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日本近代文学の森へ 240 志賀直哉『暗夜行路』 127 鞍馬から帰ったらお産が済んでいた 「後篇第三  十七」 その2

2023-03-26 11:48:05 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 240 志賀直哉『暗夜行路』 127 鞍馬から帰ったらお産が済んでいた 「後篇第三  十七」 その2

2023.3.26


 

 火祭りを見たあと、「四、五人で担ぐような大きな松明をいくつか、神楽の囃子に合わせて、神輿の囲りを担ぎ廻る」という「神楽」もあったのだが、時計をみるとすでに二時半。三人は、眠い目をこすりながら、帰途についた。

 

町を出ると急に山らしい冷気が感ぜられた。四人は時々振返って、明るい山の峡(はざま)を見た。道は往きより近く思われ、下りで楽でもあったが、やはり皆は段々疲れて、無口になった。
 「睡くて敵わん」一番先きに末松がこんな事をいった。
 「僕が腕を組んでいって上げるから、眠りながら行き給え」そういって水谷は末松と腕を組んで歩いた。
 京都へ入る頃は実際水谷がいったように叡山の後ろから白ら白らと明けて来た。出町の終点で四人は暫く疲れた体を休めた。間もなく一番の電車が来て、それに乗り、謙作だけは丸太町で皆と別れ、北野行に乗換え、そして秋らしい柔らかい陽ざしの中を漸く衣笠村の家に帰って来た。


 夕方に出発して鞍馬まで歩いていき、夜通し火祭りを見て、夜明けにまた歩いて帰ってくる。京都に暮らしていると、こんな暮らしの一コマがあるのだと思うと、羨ましい限りで。もっとも、若い時じゃないと意味がないけれど。

 さて、謙作が家に着くと、こんなことになっていた。


 「旦那はんのお帰りどっせ」何かあわただしい仙の声がし、直ぐ台所口から出て来て、「お産がござりましたえ」と仙はにこにこしていった。
 謙作の胸は理(わけ)もなく轟いた。そして急いで玄関を上がると、前から産室に決めておいた座敷へ入って行った。リゾールか何か、薬の匂がして、其所には蒼白い額をした直子が解いた髪の毛を枕から垂らし、仰向けに──よく眠入っていた。赤児は其所から少し離した小さい蒲団の中に寝ていたが、謙作はそれを見たいと思うよりも直子の方が何となく気遣われた。若い看護婦が黙って叮嚀(ていねい)なお辞儀をした。小声で、
 「如何(どう)でした?」と彼は訊いた。
 「お軽いお産でございました」
 「そりゃあ、よかった。そりゃあ、よかった」
 「ぼんさんでござりまっせ」と敷居の所に坐っていた仙がいった。
 「そうか」彼は安心した。そして、枕元に立ててある風炉前(ふろさき)屏風の上からちょっと赤児を覗いて見たが、頭からガーゼを被(かぶ)せてあって、顔は見られなかった。
 「何時でした?」
 「一時二十分でございました」
 「夜前(やぜん)早うに奥さんがお迎いを出してくれ、おいやして、直(す)ぐ俥を出しましたんどっせ。お会いしまへなんだっしゃろな」
 「うん、会わない──とにかくあっちへ行こう。起きるといかん」謙作は先に立って茶の間へ行った。

 

 何と、謙作が鞍馬の火祭りを見ているそのときに、直子は出産したのだ。この後に、「早産というほどでもない」という言葉が出てくるから、予定日よりはかなり早かったのだろう。それにしても、赤ん坊がいつ生まれるか分からないという時期に、歩いて何時間もかかる鞍馬に行って、のんびり火祭りを見ているなんて、ずいぶんとのんきなことだ。

 今時は、コロナで出産に立ち会えなかったというようなことが、問題になるわけだが、この時分は、立ち会うどころか、亭主はのんびり物見遊山なんて。

 自分が鞍馬に出かけている間に、お産が済んでしまったことに対しても、なんの「悔い」も、「申し訳なさ」も感じていない。直子は、謙作を呼んでくれと言ったのだが、鞍馬なんかに行っていたんじゃ連絡のつきようもない。そういう事態を考えれば、まだ祇園で遊んでいたほうがマシというものだ。しかし、そういった「反省」もない。

 直子のお産は、こんなふうに始まった。


 前日、謙作が家を出る時、入れ違いに夕刊配達の入って来たのを覚えているが、それが中まで入って来ずに、玄関に坐っていた直子を眼がけ、新聞をほうって行った。新聞は靴脱ぎの上に落ちた。それを何気なく手を延ばして取ろうと屈(かが)んだ時に直子は腹に変な痛みを感じたという。そして間もなくまた痛みが来て、自分でも気附き、直ぐ仙に産婆、医者、それからS氏の所へも電話をかけさせ、自分はその間に丁度入ろうと思っていた風呂に入り、身仕舞いをすっかり済まして待っていたという。──それを仙が話した。
 「そりゃあ、偉らかった」謙作は直子がそういう時、案外しっかり、よくやった事を愉快に感じた。

 


 この新聞配達もずいぶんなヤツだ。新聞を直子にむかって放り投げるなんて、どういう了見なのか。

 しかし、それ以上に、大変な思いをした直子のことを「そりゃあ、偉らかった」と言い、「案外しっかり、よくやった事を愉快に感じた」というのも、今で言えば「上から目線」がひどすぎる。そういう前に、「そうか、それは大変な思いをさせてしまったな。おれがついていればよかったのに、すまなかった」と言うべきだろう。

 しかし「言うべき」だ、などいっても始まらない。そんな「べき」は、謙作には通用しないし、実は誰にだって通用しない。人間は、それぞれの価値観を持ち、感受性を持ち、それに従って行動するしかない。その価値観なり感受性なりを、生涯かけて、どのように形成していくかが実は大事なことではあるけれど、それを自覚する人は少ない。むしろ、自分の価値観、感受性の絶対性を信じて疑わない人が、世の中にはごまんといるわけである。謙作がその一人なのか、そうではないのかは、今後の展開を見ないと分からないが、ここでは、まだ謙作は、「その一人」であるにすぎない、ように見える。


 「S さんの奥さんが女中はんを連れて来てくれはりました。今、お帰りやした所どっせ」
 「そうか。──赤坊の方も丈夫だね」
 「へえ、そら立派なややはんどす」
 「ちょっと看護婦さんを呼んでくれ」彼は赤児の事をもっと精(くわ)しく聞きたかった。
 看護婦は来て、白い糊の利いた袴をぶわりと広く、縁に坐った。
 「どうぞ入って下さい。──大分早かなかったんですか?」
 「いいえ、──でも七百五十目ですから、普通よりはいくらか少ないかも知れませんが、早産というほどではないと思います」
 「ふむ、そう。──まあ二人とも、心配ありませんね」
 「そりゃあ……」
 「どうも、ありがとう」謙作はそういって、何気なく頭を下げたが、心では看護婦よりも、もっと何かに礼をいいたい気持だった。看護婦は産室の方へ還って行った。


 「看護婦よりも、もっと何かに礼をいいたい気持」というのは、よく分かる。看護婦や助産婦や医師は、赤ん坊が生まれる実際の手助けをするし、その努力によって赤ん坊は生まれてくるが、その背後に「もっと何か」の存在を感じるものだ。その「もっと何か」に対する感謝こそ、「自分の価値観、感受性」の更新を迫るものではなかろうか。

 「看護婦は来て、白い糊の利いた袴をぶわりと広く、縁に坐った。」の表現も的確。「ぶわりと広く」なんて、見たことも聞いたこともない表現で、「糊の利いた」感じをこれ以上ないというぐらい見事に描きだしている。小磯良平の絵を見るようだ。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 239 志賀直哉『暗夜行路』 126 鞍馬の火祭 「後篇第三  十七」 その1

2023-03-06 20:28:41 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 239 志賀直哉『暗夜行路』 126 鞍馬の火祭 「後篇第三  十七」 その1

2023.3.6


 

 突然現れた信行は、お栄の現状を伝え、そのお栄のために金を無心して、鎌倉へ帰って行った。

 「第三 16」は、これで終わるが、「第三 17」になると、話はがらりと変わり、鞍馬の火祭を見物に行った様子が、詳しく語られる。この描写が見事だ。長いが、そっくり引用しておく。


 十月下旬のある日、謙作は末松、水谷、水谷の友達の久世などと鞍馬に火祭というのを見に行った。日の暮れ、京都を出て北へ北へ、いくらか登りの道を三里ほど行くと、遠く山の峡がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟(けむり)の立ちこめているのが眺められた。苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。子供連れ、女連れの見物人が提灯をさげて行く。それを時々自動車が前の森や山の根に強い光を射つけながら追抜いて行く。山の方からは五位鷺(ごいさぎ)が鳴きながら、飛んで来る、そして行くほどに、幽かな燻り臭い匂いがして来た。
町では家ごと、軒前に(のきさき)──といっても通りが狭いので、道の真中を一列に焚火が並んでいた。大きな木の根や、人の脊丈けほどある木切れで三方から囲い、その中に燃えているのが、何か岩間の火を見るような一種の感じがあった。
 焚火の町を出抜けると、やや広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗の大きい門があった。広場の両側は一杯の見物人で、その中を、褌(ふんどし)一つに肩だけちょっとした物を着て、手甲、脚絆、草畦がけに身を固めた向う鉢巻の若者たちが、柴を束ねて藤蔓で巻いた大きな松明を担いで、「ちょうさ、ようさ。──ちょうさ、ようさ」こういう力んだ掛声をしながら、両足を踏張り、右へ左へ踉蹌(よろ)けながら上手に中心を取って歩いている。或る者は踉蹌ける風をして故(わざ)と群集の前に火を突きつけたり、或る者は家(うち)の軒下にそれを担ぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一卜抱えほどあるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗を拭き、息を入れているが、今度はまた別の肩にそれを担ぐ。それも一人ではとても上げられず、傍(そば)の人から助けてもらうのである。
 この広場を抜け、先きの通りへ入ると、其所にはもう焚火はなく、今の松明を担いだれんじゅぅゅ連中(れんじゅう)が「ちょうさ、ようさ」という掛声をして、狭い所を行き交う。子供は年相応の小さい松明をわざと重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持のいい温(ぬくも)りが感ぜられる。
星の多い、澄み渡った秋空の下で、こういう火祭を見る心持は特別だった。一卜筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方はまた高い山になっているというような所ではいくら賑わっているといっても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。これが都会のあの騒がしい祭より知らぬ者には大変よかった。そして人々も一体に真面目だった。「ちょうさ、ようさ」この掛声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれは総て男だけの祭である。
 或る所で裸体(はだか)の男が軒下の小さな急流に坐って、眼を閉じ、手を合わせ、長いこと何か口の中で唱えていた。清いつめたそうな水が乳の辺りを波打ちながら流れていた。大きな定紋のついた変に暗い提灯を持った女の児と無地の麻帷子(あさかたびら)を展(ひろ)げて持った女とが軒下に立ってその男のあがるのを待っていた。漸く唱え言(ごと)を終ると男は立って、流れの端(は)しに揃えてあった下駄を穿(は)いた。帷子を持った女が濡れた体に黙ってそれを着せ掛けた。男は提灯を待たず、下駄を曳きずって直ぐ暗い土間の中へ入って行った。これはこれから山の神輿(みこし)を担ぎに出る男であるという。
こういう連中が間もなく石段下の広場に大勢集った。其所には二本の太い竹に高く注連縄(しめなわ)が張渡してあって、その注連縄を松明の火で焼切ってからでなければ誰もその石段を登る事が出来ないとの事だ。しかし縄は三間より、もっと高い所にあって、松明を立ててもその火はなかなかそこまでは達(とど)きそうにない。沢山の松明がその下に集められる。その辺一帯、火事のように明かるくなり、早くそれの焼切れるのを望み、仰向(あおむ)いている群集の顔を赤く描き出す。
 やがて、漸く火が移り、縄が火の粉を散らしながら二つに分かれ落ちると、真先に抜刀を振翳(ふりかざ)した男が非常な勢で石段を馳登(かけのぼ)って行った。直ぐ群集は喚声をあげながら、それに続いた。しかし上の門にもう一つ、それは低く丁度人の丈よりちょっと高い位に第二の注連縄が張ってある。先に立った抜刀の男はそれを振翳したまま馳け抜ける。注連縄は自然に断(き)られる。そして群集は坂路を奥の院までそのまま馳け登るのである。

 

 この2000字ほどの文章は、「暗夜行路」という長編小説と切り離しても、紀行文的随筆として十分成立するほど完成度が高い。

 「暗夜行路」を、些細な人間的な感情の齟齬を描いた小説として読むと、いささかうんざりさせられるが、こうした情景描写やら、自然描写やらの文章に注目して読むと、格別の味わいがあるのだ。

 「日の暮れ、京都を出て北へ北へ、いくらか登りの道を三里ほど行くと、遠く山の峡がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟(けむり)の立ちこめているのが眺められた。」──この出だしは、ゆっくりと始まる映画のシーンのようだ。今だったら、バスや電車、あるいはタクシーを使うところだが、三里ほどの道を歩いて行く。この歩いて行く時間が、風景に深みを与える。「山の峡」が「ほんのり明るい」さま、「立ちこめる薄い烟」。その烟は、松明に火をつけるための準備の烟であろう。そうした情景が、目の前に少しずつ近づいてくる。

 「苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。」──ここでは、鼻の奥に染みこんでくるような「苔の香」が印象的。苔そのものは、特別な香りを持つものではないだろうが、その苔を育む土の匂いは確かにある。しかし、それを「苔の香を嗅ぎながら」というように描いた作家はそうはいないだろう。そして、「冷え冷えとした山気を浴びて行く」と続く。ぼくらも、その冷たい山気を全身に浴びる思いだ。そうした鋭い嗅覚、触覚に訴える描写のあとに、「この奥にそういう夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。」とあると、その「不思議」が、観念的なものではなく、感覚的な「不思議さ」として迫ってくる。これから現れるであろう火が、熱い火が、ただ熱いのではなく、その核心部に「冷え冷えとしたもの」を秘めているかのような、それこそ「不思議」な感覚に襲われるのだ。

 そうした空気の中を、女や子どもが提げる提灯の明かり、自動車や自転車の光が通り過ぎ、「山の方からは五位鷺(ごいさぎ)が鳴きながら、飛んで来る、そして行くほどに、幽かな燻り臭い匂いがして来た。」と続く。飛んできた鳥が「五位鷺」だと即座に分かるのは、当時の人なら普通なのかもしれないが、やはり、現代作家だとしたら珍しいことだろう。自然に対する知識や経験の深さは、この時代の作家は一日の長がある。
「五位鷺」の声、そして、おそらくその羽音。それに連なるかのように、「幽かな燻り臭い匂い」がしてくる。感覚の総動員である。
祭りの描写は、細部までくっきりと描かれ、解像度のいい映画をみるかのようだ。「火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一卜抱えほどあるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。」などというダイナミックな描写には息を飲む思いだ。

 「子供は年相応の小さい松明をわざと重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持のいい温(ぬくも)りが感ぜられる。」──わざとよろけて松明を担ぐ子どもの可愛らしさもさることながら、町が気持ちのいいぬくもりに包まれるさまを描いたあと、急に視線が空へ向かう。この絶妙の切り替えが、志賀直哉の真骨頂だ。

 「星の多い、澄み渡った秋空の下で、こういう火祭を見る心持は特別だった。一卜筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方はまた高い山になっているというような所ではいくら賑わっているといっても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。」──町全体が、薄い烟に包まれてひとかたまりになっているその真上に広がる「星の多い、澄み渡った秋空」の何という美しさ。そして、その空の下の町のすぐ裏には、「深い渓流」があって、「その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。」

 熱い火の奥にある冷たさ、静けさ。それは、同時に、賑わう祭りの奥に広がる静けさだ。この短い文章は、火祭りの本質を描き尽くしている。

 静かに、何度でも、この類い希な文章を読み、味わいたいものだ。

 さて、この後、驚くべき展開が待っている。読者の皆さんには、予想がつくだろうか?

 

 

 

 


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