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日本近代文学の森へ (80) 「作者」と「作品」──AIの「作品」

2019-01-14 10:49:52 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (80) 「作者」と「作品」──AIの「作品」

2018.1.14


 

 AI(人工知能)が発達してきた昨今、さかんに言われるのは、もう人間のやることなんかほとんどAIが変わってやれるようになるんじゃないかってことで、極端な人は、人間にはもうやることはないから、仕事はみんなAIに任せて、好きなことをすればいい、なんてことを言い出す。「好きなこと」が仕事だったらどうすればいいんだ、ってことにもなるけど、まあ、車の自動運転なんてことも、なんかとんでもなく不安なような気もするけど、よく考えると平気で高速道路を逆走しちゃう高齢者なんかが運転するよりよっぽどマシかなあなんて思ったりもする。

 囲碁なんかは、とっくに人間はAIに負けちゃっているし、将棋も、藤井君がAIから学んでいるみたいなことを聞いたりもする。居酒屋なんかの接客も、ツンツン機嫌の悪いオネエサンやら、頼んだものを間違えまくる新米のバイトのニイチャンより、かわいげなAI搭載のロボットのほうがいいかもしれない。

 これが芸術の世界に入ってくるとどうなるのか。ある本で読んだのだが、レンブラントの絵画の技法をAIに徹底的にディープラーニングさせたところ、AIが「新作」を描いた。どこからみても、レンブラントの絵で、しかも、今まで存在したことのなかった絵だという。これをその本の著者は「盗作」とは言えない、というのだが、それもおかしな話で、人間がそれこそディープラーニングして、レンブラントの技法を完璧に身に付け描いた絵を、レンブラントの絵ですといって売ったら、間違いないなく「盗作」となるのに、AIが描けば「盗作」とは言えないなんて言えない。

 それはともかく、AIの技術がそこまで来ているというのは確かに衝撃的で、こうなってくると、レンブラントとルノワールの技法を完璧にディープラーニングして融合させたAIが描いた絵は、きっと見たこともない新しい絵となるかもしれない。そして、もし、その絵が、見る人に感動を与えたとすれば、その絵の「価値」はひょっとしたら、レンブラントやルノワールを越える可能性だってある。それを何億円も出して買うお金持ちだっているに違いない。

 そのAIの技術をもってすれば、文学なんてお手のものとなるだろう。なにしろ。小説にしろ、詩にしろ、言葉の組み合わせでしかないのだから、今のスマホの「予測変換」のその果てに、自動小説生成のプログラムなんて簡単にできるだろうし、すでに出来ているに違いない。これが、最短の詩、俳句なら、もういとも簡単にできちゃうわけで、その実例をどこかで見たような気がする。

 で、このAIが作った俳句を、プロの俳人が作った俳句とをランダムに並べて、どれがAIが作ったものか当てろ、と言われたら、おそらく分からないだろう。100句ぐらいまぜこぜに並べて、ベスト10を選んだら、上位は全部AIのでした、なんてことがないとはいえない。

 その場合、例えば一位になった俳句がAI作だったとしたら、どういうことになるのか。「作品」はあるけど「作者」はいないということになる。もちろん、表彰台に上るのは、そのAIを作った人(たち)ということになるのかもしれないけど、そんなヘンテコなことってあるだろうか。

 ここで「分析批評」のことに戻る。「作品」は「作者」から切り離して味わうべきだというその主張を極論すれば、「作者」なんていなくていいということになるわけだが、それなら、この第一位のAIは、その究極の達成ということになる。AIそのものは、あくまで人間じゃないわけだから(まあ、将来的には鉄腕アトムのようなヤツになるのかもしれないけど)、「作品」だけあって「作者」はいない、ということで、「分析批評」的な立場からすれば、なんら不都合ではないことになるわけである。

 今思えば、「分析批評」は、今のAI時代の到来を先取りした先進的な理論であったのかもしれない。別の言い方をすれば、「分析批評」的立場(ここではあくまで「作者」と「作品」を切り離して考えようという立場とする)が、AIの登場を用意したということでもある。「作品」が「作者」と絶対に切り離して考えることはできないとする立場では、AIに俳句を作らせるということは、実験としてはおおいにあっていいとしても、それが「俳人の存在を脅かす」という危惧には結びつきようがないからだ。

 芭蕉と蕪村と一茶と子規の俳句をディープラーニングしたAIが作った俳句が、どんなに素晴らしい句であったとしても、その「作品」が帰すべき「作者」不在だとしたら、意味がない。

 「秋深き隣は何をする人ぞ」という俳句は、「作者」たる芭蕉から切り離して、自由に鑑賞したら、覗きの常習者の心境ととったっていいことになる。それは違うんだ。これは覗き趣味のヤツの句じゃないんだと言い張るには、「作者」の存在が不可欠である。しかし、これがもしAIの作った「作品」なら、そんな縛りはないから、こそ泥の心境と読もうが、変態の心境と読もうが、まったく自由だということになるわけだ。AIはたぶん絶対に怒らないだろうし。

 

 

 

 

 


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