加舎白雄(かや・しらお)
薄氷雨ほちほちと透(とほ)すなり
45×38cm
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なぜか、加舎白雄が好きです。
名前が現代人みたいですが、江戸時代の人。
蕪村などの同時代人です。
ちょっと調べたら、誕生日がぼくと同じでした。まあ旧暦でしょうけど。
薄い氷に雨がしみ通っていく様子を「ほちほちと」というあたり、面白い。
「薄氷」は今では春の季語とされているそうです。
加舎白雄(かや・しらお)
薄氷雨ほちほちと透(とほ)すなり
45×38cm
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なぜか、加舎白雄が好きです。
名前が現代人みたいですが、江戸時代の人。
蕪村などの同時代人です。
ちょっと調べたら、誕生日がぼくと同じでした。まあ旧暦でしょうけど。
薄い氷に雨がしみ通っていく様子を「ほちほちと」というあたり、面白い。
「薄氷」は今では春の季語とされているそうです。
「奥の細道」より
半紙
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五月雨の空聊(いささか)はれて、
夕月夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、
籬が島もほど近し。
【口語訳】
五月雨の空もすこし雲が切れ
夕月がほのかに光って
籬が島も近くに見渡される。
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この後で、いよいよ松嶋へと赴くのだが、
松嶋の部分は、
高校の古文の教科書にも必ずといっていいほど載っている、名文。
ただ、気合いが入りすぎて、漢文調になっています。
それに比べて
こういう部分は、どうということない文章ですが、
あっさりとした淡彩の美しさがあります。
美しや春は白魚かひわり菜
加舎白雄
半紙
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いつかこの句を書いたなあと思ったら
3年前の今ごろに書いていました。こちらです。
解説はそちらをお読みください。
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最近またちょっとデカルコマニーの制作をしたのですが
そのついでに、和紙に試みてみました。
「墨流し」などよりはずっと簡単で、
もうちょっと工夫すれば、おもしろい「料紙」ができるかもしれません。
本物の仮名料紙なんか買うとえらく高いので、
こんなのなら心置きなく使えます。
「奥の細道」より
半紙
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むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、
おほく語伝(かたりつた)ふといへども、
山崩れ、川流(ながれ)て、道あらたまり、
石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老(おい)て
若木(わかき)にかはれば、
時移り世変じて、其跡たしかならぬ事のみを、
爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、
今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
【口語訳】
昔から古歌に詠まれた歌枕の類は、
今日までたくさん語り伝えられているが、
それらの歌枕を現在尋ねてみると、歌枕だった山は崩れ、川は流れを変え、道は改まり、
石は埋もれて土中に隠れ、木は老い朽ちて若い木に生え変わっているので、
時代が移り変わって、昔の歌枕の跡も、確かでないものが大半なのだが、
この壺碑だけはまちがいない千年の昔の記念であって、
これを見ると、いま、眼前に古人の心を確かめみる思いだ。
「壺碑(つぼのいしぶみ)」は
現在も、多賀城町市川に現存していますが、
芭蕉の頃とは位置がちょっと違うともいわれているそうです。
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何もかも変わっていく、という嘆きは、
ずっとこの国を覆ってきた嘆きなのかもしれません。
82 「粋」は、どこに?
2016.4.26
何でもかんでも商売のネタにする世の中である。
オリンピックのエンブレムがどうのこうので大騒ぎしているから、なんで、エンブレムなんか必要なのかと思ったら、「使用料収入」があるからという理由もあるらしい。なるほど、オリンピックがらみで商品を出そうとすると、そのエンブレムを使いたくなり、そうなるとオリンピック委員会だか何だかしらないが、そういうところへ「使用料」を払わねばならぬ、ということか。なんだかガックリくる。
今度採用されたエンブレムは藍色の市松模様で、「日本の粋」や「伝統」を表現しているというのだが、え? 「粋」ってどういうことだっけと、思わず九鬼周造の『「いき」の構造』を読みたくなった。悔しいのは、ここで「読み返したくなった」と書けないことで、こんな有名な本を、題だけ知っていて読んでないというのは、恥ずかしいことこの上もないのだが、といって、このエッセイを書くために読んでいたら、いつまでたってもエッセイを書けないので、すっとばすが、いずれにしても、「今の日本って、そんなに粋かい?」って、朝ドラ『とと姉ちゃん』の大地真央みたいに変なカッコをつけて宝塚的発声で言ってみたくもなるじゃあないか。
そう啖呵切ったところで、「粋」ってなあにというところが判然しないのではしょうがないので、『日本国語大辞典』を引用すれば、
「粋」(1)気風、容姿、身なりなどがさっぱりとし、洗練されていて、しゃれた色気をもっていること。また、そのさま。主として近世後期以降発展した一種の美的理念。(2)遊里、遊興に精通していること。
となっている。この反対語が「野暮」で、これもかの辞典によればこうだ。
「野暮」遊里の事情に暗いこと。性行、言動が洗練されないでいて田舎くさいこと。世態、人情の機微に通じないこと。気がきかないこと。不粋。また、その人やさま。
「遊里」のことはさておき(ちなみに、こうした「遊里」で「粋人」を気取るやに下がった男もぼくは嫌いである)、「さっぱりとしていて、洗練されて、しゃれた色気を持っている」のが「粋」で、「言動が洗練されてなくて、田舎くさくて、人情の機微が分からなくて、気がきかない。」のが「野暮」だとすれば、今の日本が、どっち側にあるかなんて、小学生にでも分かることではないか。(いや、小学生にはちと無理か。小学生は「野暮」でいいし、そうでしかありえない。「粋な小学生」なんていたら気持ちが悪い。)
「野暮」というのは、結局何がなんでも「金!金!」ということに尽きる。金や権力をひけらかす田舎者が徹底的にバカにされる落語を聞いてみればすぐに分かる。それが野暮だ。
エンブレムを大金かけて作って、その作る過程にもいろいろ金とか権力がからみ、それで作り直しになるなんてこと自体が野暮の極みなのに、その野暮なドサクサの挙げ句に出てきたのが「粋」なエンブレムというわけで、その「粋」なエンブレムが、金まみれになるってわけなんだから、もうどう表現したらいいのかわかんない。
別にエンブレムを親の敵だと思っているわけではない。ほんとは、どうでもいいのである。オリンピックだってどうでもいい。どうでもよくないのは、いまだに、この「日本の伝統」が「粋」だと思い込んでいる人、思いたがる人が多すぎるということだ。「粋な人」はそれこそたくさんいる。けれども、それは日本にしかいないわけではない。粋な外国人だってたくさんいる。行ったことがないからよくは知らないが、ヨーロッパあたりの田舎に行くと、粋なオジイサンやオバアサンがたくさんいるような気がする。(そんなテレビの旅番組をよく見る。)
しかし、この日本が、今、「粋な国」だなんて、ぼくはどうしても思えない。「粋」が「伝統」として、生き生きと生きている国だなんて絶対に思えない。いや、そもそも「粋」は、「国」と相容れないのだろう。「金だって? あたしゃそんなものに、興味はないよ。」なんて大店の若旦那みたいなことを国が言っていたら、それこそ「国」は成り立たない。それは重々分かっている。分かっているけど、ぜんぜん「粋」じゃない政治家や実業家なんかが、「日本の伝統である粋をアピールしましょう。」みたいなセリフを言うのを聞くと、「てやんでえ!」って思うわけである。
つい先日、NHK-BSの火野正平の『こころ旅』を見ていたら、山梨県の勝沼あたりを自転車で走っていて、道路の周辺にピンクの桃の花が満開だった。その美しさは、ソメイヨシノの及ぶ所ではない。そういう風景をテレビでみながら、陶淵明の「桃花源記」や、老子の「小国寡民」の話を思い出していた。それこそ本物の「粋」じゃないかと、つぶやいてみる昨今であるが、こんなことを書いて老後の憂さを晴らしているというのも、なんとも野暮な話である。