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木洩れ日抄 64 「活動しない演劇部員が集まる放課後」──東畑開人『居るのはつらいよ』

2020-01-31 21:15:09 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 64 「活動しない演劇部員が集まる放課後」──東畑開人『居るのはつらいよ』

2020.1.31


 

 ぼくらが生きているこの社会では「変わる」ことがとても大事なこことされている。
 「PDCAサイクル」なんていう言葉もあるけれども、目標を決めて、挑戦して、うまくいったかどうかをチェックして、そして改善する。そうやって、目標を達成する、成長する、変わっていく。そういうことが良しとされている。それが僕らの社会の倫理だ。
 だけど、それってじつは特殊なことではないか。僕らはとても偏った社会に生きているのではないか。

東畑開人『居るのはつらいよ』医学書院 2019

 

 こう言って、東畑君は、レヴィ=ストロースの「野生の思考」を引き出して、「冷たい社会=原始的な部族社会」と「熱い社会=ぼくたちの社会」とを例にあげ、「簡単に言うとこういうことになる」とまとめてくれている。

 

 熱い社会は歴史的な発展をなす。過去を基盤にし、未来に向かって進んでいく。直線をまっすぐに歩んでいく。父は子を超えないといけないし、つねに経済成長を成し遂げないといけない。go fowardだ。
 それに対して、冷たい社会は発展しそうになると、自らその芽を摘み取る。同じままでいようとする。だから、祖父も、父も、子も、同じようなライフコースをたどる。同じ儀礼を保ち続ける。円環的にぐるぐる同じところを廻る。

 

 そして、一般的には、ぼくらが生きているのは「熱い社会」だと整理されているけれど、「でも、たぶん違う」。ぼくらは実は「冷たい安定」を欲している、と言う。そしてこう言うのだ。

 

 だから、実際のところ、僕らが生きているとき、すべてが何かを得るためになされるわけではない。
 僕らは毎日野球をしていたけれど、それは野球がうまくなるためではなかった。僕らはキャッチボールをするために、キャッチボールをする。ノックをするために、ノックをする。
 同じように、僕らは死ぬために生きているのではない。生きるために今日を生きる。そうやって、僕らの生活がある。デイケアにいると、その貴重さを思い知る。

 

 そうだよね。君は中学生のころに野球部にいて、そうやって生きてきた。そして、君は、高校生になったとき、演劇部に仲間と一緒に転部してきたね。だから君はこう言うのだ。


 デイケアにはミッションがない。たとえば、新商品を開発してマーケティングをするわけではなし、世の中を良くする教えを流布するわけでもない。未来ある若者に教育を行うわけでもない。いや、いちおう厚生労働省からは「精神疾患を有するものの社会生活機能の回復を目的として個々の患者に応じたプログラムに従ってグループごとに治療する」というミッションを与えられているのだけれど、そういうリハビリ概念を突き抜けてしまいがちなのが居場所型デイケアだ。
 江戸時代の村とかだって、「子子孫孫、この田畑を守るのでござる」というミッションがありそうなものだけど、デイケアはそういうプロジェクトとは無縁だ。「いる」ために「いる」。まるで活動しない演劇部員が集まる放課後みたいなのだ。
 だから、そこにはピュアなコミュニティが姿を現す。メンバーさんは「いる」ために「いる」。スタッフもメンバーさんが「いる」ために「いる」。僕らは同じコミュニティに「いる」ことでつながっている。というより、つながっているから「いる」ことができる。ここにも出口のないトートロジーがある。

 

「まるで活動しない演劇部員が集まる放課後みたい」っていう比喩を読んで、思わず笑ってしまった。そして、ちょっと涙ぐんだ。そうだ、君たちは、あの薄暗い倉庫のような(いや実際に倉庫だったのだが)演劇部室に、「活動」もないのに、放課後集まっては、「内輪の笑い」を笑っていたんだよね。その時間こそが、君たちの珠玉のような時間だったんだよね。

 君たちは、別に「大会」に出るために芝居をしていたんじゃない。いい芝居をしようとして「努力」したわけでもない。基礎練習なんて何にもしなかった。でも、芝居をすることが何より楽しかった、というより、芝居をするという名目で集まってはみんなで笑いこけることが何よりも楽しかった。そういう「放課後」を生きた。そしてそういう時間が、実は、誰の心にも残る宝石のような芝居を作りだしたんだったね。

 それは、ぼくの中高時代の「部活」と同じだ。ぼくらはただそこに「いる」ために「いた」。ぼくはその「時間」を持てたことで、かろうじて今まで生きてこれたような気がするのだ。「生きる」ということがそれだけで「喜び」であることを実感できたこと、それがどんなに大事なことだったか、70年を生きてきた今、身にしみて分かる。

 そうだ。ぼくは、君たちと一緒に、ぼく自身のかつての「珠玉の時間」を再現しようとしていたのかもしれないなあ。

 

 


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一日一書 1583 斧入れて香におどろくや冬木立・蕪村

2020-01-28 20:26:03 | 一日一書

 

蕪村

 

斧入れて香におどろくや冬木立

 

半紙

 

 


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一日一書 1582 寂然法門百首 14

2020-01-27 10:54:23 | 一日一書

雨多則爛

 

五月雨に入江の菖蒲(あやめ)みがくれて引く人なしに朽ちぬべきかな
 

半紙

 

【題出典】『摩訶止観』

【題意】 雨多則爛 (雨多ければすなわち爛れ)

雨が多いと朽ちる

 

【歌の通釈】

五月雨に入り江の菖蒲が沈み隠れてしまって、引き抜く人もなく朽ちてしまうのだろうよ。(止観の止ばかりを修していると、如来のお導きもなく朽ちてしまうだろうよ。)


【考】

止観修行において、智恵なく、心を鎮める「止」ばかりを修していては、雨が多すぎると草が朽ちるように、仏性を得られない。これを、五月雨に沈む菖蒲が誰に知られることもなく朽ちていくという、「菖蒲」の歌に仕立てて詠んだ。適度な雨と日を得ることによって、菖蒲が美しく咲くように、心を止むことと、智恵の心で観ずることをバランスよく両立することによって開悟することができるという。

 

【語釈】

○止観 「止」とは、心を静止させ、鎮めること。「観」は、正しい智恵によって対象を観ずること。

 

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


 

書き忘れたが、この「寂然法門百首」には、古今和歌集のような「部立て」(分類)がある。「春」「夏」「秋」「冬」「祝」「別」「恋」「述懐」「無常」「雑」の部立ての中に10首ずつ配されていて、全部で100首となる。したがって、この14番目の歌は、「夏」で、「五月雨」が詠み込まれているわけである。


「心を鎮める」ことは大事だが、鎮めすぎると腐っちゃうよ、というのは、とても分かりやすい。時に静かに「内省」し、そして時に外界に「正しく」目を向けること、このバランスが大事だという。そのことを、梅雨時の空のもとに咲く菖蒲にたとえて、美しい。ここでいう「菖蒲」というのは、今でいえば「アヤメ」のこと。菖蒲湯に入れる「菖蒲」ではない。

 

バランスが大事とはいうものの、いざ実践となると、これがなかなか難しい。外に出て活動するか、家に引きこもるか、どうしても、そのどっちかに偏ってしまう。昔から理想の生き方として「晴耕雨読」というが、それもこういう考えから出てきているのかもしれない。晴れたら、耕さないまでも外に出る。雨がふったら本を読まないまでも、家にいてウダウダする。それが、自然の中に生きるということでもあり、修行の形としても理にかなっているということだろう。

 

 

 

 

 

 


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一日一書 1581 送友人・李白

2020-01-26 11:38:42 | 一日一書

 

李白

 

「送友人」より

 

青山横北郭  青山北郭に横わり 

白水遶東城  白水東城を遶(めぐ)る

 

半紙(自作料紙)

 

 

 

 

 


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一日一書 1580 みどり児やお箸いただく今朝の春・一茶

2020-01-23 21:09:22 | 一日一書

 

一茶

 

みどり児やお箸いただく今朝の春

 

色紙

 

 

 

 


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