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日本近代文学の森へ (85) 徳田秋声『新所帯』 5 ケチと偏屈

2019-01-27 15:15:39 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (85) 徳田秋声『新所帯』 5 ケチと偏屈

2019.1.27


 

 小野は、ケチケチするな、こういうときはパッと使ってそれなりの婚礼にしなきゃみっともないと言うのだが、新吉はそんな気にはぜんぜんなれない。


「でも君、私(あっし)アまったくのところ酷工面(ひどくめん)して婚礼するんだからね。何も苦しい思いをして、虚栄(みえ)を張る必要もなかろうじゃねいか。ね、小野君私アそういう主義なんだぜ。君らのように懐手していい銭儲けの出来る人たア少し違うんだからね。」
「理窟は理窟さ。」と小野は笑顔を放さず、
「他の場合と異(ちが)うんだから、少しは世間体ていうことを考えなくちゃ……。いいじゃないか、後でミッチリ二人で稼げば。」
 新吉は黒い指頭(ゆびさき)に、臭い莨を摘んで、真鍮の煙管に詰めて、炭の粉を埋(い)けた鉄瓶の下で火を点けると、思案深い目容(めつき)をして、濃い煙を噴いていた。
 六畳の部屋には、もう総桐の箪笥が一棹据えられてある。新しい鏡台もその上に載せてあった。借りて来た火鉢、黄縞の座蒲団などが、赭(あか)い畳の上に積んであった。ちょうど昼飯を済ましたばかりのところで、耳の遠い傭い婆さんが台所でその後始末をしていた。



 新吉の「主義」は、無駄な金は使わないということだ。小野は「懐手していい銭儲けの出来る人」だというのだが、小野が何をやっているのかは、書かれていない。株でもやって儲けているというところだろうか。新吉は、毎日汗水流して、せっせと小銭を稼ぎ貯金してきた。その金をここで使ってしまいたくない、と思うのも、まあ当然といえば当然である。

 「新吉は黒い指頭(ゆびさき)に、臭い莨を摘んで、真鍮の煙管に詰めて、炭の粉を埋(い)けた鉄瓶の下で火を点けると、思案深い目容(めつき)をして、濃い煙を噴いていた。」との描写が見事だ。無駄な言葉を省いて、新吉の生活と心情をくっきりと描いている。「黒い指頭」に、新吉の苦労が見える。落語の「子褒め」にも、「真っ黒になる」というのは、懸命に働くことの象徴として出て来る。「黒」は労働の色なのだ。「臭い莨」も、質の悪い安い莨を意味するだろうし、「炭の粉を埋けた」は倹約の様だろう。まさか、ほんとうの炭の粉じゃ「埋める」こともできないが、粉みたいなクズの炭を使っているということだろう。

 そんな新吉が「思慮深い目容」をしているとあるが、その「思慮」は、「金勘定」に他ならない。「濃い煙を噴く」というのも、安い莨をゆっくりと大事に呑んでいるから、煙も濃くなるわけである。(ほんとにそうなるかは知らないけど。)

 どういう料理の注文をするかで新吉が文句を言っている段階なのに、部屋にはもう「総桐の箪笥」と「鏡台」が置いてある。あっという間に、嫁入り道具が届いているのだ。お作の親族の「乗り気度」が伝わってくる。



 新吉はまだ何やらクドクド言っていた。小野の見積り書きを手に取っては、独りで胸算用をしていた。ここへ店を出してから食う物も食わずに、少しずつ溜めた金がもう三、四十もある。それをこの際あらかた噴(は)き出してしまわねばならぬというのは、新吉にとってちょっと苦痛であった。新吉はこうした大業な式を挙げるつもりはなかった。そっと輿入(こしい)れをして、そっと儀式を済ますはずであった。あながち金が惜しいばかりではない。一体が、目に立つように晴れ晴れしいことや、華やかなことが、質素(じみ)な新吉の性に適(あ)わなかった。人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。どれだけ金を儲けて、どれだけ貯金がしてあるということを、人に気取られるのが、すでにいい心持ではなかった。独立心というような、個人主義というような、妙な偏った一種の考えが、丁稚奉公をしてからこのかた彼の頭脳(あたま)に強く染み込んでいた。小野の干渉は、彼にとっては、あまり心持よくなかった。と言って、この男がなくては、この場合、彼はほとんど手が出なかった。グズグズ言いながら、きっぱり反抗することも出来なかった。

 


 新吉が、結婚するにしても、「そっと輿入(こしい)れをして、そっと儀式を済ます」レベルにしたいと思っていたのは、ケチなだけじゃなくて、目立つことが嫌いだったからだ、とあるわけだが、「目立つこと」「晴れ晴れしいこと」は、必ず金がかかるわけだから、結局、ケチだというところに落ちつく。金もかけずに目立とうとしたら、それこそ、裸で通りを歩くぐらいのことはしなけりゃならない。

 前回の分を書くとき、「取りつき身上」という言葉を調べている過程で、「引っ越し女房」という言葉を発見した。どういう意味かと思ったら、「他の土地で披露をすませて引っ越してきたかのようによそおって、新所帯を持つ妻。」(デジタル大辞泉)とあった。なぜ、そんなことをするのか事情はいろいろだろうが、婚礼で費用をかけたくないという事情も含まれるのかもしれない。


 婚礼には金がかかる。そんなに金をかけたくないと自分たちは思っても、まわりがそうはさせない。和泉屋や小野みたいに「口銭」狙いのヤツがいるからだ。親戚というのも、こういう際には、何を狙うかわかったもんではない。今では結婚式に呼ばれたら、披露宴のご馳走以上の祝儀をはずむだろうが、祝儀以上のものを食いたいと思うケチくさい親戚縁者だっていないとは限らない。とかく人間とは賤しいものである。

 それはそれとして、「人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風であった。」という新吉の気性は、なんとも共感できない。そういう人間もいるのかあ、と驚いてしまうほどだ。

 苦労をして稼いだ金ほど大事なものはない。500円の金を使うにも、それを稼ぐのにどれだけの時間と労力が必要だったかを考えると、ちょっと考えてしまう。小売商ともなれば、利ざやは細々としているから、余計に、出費には厳しくなる。商人は必然的にケチになり、(ケチが悪ければ、計算だかいと言い換えればいい)そして必然的に金持ちになる。金持ちになるには、金を使わなければいいのである。

 これが、職人となると、一度に入ってくる金が大きいし(つまり、商人のように、一品売って5円の利益のでる品物を1000個売って5000円稼ぐのではなく、請け負った仕事が終わると、いっぺんに5000円入ってくるという意味。総額の問題ではない。)その上、金が入ってくる時には、たいてい自分の払った苦労なんぞは忘れているから(そんな職人が多いと思う)、金を惜しげもなくパッと使ってしまうことになる。だから、職人は金持ちになれない、あるいは、なりにくい。

 「計算高い」ということは商人にとっては必須の資質だろうが、「計算高い」職人というのは、あんまり見たことがない。たとえいたとしても信用できない。職人というのは、自分の手仕事に熱中してしまうから、これだけやればいくらになるという計算などしているヒマはないし、もともと計算が不得意な者がなる。その結果、多くの職人は、「計算高い」商人のもとでこき使われて、その挙げ句、ちょっと「いい仕事してるねえ」ぐらいの世辞で舞い上がりかねないから、自分の収入が不当に低いことにすら気づかない。

 まあ、もちろんこれは、貧乏職人の家に生まれたぼくの偏見にすぎないが、いずれにしても、新吉の気性は、ぼくとはあわないことだけは確かだ。「人の知らないところで働いて、人に見つからないところで金を溜めたいという風」な男とは、お友達にはなりたくない。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」というぼくの嫌いな言葉があるが、逆に「悪(わる)苦労」という言葉をどこかで聞いたような気がする。辞書で調べても出てこないから、親あたりから直接聞いたのかも知れない。「苦労したことがその人の人格形成上に悪い影響を与えた」ような場合に使う言葉としてぼくは理解してきた。

 長い人生の中で、苦労したことがその人を成長させたという例には事欠かないが、その逆もあるわけだ。あんな苦労をしなければ、もっと素直な人間になれたのに、というようなケースも稀ではない。それどころか、ぼく自身、若い頃の「苦労」(中学受験、大学受験、大学紛争、就職直後のパワハラなどなど)さえなければ、もっと素直ないい人になれたのに、っていつも思っている次第なのだ。

 この新吉の「気性」も、もともとの資質ということもあるだろうが、裸一貫東京へ出てきて、努力してなんとか商売を始めたという「苦労」が、「妙な偏った一種の考え」を形成したといえるだろう。それが「独立心」「個人主義」と呼べるかどうか、はなはだ疑問である。むしろ、「偏屈」な心と言ったほうが当たっているのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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一日一書 1524 林辺鳥語月微下

2019-01-27 11:43:01 | 一日一書

 

林辺鳥語月微下

竹裏華飛春又深

 

林辺鳥語り月微かに下り

竹裏華飛び春又深し

 

44×33cm

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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