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木洩れ日抄 115 「創作の現場」は私たちの「内側」にある────劇団キンダースペース「六月 六本のモノドラマ」を観て

2025-07-03 08:52:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 115 「創作の現場」は私たちの「内側」にある────劇団キンダースペース「六月 六本のモノドラマ」を観て

2025.7.3


 

 劇団キンダースペースといえば、「モノドラマ」、「モノドラマ」といえば、劇団キンダースペースである。他の劇団で「モノドラマ」をやることはない。それほど「モノドラマ」は、独自のものであり、他にマネのできないものなのだ。
 「モノドラマ」は、「一人芝居」とは違って、独自の創作脚本を持たず、既成の文学作品を、アレンジはするものの、一人の役者が「読む」あるいは「演じる」のだが、この「読む」と「演じる」が絶妙に混じりあう。
 「朗読」は、原則的にはその場に立つか座るかして、作品を読むのが普通だが、「モノドラマ」は、簡単な舞台装置があって、役者は自由に動きまわる。何人かの登場人物を演じ分けつつ、「地の文」も読む。その兼ね合い、ブレンドの仕方にこそ、原田一樹が発明した「モノドラマ」の真骨頂がある。
 時にまた原田一樹は、「モノドラマ」は、「文学と戯れることだ」とも言う。それは文学を「素材」にするのではなく、文学そのものと直接「戯れる」ことだろう。
 ぼくらは小説を読むとき、話の筋を追って夢中になって読みすすめる。読み終わった後、ああ、おもしろかった、とか、なんだ退屈だったなあとか、なんらかの感想をいだいて、それで終わりだ。
 けれども、ある小説を「モノドラマ」として演じるとなると、演者や演出家は、時間をかけてその「小説そのもの」に向き合う、向き合わざるを得ない。その中の1行がどういう意味を持っているのか、確かめ、演じて、いや違う、こういう思いがこもっているんじゃないか、いや、それはどうかなあ──そういったやりとりが、役者や演出家の間で繰り返し行われる。それこそが「戯れる」ということなのだ、とぼくは理解している。
 「精読」という方法はある。けれども、言葉を声として出してみて、さまざまな検討をする。その「声」を役者の「内なる声」に変換する。あるいは、そこに「音」や「音楽」を合わせ、そこに「光」を合わせる。なんという楽しい、そして豊かな「戯れ」だろう。そして、観客は、その「戯れ」が、どこまで深く役者の身体と絡み合い、あるいはその果てに同化し、さらにはどこまで「演技」を超えた世界を指し示しているかに、見入ることになる。

 今回の「六月 六つのモノドラマ」は、Aプログラムは〈志賀直哉『范の犯罪』西本亜美〉〈トルストイ『火は早いうちに消せ』森下高志〉〈山本周五郎『ひとごろし』古木杏子〉の3本、Bプログラムは〈モーパッサン『椅子直しの女』岡田千咲〉〈菊池寛『藤十郎の恋』杉本朋美〉〈中島敦『文字禍』林修司〉の3本だ。(いずれも上演順)
 Aプロは、「善と悪の交錯」、Bプロは「伝えきれぬ恋と歴史」と、のそれぞれに共通したテーマが掲げられている。今回は、そのテーマが、洋の東西を超えて、響き合い、見事な舞台となっていた。

 『范の犯罪』は、ずいぶん前に読んだが、今回舞台で見て、そこに描かれていることが、ぼくが今それこそ「精読」中の『暗夜行路』に共通している部分が多いことに改めて驚かされた。そのことを論じた論文があるのは知っているが、そこまで目を通していたわけではないので、そうか、志賀は、妻の「不貞」を「許す・許さない」の葛藤を、すでにここで描いており、それを『暗夜行路』にまで発展させていたんだなと感慨深かった。自分に妻への「殺意」があったか、なかったかは、「分からない」と范はいう。その「わからなさ」は、『暗夜行路』の謙作が、妻を列車のホームに突き落とすというあり得ないような残酷な行為をなぜ自分がしてしまったかが「分からない」ことへと真っ直ぐに通じている。
 自分の心の中には、得体のしれない塊があって、それをどのようにしても解体できない。キリストの教えをもってしても、その塊を溶かすことはできない。そうであれば、その塊を抱いたまま生きていくしかない。「許す」とか「許さない」とかいった言葉は、なんの解決にもならないんだというのが、志賀の思いだったのだろう。
 原田一樹は、「モノドラマはこの創作の煩悶を俳優の身体に落とし込む試みです。」と言うのだが、まさに、『范の犯罪』は、志賀が何にこだわり、何に傷つき、何から解放されたかったのかが詰め込まれた小説なのだといっていい。
 若い西本亜美は、この難しい課題に全力で取り組んだ。なにしろ「相手」は、岩の塊のような始末におえない志賀直哉だ。頑固で、超のつくエゴイストで、自分の快・不快をいつも全面に出して憚らない志賀直哉だ。その志賀の煩悶を、西本は背負い、我が物として、舞台に示さねばならない。それは西本には重荷であったかもしれないが、范の吐き出す「分からない」という言葉は、確かな手応えをもって、アトリエの空間に放り出された。范の投げるナイフは、「殺意」のありかを深い闇に包みながら、舞台を鋭く切り裂いた。絶妙な音響とのコラボで、緊張感に満ちた時間・瞬間が、舞台を満たした。あまりの見事さにうなってしまった。西本亜美の成長に驚いた。

 次は、ベテラン俳優森下高志の『火は早いうちに消せ』。アトリエでの「モノドラマ」は、9年ぶり(?)とか言っていたが、貫禄たっぷりの森下は、そのキャリアを全開にして、ささいなもめ事が、やがてとんでもない悲劇を生み出し、しかしその果てに和解を見出すドラマを、まるで長編の映画でも見るかのように、目の前に展開してくれた。鮮明なイメージ、ぶつかりきしむ感情の噴出、憎悪の拡大の中で、喘息もちのジイサンのまるでキリストの言葉のように響く諫めの声。小説をただ読んだだけではたぶん伝わらない作家の「熱」が、森下の充実した肉体によって、舞台に現れた。まさに「モノドラマ」の極北である。森下高志の長きにわたる精進の結果である。

 Aプロの最後は、これもベテラン俳優古木杏子の『ひとごろし』。古木にとっても「モノドラマ」は久しぶりだったというが、ここで、古木は今までの持ち前の低い声をいかした抑えた、内向的な演技スタイルをかなぐりすて、ほとんど「モノドラマ」の外へと飛び出した。古木のまるで「地を這うような」セリフまわしに魅了されてきたぼくは、今までの「モノドラマ」の中でもいちばん運動量の多いこの『ひとごろし』には我を忘れて、こころゆくまで楽しんだ。名人芸というしかない。古木が舞台に描き出したドラマは、古きよき時代の時代劇を彷彿とさせるものがあり、また、そこにこめられた「弱さ」こそ力なのだというメッセージが、笑いの中にも強く観客に訴えかけるものがあった。芝居を終えての挨拶が、満面の笑みだったことも忘れがたい。

 Aプロの3作品は「善と悪の交錯」としてまとめられているが、原田一樹の言葉によれば、キーワードは「分からない」ということだ。いちばん「分からない」が前面に出ているのは『范の犯罪』だが、『火は早いうちに消せ』においても、どうしてこんな些細なことが大きな衝突へと展開してしまうのか「分からない」。それはもちろん、今、世界中で起きている戦争につながる話でもある。『ひとごろし』では、上意討ちを命じられた臆病者の六兵衛は、どうやったら剣術の達人仁藤昂軒を討ち取ればいいのか「分からない」。やがて、自分の「臆病さ」が分からなくなる。臆病とか勇敢とかいった言葉がだんだん意味をなさなくなってきてしまう。
結局のところ、人間というものは「分からない」ものなのだ。心の中に「分からないもの」を抱え込んで生きていかねばならないものなのだ。安直な解決はない。だからこそ、文学が必要になる。文学は、「分からない」ということに耐え、とどまり、問いつづける営為そのものなのだから。

 まれにみる充実度のAプロだったわけだが、それで充分に満足して帰ろうと思っていたのだが、アトリエに着いたとき、ちょうど入口あたりで出会った林修司君が、ぼくの出るBプロは見てほしいと言うので、体も思ったより元気で、これならBプロも見ることができそうだと思い直した。幸い、若干席が残っていたので、見ることができた。

 これがまたよかった。Aプロには、森下、古木の両「巨頭」が出ているが、Bプロには、そういう「古参」は出ない。だから、正直なところ、Aプロよりは落ちるかな、と思っていた。しかし、そうではなかった。

 まだ若手の岡田千咲は、入団の頃から知っているが、Aプロの西本亜美同様に、確かな成長ぶりを示した。舞台の端での最初の一声が、素晴らしかった。真っ直ぐで、明快な声。「愛」を「金」でしか表現できない貧しいジプシー女の50年にもわたる一方的な恋。まったく一筋の毛ほども報われない恋。切ない話である。その切なさを、岡田は、どこまでも可憐にいじらしく表現していて、心を揺さぶられた。
 Bプロのテーマは「伝えきれぬ愛と歴史」だ。なるほど、「愛」を「言葉」に変換すれば、相手に無視されようともその「愛」は「伝わる」(少なくとも表面上は)。けれども、「愛」を「金」で表現しようとしても、たとえば相手が金持ちであれば、伝わらない。一銭の「金」がなくとも、「愛している」の一言で、「伝わる」ときは「伝わる」。それが「言葉」というものだ。だが「金」そのものには意味がない。「言葉」そのものには意味がある。「愛」の「言葉」のつもりだった「金」が、男には「愛」だと気づかれない。男は「分からない」のだ。ここでも「分からない」は依然としてキーワードだ。

 『藤十郎の恋』は、恥ずかしながら、未読だった。そうか、こういう話だったのかと今頃になって感心しているのもマヌケな話だが、「モノドラマ」を見続けていると、こういうことは稀ではない。ぼくの読書量が圧倒的に不足しているからだが、そういう意味でもキンダースペースの「モノドラマ」は、ぼくにはありがたい存在なのだ。
 この舞台は、入団2年目の杉本朋美が演じたが、藤十郎が、芸のために人妻の「お梶」に言い寄るシーンのセリフは真に迫っていて、その後の「お梶」の自死が充分に納得されるリアリティを持っていた。実力者である。藤十郎の「言葉」が、果たして芸のための「虚」であったのか、それとも、そこに「実」があったのかは最後まで「分からない」。その「分からなさ」を心に抱いたまま、藤十郎は役者として生きつづけ、「お梶」は死を選ぶ。その二者が暗い闇に交錯するラストシーンは、見事だった。

 『文字禍』は、ある意味、「モノドラマ」でなければ舞台化できない作品だとも言える。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というのは、戦後詩人田村隆一の有名な言葉だが、まさに「言葉」によって、人類は不幸になった。この「言葉」の延長線上に「科学」があり、「技術」があることを思えば、その「不幸」こそ、今、我々が日々実感していることに他ならない。
 「ウマ」という音を持つ「文字=言葉」と、動物としての馬の実体とがどうしてこんなにも「必然的」につながっているのか。「ウマ」と聞いて(あるいは読んで)、人間はどうしてあの「馬」だと了解するのか。そうした疑問は、言語学の入口だけれども、「ウマ」は単なる「記号」だよとしたり顔で答えてもしょうがない。記号としての「ウマ」と、実体としての「馬」の「あいだ」に、その二つを結びつけている「霊」があるんじゃないのか、そう中島敦は問うのだ。
 しかし、いくら問うても「分からない」。人間の「歴史」も、「文字=言葉」で記されてきたものである以上、それがほんとに人間が生きてきた「事実」とは必然的に乖離しているだろう。まして、「文字=言葉」で記されなかった「歴史」は、我々には「歴史」として認識することすらできない。「歴史」は、どうしても「伝えきれない」のだ。
 こうしたいわば哲学的な問題を、正面から問う『文字禍』は、「演劇化」が最も難しい小説だといってもいいだろう。しかし、ドラマとは「葛藤」だとすれば、この「文字=言葉」と「実体」との考えれば考えるほど複雑で入り組んだ問題が孕む「葛藤」は、なまじな人間内部の心理的な「葛藤」を遙かに超えるドラマであるとも言えるのだ。そして、そのドラマに真正面から取り組んだ、林修司の「モノドラマ」は、観念の世界の葛藤を、役者自身の身体によって目にみえるものとして表現することに、見事に成功した感動的な舞台だった。
 思えば、アトリエの入口で、林君に声を掛けられなければ、ぼくはあやうくこの「名作」を見逃すところだった。

 6月というのに、真夏のように暑い日だったが、老躯に鞭打って、西川口まで出かけてほんとによかった。この西川口のアトリエも今年いっぱいで終了ということは、長く親しんできたぼくにとっては辛く寂しいことだが、あと1回、10月の「モノドラマ」の公演を楽しみに待ちたいと思っている。
 原田一樹は、こう言っている「創作の現場は私たちの内側にあります。煩悶に向かう覚悟を失わない限り、そして、受けとめようという意思を示していただける観客の皆さんの存在がある限り、歩みを止めずにいたいと考えております。」
 そう、創作の「現場」は、私たちの「内側」にあるのだ! 「煩悶に向かう覚悟」を失うことなく、ぼく自身も何とかして歩んで行きたいものだ。

 


 

 

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 モノドラマは俳優たちが一人で稽古を重ね、技量を高め、独自の演目を持つために企画され、今は亡き目黒幸子さんや斎藤昌子さんら諸先輩の参加も仰ぎ、公演を重ねてきました。劇団の創設17年目のことです。もちろん基本は変わりません。しかしその内、この試みの持つ別の意味も重ねて意識されるようになりました。
 モノドラマの多くは近代日本の短編を題材とします。明治から戦中戦後にかけ、文学者たちの根底にあったのは、わが国の近代が自身の必然から生まれたものではなく外からの揺動であったという不安定感です。その後の現代まで繋がるわが国の社会自体の浮遊感覚もこれと無縁ではありません。昭和も100年を迎えました。私たちは何を失い、何を曖味にしてきたのか……
 モノドラマに創作としての独自性があるとしたら、それは俳優が作家の創作衝動を「身体」の実感として生きることです。私たちはかつて何に触り、何を感じ、何を幸せあるいは不幸せとして生きてきたのか。それを観客と共に、舞台の実感として共有します。もし、私たちの「根底の不安」に東西の差異があるとしたらどこなのか、どこまで降りれば共通なのか。今回は、近代ヨーロッパ、ロシアの作家における創作衝動も見つめつつ、展開したいと考えています。

原田一樹

 

 モノドラマは、アトリエでの公演を前提に99年にスタート、その後、キンダースペースではアトリエ以外の空間でも、最も上演の多い演目となりました。もちろん登場する俳優が一人、装置は抽象的でいっぱい飾りを必要としないなど、機動性の良さによります。一方で「一人」というのは、観客に必要以上の集中を強いる場合があり、初めて演劇に触れる高校生などにとってこの観劇がふさわしいのかという危惧、つまり演劇は退屈だ、と思わせてしまうのではと怖れてもいました。
 もちろん、たくさん人物が出ていれば退屈ではない、ということはありません。ドラマの基本は葛藤です。どれだけ人が出ていようと、そこに多様な価値観に揺れる葛藤が描かれていなければドラマは退屈であり、登場人物がたった一人でも、その内側に深い葛藤と揺れが描かれていればドラマはうねります。
 モノドラマの場合、その葛藤の基本は原作者の創作行為にあります。なぜ、そこに筆を下ろしたのか、何を描こうとしてもがいたのか。どのような煩悶が文字の向こうに描かれているのか。文芸に限らず、優れた作家の創作衝動は強く深いものです。時代、社会との軋轢、存在への疑問と渇望。モノドラマはこの創作の煩悶を俳優の身体に落とし込む試みです。
 文学は、あるいは芸術は何の役に立つのか、という問いかけは、いつの時代も繰り返されてきました。しかし、この問いかけ自体が消費社会の経済活動を前提にしています。「何かの役に立つ」その「何か」それ自体は、いつ、どのようにして造られたものなのか。それを前提にすることを問わずにいいのか。あらゆる芸術創作は常にこの問いかけと伴にあります。
 キンダースペースは、今年限りをもってこのアトリエを去ることになりました。私たちにとっては問いかけと創造の場でも、消費社会の中ではここは一つの不動産です。もちろん、芸術創作は不動産を前提にするものではありません。創作の現場は私たちの内側にあります。煩悶に向かう覚悟を失わない限り、そして、受けとめようという意思を示していただける観客の皆さんの存在がある限り、歩みを止めずにいたいと考えております。
 本日はご来場ありがとうございました。

原田一樹

 

Aプログラム

〜善と悪の交錯〜

『范の犯罪』志賀直哉 1913年「白樺」/作者の従弟が同じような夫婦関係から自殺したことを直接の執筆動機としている。『城の崎にて』にも言及があり「范の妻の気持ちを主にした」創作もしたいとあるが果たしていない。女性を描けていない自覚はあった。明治以降、知識人の社会への不適合の実感は、表面的な西洋化による。志賀はここに「自我の肯定」を強く出した。不適合を自己暴露した私小説とも、自身も属する「白樺派」の理想的個人主義とも異なる。范は「本当の生活」を求め「聖書」を読む。が「神」は彼の心には響かなかった。

『火は早いうちに消せ』レフ・トルストイ 1885年「トルストイ民話集・人は何で生きるか」所収/『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』の成功により世界的文豪となった作者は、その後、死の前の無意味に精神を病む。たどり着いたのがイエスの「山上の垂訓」に基づく「神」の言葉。民話創作は自身の救済のためでもあった。本作は「右の頬を打たれたら~」「汝の敵を愛せ」等の『マタイによる福音書』の実質的な局面を示す。この「回心」を経た後は思想、宗教活動に献身。ガンジーやキング牧師に影響。武者小路実篤、志賀直哉らの「白樺派」もトルストイズムによる。トルストイ本人は『復活』によりロシア正教会を破門。

『ひとごろし』山本周五郎 1964年「別冊文芸春秋」/生涯に300を超える作品を描いた。大衆作家とみなされがちだが、多くは近代以前のわが国を舞台に武士道、儒教、仏教とも異なる「共感」を描いた。私たちは何に心を動かし、何を拠り所に共同体を維持して来たのか。本作は延享三年=1746年が舞台。元禄から40年。「死ぬこと」と見つけた武士道も無実化、大衆社会の中でどう生きるのか。ラストの[およう]の言葉は周五郎の他作品を参照。原作にはない。近代法が決める善悪に「我」を対置した志賀。善も悪も神なくして語らないとするトルストイ。周五郎はそこに近世に私たちが自ら育んだ「情」を置いた。


Bプログラム 

~伝えきれぬ愛と歴史~

『椅子直しの女』ギ・ド・モーパッサン 1882年“Le Gaulois”(フランスの政治・文芸誌)/40才前後より不眠症、麻酔中毒、精神疾患。42才で自殺未遂。生涯独身で 43才で死去。自然主義の申し子。皮肉屋、冷笑、シニカルと言われるが、それは健康な社会適合者からの見方。実弟は同じ先天性梅毒で入退院を繰り返し、本人も20代より神経の異常を自覚。そこから作家はどのように手を伸ばしたのか。本作の主人公は文字も読めないジプシー女。彼女にとっての「愛の言葉」は現金の他は無かった。「人生」を左右するのは思い込みや決意ではなく些末な巡り合わせ。なお 1F(フラン)は100サンチーム。1sue(スー)は5サンチーム。現在の価値では1Fは約2,813円。
『藤十郎の恋』菊池寛 1919年大阪毎日新聞/モーパッサンがシニカルであるならば、自著に他人の名で高評価の解説を書いた菊池はどうなのか。「文藝春秋」創始者。同期の芥川に比べれば遥かに社会に適合出来ていた。本人も「させる才分なくして、文名を成し」としている。『恩讐の彼方』にしても『忠直卿行状記』『形』にしても、人がある立場に立ってしまった時に陥る狂気を描いている。「恋愛」も、歌舞伎の名人にとっては舞台で表現する所作以上のものではない。同化せず、「才分」を求めず、近代個人主義的な立場を貫いた。

『文字禍」『文字禍』中島敦 1942年「文學界」/『古潭」の二作品として『山月記』とともに発表。この年の十二月に33才で亡くなる。文壇に入ることのなかった作者は従来の文学の枠組みの外で創作を捉えた稀有な存在。人類は文字を得てから、論理(=記述)の枠組みの中で世界を捉え、また捉えうると錯覚して来た。文字は言葉とも文明とも置きかえられる。精霊を信ずる古代から、デマや陰謀を言ずる現代までの間、人類はどれほど進歩したのか。文芸は「見あやまること」「迷うこと」「間違うこと」「歴史に書き洩らされたこと」を扱う芸術。本作のラストは皮肉でも無意味でもない。粘土に記された文字は粘土に戻る。文明もまた、自然の中に生まれた線の交錯。認知が崩れた時、人は自然に戻る。

原田一樹

 

 

 

 


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木洩れ日抄 114  「近代」は乗り越えられるか、あるいは「芸術」の役割────劇団キンダースペース第46回本公演『カッサンドラたち』を観て

2025-02-28 11:11:58 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 114 

「近代」は乗り越えられるか、あるいは「芸術」の役割────劇団キンダースペース第46回本公演『カッサンドラたち』を観て

2025.2.28


 

 原田一樹は、劇団創設以来一貫して「近代」を問題にしてきた。特にキンダーのオリジナル演劇様式「モノドラマ」では、そのほとんどが日本の「近代文学」だった。それは、「近代」の「迷妄」に翻弄され、傷つき、そこから何とかして脱却しようともがき苦しんできた文学者たちに思いを馳せ、「近代」の核心へと迫り、乗り越えるヒントを得ようとした試みに他ならなかった。

 原田は、今回の公演パンフレットで、「近代」について、「近代は私たちに『承認』『収入』『成功』といった呪縛をもたらした。」と簡潔に記している。それに続いて「近代に限らない。『歴史』が世に語られてから、記載されないものに意味はないし、意図的に抹消されもした。そんな人々のどれほどあったことか。」と述べる。つまり「近代」は、あるいは「近代の価値観」は、何も産業革命から始まったわけでもなく、明治維新から始まったわけでもない。人類の誕生以来、それは「あった」のだ。「あった」が故に、その価値観に傷つき、抗い、破れ、消されていった人々もまた「あった」のだ。原田はさらに「ギリシャ悲劇の昔から、芸術の役割は声を持たない声を探し出して記述することでもある。と、いうことを、やっと最近、中島敦から学んだ気がする。」と言う。

 「芸術の役割」をこれほど鮮明に語った言葉に出会ったことはない。そうか、原田一樹は、この「役割」を一生かけて演劇というジャンルで追求してきたのだと、思い当たって、胸を突かれる思いがした。

 『カッサンドラたち』は、三つの「話」で構成されている。第一話「現在と数百年後」、第二話「カッサンドラとトロイア戦争」、第三話「ネウリのシャク」の三話だ。このうち、第二話は、ホメロスの叙事詩を、第三話は中島敦の「狐憑」を元としている。第一話は、原田のオリジナルだが、その最後の台詞には、シンボルスカの言葉が援用されている。

 この三つの話に共通するのは、「何かに憑かれた者」が、滅びていく、あるいは他者によって抹殺されていくということだ。第一話の統合失調症は、昔は「狐憑き」と呼ばれていたと言われるし、中島敦の『狐憑』の最後には、ホメロスについての言及がある。

 この「何かに憑かれた者」は、世間とは異質の言葉を語り、行動する。それは時として「予知」の能力となる。その「予知」は、来るべき未来への警鐘であり、それ故に「現在」への「否」である。これじゃダメなんだ、こんなことじゃいけないんだ、という「否」は、ほぼ抹殺されてきたというのが、「歴史」の真実だ。いつだって、「不都合な真実」は、時の権力者や、大衆によって抹殺され、「怖ろしい未来」がやって来る。そのことを、実は誰もが知っている、あるいは感じている。それにも関わらず、抹殺は続く。

 ここまで辿れば、だれでも、この『カッサンドラたち』は、まさしく「現在の話」であることが深く納得されるだろう。今なのだ。現在只今が、この状況なのだ。「やって来る!」という言葉によって始まるこの芝居の描きたいことは、この状況そのものなのだ。

 ただ、原田の作劇術は、そのことを政治家のような生な観念的認識では語らず、緻密・周到な構成によって、舞台に今まで観たこともないような真に演劇的な時空を作りだした。

 レイヤーという言葉がある。訳せば「層」とか「階層」とかいうことになるが、コンピュータでの画像編集などでは、「画像の透明シート」のことで、このレイヤーを重ねることで、複雑な画像を作りだすことができる。たとえば、海の写真と、花の写真を二つのレイヤーとして重ねれば、海に咲いている花のような不思議な画像ができる。

 『カッサンドラたち』の三つの話は、それぞれが、この透明なレイヤーと考えると分かりやすい。複数の話が同じ芝居に、順番に、あるいは交互に進行するという芝居は珍しくない。しかし、この『カッサンドラたち』は、順番にでもなく、交互にでもなく進行する。そういう部分もあるのだが、時として、「同時に」進行する。舞台の上手と下手に、あるいは、奥と前に。そして、驚いたのは、そのレイヤーの中の人物のセリフが、対話のように、交互に語られるという場面だ。

 そのとき、時空が一瞬破られ、現代の人間と古代ギリシャの神々が、対話するかのようにセリフを語っている。この芝居の不思議な時空を、うまく説明することは不可能だが、ぼくには、衝撃的な体験だった。

 透明レイヤーの一番下には、おそらく「人間」の「本質」がある。それは時として強欲で、残虐で、時として美しい。古代の人間がどんな価値観を持っていたか、分かるものでもないが、人間の精神の中に、美しいものがなかったとは言い切れない。それは数知れない多くの「芸術」(当時は「芸術」とは認識されていなかったとしても)の存在が証明してくれるだろう。

 その上のレイヤーには「近代」がある。このレイヤーが一種の「フィルター」となって、原田の言う「承認」「収入」「成功」といった価値観をえげつなくも表面に押し出し、それに反する価値を見えなくしてしまっている。すべてが「金」の問題に還元される現代こそ、このフィルターが最高度に作用している結果といっていい。

 三つの話は、こうした根底にあるレイヤーの上に、それぞれが上になったり、下になったりしながら、舞台に現れる。重なるレイヤーは、「透明」であるがゆえに、さまざまな「化学反応」を起こし、今でもない、過去でもない、不思議な時空を現前させる。その現れ方が得も言えず絶妙で、美しく、ぼくは正直「我を忘れた」。

 それにしても、この芝居を演じた役者・スタッフの苦労が偲ばれる。リアルにセリフを言うのではなく、まるで虚空にむかって言葉を投げ出すような発語。その言葉を受け止める空間と時間を作り出す、音楽と照明。それらによって、時空を越えた「言葉の交響」が可能となった。そして、その舞台にすっくと立つ役者たちの姿のギリシャ彫刻のような美しさ。見事としかいいようがない。

 劇団創設40周年をむかえて、原田は「俺は何をしてきたんだろう」と呟く。これだけの仕事をして来た人にこんなことを呟かれたら、ぼくみたいになんにもしてこなかった人間は、立つ瀬がないけれど、「私たちは私たちの言葉で、言葉ではいいつくせない何かを目指すほかはない。はじめから不可能が予定されている。(中略)だとしても、今日一日の生活を始めるのだ。瞬間、瞬間に始め、一日一日に。たとえ始めることの中に滅ぶのが運命であったとしても。.....」と言われると、ぼくのような者でも勇気が出る。芝居を続けるというのが、そういうことだとしたら、ぼくらの「生活」もそうあらねばならぬと思うからだ。

 瀬田ひろ美によって語られる最後のセリフ、「でも私には、大事ではないことが大事なことよりも大事ではないなんて、どうしても思えないの。」というシンボルスカの詩を元にした言葉は、原田が、それこそ生涯を掛けて芝居に集中してきた理由そのものだろう。

 芸術はいつも大事にされ敬愛されてきたわけではない。むしろ、「大事ではない」として無視され、時に敵視され、時に弾圧されてきた。戦時下ではいうまでもないことだが、つい最近のコロナ禍においても、どれほど芸術が「不要不急」の親玉みたいに扱われてきたかは記憶に新しい。

 近代の行き着いた果てのような、金に支配されている現代の世界で、たとえ「はじめから不可能が予定されて」いようとも、その「大事ではない」とされる芸術の営為を「瞬間、瞬間に始め」ていこうという原田の決意は限りなく尊い。

 劇団キンダースペースが、今後とも、その歩みを着実に進まれんことを心から願っている。

 


《公演チラシ》

 

《公演パンフレット》

 

「未来という呪縛」


キンダースペースは創立40年になる。1985年に20代後半の初期メンバーが集まって始めた。正確には今年が41年目。先日ふと「俺は何をしてきたんだろう」と呟いたら、そんなことはいわないで、とたしなめられた。それも当然で、公演毎の赤字とアトリエの維持、劇団の存続に休みなく身を削っている方からすれば何のための苦労だといいたくなる。
「何をしてきたんだろう」が思わず漏れたのは、創立時の目論見と現在の落差の実感による。そもそもどんな目論見があったのか心もとない。あえて眼をつむった気もする。目論見を立てると「世間のニーズ」や「経営」や「功成り名遂げる」から自由になれない、それでは「演劇」を志す意味がない。といいつつ、これは負け犬の遠吠えではとも思う。近代は私たちに「承認」「収入」「成功」といった呪縛をもたらした。近代に限らない。「歴史」が世に語られてから、記載されないものに意味はないし、意図的に抹消されもした。そんな人々のどれほどあったことか。
ギリシャ悲劇の昔から、芸術の役割は声を持たない声を探し出して記述することでもある。と、いうことを、やっと最近、中島敦から学んだ気がする。
「何をしてきたんだろう」はまた毎度毎度脚本でのたうち回り、俳優たちに負担をかけ自分でも心底疲れ果てて吐いた言葉でもある。難儀の理由の半分は分かっている。「近代」の迷安を取り上げたい自分が、抜き差しがたく「近代人」だからだ。もちろんこれは宿命だ。私たちは私たちの言葉で、言葉ではいいつくせない何かを目指すほかはない。はじめから不可能が予定されている。
ギリシャ神話もまた死すべき人間の無力を訴える。それでも人は「予知」を求める。カッサンドラの物語が見せるのは不都合な「予知」は抹消されるということだ。ならば「予知」は意味がない。けれど人は「予知」を求めてやまない。目論見を立ててもっと上を目指す。つまりは未来に呪縛されたがる。
だとしても、今日一日の生活を始めるのだ。瞬間、瞬間に始め、一日一日に。たとえ始めることの中に滅ぶのが運命であったとしても。……というのもまたある小説から学んだ。キンダースペースの40年もきっとこういう風に積み重ねられてきた。一人一人のメンバーの、目前のするべきことへの集中と、ともかくやるんだという意思。その中にこそ劇団も創作も存在する。物書き一人の迷妄と呪縛の自覚だけでは何も進まない。この先どれだけ続けられるか、仲間がいれば、また一日を始めたい。
本日のご来場に心より感謝申し上げます。
原田一樹

 

 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024-10-08 20:12:46 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画

2024.10.8


 

 近頃、ほとんど映画館に行っていない。見たい映画がないわけじゃない。むしろ山ほどある。けれど、2時間、映画館の座席に座っていられる自信がないのだ。トイレの問題である。年をとったからということもあるかもしれないが、けっこう昔からこれが問題だった。2時間を越えるともういけない。あと30分がどうしても我慢できずに、席を立ってトイレに走ったことが何回もある。

 なんていう映画だったか、タルコフスキーだったか、誰だったか覚えていないのだが、最後の方で、えんえんと葬式だかなんだかの行列がゆっくり踊りながら進むシーンがあって、そのときもう限界となってしまって、トイレに走っていったのだが、帰ってきたらまだその行列のシーンが続いていたということがあった。それならそれでいいのだが、進行の早い映画だと、やっぱり困る。

 で、2時間越える映画は行かないことにしたが、そのうち、2時間越えない映画も行かなくなってしまって、今に至るわけである。

 トイレだけではない。割と最近行った映画館では、場内はガラガラなのに、すぐ近くに座った若い男が、上映中ず〜っと、ポップコーンを食べていて、気になってどうしようもなかった。いったいどうして映画を見ながらポップコーンを食べるのだろうか、と長いこと疑問だったのだが、あれは、映画館が収益を上げるためだということをどこかで読んだ。あれを売らないとやっていけないというのだ。そんなことってあるだろうか。しかしまあ、ポップコーンっていうヤツは、ほんの少量のコーンが大量のポップコーンに変身するわけだから、綿菓子と同じで、ボロもうけの商品であるから、頷ける話ではある。

 そういえば、ぼくが子どもの頃の映画館では、映画の合間に(もちろん3本立てとか2本立てだったので)、「おせんにキャラメル〜」とかいって、売り子が歩いていたものだ。キャラメルはともかく、おせんべいは音がうるさかっただろうが、ポップコーンのように長持ちしないから、「音害」は少なかったかもしれない。

 あの頃は、映画館の中はもちろん「禁煙」なんかじゃなかったから、映写機から一筋流れる青っぽい光には、タバコの煙が得も言われぬ渦模様を描いていて、映画の中身より、そっちにうっとりしていたのかもしれない。

 今じゃ映画館も、1本終わると外へ追い出される世知辛さだが、ぼくが大学生のころは、ロードショーであっても、何度でも見ることができた。だから映画が始まって1時間も経ったころに入って、終わりまで見て、そのまま座っていて最初から見て、あ、ここからは見たというところで外へ出るということもずいぶんあった。それでちゃんと見た気分になれたのだから不思議である。ネタばれなんてもんじゃない。

 最初から入ったのに、2度見たことも何度もある。ぼくが大学生当時、つまり、1970年前後は、特にイタリア映画がやたら元気で、パゾリーニやら、ビスコンティやら、フェリーニやらといった大御所の新作が続続と公開された。映画館は、日比谷にあった「みゆき座」とほぼ決まっていた。パゾリーニの映画なんて、一度見ただけじゃさっぱり分からないものがあって、「テオレマ」などは、その最たるもので、2度見た。それでも分からなかった。

 その最後のシーンときたら、主人公の男が、駅で突然全裸になって、両手を挙げて叫びながら歩いていくというもので、最前列で見ていたぼくの隣に座った若いサラリーマン風の男たちが画面を指さして大声でゲラゲラわらったのをよく覚えている。そのシーンは、砂漠を裸で歩いていく男とモンタージュされるので、意図はむしろ分かりすぎるのだが、そこまでの展開がワケ分からないので、男たちがゲラゲラ笑ったのも、しょうがないかもしれない。

 しかし、そんなことより、あの「みゆき座」が、最前列まで埋まるほど人に溢れていたことが、むしろ驚きをもって思い出される。パゾリーニなんぞという、今からすれば、超マニアックな映画監督の作品でさえ、みんな、サラリーマンも学生も、押しかけたのだ。あの熱気は、いったい何だったのだろう。

 パゾリーニを、ポップコーン食べながら見てるヤツなんて、どこにもいなかった。そんなもん食べてる暇はなかった。あの頃は、みんな映画を食べていたのだ。

 


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木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024-10-05 14:33:24 | 木洩れ日抄

木漏れ日抄 112 『光る君へ』──みとれてしまう

2024.10.5


 

 『光る君へ』を見ていて、一番感じるのは、とにかく画面がキレイだということ。昨今のテレビの性能のせいもあるけど、とにかく美しいの一言だ。

 誰かがどこかに『光る君へ』のよさは、「画面の明るさ」だということを書いていたけど、同感だ。ほんとは、当時の部屋の中などは、薄暗かったに違いない。御簾(みす)なんかおろしたら、電灯を消してカーテン閉めきってるようなもんで、部屋の奥なんてどうなってるかわからないほど暗くて、人の顔なんかよく分からなかったろう。まして、やんごとなき天皇のご尊顔など、うすぐらさの中にぼんやり見えた程度じゃなかろうか。

 それが、一条天皇など、その超イケメンのお顔が、まるでレンブラント光線にでも照らされているかのように(これも誰かが言っていたっけ?)、やわらかく、しかも、はっきりと見える。照明スタッフの努力の結晶だ。しかも、それがちっとも不自然に感じられない。

 ネット界隈では、きっと、「平安時代の部屋の中ってもっと暗かったんじゃね。」みたいな言葉が飛び交っているに違いない。そういうことをしたり顔にいう輩が最近多いが、じゃあ、当時と同じくらいの明るさ(暗さ)で画面を作ったら、それでいいのかってことだ。そんなの見ちゃいられないだろう。なんにでも、「そのころはそうじゃないだろ」って言わずにはいられないのは、昨今のネット民だが、そんなことより、そんなことは百も承知のうえで、では、どうしたらより美しく、また当時の現実感を再現できるだろうかと考えるところにドラマ制作の醍醐味があろうというものではないか。

 まあ、そうはいっても、けっこう「うるさ型」のぼくだが、かのネット民ほどの違和感を感じないのは、あの明るさが、『源氏物語絵巻』の再現に違いないと思うからだ。『源氏物語絵巻』を見ると、どこにも影なぞない。部屋の隅々までくっきりと見える。あれだ。

 そればかりではない。『源氏物語絵巻』は、斜め上からの構図をとることが多いが、それを意識したのか、ある回で、女房たちの「局(つぼね)」を、真上から移動撮影した。このシーンには驚き、感動した。そうか、「局」って、こういう構造になっていたんだとか、思っていたよりずっと狭くて、隣の女房のイビキまで聞こえてきたんだとかいったことが分かってすごくおもしろかった。この「局」の「思っていたより狭い」ということは、脚本家もびっくりしたのか、確か藤原道綱に、「へえ、ずいぶん狭いんだね。」みたいなセリフを言わせている。ぼくも道綱に共感した。

 このドラマの美術スタッフは、『源氏物語絵巻』とか、その他の絵巻物を丹念に調べ、部屋の構造から、調度品や衣装まで、細かい時代考証をしてそれを丁寧に映像化していてとても貴重だ。いくつかのそうしたシーンを短い動画として、『源氏物語』などの授業で見せたいくらいだ。「図録」などより、どれだけ分かりやすいかしれない。

 庶民の暮らす「郊外」の明るさも印象的だ。(『信貴山絵巻』とかいった絵巻物などを参照しているのだろうか。)「まひろ」が、ひょいひょいと出かける「郊外」では、芸能者たちが藤原氏をおちょくる歌を歌って舞う。それをおもしろがって見物する「まひろ」。貴族たちの住む邸宅の周辺には、そうした「郊外」が広がっていたことも、「室内劇」中心の『源氏物語』ではイメージしにくい。もっとも、「夕顔」の巻などでは、そうした「郊外」にある廃屋が舞台となるのだが、宮廷との物理的な距離感が、なかなかつかみにくいものだ。

 そんな意味でも、平安時代の物語を読むうえで、とても参考になるドラマなのだ。

 光があれば影もある。このドラマの影もまた美しい。「五節の舞」のシーンなどは、光と闇のコントラストが素晴らしく、まさに色彩の饗宴で、思わず見とれてしまった。道長と「まひろ」がともに過ごす月夜の晩とか、石山寺でであった二人が結ばれる夜とか、闇そのものも美しく表現されている。これもみとれた。

 毎回「みとれる」、『光る君へ』である。

 

 

 


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木洩れ日抄 111  劇団キンダースペースレパートリーシアターVol.53「中島敦・光と風の彼方へ」────閃光のような言葉

2024-10-01 21:03:36 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 111  劇団キンダースペースレパートリーシアターVol.53「中島敦・光と風の彼方へ」────閃光のような言葉

2024.10.1


 

 昔、まだ教壇に立っていたころ、中学生にむかって、「世界を二種類に分けるとしたら、何と何になると思う?」と聞いたことがある。生徒たちは、「男と女」とか、「陸と海」とか、「生物と無生物」とか、ありとあらゆるものを挙げていたが、「全部違うよ」と、ぼくは余裕シャクシャクで、「答はね、『自分』と『自分以外』だよ。」と言った。生徒はキョトンとしていたが、果たして、そんな独我論的な答が、答と言えるのかどうかあやしいものだ。もっともっと根本的な分類があるのかもしれないが、いまだにぼくはその答を否定することができないでいる。


 「ぼくらは、何でも見ることができるけど、自分だけは見ることができないよね。自分が消滅したら、世界はどうなっているか、ぼくらは知ることもできない。こんなもの、こんなものの『ありかた』って、他にはないでしょ。」みたいなことを得意になってしゃべったような気がする。今となっては、ただただ恥ずかしい。


 「自分」と「自分以外」に、世界を分けるということは、あまりにも「自分」中心すぎる考え方だ。「自分」だけが特別なもので、それ以外のものを並列に置いてしまうということは、「世界の理解」を危うくする。そして、意識の「半分」を「自分」に向ける、つまりは「自分とは何か?」という問題を最高位に設定してしまうところに、いわゆる「近代的自我」の問題があるわけである。

 原田一樹は、この芝居の招待状で、こんなふうに書いている。

 

 近代以降の文学は、「個人」の不安、存在の危うさが共通のテーマでした。少し乱暴な言い方ですが、16世紀のシェイクスピア、イプセン、チェーホフ、漱石、芥川、村上春樹も明らかにそこに創作的衝動の根幹があります。ある意味、中島敦の『山月記』もこの変奏といえます。けれどもその上で、主人公を「虎」にするという運びがあったでしょうか。一人中島敦だけがここに「前近代」という補助線を引いたという気がします。『木乃伊』や『文字禍』はその白眉で、短編ということを差し引けば、今後『ドン・キホーテ』なんかのように、世界文学として再評価されるかもしれません。

 

 ぼくが若いころは「自分」だけが特別な存在だし、その存在のありようは、「自分以外のもの」と、「まったく違う」という意識に捉えられ、疑いもしなかったのだが、数世紀も前から、それこそ「近代」がもたらした最悪の意識なのではないかという不安から多くの文学が生み出されてきたのだ。

 けれども、その不安は彼らの文学によって解消されるどころか、より深刻なものとしていまだにぼくらの心を覆っている。解決の糸口すらないとぼくには思われる。かつてのぼくはその「解決」をキリスト教に求め、信仰にも入ったのだが、自分の意固地な性格も災いして、いまだほんとうの「救い」を得たとはいえない状況にある。

 そういう状況の中で、芝居の終盤に、虚空に向かって放たれたような「私たちもまた、私たちが思う程、私ではありません。」という言葉は、まるで闇を貫く閃光のように輝いた。

 「私」というものは、「私」が思っているほど「私」ではない、という難解な言葉は、ぼくなりに言い換えれば、私たちは、「私」というものが疑うことのできない存在あるいは存在の「ありかた」だと思い込んでいるが、実は、それほど確実なものではないのだ、ということになるだろうか。

 「近代」においては、いかにして「私」を形成するか、いかにして「私」の存在をより崇高なものにするか、といった、「私をどういうものにしていけばいいのか?」が、生きる意味を問うことだった。しかし、もし「私」が、自分が思っているほどたいしたものじゃない、確実なものじゃないということになれば、そんな努力は意味を失ってしまう。別の言い方をすれば、楽になる。いいかげんに生きていけばいい、ということではないにせよ、「自分」が「世界」の半分を占めるという意識は消え、「自分」は「世界」の一部、あるいは断片にすぎない、ということなる。それならいっそ気楽だ。いつもいつも「自分」と対峙して苦しむことはない。もっと感覚を「世界」に向けて解き放ち、生きているという実感を楽しめばいい。

 中島は、そうした生き方を求めて、「前近代」の文学や「脱近代」を目指した文学や(たとえばカフカ。カフカを最初に見いだしたのは中島敦だと言われているらしい。)、老荘思想や、南洋の島の人々の生活にこころを向けた。そこに活路を見いだそうとしていた。しかし、ことはそんなに簡単ではない。「近代的自我」を持ってしまった、あるいは意識してしまった人間が、古代の人のような素朴さに回帰することなど至難のことだ。けれども、たとえ「虎」になろうとも、そこにしか活路はないと苦闘しつつ、中島敦は33歳の若さで死んでいったのだ……

 それが、原田一樹が今回の芝居で描き出した「中島敦」なのだと、ぼくは思う。

 『ある生活』『悟浄出世』『幸福』『無題』『山月記』といった作品を、順番に並べていくのではなく、その核心を剔り出し、他作品のそれと通底させ、そしてもちろん原田自身の考えたセリフや登場人物を加えて芝居として成立させるという困難な作業によって、中島敦の精神の神髄を舞台上に描き出すことを試みた。それが成功だったか、失敗だったかは、だれにも分からない。むしろ、「成功」とか「失敗」とかの概念そのものが、「近代」が生み出したものにすぎないのだ。

 「世界は理解するためにあるのですか?」という女学生の教師に対する問いかけの言葉は、この芝居を貫くもう一つの閃光だ。「理解する」とは、まさに「知性」によるもので、近代以降、多くの人間はこの世界を「理解」しようとして躍起になり、その結果、乱暴にいえば、「科学」が生まれた。今や宇宙の果てでさえ、「理解」されようとしている。いやそれどころか、人間がいなくても「理解」はできるようにすらなっている。読書感想文を、AIが書いてくれる時代だ。

 そのような状況の中で「世界は理解するためにあるのですか?」という問いかけは、ほぼ「世界は理解するためにあるわけはない。」という宣言に等しい。その宣言は、それじゃあ、どうすればいいんだ? という反論を遙か後方に残したまま、疾走する。どうすればいいだと? そんなことは知ったことか。おれが「世界は愛するためにあるんだ。」と言ったところで、おまえたちは、鼻で笑うだけだろう。それが「近代」だったんじゃないか。そしていまなおその「近代」は、亡霊どころか、生き霊として、俺たちにとりついているじゃないか。そう叫びながら、虎になった李徴は闇の中を疾走していく。その疾走感は、中島敦の精神を、坩堝のなかに入れてかき混ぜるような原田一樹の見事な作劇術から生まれたといっていい。

 ぼくはこの芝居を「理解」できたとは言いたくない。「世界」と同じく「芝居」も「理解」されるためにあるのではないからだ。むしろ、この芝居の随所にちりばめられ光を放った中島敦の言葉に、射貫かれ、心揺さぶられた。その言葉を発する役者の声、そしてその「肉体」に、心が震えた。そういうことを前にして、「理解」とは、もはや何ものでもないのだ。

 原田一樹は、中島敦の文学をどう芝居にするのか、ということについて、「まず中島敦が畏れていたことを畏れてみる他はない」と述べている。そうであればなおさら観客は、「理解」や「共感」を早急に求めるのではなく、やはり中島敦と共に、そして戯曲作者と共に、その畏れをじっくりと畏れてみる他はないだろう。そういう意味でも、この芝居の再演をぼくは切に願っている。

 最後に、この芝居によって、中島敦という作家に、今までに感じたことのなかった興味をそそられ、今まで何度も買おうとして買うことのなかった「中島敦全集」を買ったことにまでなったことに、改めて、原田一樹さんに感謝申し上げます。そしてまた、この稀代の意欲作に熱心に取り組み、見事に舞台化を実現した客演の俳優さんとキンダースペースの皆さんの努力に心からの敬意を表します。

 

 

 

 

 

 


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