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日本近代文学の森へ 259 志賀直哉『暗夜行路』 146 告白のゆくえ 「後篇第四 六」 その1

2024-04-22 10:48:31 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 259 志賀直哉『暗夜行路』 146 告白のゆくえ 「後篇第四 六」 その1

2024.4.22


 

 直子の告白を聞いた謙作は、翌日、友人のもとを訪ねるために外出する。


 翌日謙作は一条通を東へ急足(いそぎあし)に歩いていた。南風は生暖かく、肌はじめじめし、頭は重かった。天候の故(せい)もあり、勿論寝不足の故もあったが、その割りには気分が冴え、気持は悪くなかった。つまり彼はしんで亢奮していた。ただ、落ちついて物が考えられなかった。断片的に色々な事があたかもそれが廻転しているもののようにチラチラと頭にひらめくばかりだった。

 


 「第四 6」は、こう始まる。「第四 5」が、三人称の視点から書かれた特異な部分だったが、ここではまた謙作の視点に戻っている。巧みな構成だ。

 短い文章なのだが、案外複雑なことが書かれている。「天候」「寝不足」のために「頭は重」かったが、「その割には」、「気分が冴え」「気持ちは悪くなかった」という。体調はイマイチなのだが、気分が妙に冴えていて、気持ちが悪いということがない。

 志賀直哉という人は、「気分」がすべてなので、この「気分は悪くない」というのは、重要だ。普通なら「不愉快だ」の一言で済んでしまうところを、「気分は悪くない」どころか、「気分が冴えている」というのだから、注目に値する。

 そうした「冴えて」「悪くない」気分は、「しんで亢奮していた」からだと説明される。説明といっても、くどくど説明しているわけではない。ただ「つまり」という接続詞でそれが表現されているのだ。簡潔の極み。

 「しんで亢奮していた」から、「落ち着いて物が考えられ」ず、「断片的に色々な事があたかもそれが廻転しているもののようにチラチラと頭にひらめくばかりだった。」というのだ。

 何か重大なことに直面して動揺しているとき、よくこんな感じになるような気がする。いろいろな場面、言葉などが、断片化して、頭に浮かぶのだが、それがちっともまとまらない。まとまらないのだが、どこかで、精神が高揚していて、それがときとして精神の深みをのぞき込むような形になる。

 謙作は、歩きながら、直子との会話を反芻して、自分の精神を整理しようとする。


 「直子を憎もうとは思わない。自分は赦す事が美徳だと思って赦したのではない。直子が憎めないから赦したのだ。また、その事に拘泥する結果が二重の不幸を生む事を知っているからだ」彼は前夜直子にいった事をまた頭の中で繰返していた。
 「赦す事はいい。実際それより仕方がない。……しかし結局馬鹿を見たのは自分だけだ。」

 


 直子の告白を聞いて、謙作はどのような反応を示したのか、ここで初めて明らかになる。謙作は、「赦した」のだ。

 それは、謙作の道徳観念からのことではなくて、「直子を憎めない」という、いわば「直子への愛」からのことだったという。そして、更に、「その事に拘泥する結果が二重の不幸を生む事を知っているからだ」という、いわば「処世上の判断」からでもあったという。

 直子の告白を聞いても、謙作は直子を憎めない。憎めないから赦すしかない。憎みつつ赦すということは謙作にはできないのだ。もちろん、そんなことは誰にだってできないだろう。「赦せない」なら、憎むことになる。人間の感情はそのようにできている。

 二番目の「処世上の判断」はこの際どうでもいい。それは、あくまで理性的な判断にすぎないし、謙作にとっては実際にはどうでもいいことだ。問題は、謙作の直子への感情のありかたなのだ。

 謙作が直子を「憎めない」以上、「赦すことはいい」という結論は当然の帰結だ。しかし、その次にくる、「しかし結局馬鹿を見たのは自分だけだ」が、強烈にリアルだ。

 直子への愛情とか、赦しとか、そういうところを出たあとに来る、「なんだ、おればっかりが貧乏くじか」というむなしさ。直子と要は、なんだかんだいっても「いい思い」(かどうかは知らないが)をして、まあ、それなりに苦しんでいるだろうけど、それとはまったく関係のないオレは、「いい思い」はまったくなくて、苦しみだけをひっかぶっている。なんなんだ、これは。オレはまったく「割に合わない」じゃないか。

 こういった思いが、実にリアルで、見事に言語化されている。周囲の目を気にする人間は、こんなことを思わない。というか、思っても言わない。小説はフィクションだけど、志賀直哉が、世間体を気にする人なら、こんなリアルなセリフを謙作に言わせないだろう。フィクションだからといって、謙作の思いが、作者志賀直哉と無関係だとは言えないからだ。

 そういう意味では、志賀直哉という人は、ほんとに正直な人なのだと思う。

 この後、北野天神の縁日の様子などが簡潔に、しかも印象的に描かれたあと、謙作の心中が引き続き語られる。こうした情景描写を適宜挟むうまさも、特筆ものだ。

 


 「つまり、この記憶が何事もなかったように二人の間で消えて行けば申分ない。──自分だけが忘れられず、直子が忘れてしまって、──忘れてしまったような顔をして、──いられたら── それでも自分は平気でいられるかしら?」今はそれでもいいように思えたが、実際自信は持てなかった。お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している場合を想像すると怖しい気もした。
 「自分はまた放蕩を始めはしないだろうか」彼は両側の掛行燈(かけあんどう)の家々を見ながら、ふと、こんな事も想った。


 「お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している場合を想像する」と、確かに「怖ろしい」。この記憶が、「二人の間で消えて行」くなどということは、「申分ない」に決まっているが、そんなことはあり得ないだろう。とすれば、今後の生活は、つまるところ、「お互に忘れたような顔をしながら、憶い出している」ということになるしかない。それが嫌なら、別れるしかないだろう。けれども、謙作は、「別れる」ということをまったく考えていないのだ。

 だから、「自分はまた放蕩を始めはしないだろうか」という思いがふと浮かぶのだ。それは、せっかく全力を尽くして抜け出したいまわしい過去への逆流であり、謙作としてはなんとしても避けたいところだが、「結局馬鹿を見たのは自分だけだ」という思いが、そんならオレはオレで遊んでどこが悪いという開き直りに向かう危険を感じていたのだろう。


 彼は今日の自分が変に上ずっているように思えて仕方なかった。末松に今日は何事も話すまい。もしきりだしてしまったら、恐らく下らぬ事まで饒舌(しゃべ)るに違いない。
 「そうだ、末松へやる土産物を忘れて来た」彼は帽子を脱ぎ、額の汗を拭った。

 

 「しんで亢奮していた」という謙作のこころは、ここでは「変に上ずっている」と言い換えられる。「しん(芯)」が亢奮しているために、気持ちが「上ずっている」、つまりは、心の奥の「亢奮」が、気持ちの表面、つまりは「発せられる言葉」を上ずらせている。これも、なんだか、身近に感じられる感情の状態のような気がする。

 

 

 


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一日一書 1740 寂然法門百首 88

2024-04-08 11:15:02 | 「失われた時を求めて」を読む

 

火滅不久燃

 

煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥部山(とりべやま)立ちわかれにし形見にもみん
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』87番歌題に同じ。
 

【題意】 火は盛んなれば久しくは燃えず(出典では、「滅」は「盛」)

火は消えて長くは燃えない。


【歌の通釈】


鳥部山の煙だけでもしばらくたなびいてくれよ。死別してしまったあなたの形見とも見よう。
 

【考】


あなたの形見と見るから、せめて鳥部山の荼毘の煙が消えないでほしいと願った歌。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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日本近代文学の森へ 258 志賀直哉『暗夜行路』 145 客観的描写  「後篇第四 五」 その2

2024-04-01 17:01:21 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 258 志賀直哉『暗夜行路』 145 客観的描写  「後篇第四 五」 その2

2024.4.1


 

 直子が眼を覚ました時は、もう家の中は暗かった。直子は湯殿へ行こうとし、途中、唐紙の隙間から座敷を覗くと、三人はまだ一つの座蒲団を囲み、同じ遊びを続けていた。皆、眼をくぼまし、脂の浮いた薄ぎたない顔をしていた。三人はちょっとした事にもよく笑い、普段それほどでもない久世までがたわいなく滑稽な事を饒舌(しゃべ)っていた。
 直子は身仕舞いを済まし、仙と一緒に夜食の支度をした。
 三人は食事の間も落ちつかず、人生五十年だけやって、レコードを作ろうなどいっていた。
 そして、また直ぐ始め、直子も一緒になったが、前日から一睡もしない三人はおりている間にも、ちょっと横になると直ぐぐっすりと眠りに落ちて行った。要は肩や首の烈しい凝りで、甚く苦しがっていた。
 十時頃になり、遂にやめた。三人は一緒に湯に入り、騒いでいたが、間もなく、久世と水谷は帰って行った。
 要は座蒲団を折って、それを枕に長々と仰向けに寝ていた。直子は幾度か床に入るよう勧めたが、「今、行きます」といい、なかなか起上がらなかった。仕方なく、直子は丹前をかけてやり、側で雑誌を読んでいると、暫くして要は不意に起き、
 「おやすみ」といい捨て、二階へ上がって行った。
 直子は睡くないので、そのまま其所で雑誌を読み続けていた。そして、どれだけか経った時、直子はふと、二階で要が何かいっているのに気づき、立って階子段の下まで行き、其所から声をかけてみたが、要の返事が、寝ぼけ声でよく聴取れなかった。直子は段を登って行った。

 

 この章「第四 五」は、客観的な描写となっているのだが、細かく見ていくと、ところどころに「謙作の目」が入っているのが分かる。

 たとえば、「皆、眼をくぼまし、脂の浮いた薄ぎたない顔をしていた。」あたりには、謙作の彼らに対する嫌悪感のようなものが感じられる。謙作は水谷を嫌悪しているので、それが現れるわけである。

 「薄ぎたない」という表現は、決して客観的ではない。しかし、客観的な描写とは、いったい誰の目から見た描写なのだろうか。一般的にいえば、「全体を見渡すことのできる語り手」ということになるだろうが、その語り手に「純粋性」を求めるのは難しい。えてして、それは「作者」とイコールになってしまう。この小説の場合は、作者と謙作が近い位置にいるので、この謙作の水谷に対する嫌悪感が紛れ込むことになるわけである。

 

 

 「肩が凝って眠れない。按摩(あんま)を呼んでもらえないかな」
 「さあ、ちょっと遠いのよ。それも早ければかまわないが、もう十二時過ぎよ」
 要は不服らしく返事をしなかった。
 「仙も今、丁度寝たとこだし、今から起こしてやるのも可哀そうね」
 「そんなら要らない」
 「よっぽど凝ってるの?」
 「キリキリ痛むんだ。頭がまるで変になっちゃって、眠れないんだ」
 「私が少し揉んで上げましょうか」
 「いいえ、沢山」
 「割りに上手なのよ」
 直子は部屋へ入って行った。そして要の首から肩の辺(あたり)を揉み始めたが、到底女の力では受けつけそうもなかった。
 「少しは利きそう?」
 「うむ」
 「利かないでしょう?」
 「うむ」
 「何方(どっち)なのよ。いやな要さんね」直子は笑い出した。「こうして揉んでる間に、早くお眠りなさい。あしたお起きになる頃、按摩を呼んどいて上げるから」
 直子は暫く、そうして揉んでやった。要は少しも口をきかなかった。直子はもう眠ったかしらとも思い、しかし止めて、もしおきていられたら気まりが悪いとも考えた。
 要が不意に寝がえりをした。直子は驚き、手を離したが、要はその手を握り、片手を首に巻いて直子の身体(からだ)を引き寄せた。要は眼を閉じたままそれをした。直子は吃驚(びっくり)したが、小声に力を入れて、
 「何をするのよ」といった。
 「悪い事はしない。決して悪い事はしない」こんな事をいいながら、要は力で無理に直子を横たえてしまった。
 直子は驚きから、ちょっと喪心しかけた。そして叱るように、「要さん。要さん」と抵抗し、起き上ろうとしたが、要は自身の身体全体で直子を動かさなかった。そして、
 「悪い事はしない。決してしない。頭が変で、どうにもならないんだ」これを繰返した。
 こういう争いを二人は暫く続けていたが、しまいに直子は自分の身体から全く力が脱け去った事を感じた。それから理性さえ。
 直子は静かに二階を降りて来た。仙に覚られる事が恐しかった。そして、床に就いたが、何時までも眠られなかった。
 翌朝、直子が眼を覚ました時には、要は出発し、もう家にはいなかった。

 

 「第四 五」はこれで終わる。

 前述したとおり、この「第四 五」は、終始、第三人称の語りで進められる。他のほとんどの部分が、謙作に寄り添った形での語り、主語は「謙作」だが、ほとんど「私」と同じで、あくまで謙作の視点から描かれているのに対して、この部分は、特別である。下手をすると、ここだけ浮いてしまう恐れがあるのである。この点については、安岡章太郎が、その「志賀直哉私論」で書いている。

 安岡は、例の「亀と鼈」の遊戯の部分を引用したあと、こんなふうに続けている。

 

 こういう不得要領で、ただ何となく猥褻な遊戯は、前篇で謙作の夢の中に出てくる”播摩”と同様、志賀氏自身の創作(?)であるようだ。播摩は極度に危険な秘技で、それをやると死ぬことがわかっているのに、情欲に生活の荒んだ阪口はついにそれをやって死んだという、ただそれだけで終っている謙作の夢は、要を得ないことが淫らであり、不可解であることが猥褻なナゾを残すのであるが、播摩といい、この「亀と鼈」といい、志賀氏が何となく空想してこしらえたというこれらの話は、単純で奇妙に肉感そのものの味があり、たしかに独創的であるだけに、志賀氏の生来の素質に何か特異なデモーニッシュなものがあることを窺わせることだ。そして、こういう端的に肉感的な夢や遊戯が作中人物の感覚を通じて増幅され、むしろ情欲の直接的な描写以上に情欲描写の効果を発揮するのは、志賀氏の天性の小説家であることを示す特異な技巧の一つであろう……。何はともあれ、ここではこの「亀と鼈」の遊戯自体に志賀氏の体臭ともいうべき個性の感じられることを注目すべきで、このことが直子と要の過失が少年少女の無意識な性本能の延長であることを説明すると同時に、謙作の主観の世界の外側で起ったこの事件を、うまく謙作の世界へ文体的に誘導してくる役割を果しており、そのためにこの章だけが「暗夜行路」の全体から、不自然に浮き上ったものになることを免れているのである。 
 このように小説の形式や技法の上では、謙作の外部で起った事態は、謙作の主観で動かされるこの小説の中に客観的な事実としてウマく定着させており、そこには何等の難点もない。

 

 なるほどと深く納得させられる。客観的な描写にみえて、「薄ぎたない」という表現に、謙作(あるいは志賀)の主観が紛れこむように、事件の客観的な記述は、いつの間にか、謙作の内部の問題に深くつながっていき、事件は、謙作の内部の問題となっていくのだ。

 重大な「事件」なのだから、もっと細かく描いてもよさそうなのに、書かない。要が、直子を抱き寄せた後の描写も、「要は眼を閉じたままそれをした。」と、実にあいまいで、そっけない。「それ」って何だ? って思うくらいで、もちろん、「それ」は、その直前の「直子の身体を引き寄せた。」を指すと読めないこともないが、おそれくは、「引き寄せた」あと、「眼を閉じたまま」した「キス」のことだと思われる。もちろん、志賀は、そんな直接的なことは書かないわけだ。

 その後の展開における描写も極めてあっさりしたもので、直子が「理性を失った」以後のことはまったく描かれず、いきなり階段を降りてくる直子の描写になる。

 ここは、まるで、歌舞伎の舞台だ。歌舞伎では、いわゆる「濡れ場」が演じられることはなく、部屋に入ってしまったあと、そこから髪がやや乱れた女が呆けたように出てくる。そこに、「濡れ場」の客観的な描写はないが、それ以上のエロスを感じさせるという仕組みである。

 描かないことによって、想像させるということだけではなくて、事件の背後にある「経緯」を描くことで、その事件が内包する「デモーニッシュなもの」を浮き彫りにする。それが「亀と鼈」の遊戯のことから書き始めた理由だ。

 直子に落ち度というほどの落ち度はない。要の要求を断固としてはね返せなかったことが「落ち度」といえばいえる。しかし、積極的な「不倫」というほどのものはないといっていいだろう。いや、悪いのは要で、直子はちっとも悪くない。直子は抵抗したがしきれなかっただけで、それは仕方のないことだったのだ、と直子を全面的に擁護することだってできる。しかし、問題は、直子が最後まで抵抗できなかった、という事実にではなく、そこに至った経緯が問題となった。それを問題だと意識したのは謙作なのだ。

 安岡はさらに続けて、「『亀と鼈』で直子の告白した過失が具体性をおび、過失自体を一つの実感のあるものにした。」と書いている。つまり、唐突に告白された「直子の過失」は、謙作にとっては、「実感」のないものだった。それが、「亀と鼈」の話で、性的衝動についての謙作自身の過去と結びついたことで、直子の過失は、「謙作の外側」の事件ではなく、謙作自身の内部の事件となったというのだ。

 もし、「直子の過失」が、あくまで「謙作の外側」の事件にとどまったのなら、謙作は、直子を捨てるにしろ、許すにしろ、それに苦しめられることはなかっただろう。「謙作の外側」で起きたかに見える事件が、実は謙作の内部に深く関わる事件だったことが、この事件を複雑にし、謙作が直子を許すことができない原因となる。自分ほど許せないものはないからである。

 

 


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