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日本近代文学の森へ (209) 志賀直哉『暗夜行路』 96  言葉を聴く 「後篇第三  六」 その3

2022-01-31 11:57:02 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (209) 志賀直哉『暗夜行路』 96  言葉を聴く 「後篇第三  六」 その3

2022.1.31


 

 謙作は、お栄のことは今更どうにもならないと観念して、翌日、石本のところに行ってみたが、石本は京都にいっていていなかった。

 謙作は、お才と会いたくなかった。お栄と自分との関係に「変な興味」を持っていそうな気がしたし、蔭でお栄にどんなことを言っているか、見当がつく気がした。それで時間つぶしもあって、「落語の寄席」に行った。


 久しく東京言葉を聴かなかったような気持から、一つはお才と一緒になりたくない気持から、彼は夜になって落語の寄席へ行き、晩くなって大森の家へ帰って来た。


 しばらく京都にいた謙作は、「久しく東京言葉を聴かなかったような気持」になったという。それで、「落語の寄席」に行ったというのだ。

 ここはちょっと面白い。東京に帰ったのなら、まわりは東京言葉だらけだろうに、わざわざ「東京言葉」を聞くために、寄席に行く。謙作の生活範囲がせまく、日常では石本とか信行、あるいはお栄とかお才とかいった人間しか話し相手がいなかったからだとも考えられるが、日常会話というのは、無意識に使ってしまうので、言葉そのものが際だって聞こえることはない。ちょっと出かけた京都では、そういう日常会話に出てくる京都言葉でも、珍しく、注意もひくけれど、住み慣れた東京ではそういうことはない。

 それと同時に、明治に入ってからの東京というのは、おそらく純粋な東京言葉というか江戸弁は、だんだんと聞かれなくなっていったのだろうと思う。お栄がどこの出身だか分からないが、お才は、岐阜の出身だから、江戸っ子ではない。その言葉は東京言葉のようでありながら、微妙に方言のまざったものだろう。
当時のお偉方ともなれば、薩長閥だろうから、それこそ方言のてんこ盛りである。いってみれば、東京は方言のるつぼといってもいいわけだ。

 だから、東京言葉を純粋に聞く、という目的のためには、確かに落語がいいかもしれない。そこではフィクションの中で、存分に東京言葉が語られる。言葉だけ聞いていても面白い。というか、古典落語の場合は、話そのものは、だいたい知っているわけだから、言葉そのもの、あるいは話し方そのものを聞くことになる。

 そうして事情は現代でも変わりはないどころか、ますます、変化の激しい東京だから、「純粋な東京言葉」を話す人間なんていやしない。NHKのアナウンサーですら、アクセントなどに微妙に関西なまりが混ざったりする始末だから、ますます「古典落語」の言葉が、異国の言葉のように感じられてくる。

 まあ、言葉の「純粋さ」などといっても、実際のところなんのことやら分からないわけで、むしろ昨今はやりの「多様性」という観点からすれば、どこの言葉か分からないという状況は、好ましいのかもしれない。

 ここで、「寄席」と言わずに、わざわざ「落語の寄席」といっているのは、当時は、「寄席」といっても、講談の寄席やら、浪花節の寄席やら、いろいろあったからであろう。一時期、浪花節の人気はすさまじいものがあり、落語の寄席などがガラガラになるようなこともあったらしく、「落語の寄席」に浪花節を出演させたらどうかとか、いやダメだとか、いろいろあったらしい。

 さて、その「落語の寄席」から大森の家に帰ってみると、お栄とお才が話し込んでいる。

 

 お栄とお才はまだ起きて、茶の間の電燈の下で何か話し込んでいた。
 お才はその話で興奮しているらしく、前夜のような世辞もいわず、自分で急須へ湯をさし、それを茶碗へしたむと、謙作の前へ置いて、直ぐ、話を続けた。
 「それが、お前さん、ちっとも私は知らなかった。その春から、これだったんだ……」
 こう荒っぽくいって、お才はその瘠せこけた片手の指と小指の先をお栄の鼻先きで二、三度忙(せわ)しく、くっ附けて見せた。
 お栄は眼を伏せ、黙っていた
 「口惜しいっちゃ、ない。旦那も何だけれど、妹の奴、食わしてもらっていて、そんな事をしやがるかと思うと、まさか本気でもなかったが、私は出刃庖刀を振廻してやった」
 謙作は何だかいたたまらない気持になって来た。茶を飲みながら、腰を浮かしていると、それと察したお栄が急に顔を挙げ、
 「お菓子でも出しましょうか」といった。
 「もう沢山」こういって起ちかけると、お才も気がついて、
 「いやな話で、済みません」と殊更に作り笑いをして謙作の方を向いた。
 「石本さん、いらしたの?」とお栄がいった。
 「いなかった。今日いない事は知ってたんですが、すっかり忘れてたんです。仕方がないから、《はなしか》を聴いて来ました」謙作は火鉢の傍(そば)へいって、腰を下ろした。

 


 こういうところもうまいものだ。お才の話の内容は、これではちっとも分からないが、想像すると、お才の妹はある旦那の妾になっているが、その妹が浮気でもした、てなところだろうか。いやいやそうじゃなくて、お才は妹を食べさせてるが、お才の旦那と浮気をしたということか、どうもそんな感じだ。いずれにしても、出刃包丁を振り回すなんて尋常じゃない。そんな話を聞いて、謙作がおそれをなして、「いたたまらない気持」になって、「腰を浮かしていると」というところが愉快だ。

 ぼくだったら、「ほう、それで、それからどうなった?」って首を突っ込むところだろうが、育ちのいい謙作は「聞いていられない」のだ。
 お栄は、そういう謙作の気持ちをすぐに察するが、お才もまた、それが分かる。自分と謙作の住んでいる世界がまるで違うことをちゃんと分かっているのだ。しかし「殊更の作り笑い」がやっぱり下品だ。

 「自分で急須へ湯をさし、それを茶碗へしたむと」の「したむ」が分からなかったので、調べたら、いろいろな意味があるなかで、「残りなくしずくをたらす。また、特に徳利や杯などの酒を、こぼしたり、のんだりしてまったくからにする。」(日本国語大辞典)がしっくりきた。今でも使う人がいるだろうか。「茶碗へ注ぐ」ではなくて「茶碗へしたむ」とすると、最後の一滴まで茶をそそぐ様が目に見えるようだ。

 謙作が「《はなしか》を聴いてきました。(《  》は傍点)」と言うが、この言い方もおもしろい。「落語を聴いてきた」ではなくて「はなしかを聴いてきた」と、当時はよく言ったのだろう。落語の場合は、その内容よりも、どの噺家が話すかを重視していたということだろう。まあ、これも、落語に限らず、歌謡曲だって、ロックだって、謡曲だって、みんな同じことだろう。

 「矢切の渡し」を聴いた、ではダメなので、「細川たかしの『矢切の渡し』」を聴いたのと、「ちあきなおみの『矢切の渡し』」を聴いたのとでは、「体験」が、あるいは「体験の質」が、まるで違うわけである。

 お才は、自分も落語は好きだが、「彼地(あっち)」じゃいいものが来ないなどといって、話を続ける。

 

 お才は食卓に両臂(りょうひじ)を突き、米噛の所に両の掌(たなごころ)を当て、電燈の光りから顔を陰にしながらそんな話をした。それはそうする事で顔の小皺が見えなくなり、艶を失った皮膚の色が分らなくなるためにいくらか美しく 見えた。勿論お才はその効果を十二分に知って、しているので、そして謙作にも実際それが美しく見えた。少なくもこの女が若かった頃は相当に美しかったかも知れないという気を起こさせた。

 

 こうした描写も見事なものだ。お才という女は、下品だが、その女がこんな美しさを演出できる。お才の生きてきた世界では、こうした演出は必須で、それはそれでひとつの美だ、ということだろうし、だからこそ、男は永遠に女に惹かれ続けることにもなるのだろう。いいとこの坊ちゃんたる謙作だが、さすがに遊び慣れているだけあって、こういう美には敏感なのだ。

 


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木洩れ日抄 85 歌謡曲雑感──森昌子の魅力

2022-01-29 20:05:20 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 85 歌謡曲雑感──森昌子の魅力

2022.1.29


 

 フェイスブックで、「今日の1枚」と称して、毎日、昔撮った写真をアップしているのだが、先日、法善寺横丁の写真をアップした際に、コメントとして、「藤島恒夫」の「月の法善寺横丁」って歌がありました、などと書いたのだが、その原稿を書いているとき、「藤島恒夫」のところを「藤島一郎」って書いてしまった、あれ? そうだっけ? と思って、試しに「藤島一郎」で検索したが、お医者さんは出てくるけど、歌手はおろか、俳優も出てこない。やっぱり違うんだと思ったが、それにしても、「藤島一郎」って俳優がいたはずだけどと思いつつ、あてづっぽうに検索を続けたら、なんと、俳優は「有島一郎」だった。そうだった、そうだった。あんなに有名な俳優なのに、私としたことが、「藤」と「有」の取り違えるとはと思いつつ、そういえば、昔、「有島一郎」と「有島武郎」をよく取り違えていたなあと懐かしくなった。文学史の試験なんかで、よくそういう間違えがあったような気がする。

 と、そのとき、なんで「藤島一郎」と最初書いてしまったかが、なんとなく分かった気がした。「有島一郎」「有島武郎」「藤島恒夫」あたりが頭の中でごっちゃになってしまったのだろう。

 しかし、「藤島恒夫」って、「ふじしまつねお」だったっけ? とふと疑問に思った。もう記憶が曖昧すぎて、なにがなんだか分からないけれど、「つねお」っていうんじゃなかった気がする。それで、再度検索したら、なんと、「藤島桓夫」だった。「恒」ではなくて「桓」。桓武天皇の「桓」だ。Wikipediaには、丁寧に、「藤島恒夫と表記されることがあるが誤り。」と書いてある。よほど注意しないと、「恒」と「桓」とを区別することは難しいし、そもそも「桓」なんて字は、桓武天皇以外にはほとんど目にしないし、今では、人名漢字表にもない。

 そんなこんなで「藤島桓夫」について調べているうちに、フェイスブックでは、「月の法善寺横丁」が大好きだみたいなことを書いたのに対して、教え子が歌は聞いたことがあるけど、歌手までは知りませんでしたとコメントしてきたので、調子に乗って、「お月さん今晩わ」なんてのも有名ですよ、みたいなコメントをしたが、「それはわかりません」ということだった。自分でも、そういえば、どういう歌だったっけ? とYouTubeで聞いてみたら、やっぱり馴染みの歌だった。そのYouTubeで、関連動画として、森昌子の「お月さん今晩わ」があったので、聞いてみた。うまい! 福田こうへいの歌もあり、それはそれでうまいけれど、森昌子は絶品だ。すると、今度は関連動画で、森昌子の「矢切の渡し」があった。へえ〜、森昌子の「矢切の渡し」なんて珍しいなあと思って聞いてみたら、これがまたうまいのなんのって。

 「矢切の渡し」という歌は、今まで何度か書いたことがあるけれど、細川たかしの歌ではない。あれはカバーである。「矢切の渡し」は、ちあきなおみの歌なのだ。しかも、発売当時は、シングルのB面で、ヒットしなかったのだが、それが、テレビドラマの名作「淋しいのはお前だけじゃない」の中で、旅役者役の梅沢富美男が舞台で踊るときに流れたのがきっかけで、急に注目されるようになったのだ。

 というか、ぼくが、その曲にびっくりしたのだった。その当時の女形としての梅沢富美男の美しさもさることながら、そこに流れるちあきなおみの聞いたこともない歌に、すっかり魅了された。いったいこれは何という曲なのだろうと調べ、シングル版も買った。そういうぼくみたいなのが全国に大勢いて、この曲はよく知られるようになり、やがてA面になったというわけなのだ。

 しかし、やがて、細川たかしがカバーすると、これがもう大ヒットとなり、今ではこの曲が細川たかしの曲のように思われる始末である。ちあきなおみが切々と情感を込めて歌った名曲を、細川たかしは、ただただ声を張り上げて、民謡で鍛えた小節と声質を自慢するかのように笑顔で歌う。これでは、ひっそりと駆け落ちする男女の心情がどこかへふっとんでしまう。ちあきなおみの歌には、いつも「櫓の音」が通奏低音として聞こえていて、寒々とした細い川が北風に向かって進んでいくが、細川たかしの歌では、モーターボートをぶっ飛ばして、大きな川を渡っていくようなもので、情緒のかけらもありゃしない。

 なんて、悪口を書くと、細川ファンの方に叱られそうなので、この辺にしておくが、とにかく、「矢切の渡し」は、ちあきなみの歌なのだ、ということは再度強調しておきたい。

 話がちっとも本題に入らないが、森昌子である。

 桜田淳子、山口百恵とともに、「花の中三トリオ」と呼ばれたデビュー当時は、森昌子がもっともぱっとしなかった(あくまで個人の感想です。)顔もちっともかわいくないし(ぼくだけの好みか?)、歌も、「せんせい」なんて、気持ち悪かった。(ぼくが先生なだけに。)山口百恵もなんだか暗くて、顔も地味で、これもぱっとしなかったし、あんまり人気もなかったように思う。つまり、そのころは、圧倒的に桜田淳子だったのだ(と思う。)なにしろ、いちばんカワイイのは彼女だったし、音程は実に不安定で、歌もうまくなかったが、「私の青い鳥」はいい歌だった。しかし、その桜田淳子にしても、いきなりファンが押し寄せたわけではない。彼女がデビューしたのは、1973年で、ぼくはすでに就職して2年目だったわけだが、その頃、伊勢佐木町のレコード店の店先で、サイン会をやっていたことがある。しかし、そこには誰も並んでいなかった。ぼくも、お! っと思ったけれど、結局サインをもらいにはいかなかった。そんなものだったのだ。

 ちなみに、ちあきなおみも、売れる前は大変で、いつだったか、銀座のデパートの婦人服売り場の片隅に小さなステージを作って、そこで歌っているのを見かけたことがある。そのときは、誰? この人? ってな感じで、立ち止まりさえしなかったことが、あとあとまで悔やまれることとなった。(桜田淳子にサインもらわなかったことも。)

 山口百恵が、爆発的に売れ出したのは、ぼくの記憶では、東大生が騒ぎ出して以来のように思う。今でこそ、東大生がアイドルを追っかけたって別に不思議でもなんでもないが、やはり当時は「あの東大生が?」というところがあって、漫画や劇画だって、東大生とはいわず「大学生が読んでる」ということが、格を上げたように思うのだ。平岡正明の「山口百恵は菩薩である」なんていう本が飛ぶようにうれたらしく、あっという間に、山口百恵は「別格」となっていった。

 そういう中で森昌子は、相変わらずの野暮ったさで、「東大生が森昌子を聞いてる」なんて話は聞いたこともない。(もちろん、聞いていた人も多かっただろうけど。)

 ぼくはといえば、へんてこな東大コンプレックスがあったから、そんな山口百恵には違和感があって、積極的には聞かなかったけれど、テレビをつければ出てきたので、だいたいは聞いてきたのだが、桜田淳子に至っては、途中で新興宗教に走ってしまうし、森昌子のほうは、「歌がうまい」なんてことにも気づかずに、まだ歌ってるのか、程度の認識だった。それでも「悲しみ本線日本海」あたりで、ぐっときたものの、「越冬ツバメ」で、そんなツバメがいるか! って腹をたてて(実際には、「越冬せざるを得ないツバメ」はいるらしいから、ぼくの腹立ちは間違いだったのだが)、それ以来あまり聞かなくなってしまっていたのである。

 それが、それが、である。彼女がこんなにも、多くの曲をカバーしているのかと、今回、愕然とした。YouTubeの「矢切の渡し」などは、再生回数が55万回である。知ってる人は知っていたんだなあと、つくづく不明を恥じたことである。

 女性歌手(演歌系)で、歌がうまいと思ってきたのは、第一に美空ひばりで、第二位がちあきなおみだが、この二人の特徴は、声の多彩さだ。とくに、美空ひばりは、まるで万華鏡のように声が変化し、その声を自在に操る、なんてことを今更書いてもしかたのない常識だろう。ちあきなおみも、美空ひばりほどの声の変化はないにしても、その低音域の声に恐ろしいほどの奥行きがある。それが歌に限りない陰影を与える。

 それに比べて、ぼくが第三位として推したいと今更ながら思いはじめた森昌子の声は、一筋の線である。絹のようにはりつめた、つやのある、一筋の線である。その一筋の線で、すべてを歌いきる。すべての感情を歌いきる。これは考えてみればすごいことではないか。

 それに加えて、森昌子には、嫌みがない。あっさりとしていて、うまい。酒でいえば、純米吟醸酒のようなものである。そこへいくと、美空ひばりは、嫌み満載だ。(ついでに言えば、細川たかしは「嫌みのてんこ盛り」だ。)ぼくは、彼女が存命中は、大嫌いだった。今おもえば、うますぎたのだろう。そのうまさを隠さなかったのだろう。それが「嫌み」に聞こえたのだろう。ちあきなおみには、そうした嫌みはないにしても、ちょっと感情を掘り下げすぎるところがあって、それが時として鼻につくときもある。これもまたうますぎる故だろう。

 そうしたことが、森昌子にはいっさいない。これもまたすごいことではないか。こうした嫌みのなさ、あっさり加減でいえば、島倉千代子がいた。彼女は、一種の「へたうま」で、ちょっと聞くとすごくへたなのに、よく聞くとすごくうまい、としかいいようがない不思議な歌手だ。

 美空ひばりがオーケストラだとすれば、ちあきなおみは弦楽四重奏。そして、その伝でいけば、森昌子は、バイオリンのソロとなるだろうか。いや、バイオリンよりももっと音色の変化の少ない楽器、そうだなあ、三味線とか、三線とか、そんなことになるのだろうか。そんなことを、無責任に、勝手に、つらつら考えるのもまた楽しいものである。

 

 


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一日一書 1712 寂然法門百首 60

2022-01-26 20:02:55 | 一日一書

長別三界苦輪海


 
いとひこしうき世の海に船出して今日もともづなを解く日なりけり

 

半紙

 

字体:金文

 
【題出典】『法華玄義』五・上


 
【題意】 長く三界の苦輪海に別る 

永遠に三界の苦しみの輪廻の海と別れる。


 
【歌の通釈】
厭ってきた世の海に船出して、今日、艫綱(ともづな)を解く日(三界の輪廻から離れる日)なのだよ。

【考】
長い憂き世の海を航海してきて、いよいよ今日ともづなを解き放ち、輪廻の海から離れると詠む。艫綱を解くという表現により、輪廻からの解脱を詠むのは、康治元年(一一四二)年の俊成「法華経二十八品歌」の一首「ともづなは生死の岸にとき捨てて解脱の風に舟よそひせよ」(長秋詠藻・無量義経、船師大船師・四三一)が参考となっただろう。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


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木洩れ日抄 84 ぼくのオーディオ遍歴 その7(最終回) ── CDの出現と衰退、そして…

2022-01-20 14:44:19 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 84 ぼくのオーディオ遍歴 その7(最終回)── CDの出現と衰退と、そして…

2022.1.20


 

 結局のところ、良きにつけ悪しきにつけ、CDの出現が大きかったなあと思う。

 初めてCDを見たのは、上大岡駅の京急ストア(その頃はまだ、京急百貨店がなかった)のレコード店だったように思うのだが、レジの脇に、変な機械が置いてあって、その中で垂直にセットされた銀色の円盤がすごいスピードでまわっていた。どうやらこれがレコードに変わっていくらしいが、この小さい円盤を、どうやって店頭に並べるのかなあとそれが心配だった。

 CDが出る前の段階で、レコードでも、デジタル録音というのがやはり出していた。DENONのPCM録音とかいうのが有名だったはずだ。ぼくがレコードで初めてデジタル録音を聞いたのは、たしか、ロンドンレコードから出た、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートだったと思う。それを聞いて一番驚いたのは、「拍手」の音だった。一人一人の掌、いや一本一本の指が目に見えるようなクリアな音だった。写真でいえば、非常に解像度が高いという表現になるが、とにかく、不自然なほど、解像度が高かった。

 ぼくは、音でも映像でも、解像度が高い、シャープなものが好きだが、しかし、この初めてのデジタル録音は、その「不自然さ」ばかりが目立ち、音楽に集中できなかったように思う。「自然さ」は何においても大事なのだ。

 CDになっても、その解像度のよさは、変わることなく追究されていったのだろうが、それがスタンダードになると、もうLPには戻れなくなっていったのは当然である。

 なにしろ、LPレコードには苦労した。すぐに傷がつく。傷がつけば、パチパチと雑音が入る。埃はたまるし、カビも生える。その埃やカビを取ろうとして、クリーナーを使うと、それがレコードの溝に溜まったりする。どうしても、そういったゴミがとれないと、乱暴な人は水で丸ごと洗ったりするという涙ぐましい努力が繰り返された。とにかく、ぼくも、「雑音との戦い」には、疲れ果て、うんざりしたものだ。

 それがCDになったとたん、すっかり消えた。これほどの朗報はなかった。これで、あの面倒なメンテナンスから解放されたと思うと天にも昇る思いだった。

 気がつけば、レコード店から、LPレコードは姿を消した。店頭にCDがずらりと並ぶ姿は、そうか、こうするのかと、以前の「心配」もばからしくなった。そして、ぼくの部屋にはCDがあふれかえることとなり、LPレコードは、数枚を除いてすべて売却してしまった。

 ところがである。その後にやってきたのが、アップルのiTunesである。(他のサービスもあったが、ぼくはアップルしか使ってこなかったので)そこから音楽を曲単位で買えるようになった。初めは何のこっちゃと思ったし、日本の演歌なんぞは、ほとんどリストになかったから、たいしたことだとは思わなかった。演歌では、大石円という駆け出しの女性歌手が、リストにあった、カバーソングだったがチューリップの「サボテンの花」なんかを買ったりした。(ちなみに、この大石円──今は「大石まどか」──は、今ではかなり活躍している。)

 それと同時に、iTunesを使えば、CDをパソコンに取り込める(リッピング)ことが分かった。本棚に溢れるCDがだんだん邪魔になってきていたので、しばらくそれに熱中して、2000枚(いや3000枚か?)ほどあったクラシックやジャズのCDをリッピングして、本体のCDはみんな売却してしまった。

 そして、今、ぼくの部屋には、50枚ほどのCDと、数枚のLPレコード(そのうちの1枚は、南沙織の「南沙織ポップスを歌う」であることはいうまでもない。)だけを残すのみとなった。

 肝心のオーディオ機器といえば、JBLの巨大スピーカー事件以来、まあ、何種類かの機器を買い換えたけれど、本格的な趣味とはならずに、テレビのサラウンド用に買ったDENONのセットをオーディオ用として使ってすでに15年以上になる。そして、音楽は、主として、Apple Musicか、リッピングいた音源を、MacからDENONのセットのほうへ飛ばして聞いている。

 こうした経緯を振り返ってみると、つくづく感じるのは、かつて「音楽鑑賞」とか「レコード鑑賞」とかいっていた行為が、日常化して、特別感を失ったということだ。現に、ぼくなどは、ジャズでもクラシックでも演歌でも、スピーカーの前に座ってビクターの犬みたいにじっくり耳を傾けるということはここ数年まったくない。いつも、「ながら」聞きだ。

 だからこその「LP復活」なのだろうと思う。レコードジャケットからレコードを取り出して、レコードプレーヤーのターンテーブルにのっけて、針を落として、といった一連の動作が、愛おしくなるのだろう。そして、かつてはあれほど耳障りだった「雑音」すら、懐かしさを誘う「いい音」となるのだろう。そしてさらには、「LPレコードの方がCDより音がいい」「LPの音のほうが柔らかい」といった言説が、あたかも疑いない事実であるかのように拡散していくのだろう。

 ぼくは、基本的に「懐古主義」は好まないから、「昔はよかった」的な言説には、常に警戒心をもっている。しかし、「LPレコードのほうが音がいい」という説には、懐疑的だが、自分で今確かめてはいないから、「ひょっとしてそうかもしれない」程度の認識だ。しかし、今、Mac経由で、スピーカーから流れてくる音が、かつてのデジタル録音初期の、「不自然な解像度」を感じさせるものではなくて、ずっと進化していることは間違いないのだ。
LPレコードであっても、CDであっても、配信であっても、「機械」から流れてくる音であることに変わりはない。どっちが「いい音」かという判断は、あくまで「好み」の問題だろう。とすれば、最終的には、「録音」か「生」かということになるわけだが、それすらも、「好み」の問題であって、「絶対に生がいい」ということにはならないだろう。

 「録音」は、「生音の再現」だから、「生」のほうがいいに決まってるじゃないかという人もいるだろうが、「録音」を「再現」とはとらえずに、「表現」と考えれば、そんな議論もふっとんでしまう。

 こんなふうに今までの「オーディオ生活」(ぜんぜんたいしたもんじゃないけど)を振り返ってみると、音源が「録音」であれ、「生」であれ、そこにあった「音楽体験」こそが大事だったのだという、当たり前の結論になる。

 ぼくがまだ20代のころだっただろうか。神奈川県立音楽堂に、当時人気だった、フランスの「パイヤール室内管弦楽団」がやってきたのを聞きにいったことがある。そのとき、バッハの「バイオリン協奏曲」をジェラール・ジャリのソロでやったときの体全体が宙に浮き立つような感動を今も鮮明に思い出す。そうした「音楽体験」は、他にもいくつも思い当たるわけだが、それらのほとんどが「生」であることを思うと、やっぱり生の演奏こそが、他の何ものにも代えがたい貴重なものなのだということは言えそうである。

 

 

 


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一日一書 1711 寂然法門百首 59

2022-01-20 10:39:36 | 一日一書

 

受持仏語作礼而去


 
ちりぢりに鷲の高嶺をおりぞゆく御法の花をいへづとにして

 


半紙

 

字体:行草

 
【題出典】『法華経』勧発品


 
【題意】 仏の語を受持して礼を作して去れり。 

仏の言葉を受持し、礼をして去る。


 
【歌の通釈】
散り散りに霊鷲山を下りてゆく。御法の花をみやげとして。


【考】
霊鷲山での釈迦の八年間にわたる『法華経』の説法が終わり、聴衆たちが帰っていく場面である。(中略)『法華経』のフィナーレを情趣的に詠む歌はこの後多く見られる。
 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


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★釈教歌というのは、仏教の教えを詠んだものとされますが、経典の言葉を、単純に和歌に「変換」するだけのものではありません。日本人にその教えがすっと入ってくるようにという工夫があるようです。この「寂然法門百首」では、経典そのものにはない「季節感」や「情趣」などを交えて「変換」することに意を尽くしているそうです。
★ここでも「御法の花」という比喩が、この山を下りる人々の満たされた心のありかたを、情感豊かなものにしています。

 

 

 


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