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日本近代文学の森へ (133) 志賀直哉『暗夜行路』 20 「気分」の問題 「前篇第一  四」その5

2019-10-31 09:07:26 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (133) 志賀直哉『暗夜行路』 20 「気分」の問題 「前篇第一  四」その5

2019.10.31


 

 その日は、小稲という芸者もやってきた。謙作は登喜子と対照的な彼女も美しいと思う。


 謙作は総てで丁度登喜子と対照するような女だと思った。姿勢や動作がそうだった。また近くで見ると登喜子の米噛(こめかみ)や頤(あご)のあたりに薄く細い静脈の透いて見えるような美しい皮膚とは反対に小稲は厚い、そして荒い皮膚をしていた。


 こうした皮膚の描写などを読むと、かつて愛読し、今ではほとんど読まなくなった吉行淳之介の小説をふと思い出す。特に『暗室』。そういえば、世間でも、吉行淳之介は最近読まれなくなっているような気がするが、どうなんだろう。そういえば、吉行が亡くなってもう25年経っているのだ。志賀直哉も亡くなってほぼ50年。この半世紀で、世の中はほんとうに変わってしまった。


 謙作は段々に窮屈な気分から脱け出して行った。五、六杯の酒に赤い顔をしている彼は今は気楽な遊びに没頭出来る気持になっていた。
 アルマの烟草を金口の処まで灰を落さないように吸うという競技を始めた。
「ア、ル、マのルまで来た」
「ちょいと見て頂戴」小稲は怖々(こわごわ)、蛍草(ほたるぐさ)を描いた小さい扇子で下を受けながら、それを謙作の前へ出した。
「ようよう、アの字にかかった所だね」
「字がおしまいになってからもまだ二分ばかりあるのネ。こりゃあ、とても金紙までは持たないわ」こういって小稲は笑った。
 登喜子は黙って、脣(くちびる)を着けたまま、ただ無闇にすっぱすっぱ吸っていた。その内小稲の方の灰がポタリと落ちると、小稲は「あっ」といってちょっと体を《はずます》(《 》は傍点)ような事をした。その拍子に登喜子の方の灰もポタリと餉台(ちゃぶだい)の上に落ちてしまった。
「ああ、小稲ちゃん!」登喜子は怒ったような真面目な顔をして、横目で小稲の顔を凝(じ)っと見た。
「登喜ちゃん、御免なさい」
「…………」
「ね、御免なさい」といって小稲は笑った。
「お前さんが始末するのよ。よくって?」登喜子は指に残った金口を灰吹ヘジュッと投込むと、そのまま起って、
「この烟(けむ)」とちょっと上を見て、座敷を出て行った。小稲は懐紙(ふところがみ)を二枚ばかり器用にたたんで、それで神妙に灰を扇子へ落し、始末した。

 


 ちょっとした描写だが、水際だっている。その場に居合わせたかのように、イメージが鮮明だ。

 ここに出てくる「アルマ」という煙草は、明治42年から昭和5年にかけて売られていた煙草。10本入りの箱の絵は、「婦人像」で、「サモア」の箱の絵の女と、「アルマ」の絵の女ではどっちが別嬪かということが話題になっている。(下図参照)

 この「アルマ」で、たわいもない遊びをして、その後、トランプで「21」をして、夜中の1時ごろに謙作は帰宅する。結局石本は来なかった。

 帰宅時の描写もあっさりしているが、気分がよく伝わってくる。



 一時頃謙作は俥(くるま)で帰って来た。赤坂までは随分の長道中だった。しかし月のいい晩で、更け渡った雨上りの二重橋の前を通る時などは彼もさすがに晴々としたいい気持になっていた。

 


 謙作が「晴々としたいい気持ちになっていた。」と書かれると、不思議なことに読者も「晴々としたいい気持ち」になってしまう。この小説は、その出だしからして、謙作の「気分」が色濃く支配しているので、そのせいか、どこを読んでもそのときの謙作の「気分」がどうであるのかが非常に重要で、読者は、謙作とともに、不愉快になったり、晴々したりすることになる。

 こういうことは、他の小説ではどうなのだろうか。ちょっと考えただけでも、梶井基次郎の『檸檬』とか、芥川龍之介の『羅生門』などは、それぞれに、主人公の「気分」が色濃い小説だ。漱石の『こころ』にせよ、『それから』にせよ、やはり主人公の「気分」は色濃いし、花袋の『田舎教師』も『蒲団』も、みんな主人公の「気分」のフィルターなしには考えられない。ひょっとしたら日本の近代文学は「気分の文学」なのかもしれない、なんて大風呂敷を広げたくなる。(誰かそんなことを言っていたような気もするなあ。)

 まあそれはそれとして、『暗夜行路』は謙作の「気分」が物語のど真ん中に腰を据えている、ように思える。




「アルマ」の箱絵 

懐かしい日本のタバコ歴史博物館」より


★「サモア」の画像は見つかりませんでした。




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日本近代文学の森へ (132) 志賀直哉『暗夜行路』 19 「自然」と「不自然」 「前篇第一  四」その4

2019-10-24 22:05:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (132) 志賀直哉『暗夜行路』 19 「自然」と「不自然」 「前篇第一  四」その4

2019.10.24


 

 「西緑」に着いた。


 登喜子はもう来て待っていた。お蔦と店へぴたりと坐って、往来を眺めながら気楽な調子で何か話していた。そして、謙作の姿を見ると、二人は一緒に「さあ、どっこいしょ」という心持で起上がった。──と、そんな気が謙作はしたのである。
「お一人?」と登喜子がいった。
謙作は段々を登りながら、
「今に、もう一人来る」といった。
「竜岡さんですか」
「君に似た人といった人の御亭主だ」
「ええ?」
「その人の奥さんが君に似てるんだよ」彼は少し苛々した調子で早口にいった。



 国語の試験問題を長いこと作ってきたということを突然思い出した。大嫌いな作業だった。評論ならともかく、小説となると、途方に暮れることが多かった。定期試験なら、授業でやったところから出せばいいのだから、少なくとも小説を探さなくてすむ。けれども、模擬試験やら、バイトでやった受験対策の問題作成やらでは題材の小説から探さなくてはならないので、難儀したものである。

 そんなことを思い出したのも、この部分なら出せるかも、って思ったからだ。最後の行の、「彼は少し苛々した調子で早口にいった。」というところに線を引いて、「謙作が苛々したのは何故か?」って聞けば問題になりそうではないか。解答は、「登喜子とお蔦が、謙作を見るや、さあ仕事だ、やれやれといった感じで、面倒くさそうに起き上がったような気がして、自分が歓迎されていないと思って不愉快になったから。」とでもしておけばよい。

 これで正解なのかどうか。「『さあ、どっこいしょ』という心持」というのは、「面倒くさそう」「大儀そう」ということでよいのだろうか。


 別解として考えられるのは、「石本の妻が登喜子に似ているということを前に登喜子に話したのに、そのことを忘れていたから。」という答え。これも正解かもしれないが、これだけではやはり不十分だろう。そんなことを忘れたからといって、「苛々する」というのはちょっとおかしい。この苛立ちは、そういうこと以前に、謙作の心に生じているもので、それは、そもそも自分がやってきたのを見て「さあ、どっこいしょ」と起き上がった登喜子に対しての「不愉快」であろう。謙作はかほどに敏感な神経を持っているのだ。

 だから本当の正解としては、「せっかくやってきたのに、登喜子が面倒くさそうに起き上がったように思えて不愉快になった謙作は、石本が登喜子に似ているということを以前に登喜子に話したのにそれを覚えていないことに、自分への関心の薄さを見せつけられたような気がして、腹が立ったから。」ということになるだろう。こんなに長い正解では、採点が大変なのは目に見えている。

 「似ていることを覚えてなかったから。」と書いた生徒は、どうしてこれだけじゃダメなのか? 二人が「『どっこいしょ』という心持ち」で起き上がったといっても、それが「めんどくさい」からだとは言い切れないんじゃないか。ただ、ふたりとも疲れていただけなんじゃないか、とか文句を言ってくるだろう。それに対しては、いや、二人が本当に「めんどくさい」って思ったかどうかは分からないけど、そう感じたのは謙作で、謙作がそう感じたということは、それがきっかけで謙作が不機嫌になったということになるんだと、縷々説明しなくてはならない。

 そんなことをいちいち考えなくちゃならないので、試験問題作成ってやつは、それこそメンドクサイのである。そのうえ自分の作った模範解答が果たして正しいのか自信が持てないことがほとんどなので、自己嫌悪までが加わってメンドクサさは倍増するのである。



「ああ」と登喜子は笑い出した。「何とかの御亭主だって仰有るんですもの」
餉台(ちゃぶだい)のまわりには座蒲団が一つ敷いてあった。謙作がその一つに坐った時、
「皆さんは?」と登喜子が訊いた。
「竜岡とは昨晩来たよ」
「ええ、それは昨晩ちょっと寄って伺ったわ。それからあの方は……阪口さんは?」
「あれから会わない」
お蔦が上がって来た。そしてこの女も、
「皆さんは?」と訊いた。
謙作はこういわれるたびに何か非難されるような気がした。こういう場所に不馴な自分が、それほどの馴染でもない家に電話まで掛けて、一人で出向いて来る事はどうしても不自然で気が咎めた。石本に見せるという事がなければ、いくら登喜子が好きでも自分は此処へは来られなかったと思った。



 謙作は石本と来るつもりだったが、石本が遅れるということで、一人で来た。だから実質上は一人で来たわけではなくて、二人で来るつもりだったが、一人が遅れたので先に着いたというだけのことだ。それなのに、登喜子たちに「皆さんは?」って聞かれただけで、「非難されたような気がした」のだ。「どうしてお連れがいないんですか?」「なぜ一人で来たの? どういう魂胆があるの?」「まさか一人で来て、私を口説くおつもり?」とか、まあ、いろんなセリフが謙作の頭のなかを廻るわけで、いたたまれない思いをしたのだろう。

 謙作にとって「不自然」というのは、許しがたいことなのだ。この場合、いったい何が「不自然」だというのか。遊郭に行くのに、そこの遊女と性的な交渉を持ちたいと思って出かけて行くことが「不自然」だとしたら、「自然」とは何か?

 この文脈からすると、登喜子が石本の妻に似ているから、その石本に登喜子を見せるために、石本を連れて登喜子に会いに行く、ということが「自然」だと謙作は思っていることになるが、それこそ「不自然」の極みではないか。

 こんなふうに考えてくると、試験問題はいくらでも作れそうだが、やっぱりメンドクサイことは変わりない。試験問題はともかく、謙作という男はとことんメンドクサイ奴である。

 登喜子と謙作は、その後、たわいもない話をして時を過ごす。けれども、二人じゃ何もできないから、他の女の子も呼びましょうかと言う登喜子だったが、謙作は呼んでくれとは言わなかった。

 


 しかし謙作は呼んでもらおうとはいわなかった。彼は今、こうして登喜子と会っている、そして余りに毒にも薬にもならない事を座を白らけさせまいと努力しながら互に饒舌(しゃべ)っている、全体これが、三日も前からあれほどに拘泥し、あれほどに力瘤を入れて来た事と何(ど)ういう関係があるのだろうという気がした。彼は深入した話をしようとは、初めから少しも思ってはいなかった。しかし今話している事は、あるいは話している心持は、余りに浅く、余りに平面過ぎると思った。
 彼はこれがしかし一番あり得べき自然な結果だったとも思い直した。自分が一人角カに力瘤を入れ過ぎただけの事だと思った。そして今日の登喜子はともかくもこの前よりは軽い意味での親みを現わそうとしているのだ。今はそれで満足するより仕方がない。それ以上を望むのは間違いだと思った。



 ここでも「自然」が問題となる。登喜子に会いたい、できれば性的な交渉にまで到達したいと思っていたのに、登喜子とこうしてたわいない話をしていることが「一番あり得べき自然な結果」だというのだ。つまりは、登喜子のことは好きで、性的な交渉を望んではいるけれど、どうもそこまで踏み込めない。踏み込む勇気がない。だから、そこまでいかない今の状態のほうが気が楽だ。「これ以上望むのは間違いだ」と思うのだ。

 それが「自然」なのかどうか知らないが、しかし、この謙作の気持ちは分かるような気がする。相手が遊女であれ、本気で好きになった女と、どこまで関係を深めるかは、そんなに簡単なことではない。





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一日一書 1568 海暮れて鴨の声ほのかに白し・芭蕉

2019-10-15 20:15:00 | 一日一書

 

芭蕉

 

海暮れて鴨の声ほのかに白し

 

半紙

 

 

〈季語〉 鴨=冬

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (131) 志賀直哉『暗夜行路』 18 本の値段、そして遊郭への道 「前篇第一  四」その3

2019-10-12 10:09:16 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (131) 志賀直哉『暗夜行路』 18 本の値段、そして遊郭への道 「前篇第一  四」その3

2019.10.12


 

  頼んでおいた古本屋が来た。「総てで五十円ほどになった。」とある。

 この50円という金額に驚く。昔の1円って今でいうとどのくらいにあたるのかは、ネットで調べればだいたい分かる。それによれば、まあ、だいたい「明治時代の1円は現在の2万円」となるらしい。明治30年頃の小学校の教員やお巡りさんの月給が8〜9円だそうだ。この部分の話はだいたい大正2年ごろのことなので、ちょっとズレるけれども、単純に計算して、50円という金額は、小学校の教員やお巡りさんの月給の約6倍ということになる。ちなみに、明治20年ごろの吉原遊郭での最高級遊女の「揚げ代」は3円だという。「1円=2万円」だとすると、6万円。まあ、そんなとこか。つまりは、小学校の先生や巡査は、逆立ちしたって吉原の高級な遊女とは遊べないということだ。まあ、それは現代だって、小学校の先生や巡査は。銀座の高級クラブでは遊べないわけで、遊びの相場というのは時代を超えて変わらないのかもしれない。

 で、「古本を売った金」が100万円となる。すごい金額だ。それを「総てで五十円ほどになった。」とさらりと書くんだからびっくりする。

 古本の他に、謙作は、「母方の祖父の遺物(かたみ)として貰った法外に大きな両蓋の銀時計と、それに附いている不細工な金鎖」を古本屋に見せる。後で金額を知らせるといって古本屋は「大きな風呂敷包を背負って」帰っていく。

 銀時計と金鎖がいったいいくらになったのか、売ったのかやめたのか、書かれていないが、とにかく古本は50円で売ったらしい。しかも、その古本を古本屋は「背負って」帰ったらしい。背負えるのだから、古本の量はたかがしれている。それなのに100万円!

 今から30年以上も前の話だが、やたらと買い集めた個人全集を引っ越しのついでにまとめて神田の古書店に売ったことがある。その時は、ワゴン車に段ボールで10個ほど(数は正確には覚えてない)だったが、確か50万円ほどだったはずだ。それがたぶん古書の値段がピークに近く高かったころだ。当時「平野謙全集」全12巻が、20万を超える値段を付けていたころだ。ちなみに今では2万円でおつりがくる。

 今ならワゴン車一杯の本を売っても、銀座のクラブで遊べないわけで、遊びの相場は変わらねど、古書の相場は暴落したというわけだ。そういえば、この前、『志賀直哉全集全16巻』を3500円で買ったばかり。これをもし売ろうとしてもたぶん100円にもならない。つまりはバスにも乗れない。

 銀座のクラブはどうでもいいが、「本を売る」ということは、明治や大正の時代には、それだけで、借金を返せたり、吉原で遊んだりする為の資金と十分になったのだということは覚えておきたいものだ。

 朝から降っていた雨は、古本屋が帰っていったあとすっかり上がる。

 

 夕方になって雨はすっかり上がった。
 彼は風呂へ入って、さばさばした気持になって家を出た。美しく澄み透った空が見上げられた。強雨(ごうう)に洗われて、小砂利の出ている往来には、それでも濡れた雨傘を下げた人々が歩いていた。
 彼は知っている雑誌屋に寄って、約束通り西緑へ電話をかけた。その後で石本へかけた。
 「今用事の客があるんだが、もう帰るだろうと思う。早かったら是非行く」こういった。なお、石本は大門を入ってどれほど行くかとか、何方側(どっちがわ)かとか、西緑の字まで訊いて、電話を断(き)った。
 三の輪まで電車で行って、其処から暗い士手道を右手に灯りのついた廓の家々を見ながら、彼は用事に急ぐ人ででもあるように、さっさと歩いて行った。山谷の方から来る人々と、道哲(どうてつ)から土手へ入って来た人々と、今謙作が来た三の輪からの人々とが、明かるい日本堤(にほんづつみ)署の前で落合うと、一つになって敷石路をぞろぞろと廓の中へ流れ込んで行く。彼もその一人だった。
 大門を入ると路は急に悪くなった。彼は立ち並んだ引手茶屋の前を縁に近く、泥濘(ぬかるみ)をよけながら、一軒一軒と伝って西緑の前まで来た。


 雨上がりの街並みを、謙作が吉原遊郭へと歩いていく様が実に見事に描かれていてうっとりする。「三の輪まで電車で行って」とあるが、まだ開業したばかりの今の「荒川線」のことだろう。

 「三の輪」「山谷」「道哲」「日本堤」と続く地名をたどっていけば、そこに江戸からつづく歓楽街の姿が幻のように浮かび上がる。「日本国語大辞典」の説明をひいておこう。


【三の輪(三ノ輪)】
東京都台東区北部の地名。江戸時代は奥州街道の裏街道と日本堤の土手道との交差点にあたり、吉原の近くにあるところから遊女屋の寮などが置かれた。また、土器の産地として知られていた。目黄不動(永久寺)がある。三輪。箕輪。

【山谷】
東京都台東区北東部の旧地名。現在の日本堤・清川・東浅草の一帯にあたる。明暦三年(一六五七)江戸元吉原が火災にあい、代地の浅草日本堤(千束四丁目)に移るまでの間、この地で営業を許されたところから、移転後の新吉原遊郭をさしていうこともある。

【道哲】
江戸時代、浅草新鳥越一丁目(台東区浅草七丁目)日本堤上り口にあった浄土宗弘願山専称院西方寺の俗称。明暦(一六五五~五八)の頃、道哲という道心者が庵を結んだところからこの名があるという。吉原の遊女の投込寺として著名。関東大震災後、豊島区巣鴨に移った。土手の道哲ともいう。


【日本堤】
江戸、浅草聖天町(台東区浅草七丁目)から下谷箕輪(台東区三ノ輪)につづく山谷堀の土手。荒川治水工事の一つとして元和六年(一六二〇)につくられ、新吉原通いの道として利用された。吉原土手。土手八丁。土手。




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木洩れ日抄 61 老人たちの光景

2019-10-06 14:25:41 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 61 老人たちの光景

2019.10.6


 

 高齢化社会ということが問題になって久しいが、当の自分がその問題の渦中にいるとなると、困ったもんだとうそぶいてもいられない。かといって、どうすることもできない。どうすることもできないままに、「横浜市敬老特別乗車証」などという代物に嬉々として申し込んでゲットし、用もないのに用事を無理やりみつけ、先日初めて乗ってみた。

 上大岡駅始発の住宅循環バスである。この住宅循環に昼間乗る乗客のほとんどは高齢者で、まともに運賃を払って乗る人など稀だ。運転手も、運賃を払う人には思わず「ありがとうございます」なんて言ってしまう人もいるくらいで、まあ、老人の天下である。そういう老人も結構卑屈になっていて、パスを見せながら「よろしくお願いします」などとペコペコする人も多く、ぼくが「パス持ち」でないころは、もっと堂々と使えばいいのにと思ったものだ。それよりなにより、バスに乗り込んでから、パスをバッグから探す人もいたりして、ペコペコする前に、乗る前からちゃんとパスを出しておいたらどうなんだ、なんて内心ブツブツ呟くこともよくあった。

 その日、無理やり作った用事を終えて、上大岡駅からいよいよ最初の「無賃乗車(もちろん、ほんとうは年額なにがしかの金を払っています)」のバスに、胸躍らせて乗り込もうとした。

 上大岡駅には、大きなバスセンターがあって、ぼくらの住宅循環バスの乗り口には、「思いやりベンチ」という4〜5人掛けの木のベンチが置かれている。立ってバスを待つのが大変な老人とか具合の悪い人が、そこに座って待てるようにという配慮である。しかし、ベンチの脇に、立って待つ人が並んでいるわけだから、後から来た人がベンチに座ってしまうと、並んだ順番が分からなくなってしまう。そのことで、以前からたびたびトラブルが起きていた。

 そこで、数年前からだと思うが、とにかくベンチに座っている人が、来た順番とは関係なく、先に乗車できるということにして(たぶんバス会社がそう決めたのだろう)、ベンチの側に「ベンチに座っている人の乗車を優先してください」というような張り紙が貼られるようになった。しかし、小さな張り紙なので、それを知らない人もいて、相変わらず小さないざこざが起きていたのである。

 その日、ぼくが並んだ列はまだ人が少なくて、ぼくは前から2人目だった。ベンチには2人のバアサンが座っていた。そこへひとりのジイサン(といってもたぶん60代)がやってきて、ぼくの後ろに立った。その後、2〜3人のバアサンがやってきてベンチに座った。そのうち列も長くなって来たころにバスがきた。

 当然のごとく、ベンチに座っているバアサンたちがよっこらしょと立ち上がり、バスに乗り込もうとした。すると、ぼくの後ろに立っていたジイサンが、「なんで後から来たヤツが先に乗るんだ」とバアサンたちに向かって言い放った。バアサンたちは、ハッとして立ち止まった。

 「あ、それはいいんですよ。ベンチに座っている人を先に乗せろって、そこに書いてあるでしょ!」ととっさにぼくが大声で言った。ジイサンは納得できないという顔をしてぼくをにらみつけるので、「いいじゃないですか。ベンチに座っている人はたいてい具合が悪いんだから。」と言ったら、ジイサンは「おれだって具合が悪いんだ。」と反論してくる。「何言ってるの。オレだって具合が悪いよ。」とだんだんぼくもヒートアップしてきた。柄も悪くなる。それにぼくはちっとも具合なんか悪くない。でも、「老人」だというだけで、若者より「具合が悪い」ことは確かだ。だから嘘じゃない。

 すると、さらにヒートアップしたジイサンは、「オレなんか、障害者だぞ。一級だ!」と叫んだ。変な「自慢」である。

 「それならあんたもサッサとベンチに座りゃあいいじゃないか!」と声量マックスで叫ぼうとしたとき、ノロノロ進んでいた列はぼくの番になり、ぼくは無料パスを運転手に見せる段となってしまった。けれども、頭の中には、さっきのセリフが渦をまいていてワンワンいっているので、「最初に無料パスを見せる快感、あるいは感慨」などどこへやら。いったんの休止を経ては、そのセリフも行き場を失ってしまった。ぼくの前の座席に座っているそのジイサンの背中にむかって、そのセリフを言ってみても始まらない。なんとも憤懣やるかたない気持ちのままバスは発車した。

 次のバス停で、バアサンが一人乗ってきた。席はもう埋まっていたらしく、いったん後ろの方へ歩いていったそのバアサンが、バスが走っているのに、フラフラと前の方に歩いてきた。すると、運転手がキレてしまって──キレた気持ちほんとよく分かる。だって、のっけからジイサン二人がワアワア喧嘩しながら乗ってきて、その挙げ句これだもんね──、「走っているときに、動き回らないでよ! 危ないから!」とマイク越しに怒鳴った。バアサンは照れ笑いをして手すりにつかまった。

 次のバス停で何人かが降りようとした。運転手が「いいですか皆さん、バスがちゃんと止まってから降りましょうね!」と言った。さっきの怒鳴り声とはうってかわって冗談めかした明るい声だった。車内の老人たちは、顔を見合わせて笑った。「そうよねえ、わかってるんだけど、どうしても遅れちゃ悪いって思って立っちゃうのよねえ。」なんて会話がバアサンたちの間で交わされたことだろう。

 ぼくの前に座っていた件のジイサンは、なんとぼくと同じバス停で降りた。ご近所さまだったらしい。見知らぬ顔だけど。

 まったくやれやれである。こんなわけのわからぬ高齢者連中の仲間になり、これから生きていくのかと思うと暗然とする。高齢者パスなんて持ってなければ、「オレは仲間じゃないぜ面」できるけど、そんな面をしたところで、何の得にもならないし。

 それにしても、あの近所のジイサンは、なんであんなことにムキになるのだろう。どう計算したって、自分が「前から5番目」で、その前に3人入ったって8番目なんだから座れることは明らかなのだ。自分が座れればあとはどうだっていいや、ってどうして思えないんだろう。自分が座れればそれでいい、なんていうのは自己中心主義で、彼の中では「後から来たヤツが前に行くのは許せない」ということなのだろう。そんなヘンテコな正義感みたいのから早く自由になって、お互いにいたわり合って暮らしていかなきゃこの先大変ですぜ、って、今度あったら話してみようかなあ。また怒鳴られるだけか。

 

 


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