書きながら、「自分の経験した通りに書いていく」と、それが「空虚な独りよがり」を言っているような気がして満足できない。そして謙作は、こう思う。「そういう事を書く方法を自分は知らないのだ」と。

 ここは、非常に大事なところだ。「そういうこと」とは、つまりは「自分の心境」だ。自分の気持ちがどうであって、そこからどう変化して、今に至るかという経緯は、ほんとうなら、謙作自身が一番よく知っているはずだ。それなのに、それを「経験した通りに」書いていくと、どうも違うなあという気持ちになる。満足できない。そして「そういう事を書く方法」を自分は知らないのだというのである。

 これは痛切な述懐で、志賀直哉自身、そのことを充分承知したうえで、その方法を探り続けていたのではないだろうか。『暗夜行路』が、いわゆる「私小説」とは一線を画しているのは、その故であろう。といって、「私小説」が、この方法に無自覚であったとは言えないとも思うのだが、その辺の研究は山ほどあるのだろう。

 この小説を書くことの根本的な問題について、古井由吉が、講演でこんなふうに語っている。


本来小説は、書き手が熟知というか、ほんとうによく知っていることを書く、これがあるべき姿ですよね。それこそ筆も豊かになるし、展開も力強く、細部も満ちる。日本で、明治三十何年に自然主義が発生したときに、人はそういうふうに考えた。自分がよく知っていることを、偽りや虚飾なく書くと。そこからいつのまにか私小説というものが出てきて、日本の文学の主流みたいになる。自分がよくよく知っているのは「自分のこと」だから、自分のことをありのまま、虚飾なく書くことが文学のまことだ、そういう論理なんです。でも、この論理に落とし穴があることはわかるでしょう。自分のことが、いちばんわからないんですよね。
それでも仮に、自分のことは、ほかのことに比べればつぶさに知ってると、そういうところから出発しましょう。で、書きはじめますね。書いてるうちに、どうも自分が考えたことと文章が違う、そういう疑惑にとりつかれる。これが最初のつまづきです。ところが、これがまた逆転するんですよ。一所懸命書いてると、文章のほうに、文章としての現実味が出てくる。それに照らしあわせて、自分が思っていたこと、自分が自分について知っていたことは、はたしてそうなんだろうかと、逆に自分の知っていたつもりのことに疑問をいだきだす。思っていることは書いていることに、もちろん影響を与えるし、書いたことがまた跳ねかえって、思っていたことを揺するんですね。いままで思いこんでたものが、書いてみると違った光で見えてくる。これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。
小説の終わりというものは、ある程度のキャリアを経れば、書いてるうちにおのずから興奮はあるでしょう……絶望の興奮ってやつかな、それに疲れもたまってくる。疲れと興奮のないまぜになったものに悼さして、わあっと駆けこむ。ぽとりと落とす。

 

「読むこと、書くこと」(平成十四年六月二十二日早稲田大学第一文学部文芸専修課外講演会/「早稲田文学」平成十四年九月号)『書く、読む、生きる』草思社文庫・2025年刊所収

 

 

 この古井由吉の文章は、そのまま『暗夜行路』という小説の格好の解説となっているように思える。

 「自分のこと」がいちばん分からない、という認識は、志賀の根底にあったと思う。だから時任謙作という主人公を設定し、そこに「自分のこと」を注ぎ込んだのだが、書けば書くほど分からなくなってくる。そのうち、古井のいう「逆転」が起きて、「文章のほうに、文章としての現実味が出てくる」といった事態が生じる。それと「自分」をどう重ね、どう離れるか、といった難題に苦しんだ結果が、完結までの26年ということではなかっただろうか。とにかく、『暗夜行路』の結末は、「これがゆらりゆらり揺れて、網渡りみたいなものになる。で、この場合も最後には、転ぶ寸前にゴールに倒れこむ。」がぴったりくるのであって、古井は、ここを『暗夜行路』を頭において書いたんじゃないかと思われるほどである。この文章は、『暗夜行路』の最終章で、ふたたび参照できるかもしれない。


 「もうおやすみですか」と襖の外から声をかけ、寺の上さんが顔を出した。丁度いい連(つれ)があり、明晩十二時頃から頂上行きをするからと、それを知らせに来たのだ。
 「どうもありがとう。そうしたら、明日はせいぜい朝寝をするから、戸を開けないようにして下さい。昼寝が出来ないから、なるべく寝坊をしておくのです」
 「承知しました」寺の上さんはなお、敷居際に膝をついたまま、声を落し、「それはそうと、竹さんのお上さんはとうとう死んだそうですよ」といった。
 「そうですか。…•••そしてその男の方は?」
 「男の方は助かるかも知れないという……」
 「それから、竹さんの事は何か聴きましたか」
 「その竹さんですが……殺した奴が覗(ねら)いはしないかと皆大変心配しているそうですわ」
 「変な話だな。殺した奴はまだ捕まらないのですか」
 「そうなんです。山へ逃げ込んだらしくてね」
 謙作は不快(いや)な気がした。
 「しかし竹さんを覗う理由は何にもないじゃありませんか。そんな馬鹿な事はないでしょう」
 「そんな奴はもう気違いみたようなものですからね。やはり、竹さんも油断はしない方がいいですよ」
 「それはそうに違いないが、竹さんは大丈夫ですよ」
 「ああいう人ですから、そりゃあ大丈夫とは思いますけど……」
 謙作は腹立たしい気持になった。そして、「この上竹さんが、またやられる……そんな馬鹿な事があって堪(たま)るものか」と思った。

 

 明日の山行きは決まった。竹さんのお上さんは亡くなってしまった。お上さんの情夫は重症を負ったがどうなったかは分からない。殺した男は、逃げてまだ捕まっていないが、竹さんを今度は狙うんじゃないかと皆が心配している。どうして竹さんが狙われなきゃいけないんだと、謙作は腹をたてる。確かに変な話である。しかし、謙作が腹を立ててもしょうがない。しょうがないけど、やっぱり腹立たしい。それは分かる。

 このエピソードは、古井由吉の言う「綱渡り」みたいなものなのかもしれない。

 そして「第四 十八」は次のように終わる。


 翌日(あくるひ)、謙作は出来るだけ朝寝をするつもりだったが、癖で、いつも通り、七時過ぎると眼を覚ました。前夜、信行への手紙を書き、少し晩(おそ)くなったところに、竹さんの不快(いや)な話を聴き、また一方では、自分の手紙を見た直子の事など、それからそれと考えると彼は寝つかれなくなった。遠く鶏の声を聴き、驚いて時計を見ると、二時少し廻っていた。
 彼は眼は覚めたが、このまま起きてしまっては恐らく四時間も眠っていないと考え、無理に眼を閉じ、もう一度眠ろうとしたが、ただうつらうつらとするだけで、本統には眠れず、それでも十時頃漸く床を離れた。頭が疲れ、体もだるかった。今晩の山登りは弱るに違いない。しかしこの調子ならかえって昼寝が出来るかも知れぬと思った。

 

 


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日本近代文学の森へ 284 志賀直哉『暗夜行路』 171 小説の神様 「後篇第四 十七」 

2025-07-17 10:52:43 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 284 志賀直哉『暗夜行路』 171 小説の神様 「後篇第四 十七」 

2025.7.17


 

 禅の坊さんとちょっとしたいさかいがあって、不愉快な気持ちになった謙作だったが、まあ、あんまり拘るまいと思っていたところ、その夕方、意外な話を聞くはめになった。


 夕方、想いがけない話をお由から聴き、謙作はすっかり不快(いや)な気持になった。竹さんの女房が痴情の争(あらそい)で、情夫と一緒に重傷を負い、危篤だという知らせがあり、竹さんは倉皇(そうこう)、今、山を下って行ったというのだ。
 「可哀想ですわ、竹さんはそんな悪いおかみさんでも少しも憎んでいないのですからね、きっとこんな事になると思っていた、と泣いていたそうです」
 「気持の悪い話だな」
 「斬った方は竹さん以前からおかみさんと関係のあった人で、斬られたのも竹さんのお友達で、一緒に山へ来た事のある人だそうです」
 「その細君というのは、助かりそうなんですか」
 「竹さんの帰るまで持たないだろうと誰かがいってましたわ」
 「もし助かっても、そんなの、もう駄目だな」彼は吐捨てるようにいった。
 「それが、竹さんには、そういかないらしいですわ」
 謙作は不思議な気がした。しかしそういう竹さんだから、その渦に巻込まれなかったのだ、と思った。
 「実は先刻(さっき)会って、明日の晩、山を案内してもらう約束をして来たばかりなんだ」
 「そうそう。お母さんがいってました。——でも、代りの人があるそうです」
 叡山に次ぐ天台の霊場などいわれる山に来て、なおかつ、こういう事を聴かねばならぬというのは如何にも興醒(きょうざめ)だった。ただ竹さんが、完全に事件の圏外にいて、その災厄を逃れた事はよかった。彼はその朝、お由から竹さんの話を聴き、竹さんが多少、変態なのではないかしらと思ったが、今はそれより、竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。さっき気楽に話合っていた、恐らくその頃、山の下ではそんな血塗騒(ちまみれさわぎ)が演じられていたのだ。如何に超然たる竹さんでも、今頃は参っているだろう。女を憎んでいないとすれば、恐らく悲嘆に暮れているかも知れないと、彼は思った。

  【注】倉皇=あわただしいさま。あわてるさま。いそぐさま。副詞的にも用いる。(日本国語大辞典)


 この事件のことを知り、謙作は、なぜだらしのない女房に文句ひとつ言わず、いいなりになっていたのかという疑問に対して、「竹さんのはその女房を完全に知るための寛容さであったかも知れぬと思った。性質と、これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と分析する。

 竹さんはマゾヒズムとも言える「変態」かもしれないと思いつつ、一方では、「女房を完全に知るための寛容さ」だったのかもしれないと考える。そして更に「(女房の)性質と、(女房の)これまでの悪い習慣を完全に知る事で、竹さんは自分の感情を没却し、赦していたのだ。」と結論づける。(女房の)を補ってみたが、妥当だろう。

 しかし、竹さんは、そこまで意識的だったとは思えない。どんなにひどい仕打ちを受けても、竹さんにはその女房しかいなかったのだ。我慢するしかなかったのだ。それが現実であろう。ただ、謙作から見れば、そうでも解釈しないと竹さんを一人のまともな人間として捉えることができない。あるいは、そう解釈してまで、竹さんを肯定的に受け入れたいということだったのかもしれない。「そんなヤツ、変態だ。」といって切り捨てることはできなかったのだ。

 物語も最終盤に来て、ずいぶん重い話を持ち出したものだと思うが、このとんでもない痴話げんかの果ての「血塗騒」も、もちろん謙作にとって他人事ではなかった。謙作の苦悩の根源にある「不貞」と、この話はつながっているからだ。謙作のこころはそちらに向かう。

 「注」をつけておいたが、「倉皇」という言葉は、初めて知った。誤植じゃないかと思ったけれど、調べたら、相当前から使われていた言葉のようで、漱石の「吾輩は猫である」にも用例があった。(「細君は〈略〉倉皇針箱と袖なしを抱へて茶の間へ逃げ込む」)今では完全に「死語」だ。このように、長いこと使われてきたのに、突然まったく使われなくなる言葉というのは、いったいどうしてそうなるのだろう。不思議なことである。

 

 謙作は母の場合でも直子の場合でも不貞というよりむしろ過失といいたいようなものが如何に人々に祟(たた)ったか。自分の場合でいえば今日までの生涯はそれに祟られとおして来たようなものだった。総ての人が竹さんのように超越出来れば、まだしも、──その竹さんとても不幸である事に変りはないが、──そうでない者なら、何かの意味で血塗騒を演ずるような羽目になるのだ。謙作自身にしても、もし自恃(じじ)の気持がなく、仕事に対する執着がなかったら、今頃はどんな人間になっていたか分らなかった。
 「恐しい事だ」謙作は思わずこんな事をいった。
 「本統に恐しい事ですわ」とお由は謙作とは別な気持で答えた。そして、「でも、私には竹さんのおかみさんの気持が分りませんわ」といった。
 「そんな女を少しも憎めない竹さんも変っている」と謙作はいった


 自分の生涯は、「不貞」あるいは「過失」に祟られどおしだったと謙作は思う。それを完全に超越しているかに見えた竹さんも、不幸であることに変わりはないが、「血塗騒」には巻き込まれなかったとはいえ、間接的は巻き込まれている。それが「超越してない者」なら、この情夫のように事件の当事者となってしまう。

 謙作は、自分には「自恃」と「仕事に対する執着」があったから、そうした当事者にもならず、なんとかまともな生活を送ってくることができた。そう考えるのだ。

 謙作の言った「恐ろしいことだ」という言葉は、人間が心の中にとんでもない闇を抱えていることに対する「恐ろしさ」だ。

 つい最近、キンダースペースの「モノドラマ」で、志賀直哉の「范の犯罪」を見たのだが、そこに描かれる無意識の殺意、のような恐ろしさを、ここでも感じる。人はだれでも、そういう闇を抱えていて、それが、ふとしたときに表面化してしまう。そして、ふとしたことで、それが殺人にまでなってしまう。

 実は、その「恐ろしさ」を、謙作は、直子を列車から突き落としたとき、痛切に感じていたのではなかったか。直子は腰から落ちたからよかったものの、打ち所が悪ければ死んでいてもおかしくない状況だったのだから。

 お由の「本統に恐しい事ですわ」という言葉が、謙作のそれとは「別な気持」であったのは当然である。お由は、ただこの血なまぐさい事件に驚いているだけだからだ。

 

 翌日はよく晴れ、山登りには好適な日であったが、謙作は昨日の暗い気分が滓(かす)で残っていて、妙に億劫(おっくう)で、気が進まなかった。とにかく、その晩の山登りは止(や)める事にした。
 午後彼は阿弥陀堂へ行き、その縁で一時間ほど、凝然(じっ)としていた。子供から母を憶う時、よく一人、母の墓へ出かけたが、同じ気持で、此所(ここ)へ来る事を彼は好んだ。人はほとんど来ず、代りに小鳥、蜻蛉、蜂、蟻、蜥蜴(とかげ)などが沢山其所(そこ)には遊んでいる。時々、山鳩の啼声(なきごえ)が近い立木の中から聴えて来た。
帰途、不二門院(ふじもんいん)という荒寺へ行った。見上る大きな萱屋根が更に大きな杉の木の間に埋(うず)まっている。久しい空寺(あきでら)らしく、閉めた雨戸の所々、板が剥取(はぎと)られてあった。彼は下駄穿(げたば)きのまま入って見た。
 正面には本尊も何もない大きな仏壇があり、その両側が一間ほどずつ開けはなしの押入れのようになっていて、何十とも知れぬ大きな位牌がほこりにまみれ、立ったり倒れたりしていた。代々の住職、大檀那(だいだんな)という人たちの位牌らしく、桃山建築にあるような唐破風(からはふ)のついた黒塗金字の大きな位牌が算(さん)を乱しているのは余りいい気持ではなかった。恐らく野鼠、木鼠(きねずみ)の仕業だろう。
 暗い庫裏(くり)の長い土間に大きな《ながし》があり、その上に畳一畳ほどの深い水溜(みずため)の枡があった。半分は屋内に、半分は屋外に出ていて、筧(かけい)から来る山の清水が、それから滾々(こんこん)と溢れていた。杉の枝を漏れる夏の陽が山砂の溜った底の方まで緑色に射込み、非常に美しく、総てが死んでしまったようなこの寺で、此所だけが独りいきいきと生きていた。彼はまた、反対側の書院の方へも行って見たが、荒れかたが甚しく、周囲四、五町、人家のない森の中の淋しい所ではあるが、住めれば住んでみてもいいような気で、見に来たが、その事は断念した。


 これはまたなんという素晴らしい描写だろう。何度も何度も書いてきたことだが、この「暗夜行路」という小説には、本筋とはあまり関係のない部分に、際だって優れた文章がある。なくたって、いっこうに構わない部分なのに、いやに気合いをいれた文章を綴るのである。

 この荒寺の様子も、いちおう自分の住むところの候補として見に行ったということではあるのだが、それにしても、その荒廃の様子が、4K映像でみるような解像度で描かれている。

 まずは、阿弥陀堂の描写。人気のない境内に遊んでいる小動物たち。聞こえてくるヤマバトの声。謙作の心のなかに静かによみがえってきているであろう母の墓地で過ごした時間の遠い記憶。

 その後、不二門院の荒廃ぶり。こんなにもこの寺が荒れているのも、おそらく明治の廃仏毀釈の影響であろう。さまざまな位牌が埃をかぶって散乱しているさまを、「算を乱している」と表現する。この言葉もまた分からないので、調べてみると、「算を乱す=算木を乱したように、列を乱す。ちりぢりばらばらになる。散乱する。算を散らす。(日本国語大辞典)」とあった。この言葉もほとんど「死語」だ。

 そうした室内の荒廃ぶりのあとに描かれる「半分は屋内に、半分は屋外に出て」いる「畳一畳ほどの深い水溜の枡」の美しさ。屋内の仏壇だの位牌だのがすべて埃まみれですすけているのに、この「深い水溜の枡」に、山の清水が滾々と溢れている様は、簡潔な描写だが、ため息がでるほどだ。


 彼がまた寺に帰って来た時、赤児を抱いたお由が石段の上に立っていた。
 「留守に昨日の人は来ませんでしたか」
 「来ませんわ。それにそんな都合のいい所なんて他にあるわけがありませんわ」お由はその坊主にいくらか反感を現わしていった。
 「来なければ丁度いい。実は今、不二門院へ行って見たが、荒れ方があまり甚(ひど)いので……」
 「ほう、とても、とても」とお由は首を振った。上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児が、涎(よだれ)に濡れた手を謙作の方に差出し、身体(からだ)を弾ませながら大きな声をあげ、なお、抱かれるつもりか身体を無闇に彼の方に屈(ま)げて来た。
 「この間、コンデンス・ミルクを嘗(な)めさしたんで、味をしめたな」謙作は笑いながら、
 「駄目だ、駄目だ」と、そのまま自分の部屋へ入って行った。

 


 阿弥陀堂、不二門院を描く文章の後に、すっと力を抜いた文章がきて、しめくくる。解像度の高い写真のとなりにある、ラフな画像のスナップ。あるいは、緻密に描かれた水彩画のとなりに、ペンでさっと描かれたスケッチ、といったところだろうか。

 そのスケッチも独特で、「上が一直線のような妙な形をした握拳(にぎりこぶし)をロ一杯に入れていた赤児」なんて、なんとも奇妙で、肉感的で、その後のヨダレをだらだら垂らして体を曲げてくる様子といい、リアルでユーモラスだ。

 この章の最後の一文は、「『駄目だ、駄目だ』と、そのまま自分の部屋へ入って行った。」と極めて簡潔だが、それがとても効果的だ。天才的としかいいようがない。まあ、「小説の神様」だからね。それを否定する人もいるけど、やっぱりぼくは否定できない。

 小説は、たった一行でも、心に残る文章があれば、それでいいのである。

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 115 「創作の現場」は私たちの「内側」にある────劇団キンダースペース「六月 六本のモノドラマ」を観て

2025-07-03 08:52:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 115 「創作の現場」は私たちの「内側」にある────劇団キンダースペース「六月 六本のモノドラマ」を観て

2025.7.3


 

 劇団キンダースペースといえば、「モノドラマ」、「モノドラマ」といえば、劇団キンダースペースである。他の劇団で「モノドラマ」をやることはない。それほど「モノドラマ」は、独自のものであり、他にマネのできないものなのだ。
 「モノドラマ」は、「一人芝居」とは違って、独自の創作脚本を持たず、既成の文学作品を、アレンジはするものの、一人の役者が「読む」あるいは「演じる」のだが、この「読む」と「演じる」が絶妙に混じりあう。
 「朗読」は、原則的にはその場に立つか座るかして、作品を読むのが普通だが、「モノドラマ」は、簡単な舞台装置があって、役者は自由に動きまわる。何人かの登場人物を演じ分けつつ、「地の文」も読む。その兼ね合い、ブレンドの仕方にこそ、原田一樹が発明した「モノドラマ」の真骨頂がある。
 時にまた原田一樹は、「モノドラマ」は、「文学と戯れることだ」とも言う。それは文学を「素材」にするのではなく、文学そのものと直接「戯れる」ことだろう。
 ぼくらは小説を読むとき、話の筋を追って夢中になって読みすすめる。読み終わった後、ああ、おもしろかった、とか、なんだ退屈だったなあとか、なんらかの感想をいだいて、それで終わりだ。
 けれども、ある小説を「モノドラマ」として演じるとなると、演者や演出家は、時間をかけてその「小説そのもの」に向き合う、向き合わざるを得ない。その中の1行がどういう意味を持っているのか、確かめ、演じて、いや違う、こういう思いがこもっているんじゃないか、いや、それはどうかなあ──そういったやりとりが、役者や演出家の間で繰り返し行われる。それこそが「戯れる」ということなのだ、とぼくは理解している。
 「精読」という方法はある。けれども、言葉を声として出してみて、さまざまな検討をする。その「声」を役者の「内なる声」に変換する。あるいは、そこに「音」や「音楽」を合わせ、そこに「光」を合わせる。なんという楽しい、そして豊かな「戯れ」だろう。そして、観客は、その「戯れ」が、どこまで深く役者の身体と絡み合い、あるいはその果てに同化し、さらにはどこまで「演技」を超えた世界を指し示しているかに、見入ることになる。

 今回の「六月 六つのモノドラマ」は、Aプログラムは〈志賀直哉『范の犯罪』西本亜美〉〈トルストイ『火は早いうちに消せ』森下高志〉〈山本周五郎『ひとごろし』古木杏子〉の3本、Bプログラムは〈モーパッサン『椅子直しの女』岡田千咲〉〈菊池寛『藤十郎の恋』杉本朋美〉〈中島敦『文字禍』林修司〉の3本だ。(いずれも上演順)
 Aプロは、「善と悪の交錯」、Bプロは「伝えきれぬ恋と歴史」と、のそれぞれに共通したテーマが掲げられている。今回は、そのテーマが、洋の東西を超えて、響き合い、見事な舞台となっていた。

 『范の犯罪』は、ずいぶん前に読んだが、今回舞台で見て、そこに描かれていることが、ぼくが今それこそ「精読」中の『暗夜行路』に共通している部分が多いことに改めて驚かされた。そのことを論じた論文があるのは知っているが、そこまで目を通していたわけではないので、そうか、志賀は、妻の「不貞」を「許す・許さない」の葛藤を、すでにここで描いており、それを『暗夜行路』にまで発展させていたんだなと感慨深かった。自分に妻への「殺意」があったか、なかったかは、「分からない」と范はいう。その「わからなさ」は、『暗夜行路』の謙作が、妻を列車のホームに突き落とすというあり得ないような残酷な行為をなぜ自分がしてしまったかが「分からない」ことへと真っ直ぐに通じている。
 自分の心の中には、得体のしれない塊があって、それをどのようにしても解体できない。キリストの教えをもってしても、その塊を溶かすことはできない。そうであれば、その塊を抱いたまま生きていくしかない。「許す」とか「許さない」とかいった言葉は、なんの解決にもならないんだというのが、志賀の思いだったのだろう。
 原田一樹は、「モノドラマはこの創作の煩悶を俳優の身体に落とし込む試みです。」と言うのだが、まさに、『范の犯罪』は、志賀が何にこだわり、何に傷つき、何から解放されたかったのかが詰め込まれた小説なのだといっていい。
 若い西本亜美は、この難しい課題に全力で取り組んだ。なにしろ「相手」は、岩の塊のような始末におえない志賀直哉だ。頑固で、超のつくエゴイストで、自分の快・不快をいつも全面に出して憚らない志賀直哉だ。その志賀の煩悶を、西本は背負い、我が物として、舞台に示さねばならない。それは西本には重荷であったかもしれないが、范の吐き出す「分からない」という言葉は、確かな手応えをもって、アトリエの空間に放り出された。范の投げるナイフは、「殺意」のありかを深い闇に包みながら、舞台を鋭く切り裂いた。絶妙な音響とのコラボで、緊張感に満ちた時間・瞬間が、舞台を満たした。あまりの見事さにうなってしまった。西本亜美の成長に驚いた。

 次は、ベテラン俳優森下高志の『火は早いうちに消せ』。アトリエでの「モノドラマ」は、9年ぶり(?)とか言っていたが、貫禄たっぷりの森下は、そのキャリアを全開にして、ささいなもめ事が、やがてとんでもない悲劇を生み出し、しかしその果てに和解を見出すドラマを、まるで長編の映画でも見るかのように、目の前に展開してくれた。鮮明なイメージ、ぶつかりきしむ感情の噴出、憎悪の拡大の中で、喘息もちのジイサンのまるでキリストの言葉のように響く諫めの声。小説をただ読んだだけではたぶん伝わらない作家の「熱」が、森下の充実した肉体によって、舞台に現れた。まさに「モノドラマ」の極北である。森下高志の長きにわたる精進の結果である。

 Aプロの最後は、これもベテラン俳優古木杏子の『ひとごろし』。古木にとっても「モノドラマ」は久しぶりだったというが、ここで、古木は今までの持ち前の低い声をいかした抑えた、内向的な演技スタイルをかなぐりすて、ほとんど「モノドラマ」の外へと飛び出した。古木のまるで「地を這うような」セリフまわしに魅了されてきたぼくは、今までの「モノドラマ」の中でもいちばん運動量の多いこの『ひとごろし』には我を忘れて、こころゆくまで楽しんだ。名人芸というしかない。古木が舞台に描き出したドラマは、古きよき時代の時代劇を彷彿とさせるものがあり、また、そこにこめられた「弱さ」こそ力なのだというメッセージが、笑いの中にも強く観客に訴えかけるものがあった。芝居を終えての挨拶が、満面の笑みだったことも忘れがたい。

 Aプロの3作品は「善と悪の交錯」としてまとめられているが、原田一樹の言葉によれば、キーワードは「分からない」ということだ。いちばん「分からない」が前面に出ているのは『范の犯罪』だが、『火は早いうちに消せ』においても、どうしてこんな些細なことが大きな衝突へと展開してしまうのか「分からない」。それはもちろん、今、世界中で起きている戦争につながる話でもある。『ひとごろし』では、上意討ちを命じられた臆病者の六兵衛は、どうやったら剣術の達人仁藤昂軒を討ち取ればいいのか「分からない」。やがて、自分の「臆病さ」が分からなくなる。臆病とか勇敢とかいった言葉がだんだん意味をなさなくなってきてしまう。
結局のところ、人間というものは「分からない」ものなのだ。心の中に「分からないもの」を抱え込んで生きていかねばならないものなのだ。安直な解決はない。だからこそ、文学が必要になる。文学は、「分からない」ということに耐え、とどまり、問いつづける営為そのものなのだから。

 まれにみる充実度のAプロだったわけだが、それで充分に満足して帰ろうと思っていたのだが、アトリエに着いたとき、ちょうど入口あたりで出会った林修司君が、ぼくの出るBプロは見てほしいと言うので、体も思ったより元気で、これならBプロも見ることができそうだと思い直した。幸い、若干席が残っていたので、見ることができた。

 これがまたよかった。Aプロには、森下、古木の両「巨頭」が出ているが、Bプロには、そういう「古参」は出ない。だから、正直なところ、Aプロよりは落ちるかな、と思っていた。しかし、そうではなかった。

 まだ若手の岡田千咲は、入団の頃から知っているが、Aプロの西本亜美同様に、確かな成長ぶりを示した。舞台の端での最初の一声が、素晴らしかった。真っ直ぐで、明快な声。「愛」を「金」でしか表現できない貧しいジプシー女の50年にもわたる一方的な恋。まったく一筋の毛ほども報われない恋。切ない話である。その切なさを、岡田は、どこまでも可憐にいじらしく表現していて、心を揺さぶられた。
 Bプロのテーマは「伝えきれぬ愛と歴史」だ。なるほど、「愛」を「言葉」に変換すれば、相手に無視されようともその「愛」は「伝わる」(少なくとも表面上は)。けれども、「愛」を「金」で表現しようとしても、たとえば相手が金持ちであれば、伝わらない。一銭の「金」がなくとも、「愛している」の一言で、「伝わる」ときは「伝わる」。それが「言葉」というものだ。だが「金」そのものには意味がない。「言葉」そのものには意味がある。「愛」の「言葉」のつもりだった「金」が、男には「愛」だと気づかれない。男は「分からない」のだ。ここでも「分からない」は依然としてキーワードだ。

 『藤十郎の恋』は、恥ずかしながら、未読だった。そうか、こういう話だったのかと今頃になって感心しているのもマヌケな話だが、「モノドラマ」を見続けていると、こういうことは稀ではない。ぼくの読書量が圧倒的に不足しているからだが、そういう意味でもキンダースペースの「モノドラマ」は、ぼくにはありがたい存在なのだ。
 この舞台は、入団2年目の杉本朋美が演じたが、藤十郎が、芸のために人妻の「お梶」に言い寄るシーンのセリフは真に迫っていて、その後の「お梶」の自死が充分に納得されるリアリティを持っていた。実力者である。藤十郎の「言葉」が、果たして芸のための「虚」であったのか、それとも、そこに「実」があったのかは最後まで「分からない」。その「分からなさ」を心に抱いたまま、藤十郎は役者として生きつづけ、「お梶」は死を選ぶ。その二者が暗い闇に交錯するラストシーンは、見事だった。

 『文字禍』は、ある意味、「モノドラマ」でなければ舞台化できない作品だとも言える。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というのは、戦後詩人田村隆一の有名な言葉だが、まさに「言葉」によって、人類は不幸になった。この「言葉」の延長線上に「科学」があり、「技術」があることを思えば、その「不幸」こそ、今、我々が日々実感していることに他ならない。
 「ウマ」という音を持つ「文字=言葉」と、動物としての馬の実体とがどうしてこんなにも「必然的」につながっているのか。「ウマ」と聞いて(あるいは読んで)、人間はどうしてあの「馬」だと了解するのか。そうした疑問は、言語学の入口だけれども、「ウマ」は単なる「記号」だよとしたり顔で答えてもしょうがない。記号としての「ウマ」と、実体としての「馬」の「あいだ」に、その二つを結びつけている「霊」があるんじゃないのか、そう中島敦は問うのだ。
 しかし、いくら問うても「分からない」。人間の「歴史」も、「文字=言葉」で記されてきたものである以上、それがほんとに人間が生きてきた「事実」とは必然的に乖離しているだろう。まして、「文字=言葉」で記されなかった「歴史」は、我々には「歴史」として認識することすらできない。「歴史」は、どうしても「伝えきれない」のだ。
 こうしたいわば哲学的な問題を、正面から問う『文字禍』は、「演劇化」が最も難しい小説だといってもいいだろう。しかし、ドラマとは「葛藤」だとすれば、この「文字=言葉」と「実体」との考えれば考えるほど複雑で入り組んだ問題が孕む「葛藤」は、なまじな人間内部の心理的な「葛藤」を遙かに超えるドラマであるとも言えるのだ。そして、そのドラマに真正面から取り組んだ、林修司の「モノドラマ」は、観念の世界の葛藤を、役者自身の身体によって目にみえるものとして表現することに、見事に成功した感動的な舞台だった。
 思えば、アトリエの入口で、林君に声を掛けられなければ、ぼくはあやうくこの「名作」を見逃すところだった。

 6月というのに、真夏のように暑い日だったが、老躯に鞭打って、西川口まで出かけてほんとによかった。この西川口のアトリエも今年いっぱいで終了ということは、長く親しんできたぼくにとっては辛く寂しいことだが、あと1回、10月の「モノドラマ」の公演を楽しみに待ちたいと思っている。
 原田一樹は、こう言っている「創作の現場は私たちの内側にあります。煩悶に向かう覚悟を失わない限り、そして、受けとめようという意思を示していただける観客の皆さんの存在がある限り、歩みを止めずにいたいと考えております。」
 そう、創作の「現場」は、私たちの「内側」にあるのだ! 「煩悶に向かう覚悟」を失うことなく、ぼく自身も何とかして歩んで行きたいものだ。

 


 

 

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 モノドラマは俳優たちが一人で稽古を重ね、技量を高め、独自の演目を持つために企画され、今は亡き目黒幸子さんや斎藤昌子さんら諸先輩の参加も仰ぎ、公演を重ねてきました。劇団の創設17年目のことです。もちろん基本は変わりません。しかしその内、この試みの持つ別の意味も重ねて意識されるようになりました。
 モノドラマの多くは近代日本の短編を題材とします。明治から戦中戦後にかけ、文学者たちの根底にあったのは、わが国の近代が自身の必然から生まれたものではなく外からの揺動であったという不安定感です。その後の現代まで繋がるわが国の社会自体の浮遊感覚もこれと無縁ではありません。昭和も100年を迎えました。私たちは何を失い、何を曖味にしてきたのか……
 モノドラマに創作としての独自性があるとしたら、それは俳優が作家の創作衝動を「身体」の実感として生きることです。私たちはかつて何に触り、何を感じ、何を幸せあるいは不幸せとして生きてきたのか。それを観客と共に、舞台の実感として共有します。もし、私たちの「根底の不安」に東西の差異があるとしたらどこなのか、どこまで降りれば共通なのか。今回は、近代ヨーロッパ、ロシアの作家における創作衝動も見つめつつ、展開したいと考えています。

原田一樹

 

 モノドラマは、アトリエでの公演を前提に99年にスタート、その後、キンダースペースではアトリエ以外の空間でも、最も上演の多い演目となりました。もちろん登場する俳優が一人、装置は抽象的でいっぱい飾りを必要としないなど、機動性の良さによります。一方で「一人」というのは、観客に必要以上の集中を強いる場合があり、初めて演劇に触れる高校生などにとってこの観劇がふさわしいのかという危惧、つまり演劇は退屈だ、と思わせてしまうのではと怖れてもいました。
 もちろん、たくさん人物が出ていれば退屈ではない、ということはありません。ドラマの基本は葛藤です。どれだけ人が出ていようと、そこに多様な価値観に揺れる葛藤が描かれていなければドラマは退屈であり、登場人物がたった一人でも、その内側に深い葛藤と揺れが描かれていればドラマはうねります。
 モノドラマの場合、その葛藤の基本は原作者の創作行為にあります。なぜ、そこに筆を下ろしたのか、何を描こうとしてもがいたのか。どのような煩悶が文字の向こうに描かれているのか。文芸に限らず、優れた作家の創作衝動は強く深いものです。時代、社会との軋轢、存在への疑問と渇望。モノドラマはこの創作の煩悶を俳優の身体に落とし込む試みです。
 文学は、あるいは芸術は何の役に立つのか、という問いかけは、いつの時代も繰り返されてきました。しかし、この問いかけ自体が消費社会の経済活動を前提にしています。「何かの役に立つ」その「何か」それ自体は、いつ、どのようにして造られたものなのか。それを前提にすることを問わずにいいのか。あらゆる芸術創作は常にこの問いかけと伴にあります。
 キンダースペースは、今年限りをもってこのアトリエを去ることになりました。私たちにとっては問いかけと創造の場でも、消費社会の中ではここは一つの不動産です。もちろん、芸術創作は不動産を前提にするものではありません。創作の現場は私たちの内側にあります。煩悶に向かう覚悟を失わない限り、そして、受けとめようという意思を示していただける観客の皆さんの存在がある限り、歩みを止めずにいたいと考えております。
 本日はご来場ありがとうございました。

原田一樹

 

Aプログラム

〜善と悪の交錯〜

『范の犯罪』志賀直哉 1913年「白樺」/作者の従弟が同じような夫婦関係から自殺したことを直接の執筆動機としている。『城の崎にて』にも言及があり「范の妻の気持ちを主にした」創作もしたいとあるが果たしていない。女性を描けていない自覚はあった。明治以降、知識人の社会への不適合の実感は、表面的な西洋化による。志賀はここに「自我の肯定」を強く出した。不適合を自己暴露した私小説とも、自身も属する「白樺派」の理想的個人主義とも異なる。范は「本当の生活」を求め「聖書」を読む。が「神」は彼の心には響かなかった。

『火は早いうちに消せ』レフ・トルストイ 1885年「トルストイ民話集・人は何で生きるか」所収/『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の成功により世界的文豪となった作者は、その後、死の前の無意味に精神を病む。たどり着いたのがイエスの「山上の垂訓」に基づく「神」の言葉。民話創作は自身の救済のためでもあった。本作は「右の頬を打たれたら~」「汝の敵を愛せ」等の『マタイによる福音書』の実質的な局面を示す。この「回心」を経た後は思想、宗教活動に献身。ガンジーやキング牧師に影響。武者小路実篤、志賀直哉らの「白樺派」もトルストイズムによる。トルストイ本人は『復活』によりロシア正教会を破門。

『ひとごろし』山本周五郎 1964年「別冊文芸春秋」/生涯に300を超える作品を描いた。大衆作家とみなされがちだが、多くは近代以前のわが国を舞台に武士道、儒教、仏教とも異なる「共感」を描いた。私たちは何に心を動かし、何を拠り所に共同体を維持して来たのか。本作は延享三年=1746年が舞台。元禄から40年。「死ぬこと」と見つけた武士道も無実化、大衆社会の中でどう生きるのか。ラストの[およう]の言葉は周五郎の他作品を参照。原作にはない。近代法が決める善悪に「我」を対置した志賀。善も悪も神なくして語らないとするトルストイ。周五郎はそこに近世に私たちが自ら育んだ「情」を置いた。


Bプログラム 

~伝えきれぬ愛と歴史~

『椅子直しの女』ギ・ド・モーパッサン 1882年“Le Gaulois”(フランスの政治・文芸誌)/40才前後より不眠症、麻酔中毒、精神疾患。42才で自殺未遂。生涯独身で 43才で死去。自然主義の申し子。皮肉屋、冷笑、シニカルと言われるが、それは健康な社会適合者からの見方。実弟は同じ先天性梅毒で入退院を繰り返し、本人も20代より神経の異常を自覚。そこから作家はどのように手を伸ばしたのか。本作の主人公は文字も読めないジプシー女。彼女にとっての「愛の言葉」は現金の他は無かった。「人生」を左右するのは思い込みや決意ではなく些末な巡り合わせ。なお 1F(フラン)は100サンチーム。1sue(スー)は5サンチーム。現在の価値では1Fは約2,813円。
『藤十郎の恋』菊池寛 1919年大阪毎日新聞/モーパッサンがシニカルであるならば、自著に他人の名で高評価の解説を書いた菊池はどうなのか。「文藝春秋」創始者。同期の芥川に比べれば遥かに社会に適合出来ていた。本人も「させる才分なくして、文名を成し」としている。『恩讐の彼方』にしても『忠直卿行状記』『形』にしても、人がある立場に立ってしまった時に陥る狂気を描いている。「恋愛」も、歌舞伎の名人にとっては舞台で表現する所作以上のものではない。同化せず、「才分」を求めず、近代個人主義的な立場を貫いた。

『文字禍」『文字禍』中島敦 1942年「文學界」/『古潭」の二作品として『山月記』とともに発表。この年の十二月に33才で亡くなる。文壇に入ることのなかった作者は従来の文学の枠組みの外で創作を捉えた稀有な存在。人類は文字を得てから、論理(=記述)の枠組みの中で世界を捉え、また捉えうると錯覚して来た。文字は言葉とも文明とも置きかえられる。精霊を信ずる古代から、デマや陰謀を言ずる現代までの間、人類はどれほど進歩したのか。文芸は「見あやまること」「迷うこと」「間違うこと」「歴史に書き洩らされたこと」を扱う芸術。本作のラストは皮肉でも無意味でもない。粘土に記された文字は粘土に戻る。文明もまた、自然の中に生まれた線の交錯。認知が崩れた時、人は自然に戻る。

原田一樹

 

 

 

 


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一日一書 1751 寂然法門百首 100

2025-06-22 09:56:07 | 一日一書

 

水流趣海法爾無停

 
さまざまの流れあつまる海しあれば「
 

半紙

 

【題出典】『止観輔行伝弘決』五・中

 

【題意】 水流海に趣(おもむき)て法爾として停ることなし。


【歌の通釈】
様々の流れが集まる海があるので、ただでは消えまい、この百首の筆の跡は。

【考】
狂言綺語の和歌の流れは、行き着くところ実相の海に注がれる。教文を題としたこの百首は戯れ業ではなく、必ずや実相の海に導くものとなると自信をのぞかせる。その実相の理を縁として発心することこそが最上の発心であるという。つまり、和歌を詠むことは、実相を縁として発心する、すなわち天台の究極の教えである円教の発心につながるというのである。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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【考】にみえる「狂言綺語」とは「道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉。とくに仏教や儒教の立場から、いつわり飾った小説、物語の類をいやしめていう。また、転じて、すさび事、戯れ事、管弦などの遊びにもいう。きょうげんきぎょ。」(日本国語大辞典)との意味だが、和歌もまたその「狂言綺語」の類いと仏教からは軽んじられていた面があるのだろう。しかし、寂然は、その和歌も、仏教的な真理への導きになるのだと、この本の最後に述べています。

とくに、「ただには消えじみづぐきの跡」と、その自信のほどを力強く言い切るところに、感動を覚えます。自分が書いたものは、そう簡単には消えないぞ、という自信。それは、文筆に携わる人間の誰しもが、こころのどこかに潜ませているものでしょう。

ということで、ながながと(だらだらと)書き続けてきた「寂然法門百首」も、めでたく100回を書き終え、完結となりました。これを書き始めたのは、なんと、2019年1月4日でした。それから6年半も経ってしまったわけです。

「一日一書」と銘打っているのですから、そのとおりに書いていけば、100日で終わるはずですが、なまけもののぼくには、そんなことは到底できず、一回分を書くにも、どういう字体で書こうかと、一字一字を字典で調べていくのが、だんだん面倒になったりするうちに、ひどいときは年に数回しか書かないなんて事態となりました。

ちょうど半分くらいまで書いたころに、ファイルしてあるものを長男に見せたら、へええ、これはいいなあとため息交じりに言うので、まんざらお世辞でもあるまいと勝手に判断して、完結したらぜんぶお前にやるよ、と言ったのでした。それから数年たってやっとこそ完結したわけですが、100枚全部渡したら、かえって迷惑かもしれません。B4ファイル3冊にもなるので。

90を越えたあたりから、掲載していたgoo brogが11月でサービス終了とのアナウンスがあり、これはやばいと、突然スピードアップして、いままでのペースからしたら驚異的なスピードでむりやり完結させてしまいました。

ブログの方は、まるごと「はてなブログ」に移行できそうですが、そちらでの更新は、あまり考えていません。そのため、この「寂然法門百首」の100回分を「Yoz Home Page」に格納する作業を現在続けています。現時点で、71〜100までの格納を終了しています。これもなかなかメンドクサイ作業ですので、少しずつやっていこうと思っています。ブログでは、過去の記事を探すのが大変ですが、ホームページでは目次がありますから、すぐにアクセスできます。

いままで、ご覧頂き、どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。

 

 


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