日本近代文学の森へ 269 志賀直哉『暗夜行路』 156 直子の思い 「後篇第四 十」 その1
2024.9.26
列車に乗り込もうとした直子を、ホームへ突き落とすという、およそ信じられない暴挙に出た謙作だったが、直子のケガはそれほど大したことはなかった。そうはいっても、「二、三日は起上る事が出来なかった。」というのだから、「大した事はなかった」と言ってすませられることでもない。
直子の怪我は大した事はなかったが、腰を強く撲(う)っていて、二、三日は起上る事が出来なかった。謙作は一度直子とよく話し合いたいと思いながら、直子が変に意固地になり、心を展(ひら)いてくれないためにそれが出来なかった。
直子の方は彼がまだ要(かなめ)との事を含んでいると思い込んでいるらしいのだが、謙作からいえば、苛々した上の発作で、要との事などその場合浮ぶだけの余裕は全くなかったのだ。
「お前はいつまで、そんな意固地な態度を続けているつもりなんだ。お前が俺のした事に腹を立て、あんな事をする人間と一生一緒にいる事は危険だとでも思っているんなら、正直にいってくれ」
直子は謙作に対して心を閉ざしてしまっていて、とりつく島もない。まあ、そりゃそうだろう。走りだした列車から突き落とされるなんて経験、そんなにめったに出来るものじゃない。口を利きたくないのも当然だ。
謙作は話し合いたいと思うが、「直子が変に意固地になり、心を展(ひら)いてくれない」ためにできなかった、という。まるで「直子が悪い」とでもいいたげな書き方だ。
さらに、謙作は「苛々した上の発作で、要との事などその場合浮ぶだけの余裕は全くなかったのだ。」と書かれる。「事実」としてはそうだろう。突き落とす瞬間に、「このやろう、要と寝たりしやがって!」なんて思ったわけじゃないだろう。苛立ちの発作で、あんなことをしたと思っている。それもそうだろう。けれども、なぜ謙作は苛立っていたかといえば、列車に乗り遅れそうになっている直子に対して苛立ったというのではなく、その日は、朝からずっと苛立っていたのだ。それはなぜかと言えば、結局「要のこと」に行き着く。けれども、そのことに気づいていない、というか、気づいていないと思っている。
その上で、更にトンチンカンなことを言う。「あんな事をする人間と一生一緒にいる事は危険だとでも思っているんなら」なんて、まったく直子の心中を察していないことになる。そんな単純なことじゃないだろう。
だから、謙作の言い草や態度に耐えられなくなった直子は、珍しく長々と反論するのだ。
「私、そんな事ちょっとも思っていないことよ。ただ腑に落ちないのは貴方が私の悪かった事を赦していると仰有りながら実は少しも赦していらっしゃらないのが、つらいの。発作、発作って、私が気が利かないだけで、ああいう事をなさるとはどうしても私、信じられない。お栄さんにも前の事、うかがって見たけれど、貴方があれほど病的な事を遊ばした事はないらしいんですもの。お栄さんも、近頃はよほど変だといっていらっしたわ。前にはあんな人ではなかったともいっていらした。そんな事から考えて貴方は私を赦していると仰有って、実はどうしても赦せずにいらっしゃるんだろうと私思いますわ。貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。それじゃあ、私、どうしてもつまらない。本統に赦して頂いた事には何時まで経ってもならないんですもの。それ位なら一度、充分に憎んだ上で赦せないものなら赦して頂けなくても仕方がないが、それでもし本統に心から赦して頂けたら、どんなに嬉しいか分らない。今までのように決してお前を憎もうとは思わない。拘泥もしない。憎んだり拘泥したりするのは何の益もない話だという風に仰有って頂くと、うかがった時は大変ありがたい気もしたんですけど、今度のような事があると、やはり、貴方は憎んでいらっしゃるんだ、直ぐそう私には思えて来るの。そしてもしそうとすればこれから先、何時本統に赦して頂ける事か、まるで望がないように思えるの」
まことにもっともである。この中で直子は非常に鋭い指摘をしている。「貴方は貴方が御自分でよく仰有るように私を憎む事でなお不幸になるのは馬鹿馬鹿しいと考えて、赦していらっしゃるんだと思う。その方が得だというお心持で赦そうとしていらっしゃるんじゃないかと思われるの。」というところだ。「その方が得だ」というところ、謙作の心にうちを正確に把握しての言葉だ。
謙作にとっては、「心の平安」が第一で、それを得ることこそが「得」だと思っている。だから、直子の過ちという重大事においても、そのことで自分の平安が乱されることを何よりも怖れたから、「許す」とか「拘泥しない」とか言ったわけだ。自分が心の底で本当に直子を許しているのかいないかは考えずに、とりあえず「許す」と言っておき、あとは、何とか「自分だけ」の力で、乗りきっていこうと考えたのだった。
そこを見抜いていた直子は、「それじゃつまらない」という。この「つまらない」は、もちろん「おもしろい」の反対語ではない。「それじゃぜったいに嫌なの」ぐらいに強くとっておきたい。
直子は、そんな自分だけの損得勘定でこの問題を解決する(あるいはしたつもりになっている)のではなく、いちどほんとに自分を「憎み」、憎んだうえで、許せるなら許してほしい。許せないならそれはそれで仕方がない、と言うのだ。少なくとも、「憎む」というステップがないと、「何時本統に赦して頂ける事か、まるで望がないように思える」というのだ。
これはよく分かる。言葉の上だけで「許す」なんて言われても、それで「許された」なんて誰も思えない。言葉はどうとでもなるからだ。けれども、「行為」は瞬発的なだけに嘘がつけない。それを「発作」のせいにするのも、「言葉」によるまやかしだ。だから「許す」にしても、まずはほんとうに「憎んだ」うえでのことにしてほしい。そうじゃなきゃ、あなたの「言葉」は信じられないと、直子はいう。
よく分かる。よく分かるのだが、それでは、「憎む」とはどうすることだろう。言葉で、「実はお前を憎んでいる」と謙作が言ったところでどうしようもない。それもまた「言葉」に過ぎない。では「ほんとうに憎む」ということは、「行為」としてどう現れるのか。暴力だろうか、あるいはすくなくとも「言葉の暴力」だろうか。
直子の言い分は、十分に正当なものだとは思うが、実際のところ、「憎む」にしろ「許す」にしろ、それがいったいどういう内実を持つものなのかについては、やはり明確に把握できてはいないのだと思われる。そして、それは直子に限らず、誰にとっても、把握しきれないもの、心の闇のようなものなのだ。
直子の言葉に、謙作は、「じゃあ、そうしよう」なんてとても言えない。言ったところでどうしたらいいか、謙作にも分からないだろう。だから、謙作はこんなふうに言う。
「それだから、どうしたいというんだ」
「どうしたいという事はないのよ。私、どうしたら貴方に本統に赦して頂けるか、それを考えてるの」
さて、謙作は、これに対してどう答えるのだろうか。