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木洩れ日抄 88  写真とは何か? ──「東慶寺境内における撮影禁止」を巡って

2022-06-27 10:40:05 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 88  写真とは何か? ──「東慶寺境内における撮影禁止」を巡って

2022.6.27


 

 北鎌倉にある東慶寺が、数年前に、「一眼レフカメラ」での撮影を禁止するとのお触れをだした。いつものように、重いカメラを抱えて嬉々として東慶寺門前に着いたとたん、その御触書を見て、愕然とした。そして、悄然として門前を去った。

 そこには、「当分の間」とはあったので、いずれ事態が改善したら、禁止も解けるかなあと思っていたのだが、今年になって、それが更に「悪化」して、全面的に撮影禁止となったことが、ホームページに掲載された。

 そのお触れをいちおうここに掲載しておきたい。


境内における撮影禁止について  2022年06月07日

カメラ、スマートフォンを問わず、境内における、一般参拝者の撮影行為はご遠慮ください。
携帯電話とスマートフォンが普及して以降、写真や動画の撮影がとても身近なものになり、我々の生活は大変便利になりました。
一眼レフカメラも求めやすくなり、本格的な撮影に臨まれる参拝者も増えました。
そんな中には、お寺であることを忘れ、本堂をお参りしない方も多く、足元に咲いている花や苔を踏みつけ、進入禁止の場所に入り込んだり、勝手に物を動かしたり、見境がない人も出始めました。
なにより残念なことは、特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖がつき、目の前のことに対して、「心」で感じるのを忘れてしまったことです。
東慶寺では2年前より、境内環境の向上を目指し、水脈などの改善活動「大地の再生」に取り組み始めました。その成果は如実に表れており、植物の表情はもちろんのこと、境内の空気が明らかに変わり、参拝者や寺に住む我々の心までも穏やかにさせてくれます。
神社仏閣の境内が美しく、豊かであるべきなのはこの為なのだとはっきり分かったのでした。
参拝者の皆様にも、この空気の変化を肌で感じ、ご自身の心のあり方を大切にしていただきたいのです。
心を育むのも寺の重要な役目と思い、決断いたしました。
何卒ご理解いただきたく、お願い申し上げます。

東慶寺住職


 最初のお触れでは、「一眼レフカメラ」での撮影禁止だったので、じゃあ、ミラーレスならいいのか、じゃあ、スマホならいいのか、というような問い合わせが「殺到」したのではなかろうか。ぼくだって、そのくらいのイチャモンはつけたくなったから。それで、いろいろ検討した結果、今回のような決定に至ったということのようだ。

 境内での撮影禁止ということ自体は、ぼくが何か文句をいう筋合いのことではない。たしか、極楽寺などはずっと前からそうだし、寿福寺などは境内にすら入れてくれない。だから、それはどうでもいいのだ。

 どうでもいいとはいっても、東慶寺は、もう十数年も前から、ぼくの大事な撮影スポットだったから、残念でしょうがないということはある。あるけれども、だから、どうしろというわけでもない。

 このお知らせを読んで、ずっと心の中にわだかまっていた思いは、「ああ、またか。」という一種の嘆きだった。それは、「なにより残念なことは、特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖がつき、目の前のことに対して、「心」で感じるのを忘れてしまったことです。」という一節にある。

 これはいったい誰に向けて発せられた言葉なのだろうか。「特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖」がついたのは誰なのか? 「目の前のことに対して、『心』で感じるのを忘れてしまった」のは誰だというのだろうか?

 文脈からいえば、東慶寺にやってきて、写真を撮る人すべて、がその「主語」ととれる。べつの言い方をすれば、「あなたたちは」ということになるだろう。そしてその後の文面を総合すれば、

あなたたちは、特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖がつき、目の前のことに対して、「心」で感じるのを忘れてしまったのです。どうぞ、ご自身の心のあり方を大切にしていただきたい。私どもは、あなたたちの心を育むのも寺の重要な役目と考えております。

ということになる。

 お寺というものが、人々を教え導く使命を持っていることを疑うものではない。その使命感が強いからこそ、こうしたものいいとなるのもうなずける。

 しかしだ。写真を撮っている者が、「目の前のことに対して、『心』で感じるのを忘れてしまっている」と、どうして断定できるのだろうか。あまりに勝手な断定ではないのか。その勝手な断定のうえに、「あなたたちの心を育んでやりたい」と言う。「お寺だから」といって済ますには、あまりに尊大な態度ではあるまいか。

 そもそも「目の前のことに対して『心』で感じる」とは、いったいどういうことなのだろうか。それは、今自分が生きているこの時間と場所を、全身で感じ取るということだろう。お寺の境内にいれば、花も木も本堂の屋根も目に入るだろうが、そうした「目にはいる」ものだけではない。小鳥のさえずりや、人々の話し声や足音、さらには鐘の音や、読経の声さえ聞こえてくるかもしれない。音だけじゃない。空気の冷たさとか、風のながれとか、線香の香りとか、そういった触覚、嗅覚にも訴えてくるものも多かろう。それらを、全身で、全感覚で受け止め、今という時間を十分に味わい、生きて欲しい、ということだろうと思う。それにまったく異論はないし、むしろ大賛成だ。

 ただ、そのことが、「カメラで写す」と、できなくなってしまったり、忘れたりしてしまったりする、というのは、直接の関係がないことだ。

 せっかく東慶寺まで足を運んだのに、その境内にいることを全身で味わおうともせずに、「いちおう撮っておいたから、後で写真を見ればいいや」と考えて、さっさと帰っていく人がそんなにたくさんいるものだろうか。ほとんどの人が、十分に東慶寺の境内に流れる時間を感じ取り、見たいものを見て、あとはその記念にスマホで写真をとっておく、というのが普通ではなかろうか。

 だから、問題はやはり、「一眼レフ」なのだ。一眼レフカメラ(含む、ミラーレス一眼カメラ)で写真を撮る人というのは、「写真を撮る」ことが目的で東慶寺に行くわけだから、ごくまれに「肉眼じゃ見ない」という人もいるかもしれない。肉眼で見る人でも、写真に撮るものや場所を探す目的で見るので、「全身で感じ取る」ヒマはないかもしれない。

 しかし、「一眼レフ」カメラで撮る人が全員そうだというわけじゃない。写真を撮る人は、「見ない」人じゃない。むしろ、「よりよく見る」あるいは「よりよく見よう」とする人である。「とりあえず撮っておけばいい」という人が、わざわざ重いカメラを担いで東慶寺くんだりまで出向くわけがないではないか。

 東慶寺で、1枚の写真を撮るということは、東慶寺という場所のすべてを感じ取って、それを1枚の写真に集約しようとすることだ。その写真に、東慶寺の空気を取り込もうとすることだ。だから、とことん「見る」、そして「感じる」。音も、風のすずしさも、匂いも、なにも写真には写らないと思ったら大間違いだ。写真は「見える」ものだけを写すのではない。「見えない」ものも写すものだ。

 だからこそ、しつこくいつまでも撮り続ける。その人の姿が、偏執的に見え、オタクっぽく見えるのも致し方のないことなのだ。そして、時として、そういう意味での「いい写真」を撮ろうと熱中するあまり、「足元に咲いている花や苔を踏みつけ、進入禁止の場所に入り込んだり、勝手に物を動かしたり、見境がない人も出始め」るという言語道断な仕儀に至るわけである。
そういうとんでもないヤツに腹を立てるご住職の気持ちはよく分かる。そんなやつは、ホウキを持って追い出してもいい。

 ただ、そのことと、「特に考えもなく、とりあえず撮影してしまう癖がつき、目の前のことに対して、「心」で感じるのを忘れてしまった」こととは、区別して考えてもらわないと困るのだ。

 カメラが発明されたときから、おそらく、人々の間に根付いた偏見は、「写真というのは、人間の目で見ないで、機械の目で見た映像にすぎない。」ということだろう。最初のほうに、ぼくが「ああ、またか。」と思ったと書いたのは、その偏見がぜんぜんなくならず、依然としてある種の「説得力」をもってまかり通っているという現実への失望と怒りがあるからだ。

 写真に興味のない人は、写真というのは実に「安直」なものである、と思い込んでいる。とにかく、カメラのシャッターを押せば誰でも撮れる、という安直さ。その昔「写るんです」というカメラがあったり、誰でも簡単に撮れるからというので、ヒドイ差別語の名称で呼ばれたカメラもある。そういう人たちは、写真を撮るということがなかなか難しいと思っていたのに、それが簡単に撮れるカメラが出てきたということへの一種の驚きからそういうネーミングをしたり、安直なものだと思い込んだりしたわけだ。そして、そのことで、「写真=安直」という図式がひろく行き渡ったのだ。

 しかし、それはもう何十年も前の話だ。それから時代は大きく変わった。写真というものも、その意味とか役割が激変した。「誰でも撮れる」という方向は、スマホのカメラによってそれこそ「写るんです」の比ではなくなった。そしてそれ以上に、写真の概念を根本から変えたのは「共有」という概念である。

 写した写真を、瞬時に友達におくり、「共有」する。あるいは、インスタグラムに投稿することで、それこそ世界中の人に瞬時に発信できる。写真は、「とりあえず撮って、後から自分が見る」ものじゃなくなったのだ。

 たとえば、寝たきりになって、どこへも出かけられなくなった母親が、東慶寺を懐かしんで、梅を見たいと言う。親孝行な娘が、それならかわりに私が行ってきてあげるわ。梅の写真を送るから、見てね、といって、スマホを持ってでかける、といったシーンはごく当たり前のことになっているだろう。

 「インスタ映え」などという言葉が大流行し、それもすでに廃れ、単に「映える」というヘンテコな言葉になっているけど、写真は、今までのカメラではできなかった分野を開拓して、コミュニケーションの大事なツールとなっているのだ。

 その一方で、「一眼レフ」のほうはどうかというと、実際には、一部のマニアのものとなっている。もちろん、メーカーとしても、「スマホじゃ撮れない画質」を宣伝して、なんとか、カメラに誘導しようと懸命だが、もはや昔の市場規模を回復することはできないだろう。東慶寺のご住職は、「一眼レフカメラも求めやすくなり、本格的な撮影に臨まれる参拝者も増えました。」と言われるが、「一眼レフ」は決して「求めやすく」なっているわけではない。デジタルになってから、「一眼レフカメラ」や「ミラーレス一眼カメラ」は、むしろ高価なものとなっている。しかも、それらは、カメラを買っておしまいとはならず、多くのレンズを揃えることにこそ意味があるわけだから、ますます一般の人は手がでない。そのうえ、スマホの画質が、ともすれば、半端な一眼レフを超えかねないという昨今では、よほどレンズにこだわる人じゃないと買う気になれない。というか、買えない。

 では、なぜ、東慶寺のご住職は「一眼レフカメラを持った人が増えた」と感じるのか。それは、主に、退職して金に余裕ができた高齢者が買うからである。その高齢者の中心にいるのがいわゆる団塊の世代であって、数がやたら多い。そういう層は、退職金もたんまりもらっている人も多いから、何百万という金をカメラやレンズにつぎ込むことができるのだ。そして、そういう人たちというのは、会社でエライ人だったりするから、超我儘で、人の言うことを聞かない。見栄っ張りも多いから、カメラ雑誌に投稿して入賞しようなんて思ったりする。そのためには、先生から教わった「構図」のためなら、どこへでも入ってしまう。苔を踏みつけても、そんなものはいくらでも生えてくるものだと勘違いしたりする。これで、言語道断な連中がメデタク誕生するわけで、そういう連中が、東慶寺のご住職を怒らせるということとなるわけである。

 かく言うぼくも、その団塊の世代の一翼を担う者で、薄給の教職に長くあったために、金は湯水のようにはとてもじゃないけど使えないが、それでも、カメラやレンズに、普通の人よりは多額の金を使うマニアの一員でもあることを認めるにやぶさかではない。その証拠に、数年前、海蔵寺で、リンドウの花を撮るのに夢中になって、庭と道との境を示す縄の数センチ内側に靴のつま先を侵入させたところを、ご住職ではない、ジイサンに、「おい、そこ、入っちゃだめだよ!」と冷たく叱責された「実績」がある。そのジイサンは、ずっとぼくの行動を監視し続け、ついに、「違反」を見つけて、ここぞとばかりに注意喚起を決行したのであろう。そこには、「なんだ、こいつ、いい歳しやがって!」という冷たさしか感じなかった。もちろん、ぼくは、丁重に謝ったけれど。

 こんなことをずらずら書き連ねていても、だんだん愚痴になっていくので、そろそろやめるが、言いたいことはただ一つ。写真撮るのも楽じゃないということだ。そして、多くの写真を愛する者は、さまざまな思いで、撮影している。決して「とりあえず撮って、後で見ればいいや」と思って、その瞬間を疎かにしている人ばかりではない、いや、むしろそういう人は少ないはずだ、ということだ。

 東慶寺のご住職には、できればその辺を分かってほしいものだ。撮影禁止そのものは、異論はないし、そういう連中が跋扈するなら、むしろ当然と受け止めているが、その「理由」に、少々問題を感じたというまでである。

 

 


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木洩れ日抄 87 「不可能」を超えて──劇団キンダースペース公演「夜明けに消えた」(Bプロ)を観て

2022-06-24 09:35:58 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 87 「不可能」を超えて──劇団キンダースペース公演「夜明けに消えた」(Bプロ)を観て

2022.6.24


 

 演出の原田一樹さんは、上演パンフレットで、「この宗教(キリスト教)は不可能が前提になっている。」として、こう続けている。

 

一方、「文学」も又、たどり着けないものにたどり着こうとする行為である。(中略)私自身が初めてこの作品に触れたのは、他の戦後劇作家も、矢代作品も、何も知らない頃だった。で単純に「そうか、芝居とはこういうものか!」と思った。同時に「これは大変だ」と思った。しかしその後、文学が「言語」では描けないものを描こうとするのならば、演劇も又、他者を生きるなどという「不可能」にのたうちながら作り上げる世界であると、思い至った。すくなくとも「戯曲」はそのように読みたいし、そのことに耐える作品を求めたい。


 劇団キンダースペースが、矢代静一の「夜明けに消えた」を取り上げたのは、1999年の第21回公演(シアターX)ということだが、残念なことに、ぼくはそれを見ていない。しかし、瀬田ひろ美さんと話していると、ときどき、その公演のことが話題になり、キンダースペースにとっては、大事な芝居なのだなと思いつつ、どうして、そこまで大事に思うのか不思議にも思ってきた。

 その「夜明けに消えた」を原田さんが次に手がけたのは、2016年3月、スターダス21の修了公演で、ぼくはそれを感動をもって見たのだが、それでもなお、原田さんが、なぜこの芝居にこだわるのかを、その時はよく理解していなかったように思う。

 というのも、ぼくは、不真面目ながらカトリックの信者であり、そうした信者の目からみると、どうもこの芝居は、どこか「こそばゆい」ところがあったのだろうと思う。原田さんが高く評価してくれるのは、宗教的な「身内」としてはありがたいが、「外」から見たらどうなんだろうという疑問だった。

 この芝居を書いた後、矢代静一は、カトリックの洗礼を受けたわけだが、そういう事情を考えれば(あるいは考えなくても)、この芝居を通じて、矢代静一は、自らが信仰に至るまでの内面の葛藤を過程を克明に辿り、それを複数の登場人物に仮託して演劇空間を作り上げたのだということが、「わかりすぎる」ほど分かってしまう。

 最後のほうの、主人公たる「ノッポ」の舞台へむかっての独白は、まさに、矢代静一の生々しい信仰告白となっているわけだが、そうした告白が、切実であればあるほど、観客は戸惑ってしまうだろう。信者でない観客は、信仰をどこか強要されているように感じてしまって、身構えることになるかもしれないし、なまくら信者たるぼくなどは、むしろ、自分の中途半端な信仰のありかたを責められているかのように感じてしまい、逃げたいような気持ちになってしまうのではないか。そんな気分が、感動の一方ではあったのではなかったか。

 そういう一種の戸惑いを残しつつも、原田さんがこの芝居を大事に思って手がけていることがことさら強く記憶に残ったのだった。そこへ、今回、キンダースペースで再び上演するということを聞いて、「なぜ、そこまで?」の思いはさらに強まり、もういちど、虚心にこの芝居に向かい合わねばならないと思ったのだった。

 アトリエの席に座って、原田さんのパンフレットの文章を読んで、これまでの疑問がすっと溶けていくのを感じた。そうか、そういうことだったのか、と。

 それと同時に、今までのキンダースペースが、そして原田さんが、何を大事に考え、何を表現しようとして心血を注いで来たのかということも、はっきりと分かったような気がした。

 「キリスト教は不可能を前提にしている。」という原田さんの一言は、まさにキリスト教の本質を突いている。「キリストの復活」というひとことを例にしても、その「不可能」は誰の目にもあきらかだ。「ぐず」がいくら、「復活した主を見た。」と言い張っても、だれもそれを「信じる」ことは「できない」。「いや、信じるのが信者でしょう。」と言われても、実はそうではないのだ。このあたりは難しいことで、この難しいことを巡って、数百年も思索を重ねてきたのだ。
世界中でもっとも多くの人に読まれてきた「本」だと言われる「聖書」は、しかし、もっとも多くの誤解を生んだ「本」でもある。いや「誤解」という言葉もここではふさわしくない。「誤解」は、対概念として「正解」の存在を匂わせるからだ。「正解」は、ないのだ。いや、そうじゃない。「正解」が「ない」ことを知りつつ、それでも「正解」(あるいは自分なりの「正解」)を求め続けることが、すなわち「信仰」というものだというしかないのだろう。

 イエスの言葉だけをとってみても、矛盾だらけだ。「情欲を持って女を見れば、それは姦淫したと同じだ。天国に行きたければ、その目をえぐり出して捨てよ。」といいながら、売春婦を責める人々に、「お前達の中で罪のない者は、この女に石を投げよ。」という。いやらしい目で女をみた「だけ」で、地獄に落ちるぞ、と言っているかのように見えるイエスなのに、売春をこととする女を誰が裁けるか? と人々に問う。こうした矛盾する言葉を、そのままに受け取って生きようとすることは、それこそ「不可能」なことだ。だからこそ、これまで人々は、自分(たち)に都合のいいイエスの言葉だけを受け取って、自分の「信仰」だと勘違いしてきたのだ。そこに「宗教戦争」などという、およそ「信仰」とはかけ離れた愚行が繰り返されてきた原因があるだろう。

 しかし、一人の人間が、「信仰」に向かおうとするとき、そこには必然的に、葛藤が生じるものなのだ。「信じる」ことと「信じない」こと、「愛すること」と「憎悪する」こと、「許す」ことと、「許さない」こと、そうした二つの心が、常に対立して、せめぎあう。そのせめぎ合いのなかから、そのドラマの中から、少しずつ見えてくるものがある。あるいは、見えてくるはずだと思うことが、すなわち「信仰」というものの本質だろう。

 「夜明けに消えた」が描く世界は、そうした一人の人間の「中」に、「内面」に渦巻き続ける対立、つまりはドラマそのものなのだ。

 

 

 この芝居は、三重の入れ子構造になっている。

 将来を嘱望されていた新進のデザイナーだった「ノッポ」と呼ばれる男が、、忽然と姿を消して(「蒸発」して)しまう。それからしばらくして、その「ノッポ」が書いた戯曲が発見される。まずは、幕開きと同時に、「ノッポの蒸発」を語る男が登場する、それが、一番外側の「層」である。その後、舞台では「ノッポ」が書いた戯曲が上演される。それが二番目の「層」である。そして、その戯曲の中に、もう一つの「層」が入っている。それが、「聖書」の中の言葉である。その言葉は、説教としての言葉ではなく、「ドラマ」としての言葉だ。特に、最後のほうで「ノッポ」が語る、有名な「ペトロの否み」は、聖書の中でももっとも劇的なシーンだが、そのシーンを、「ノッポ」が語るとき、舞台には、イエスとペトロが「現れる」。その「現れた」ペトロとイエスに対して、「ノッポ」が「嫉妬」する。ここに時空を越えた、演劇空間が生まれる。

 しかし、こんな難しい芝居があるだろうか。これを、この通りに「演じる」ことは可能だろうか。下手をすれば、キリスト教のプロパガンダに堕してしまいかねない危うい台詞を、生々しい、生きた「言葉」として、舞台で「発声」できるだろうか。

 こうした難題が、演出家、役者、そして他のスタッフたちのうえにのしかかったはずだ。まさに、原田さんの言うように「不可能」にのたうちまわったことだろう。

 しかし、驚くべきことに、今回の芝居では、それが可能となった。それが言い過ぎなら、可能になったかにみえた。ぼくには、イエスの声が、ペトロの泣き声が聞こえた、なんていえば、神がかってるように聞こえるかもしれないけれど、そう言ってもいいくらいの舞台だった。

 その上、さらにぼくの心を打ったのは、最後の「ノッポ」の独白的信仰告白だった。「神とはなにか?」という、窮極の問に、「ノッポ」が魂を絞りだすようにして迫っていく言葉の数々。そして、最後に「小さき者は、まだ、人間らしい形をしているが、人間でなくて……尊い宝物で、いってみりゃ、神の子だからだ。」という「言葉」に至るまでの演技の、言葉の紡ぎ方の見事さ。

 小さな赤ん坊が「神の子」である、という断言は、それこそキリスト教の神髄を表す言葉で、それを、観客に向かった形で、独白の形で、「発声」する。それは尋常の技ではできないことだ。この難しい役を見事に演じきった関戸滉生には感服した。

 「ノッポ」だけではない。他のすべての役者が、それぞれの役柄を演じるのは当たり前のことだが、「役」の「層」の下には、役者自身の人間としての「層」がある。その「層」が、「役」とどういう関係で浮かび上がってくるのかということも芝居の上では重要だろう。役者自身の「層」が、「役」を食い破るのか、「役」に溶け込むのか、「役」を支えるのか、いろいろなあり方があるだろう。

 ざっとした印象だが、「食い破った」感のあるのが、森下高志、そして、「ぐず」を演じた山崎稚葉。森下は、「熊」の持つ、荒々しい情熱を激しい振幅で演じ、人間というものの底知れない闇を覗かせてくれた。山崎は、ともすれば「偽善性」の匂いかねないセリフを、「自分」の言葉として内面に取り込んで発するのと同時に、肉体が、それを裏切っていく必然性を、思いがけないほど見事に演じてみせた。

 「溶け込んだ」感のあるのが、深町麻子と小林もと果。深町は、「溶け込む」どころか、自分の持ち味を楽しむかのように、「役」に溶け込ませていき、抜群の存在感と時代感を醸し出した。小林は、「溶け込む」というよりは、老婆という「役」そのものと化して、「言葉そのもの」になったとも言える。

 この芝居の中で、実は非常に重要な役割を果たすのが「ひばり」で、ある意味、この役がいちばん難しい。なぜなら「ひばり」は、「無垢」そのものだからだ。赤ん坊ならともかく、成人した大人はもはや「無垢」ではありえない。その「無垢」を失った人間が、「無垢」を演じることは、それこそ不可能に近い。「無垢」な者の発する言葉を、「人間の言葉」として、空間に定着させるという難題に、原田祈吹は、果敢に、誠実に取り組んでいたことに拍手を送りたい。

 世俗の価値観を代表する者としての「けち」と「弱虫」を演じた丹羽彩夏、と杉山賢。「現代」の人間として出てくる。「男」を演じた林修司と「助教授」を演じた谷口就平(スターダス21Neu)。それぞれの役者が、「役」と「自分」との関係のあり方を探りながら、自信を持って演じたことで、芝居全体の密度が極めて高いものとなった。

 その芝居の密度を、鬱陶しいものと感じさせることなく、キンダーのアトリエという狭い舞台空間を、外側に向かって解き放つような透明感を持った音楽は、和田啓ならではのものだろう。キンダーの魅力の一つである照明とともに、「光」と「音」は、キンダースペースの命でもある。

 原田さんは、パンフの文章の最後に言っている。演劇は、「不可能」にのたうちながら作り上げる世界だが、「そのような作品がどれだけあるだろうか。」と。(今はもうない)、だから時には、「夜明けに消えた」に戻らねばならないのだと。アフタートークでも原田さんはそうした趣旨の発言をし、「まあ、井上ひさしまでかな。」と付け加えていた。それに対して、対談者の矢代さんの娘、矢代朝子さんは、「今だってありますよ。」とやさしく反論していたけれど、ぼくには分からない。あまりにぼくの見ている芝居は限られているから。けれども、こういう芝居をこういう姿勢で、演じ続けることのできる劇団が、今どれだけあるだろうか、と思うのだ。きっとあるとは思うけれど、キンダースペースは、今の日本には稀有な劇団であることだけは間違いないことだ。

 

 

 ここまで書いてきて、改めて、2016年のスターダス21修了公演を見てのぼくの「感想文」を読んでみた。6年前の自分の文章のほうが、いい。歳はとりたくないものだ。今のぼくには、ウナムーノを引き合いにだす力がないし、文章もダラダラとして歯切れが悪い。けれども、少しは、芝居の本質が(井上やすし風に言うなら、「演劇の機知」のことが)分かってきたのかもしれない。もって瞑すべしか。

 しかし、それよりも何よりも、いちばん驚いたのは(何を今更と言われそうだが)、あの時「ノッポ」の役をやったのが、今回と同じく、関戸滉生だったことだ。関戸には以前から注目していたが、その初まりが、実は他ならぬ「ノッポ」だったのだ。忘れっぽいぼくではあるが、せめて、このことぐらいは覚えていたかったとつくづく情けなく思う。

 何はともあれ、キンダースペースの芝居は、いつもぼくに生きる勇気を与えてくれる。批評めいたことを書いた後には、いつも、感謝の言葉しか出てこない。いつも、ほんとうに、ありがとう!

 

 

 

 


 

 

【テキスト】

 「夜明けに消えた」発表時の戯曲評には、作品への高評価の上で、作者の「危機」を指摘する声が多い。「己れの手の内をさらけ出して待つということは誰にもできることではない。真面に本題を明らかにするようなことは未だ嘗てなかったこの作者がなぜこのように変わったか……」〈田中千禾夫〉。「この作品が矢代の戯曲の深化を示すものか、危機を示すものか……」〈八木柊一郎〉。「この戯曲を書くことは……今までの劇作家としての位置を放棄することになりかねない」〈奥野健男〉。これはもちろん、主人公の信仰告白の切実さに依る。自身の内面に降りて過去を追い詰めていく言葉の積み重ねが、これ以前は一つのモチーフであった「信仰」を正面に据えていくからだ。
 キリスト教は、同じ神をいただく他の一神教が「律法」や「戒律」という明確な神の言葉を持つのと違って、イエスの言動それ自体の中に神を見る宗教だ。『新約聖書』は後から書かれたイエスの行動の記録である。ここには解釈も編集もある。さらにそれを教会が、時代と地域の都合で権威づける。
 つまりはこの宗教において「神」はとても迂遠で、曖昧だ。「主が、私の中に住みついてしまわれた」というような文学的言い回しも、だから成立する。「信仰」は常にイエスの言動からたどられねばならない。むしろそれ自体が「信仰」だ。畢竟「神」にたどり着くこともない。イエスの死に際の言葉「神よ、何故我を見捨て給う」を聞くまでもなく、この宗教は「不可能」が前提となっている。(もちろん別の解釈もある)
 一方、「文学」も又、たどり着けないものにたどり着こうとする行為である。ここで言いたいのはつまり、作家矢代静ーに同時代の演劇人が感じた「危機」は、なにも彼の「信仰」が招くものではなく、彼が既に抱えていた文学者としての「不可能」が「信仰」の形を借りて表象せられたという事だ。もちろんこれを産み落とすのは「文学」に対するギリギリの誠実さである。
 さて、私自身が初めてこの作品に触れたのは、他の戦後劇作家も、矢代作品も、何も知らない頃だった。で単純に「そうか、芝居とはこういうものか!」と思った。同時に「これは大変だ」と思った。しかしその後、文学が「言語」では描けないものを描こうとするのならば、演劇も又、他者を生きるなどという「不可能」にのたうちながら作り上げる世界であると、思い至った。すくなくとも「戯曲」はそのように読みたいし、そのことに耐える作品を求めたい。
 今、そのような作品がどれだけあるか。だから時には「夜明け……」に戻らねばならない。舞台のラスト、登場人物が口にする「せわしない時代」に、初演から54 年経った今、私たちは生きている。「危機」は、蒸発したのではない。ただ、見えなくなったのだ。

演出 原田一樹

 

 

 

 

 

 


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一日一書 1719 寂然法門百首 67

2022-06-14 15:48:45 | 一日一書

 

一向求菩提

 


入りがたき門とは聞けど錦木の立つる心はただ一筋に 

 

半紙


金文

 

【題出典】『華厳経』六


【題意】 一向求菩提

一向に菩提を求めて


 
【歌の通釈】
あなたの家は(仏道は)入ることが難しい門とは聞いているが、錦木を立てる(発心する)、その心はただ一筋に真直ぐである
【語釈】錦木=陸奥の風習で。男が女に思いを伝える際、女の門前に木を立て。女が受け入れる場合はそれを取り、受け入れない場合はそれをそのままにしておく。受け入れられなかった場合、男はさらに木を千束を限りに立て続け、その思いの強さを伝えるというもの。錦木はその立てる木のこと。


【考】
初めて発心する人がひたすらに菩提を求める姿と、恋を告白する若者が一心に錦木を立てる姿を重ね合わせた。この錦木を用いて恋と仏道を詠む歌がこの後散見される。「にしきぎを千束立つるをかずとして南無阿弥陀仏と日々にとなふる」(粟田口別当入道集・恋阿弥陀仏といふ心を・一七九)、「あぢきなしいざこり立つる錦木を法のためにとなひかへてん」(林葉集・恋催道心・八八六)、「さりともと立てし錦木こりはててけふ大原に墨染の身ぞ」(月詣集・恋中・加茂卅講五巻日、重保が家にて恋変道心といふことを人々よみ侍りけるに・四七七・澄憲)。いずれも影響下にあるものであろう。またここに見られる「恋阿弥陀仏」「恋催道心」「恋変道心」などという歌題の流行も、この『法門百首』恋部を受けてのものと考えられる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


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日本近代文学の森へ (219) 志賀直哉『暗夜行路』 106 「主人公」の意味  「後篇第三  十」その2

2022-06-14 11:34:46 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (219) 志賀直哉『暗夜行路』 106 「主人公」の意味 「後篇第三  十」その2

2022.6.14


 

 前回、「主人公」という言葉をめぐって、ぼくが、突然出てきたこの言葉に面食らって、「『暗夜行路』は、私小説的でありながら、どこか『主人公』たる謙作を、突き放して眺めている風情があると言えるだろう。」などと書いたものだから、毎回この連載を読んでくれている友人二人から反応があった。そのうちの一人Hは、FBのコメントで、「やっぱりこの『主人公』というのは違和感があるから、ひょっとして志賀直哉の書き間違いじゃないか?」という意見をくれた。しかし、書き間違いというのは、やっぱり考えられないから、まあ、とにかく、謙作の「客観化」なのだろうと、ひとまずは決着をみたのだった。


 それから間もなく、FBをやっていないもう一人の友人Kから、次のようなメールが届いた。全文を引用しておく。


ふつうに読んで、ということなら、主人公の「公」は「乃公」の「公」で、ちょっと、おどけて威張って、「ご主人さま」「お雇い主さま」(たるオレは滑稽だ)ということだろうけど、そうか、「この」小説の作り手の顔が、意識しないで出た、と考えるのも、おもしろい、とおもいました。あとに出す「雇うた人」「雇われた人」がクドくないようにするにも、その無意識のあらわれと考えておいたほうがいいかも、とおもった。(まあ、ふつうの読み方も併せて提示しておいたほうが、穏やかな感じもするんだけどね。)


 「乃公」というのが、そもそも分からなかった。読み方すら分からない。調べてみたら、おどろくべきことが分かった。

 「乃公(だいこう・ないこう)──一人称の人代名詞。男性が、目下の人に対して、または尊大に、自分をさしていう語。我が輩。」(デジタル大辞泉)

 また、日本国語大辞典では、「(汝の君主の意から)男子の自称。目上の男子が目下の者に向かって、あるいはみずからを尊大にいう。我が輩。」とある。

 このことを知っていれば、「主人公」が「おどけて威張って、『ご主人さま』『お雇い主さま』(たるオレは滑稽だ)ということだろう」というKの言葉の意味も分かるわけだ。

 しかし、これ、知らなかった。

 で、このメールを友人Hに転送したら、「そうかあ、熊公、とかいうやつかあ。」と返事がきた。これもまた考えの及ばないことだった。試しに、「接尾語」としての「公」を調べると、はたして「 人名の略称などに付いて、親愛の情、または軽い軽蔑の意を表す。『熊―』『八―』」(デジタル大辞泉)とある。

 これで、「主人公」は「ご主人さま(たるオレ)」の意味であることは盤石だろう。ただ、ひょっとしたら、Kのいうとおり、ぼくの「解釈」も、ちょっとは「おもしろい」のかもしれない。

 しかし、それにしても、である。Kにとっては「ふつう」に読むとこうなる、という読み方が、ぼくにはまったく出来ていなかったというのは、ショックである。Kは、メールの最後に、「まあ、ふつうの読み方も併せて提示しておいたほうが、穏やかな感じもするんだけどね。」と括弧付きで、穏やかに諭してくれているわけだが、「普通の読み方」が出来てなかったんだから、「提示しておく」もなにもありゃしない。

 実は、こういう「ショック」は、なにも今に始まったことではないのだ。大学生のころだったか、ぼくが書いた文章の感想をこの同じ友人Kが手紙をくれたのだが、その中に「伎癢を感じた」と書いてあったので、褒められているのか、けなされているのかさっぱり分からず、辞書を引いて、あ、ひょっとして褒められたのかも! って思ったことがあるほどで、どだい、ぼくなどとは教養のレベルが違うのである。もう一方のHのほうも、高校生のころ、通学途中のバスの中で、突然、おれは最近「パンセ」を読んでる、とか言うものだから、「パンセ」の「パ」の字も知らないぼくは、素っ頓狂な声で、なんだ? それ? と聞いたら、なんでもパスカルの本だというようなことだったので、慌てて読んだという記憶がある。

 かように優れた友人たちが、いまだにこの愚かなぼくを見捨てずに付き合ってくれていて、おまけに、ちっとも先へ進まない「暗夜行路」の感想文を丹念に読んでくれて、感想までくれるということは、ありえないほどありがたいことである。

 まあ、そうしたわけで、「主人公」という「言葉」をめぐって、「プチ同窓会」みたいなことができたこと自体喜ばしいことだ。

 さて、本題に戻らねばならない。

 「目刺し女」とKが名づけたお仙に対する気持ちが変化してきた、という所までだった。その続き。


 お栄からは無事に着いたという簡単な便りだけで精しい事は何もいって来なかった。彼は此所(ここ)へ家(うち)を持つまでは、家が決ったら落ちついた気持で一人寺廻りをする事を大きい一つの楽みとして考えていたのだが、さて実際落ちついて見ると、何故かかえってそれが出来なくなった。妙に億劫になった。そして出掛けるとすれば大概新京極のようなごたごたした場所を歩き廻り、疲れ切って帰って来る、そういう方が多くなった。会う友達もなく、時には自分ながら法のつかないような淋しい気持になる日もあったが、それにしろ、それは大森の日のような、または尾の道の日のような、それほどの参り方をする事は近頃全くなくなった。まとまった物ではなかったが、書く方も少しずつは出来ていた。


 「法のつかない」は「のりのつかない」と読むのだろうか。そう読んで、「よりどころがない」の意味だろうか。

 気になるお栄は、「簡単な便り」だけ。

 引っ越しのゴタゴタや、お栄の出発や、いろいろ落ち着かない日々を経て、謙作は、そういうことがすべて落ち着いたら、お寺巡りをすることを楽しみにしていたのに、いざ、そうなってみると、お寺巡りなんかは「妙に億劫」になってしまう。かえって、ごみごみした新京極などへ行って、疲れて帰ってくるようになる。

 そういうことは、ぼくにもよくあることだ。学生の頃など、ヒマになったらゆっくり本を読もうなんて思っていても、いざヒマになってしまうと、かえって落ち着いて本など読む気になれない。試験前の時間が切羽詰まったときのほうが、よっぽど読めたりしたものだ。もちろん、試験前などというときは、現実逃避でもあったのだろうが、なにか、忙しいときのほうが、精神は生き行きと躍動するものなのかもしれない。

 それでも、謙作の心は、「大森」や「尾道」にいたころのような「参り方」はしなくなったという。謙作の受けたダメージ(出生の秘密)は、ながく謙作を痛めつけ苦しませてきたのだったが、ここへ来て、ようやく、回復の兆しが見えてきたということだろう。

 

 

 

 


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