Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (161) 志賀直哉『暗夜行路』 48 浪花節と義太夫と蓄音機  「前篇第二  四」 その4

2020-07-25 10:13:04 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (161) 志賀直哉『暗夜行路』 48 浪花節と義太夫と蓄音機  「前篇第二  四」 その4

2020.7.25


 

 謙作が小説を読んでいると、そこへ船員が入ってくる。手にはレコード、供の水夫に蓄音機を持たせている。


 「御退屈でござります」洋服の腕に二本金筋を巻いた船員が自分はレコード、蓄音器は水夫に持たせて入って来た。「どうぞ、御自由に御散財下さりませ」笑いながら、こんな事をいって、大概は寝ているので、起きていた謙作の前にそれを置いた。
 謙作はそのまま本を読んでいたが、誰も手を出す者がないので、レコードの函を引き寄せて見た。浪花節(なにわぶし)が多かったが、義太夫もあった。義太夫は好きだったので、彼はそれを三、四枚続けてかけた。
「呂昇(ろしょう)の艶(つや)は別じゃのう」二人で寝ながら株の話をしていた一人がこんな事をいった。その男はまた謙作の方を向いて、「浮かれ節はありやんせんかえなあ」といった。
「うう?」謙作は浪花節の事だろうとは思ったが、よく通じないような、そして故意に無愛想な顔をして、また義太夫をかけた。その男はそれなり黙った。ちょっと気の毒な気がして、彼はその次に吉原芸者「四季の唄」というのをかけた。「春は花、いざ見にごんせ、東山」という唄だろうと思っていると、最初ジイジイいっていた喇叭(らっぱ)から、突然、突拍子もない浮かれ調子で「春は嬉しや、二人揃うて……」という唄が出て来た。気六(きむず)かしい不機嫌らしい顔が自身見えるだけにこの浮かれ唄との滑稽な対照が自分でもちょっとおかしくなった。そのままにしていると、夏は嬉しや秋は嬉しやと蓄音器は無遠慮に浮かれた。ダンダンダンという汽缶の響、ぼうぼうと甲板で鳴らす汽笛、船の胴を打つ波音、それらと入り混って、およそ不調和に「雪見の酒」と浮かれている。彼は蓄音器をやめてまた甲板へあがって行った。

 

 これはまたなんと珍しいシーンだろう。瀬戸内海を航行する船の中に、こんな娯楽があったなんて。ラッパのついた手回しの蓄音機を持ち込んで、レコードを聞かせるサービスだ。そのレコードが、歌謡曲とかクラシックではなくて、「浪花節」とか「義太夫」ときてはこたえられない。何が「こたえられない」のかというと、その時代の空気が生き生きと蘇ってくるからだ。

 「御自由に御散財下さりませ」というわけだからむろん無料ではないのだろう。謙作は金持ちだから、三、四枚かけて見るのだが、他の船客は手を出さない。謙作のかけたレコードを聴いているのである。あのジュークボックスみたいなものだ。

 それにしても、日本での蓄音機の発売は、1909年ごろらしいから(ちなみに電気蓄音機の発明は1925年)、この志賀直哉の「尾道時代」の背景になっている1912年には、まだまだ新しい機械だったわけだが、それでも、こんな普及の仕方があったとは驚きである。

 船の上で、浪花節や義太夫が聴ける、というのは、当時としてはなんともいえない喜びがあったろう。そういえば、まだウオークマンが発売される前、ぼくは電車の中で好きな音楽が聴けないものだろうかと考え、小型のカセットテープレコーダーにイヤホンをつけて、地下鉄の車内で聞いたことがある。小型とはいっても結構な重さがあったし、それに音質はモノラルで決して満足のいくものではなかったが、それでも新しい音楽の聴き方を発見したみたいで、ああこういうのいいなあと思ったものだ。それからウオークマンが発売されるまで数年しかなかった。ウオークマン1号機の発売は、1979年のことだった。

 謙作が選んだのは義太夫だったのだが、それが「呂昇」だったことが船客の言葉から分かる。この「呂昇」というのは、岩波文庫版の注によると「豊竹呂昇(1874〜1930)本名は永田仲。名古屋の人。大阪に出て豊竹呂太夫に学び、名声を博した女義太夫。」とある。レコードもずいぶんと出たらしい。

 志賀直哉は、学生時代に女義太夫の呂昇と並び賞された豊竹昇之助の熱烈なファンになって寄席通いをしたという。志賀直哉だけではなくて、当時は大変なブームで、学生から著名人まで女義太夫に狂ったらしい。そんな話をよく耳にするので、ぼくも大学時代に、友達と語らってひとつ女義太夫を聴いてみようということで、上野の本牧亭(だったと思う)に行ったことがある。何人かの太夫が出ていたが、客はぼくら以外には数名しかおらず、それが桟敷の上に寝転がっていたりして、しかも、肝心の義太夫がぜんぜん面白くないので、そうそうに退散したことを思いだす。

 友人と、いったいあれのどこがよかったんだろうねえと不思議がったものだが、まあ、時代の空気というのは、激変するものだ。
船客は、呂昇をほめながらも、「浮かれ節」はないかと言う。関西では明治40年代までは浪花節(浪曲)のことを「浮かれ節」と言っていたようだ。そのことを謙作も知っていたと見えて、「浪花節の事だろう」とは思うのだが、面倒くさいので、「故意に無愛想な顔」をする。こういう偏屈なところは、志賀直哉その人ということだろうか。

 けれども、しばらくすると「ちょっと気の毒な気がして」きた謙作は、「四季の唄」というのを選んだ。しかし、その歌は、謙作の予想していた歌ではなくて、「突拍子もない浮かれ調子」だった。これが果たして浪花節だったのかどうかは分からないのだが、自分の気難しい渋面と、その浮かれ唄の「滑稽な対照」が「自分でもちょっとおかしくなった」という。こうしたところに、志賀直哉の「自己客観化」がみえて、面白い。

 どこか「えらそうな」態度の謙作には少々不愉快にもなるが、そういう自分を客観化できているところに愛敬があるというか、憎めない気がするのである。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木洩れ日抄 67 演劇はどこへ行くのか? ──劇団キンダースペース「岸田國士の夢と憂鬱」をめぐって

2020-07-21 14:17:21 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 67 演劇はどこへ行くのか? ──劇団キンダースペース「岸田國士の夢と憂鬱」をめぐって

 

2020.7.21


 

 劇団キンダースペースの主宰者原田一樹は、劇団賛助会への誘いのパンフレットに次のようなメッセージを掲載した。これをぼくは、原田一樹の現代の状況における演劇に携わる者としての「宣言」だと思っている。


「私たちはどこから来て、ここからどこへ行くのか」
「演劇」は、古来この問いに、「観客の皆様」と共に向き合ってきました。
舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。
「俳優」は、「観客の皆様」の鏡として、舞台に立ちます。
「俳優」が呼吸するのは、「観客の皆様」が呼吸する空気です。
「俳優」の立つ場所は、「観客の皆様」の場所です。
キンダースペースの35年は、「観客の皆様」と共に歩んできた35年です。
「ここからどこへ行くのか」私たちと共に歩んでくださることを、切にお願い致します。

 

この「宣言」が書かれた後、コロナ禍以来初のキンダースペースの芝居「岸田國士の夢と憂鬱」を見てから、はや3週間が経とうとしている。その間、ずっとこの芝居のこと、そして演劇のことを考えていた。考えはするものの、なかなか言語化できずにいた。このままだと、何も書かないまま過ぎてしまいそうなので、今思うことを、まとまりもないままに書いておきたい。

 

 この3週間に、偶然にも、「メロドラマ」という言葉に、まったく異なった二つの場面で出会った。

 一つは、マルセル・プルースト「失われた時を求めて 第1巻 スワン家のほうへ」。こんな文章が目をひいた。

 

「人生においてメロドラマの美学に根拠を与えてくれるのは、サディズムぐらいしかない。」(岩波文庫・吉川一義訳 352p)

 

 メロドラマとサディズム、この二つがどうして結び付くのか、恥ずかしながらさっぱり分からなかったので、メロドラマについて調べてみた。すると、こんな解説があった。

「18世紀後半に西欧で発達した、音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇。」(デジタル大辞泉)

「ヒーローとヒロインの前途に迫害する敵(かたき)役もしくは越えがたい障害が現れるというパターンが多く、善玉と悪玉とははっきり分かれている。またドラマ全体としては道徳的、感傷的、楽観的で、最後はハッピー・エンドになる。さらに、劇的効果を強めるための音楽の使用、スペクタクル性を高めるための大仕掛けの舞台装置など、映画が誕生するまでもっとも大衆的な娯楽媒体だった。」(日本大百科全書)

 

 なるほどそういうことだったのか。メロドラマというのは、「通俗的な恋愛劇」のことだとばかり思っていたのだが、これは、長い演劇の歴史を背景にしているのだった。

 そういう意味では、昼メロだけがメロドラマなのではなくて、「水戸黄門」も「ゴレンジャー」も、そしてハリウッド映画の本流もみなメロドラマだということになるわけだ。

 「水戸黄門」を見れば、それが「現実」ではないことは明らかなのに、それでも見たあとは「すっきり」する。そこには、誰の人生観が反映されているわけでもなく、ただ「幻想」が広がっているだけで、観客はそれをみて、しばしこの世の憂さを晴らすのだ。

 こうしたドラマは、フランス革命や産業革命を背景とした大衆の嗜好から要請されたものだ。専門家ではないから、詳しくは説明できないが、世の中の価値観がひっくりかえり、生活の激変のよる不安と恐怖は、より刺激の強い娯楽を求めたといったところだろうか。

 しかも、産業革命以来の交通の発達により、人々はより遠くへも出かけるようになったので、舞台にも、様々な土地の再現を求めたらしい。その結果、ギリシャ以来の古典劇が、原則一つに場所での出来事を描いたのに対して、メロドラマの舞台では様々な土地の出来事が展開し、舞台はよりスペクタクルになり、さらには、より恐怖と刺激を供給するようになった。そこに、プルーストのいう「サディズム」が、根底を支えるものとしてあるわけだ。

 つまり、メロドラマは、登場人物が「越えがたい障害」を越えることで、ハッピーエンドになる(つまりは世界は「フェアな場所」だということの確認。)という構造を持っているわけだが、この「障害」に、攻撃、暴力がこれでもかこれでもかと加えられることで、そのハッピーエンドはますます強化されるわけで、そこにサディズムが「根拠」を与えているということになるだろう。

 もう一つは、先頃NHKで放映されたドキュメント「キューブリックによるキューブリック」だ。

 キューブリックは、このドキュメンタリーの最後に自らこう語っている。

 

常に問題になるのは、メロドラマが作り出す幻想を終始推し進めるか、それとも自分の人生観を作品に反映させるかという点だ。メロドラマは登場人物たちにさまざまな困難を与えることで、世界は善意に満ちたフェアな場所だと観客に示す。試練や苦難、不運な出来事のすべてはこのためにある。一方悲劇や現実に近い形で人生を描写した作品では、観客は見たあと、むなしさを覚えるかもしれない。だが世界のありのままの姿を伝えない定石どおりの手法は、単なる娯楽映画でないかぎり、あまり価値はないだろう。

 

 簡単に言ってしまえば、キューブリックは、メロドラマではなく、「自分の人生観を作品に反映させ」た、「現実に近い形で人生を描写した作品」をこそ作ろうとしたということだろう。その作品がたとえ「観客」に、むなしさを覚えさせたとしても、それでも「観客」に、人間とは何か? という問いへのアプローチを提供することができる。そういう映画でなくては「価値がない」と言うのだ。

 前置きが長くなったが、ここで冒頭の原田一樹の「宣言」(「宣言」として書かれたものではないだろうが、ぼくはそうとりたい。)に戻ろう。

 原田は「「私たちはどこから来て、ここからどこへ行くのか」「演劇」は、古来この問いに、「観客の皆様」と共に向き合ってきました。」というのだが、ここまでの演劇の歴史を見てみると、古来「ずっと」そうであったわけではないということが分かる。「観客」の要求によって、この重大な問いと向き合わず、ひたすら刺激の強い幻想を提供してきた演劇の時代もあったのだ。あったどころか、今も、その時代を色濃く引きずっている。

 そうした現状の中での原田の「宣言」は、明らかに演劇の原点への復帰を目指していることが分かる。キンダースペースが長いこと、ギリシャ悲劇や、イプセン以来の近代劇に取り組んできたのも、そうした志向の表れだろうし、モノドラマという形式で、近代日本文学の舞台化に情熱を注いできたのも、近代文学の中に見られる「人間とは何か」「私とは何か」という問いへの真摯な葛藤に「ドラマ」を見出したからだろう。

 そうした上演を通じて、キンダースペースの舞台は、常に「観客」に、「人間とは何か?」という問いを共有するように求めてきた。「求めてきた」というのは、なんだか変な言い方だが、「観客」は、舞台を見ているうちに、自然とその問いに向き合うようになった、というほどの意味である。観客が、しばし現実の憂さを忘れ、あ〜あ、スッキリしたという気分で劇場を後にすることがキンダースペースの舞台の目的ではない。「もやもや」が残ったり、「むなしさ」にとらわれたりしながらも、それでも、ああ人間って難しい、でも、面白い、といった気分で家路を辿る、これがキンダースペースの芝居だ。

 そういう意味で、「宣言」の「舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。「俳優」は、「観客の皆様」の鏡として、舞台に立ちます。「俳優」が呼吸するのは、「観客の皆様」が呼吸する空気です。」という言葉を理解することができる。

 「舞台にあるのは、生身の、今この時の、私たちの姿です。」というのは、演劇が常に「脚本」を「俳優」が舞台の上に現出させるものだが、その「俳優」は、自分のあずかり知らぬ「他者」を「演じる」のではなく、まさに「生身の、今この時の」自分自身を舞台に晒すことになる、また、そうでなくては、「観客」もその舞台に自分の「生身」を投じることができないのだということだ。

 いくら演技がうまくても、登場人物をいかにも作り物めいた人間として描いたら、そこに生まれるのはメロドラマ的幻想でしかない。いくら演技が拙くても、そこに「生身の人間」が描かれていたら、「観客」は知らず知らずのうちに、わが身をそこに投影する。

 「俳優」が「「観客の皆様」の鏡」だということはそういうことだ。「観客」が「生身の、今この時の」の人間である以上、「俳優」が「鏡」であるためには、「俳優」もまた「生身の、今この時の」自分をさらけ出さなければならないのだ。

 「俳優」と「観客」は、「同じ空気」を呼吸し、「同じ場所」に立つ。それは、決して、「ライブ」であるという表層的な話ではない。「同じ空気を呼吸する」ということは、「生身の人間」同士が、お互いを「鏡」としながら、「同じ問いに向き合う」ということだ。それは決して「同じ答えに到達する」ことを意味しない。そもそも「答え」のない「問い」なのだ。「答え」が出るのなら、何も劇場に足を運ぶ必要もない。「答えの出ない問い」だからこそ、「同じ問いに向き合う」ことができるのだし、そこに大きな価値がある。

 今回のコロナ禍の中で、野田秀樹の出した声明が多くの反発を生んだが、演劇のもつこのような「観客」との関係が、やはりきちんと理解されていなかったためだろう。確かにスポーツも観客あってこそのものだ。けれども、スポーツの観客と、演劇の観客には、大きな違いもあるのも確かなことだ。ぜんぜん違うというのではないし、多くの共通部分を持つのだが、演劇が「俳優と観客が同じ空気を呼吸しながら、同じ問いに向き合う」芸術だという意味では、「無観客の演劇」とは、ほとんど言葉の矛盾と言っていい。

 スポーツの観客が、「応援」「声援」という形で、スポーツに参加することで、選手は勇気をもらい、やる気が出て、プレイに集中できる。そのことの意味をどんなに強調してもしすぎることはないだろう。「観客」に元気と勇気を与えるためにプレイするのだという言葉もよくアスリートは口にする。それも決して嘘ではないだろう。けれども、自分のプレイに熱中するアスリートは、そのプレイの瞬間、瞬間には、決して「観客」を必要としないし、「観客」のことを思ってプレイしているわけではない。自分の持てる力を可能の限り出し尽くすだけだ。その全力プレイが、結果として、「観客」に勇気を、元気を、感動を与えるのであって、その逆ではないだろう。

 けれども、演劇は違うのだ。俳優が、「観客の鏡」だということは、「観客」がそこにいなければ、「鏡」が無意味となってしまうということだ。「観客」は、俳優の演技の「受け手」ではなく、「俳優」とまったく同じレベルで、そこにいる。「応援」ではない。「観客」もまた「俳優」の「鏡」なのだ。

 演劇の与える「感動」というものは、だから、「演劇鑑賞」といったレベルでの受動的なものではなく、俳優と同じ空気を吸いながら、時々刻々俳優が現出する「人間」と共に生きること自体が心と体に生じさせる一種の「震え」「振動」のことなのである。

 

 今回の「岸田國士の夢と憂鬱」は、「麺麭屋文六の思案」「留守」「遂に「知らん」文六」の3本連続上演だったが、このほとんど世に知られない作品、岸田國士の代表作ではなく、むしろ失敗作のような作品を、あえて舞台にのせたことは、野田の言うような「演劇の死」への危機感、そしてどうしても演劇を死なせてはならぬという原田一樹の切迫した心のありようを語っている。

 太平洋戦争へと向かって行く世相のなかで、解決のつかない問題に翻弄される主人公は、まさに、今のぼくらの姿そのものだ。とうとう「知らん! 知らん! 知らん!」と叫びながら、ただ、「オイチ、ニイ……、オイチ、ニイ……」と進み続けるしかない主人公に、「観客」は、背筋の寒くなる思いで目を凝らすしかない。

 その時、「観客」も「俳優」も、同じ空気を呼吸し、同じ場所に立っていたのだった。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学の森へ (160) 志賀直哉『暗夜行路』 47 船旅は続く 「前篇第二  四」 その3

2020-07-19 11:21:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (160) 志賀直哉『暗夜行路』 47 船旅は続く 「前篇第二  四」 その3

2020.7.19


 

 瀬戸内の船旅は続く。この辺は、珠玉の紀行文だ。


 或る島は遠く、或る島は直ぐ側(そば)を通った。少し人家のある浜辺には出鼻の塩風に吹き曲げられた一、二本の老松(ろうしょう)の下にきっと常燈明と深く刻りつけられた古風な石の燈台が見られた。他の島の若い娘が毎夜その燈明をたよりに海を泳ぎ渡って恋人に会いに来る。或る嵐の夜、心変りのした若者は故意にその燈明を吹き消しておいた。娘は途中で溺れ死んだ。こういうよくある伝説にはどれも似合わしい燈明だった。


 この伝説はまたなんと残酷なことか。若者の欲望が突出してしまっていて、これでは娘の救いがない。この燈台を見て、土地の人は何をどう思ったのか。また謙作はなにを思ったのだろうか。なんの感想もないが、案外、心に深く刻み込まれているのかもしれない。「性欲」の問題は、「暗夜行路」の大きなトピックだから。

 

 阿武兎(あぶと)の観音というのが見え出した。それは陸と島との細い海峡の陸の方の出鼻にあり、拝殿が陸にあって、奥の院は海へ出ばった一本立ちの大きな石の上に、二間ほどに石垣を積み上げて、その上に建っていた。その間五、六間が、かなりの勾配の廊下でつないである。その他は自然のままで、人家もなく、如何にも支那画を見る心持であった。其処を廻って汽船は陸添いに進む。庭に取り入れていいような松の生えた手頃な小さい島がいくつかあって、やがて柄(とも)の津に船は止った。仙酔島(せんすいとう)が静かに横わっている。絵葉書で勝手に想像していた向きとは全く反対側にそれがあったので多少彼は物足らなかったが、とにかくそれは気持のいい穏やかな島であった。町の方は人家でごちゃごちゃしていた。保命酒(ほうめいしゅ)醸造元とか、元祖十六味(じゅうろくみ)保命酒とかペンキで塗った烟突が所々に立っていた。


 「阿武兎観音」「鞆の津」「仙酔島」などが地図上のどこにあるかを確かめながら読んでいくと、実際に旅をしているような気分になれる。

 まさに、今どきのリモート旅行といった趣だが、「暗夜行路」を読みながら、地図で辿るという行為は、ビデオ映像を駆使したバーチャル旅行に参加するのとは本質的に違っている。それは、志賀直哉(まあ謙作でもいいが)が実際に見て、その印象を言語化したもの(テキスト)を読んで、こんどは地図という映像を伴わない一種のテキスト(非連続テキストという)を媒介にして、現実の印象(イメージ)を読者が脳の中に再構成する過程だからだ。これはとてもおもしろい。

 その上で実際にそこに行ってみるというのもひとつの手だが、行かないでおくというのもまた一つの手である。行かないほうが、自分が構成してイメージを壊さずにすむという利点もあるだろう。

 そういえば、源氏物語を最初に英訳したアーサー・ウェイリーは、実際に訪れて幻滅したくないからと言って、日本には来なかったという。もっとも単に長旅が嫌いだったからだという「証言」もあるらしいが、しかし、そういう「証言」もあてにはならない。長旅が嫌いだったことは確かなのだろうが、それだけが日本に来なかった理由とは断言できない。もしアーサー・ウェイリーが源氏物語のイメージを求めて日本に来たら、幻滅したに違いないからだ。

 ところで、ここに出てくる「保命酒」というのは、今でも販売されている薬用酒で、かなり前に、テレビの旅番組かなにかで見たことがある。「養命酒」は全国的に有名なのに、それに似た「保命酒」はほとんど知られていないのも不思議なことだとその時思った記憶がある。

 今調べてみると、なかなか興味深い歴史を持っていることがわかる。


 彼はその晩此処で月見をするつもりだったが、空模様が、とても見られそうもないので、そのまま乗り越す事にした。
 段々身体(からだ)が冷えて不愉快になって来た。彼は船室へ降りて行った。二等というので客は五、六人しかいなかった。その中に混って彼も横になった。船は少しずつ揺れて、ばたんばたんと船の胴を打つ波の音が聴えた。彼は少し睡かったが、眠れば風邪をひきそうなのでまた起きて、持って来た小説本を読み始めた。

 


 謙作はここで月見をしようと思ったということは、すでに出発の時からの予定だったのだが、天候の具合で、あっさりと断念している。

 この「鞆の津」は、普通は「鞆の浦」と呼ばれるところで、万葉集以来、船待ちの港として有名らしい。(さっき調べたところ)

 いつの頃からなのかは分からないが、ここが月見の名所となったらしい。今でも「日本遺産」になっているほどの観光地で、なかなか興味ふかく、瀬戸内の景色というのは、やはりなんといっても日本では有数だろうから、一度は行ってみたいものだ。(自分のイメージもそんなに豊かにはふくらんでいないし。)

 体の冷えた謙作は、また「不愉快」になる。前にも書いたが、志賀直哉の「不愉快」は、有名なので、「あ、また出た!」とちょっと愉快になる。

 


 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1640 寂然法門百首 25

2020-07-14 10:03:00 | 一日一書

 

重霧翳於太清

 

 
玉章(たまづさ)は霧にまぎれて雁金(かりがね)の書き連ねたるかひなかりけり
 

 

半紙

 

 

【題出典】『法華文句』一・上
 

【題意】 重霧翳於太清  重霧は太清を翳(おお)い

  (光宅の注釈は甚だ細かい。)濃い霧が天を覆い(月日星の光が翳るように、経文の真意も紛れてしまう。)
 

【歌の通釈】

文は霧に紛れて(経文の真意は細かい注釈に紛れて)、雁が書き連ねた甲斐もないことよ。


【考】
光宅寺の法雲法師は、あまりに細かく注釈を作ったので、逆に真意を見失ってしまった。これを、雁が空に書き連ねた文が、霧に紛れて見えなくなることになぞらえて表現したもの。秋の歌題である「霧」「雁」を詠み込んでいる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)



あまりに細かい注釈はかえって有害ということは、こんな昔から言われていたことなのだと感心してしまう。

雁が並んで飛んでいく姿を「文」に見立てるというのは、日本的な発想なのだろうか。それとも、中国に既にあることなのだろうか。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本近代文学の森へ (159) 志賀直哉『暗夜行路』 46  作家の目  「前篇第二  四」 その2

2020-07-12 20:46:51 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (159) 志賀直哉『暗夜行路』 46  作家の目  「前篇第二  四」 その2

2020.7.12


 

 文学作品の中での風景というものは、純粋に、客観的に存在するのではなくて、常に「見られた風景」として存在する。存在するというよりは、立ち現れるという方がいいだろうか。

 そんな当たり前なことだが、志賀直哉の小説を読んでいると、それがことさらに感じられる。そもそも志賀は、意識的にか、無意識的にか知らないけれど、まず自分の気分をそこに書き込むことで、その後描かれる風景に色づけをしてしまう。

 前回引いた部分も、まずは「春めいた長閑な日だった。」という一文で、風景全体を幸福感に満ちたいわば薔薇色のトーンに染めてしまう。

 もちろん、その後の気分の変化によっては、風景もまた違った様相を呈することもあるのだろうが、少なくとも、あのシーンでは、ジイサンと芳子さんが呼び交わすまで、そのトーンは変わらない。そこだけ切り取って短篇小説に仕立てたいほどのシーンである。「暗夜行路」には、そんな魅力的なシーンが随所に転がっているのである。

 前回から続く部分で、謙作は、金を取りに郵便局へ行くのだが、今日は午前中だけだと断られてしまう。その日のうちに旅に出ようと思っていたのに、謙作はやむなく翌日に出かけることにした。このちょっとした行き違いが謙作の気分に影響を与えたかのように、翌日の記述は、これまでとはまったく違ったトーンで語りだされる。


 翌日は薄日のさした、寒い、いやな日だった。空模様も本統でなく、風もあった。彼はちょっと迷ったが、やはり出かける事にして、一時半頃汽船の出る処へ行った。
 着くのが三十分遅れたために、それだけ二時発から遅れて、船は出発した。彼は祖父の着古した、きたない二重廻をきて、甲板へ出ていた。船は細長い市に添うて東へと進む。千光寺の山の中腹に彼の小さい家が一層小さく眺められた。先刻まで着ていた、綿入と羽織とが軒の物干竿に下っている。それも如何にも小さく眺められた。その前に婆さんが腰かけて此方を見ている。彼はちょっと手を挙げて見た。婆さんも直ぐ不器用に片手を挙げた。そして笑っているらしかった。

 

 いきなり「いやな日だった。」と書く。これが昨日の出発だったら、気持ちのいい航海となったのに、という思いが見え隠れする。それというのも、自分が郵便局の扱い時間を間違えていたからだ、いや、そもそも郵便局が気が利かないのだといった八つ当たり的気分。汽船は30分も遅れてきたから、出発も遅れた。(と解釈しておくが、「着くのが三十分遅れた」のが汽船なのか謙作なのかがあいまいだ。)そんな齟齬も気にさわる。自分の着ている「二重廻」も祖父が着古した汚いやつだ。これもなんか気に入らない。とまあ、そんな気分が流れている。

 けれども、船が進むにつれ、次第に気分も回復してくる。昨日のバアサンが見える。(果たしてほんとに見えるのだろうか、という疑問もわくが、志賀が嘘をつくはずもない。)手を振ると、振り返してくる。なんだか笑っているようにもみえる。すっかり気分もよくなった。というように、風景は単なる風景ではなくて、謙作の気分の鏡でもあるのだ。


 山と山との間の一番奥にある西国寺という寺が見え出した。間もなく、船は浄土寺の前を過ぎ、市を出はずれて、舵を南へ南へととり、向い島を廻って、沖へ出て行った。彼は因の島、百貫島、その位で島の名を知らなかった。しかし島は一つ通り越すとまた一つと並んでいた。島と島との間を見通せないので、ただ船で通っては彎曲の多い海岸を見ると余り変りなかった。


 船に同乗して移りゆく景色を眺めているような気持ちになる。うまいものだ。風景はさらに美しさを増していく。


 先刻まで薄日のさしていた空は何時かどんよりと曇って、寒い風が西から吹いていた。彼は船室へ入ろうかと思ったが、何かしらそれも惜い気持から、二重まわしの羽根をかき合せ、立てた襟に頤(あご)を埋めて、なお甲板のベンチヘ腰を据えていた。
 船は島と島との間を縫って進んだ。島々の傾斜地に作られた麦畑が、一卜畑(はた)ごとに濃い緑、淡(うす)い緑と、はっきりくぎりをつけて、曇った空の下にビロードのように滑らかに美しく眺められた。それから、島々の峰の線が如何にも力強く美しく眺められた。曇り日を背にした方が殊に輪郭がくっきりとよく見えた。彼は市(まち)の瓢箪屋で見た割れ瓢の割れ目の線を想い出した。自然の作る線、これにはやはり共通な力強さ、美しさがある事に感服した。


 「薄日のさした、寒い、いやな日だった。」わけだが、その曇り日が、意外な美しさを演出する。「島々の傾斜地に作られた麦畑が、一卜畑(はた)ごとに濃い緑、淡(うす)い緑と、はっきりくぎりをつけて、曇った空の下にビロードのように滑らかに美しく眺められた。」という表現は特に美しい。畑の色は、「はっきりくぎりをつけて」いるのだが、それが「ビロードのように滑らかに美しく」見えたというのは、晴天の強すぎるコントラストではなく、曇天の弱いコントラストが「滑らかさ」を生み出しているということで、こんなに精密な描写はそうそうお目にかかれるものではない。

 しかも、曇天の光にかえってくっきりとした島々の輪郭線が、「割れ瓢の割れ目の線」に似ているとし、「自然の作る線、これにはやはり共通な力強さ、美しさがある事に感服した。」と感想を述べていることにほとほと感心してしまう。

 島が作る線と、瓢箪の割れ目の線は、いずれも自然が作る線だ。その線には、「共通な力強さ、美しさ」があるというのだが、ここまでくると、志賀直哉という作家の目に尋常でない鋭さを感じるのだ。何気ない記述だが、瀬戸内の島の作る線と瓢箪の割れ目の線を結びつけることができる作家というのはそうはいないだろう。

 なぜいないのか。それは、普通の人は、割れ瓢箪をそんなふうには見ないからだ。割れた瓢箪を目にした場合、それが割れた瓢箪だと認識はしても、その割れ目の線が印象に残るほど精密には見ようとしない。たとえ見たとしても、それを「自然が作る線」だとは考えない。まして、その線のありようを覚えていて、それが目の前に見える島々の峰の線に「似ている」というふうな認識には至らないだろう。

 志賀直哉がそんなふうな認識の仕方をするのには、ひょっとしたら彼は無類の「瓢箪好き」なのかもしれない。(「清兵衛と瓢箪」を書いているぐらいだから。ちなみにこの「清兵衛と瓢箪」という小説は志賀直哉が尾道で暮らした頃に船の中で聞いた話を元にしているそうである。)しかし、そうだとしても、島々の線が、割れた瓢箪の線に似ているということを、ここでわざわざ書くのはどうしたことだろうか。

 「船が進むにつれて、島々が美しく眺められた。」とだけ書いておけばすむ話なのに、簡潔を旨とする作家が、どうしてこうした細かい、ある意味どうでもいい記述をするのだろうか。「自然の造形美」を強調するためだといえばそれまでだが、ここにはそうした目的意識とは別の、なにか書かずにはいられない衝動のようなものがあるように思うのだ。

 つまり、この類似を「発見」した志賀直哉は、驚き、感動し、そして、それを書き留めずにはいられなかったのだ。これは絶対にフィクションではない。物語を構成していく大事な要素として志賀直哉が考え出したディテールではない。この「発見」がまずあったのだ。それをただ書き留めた。そして、「物語」はそこから生まれていった。

 考えてみれば、別に志賀直哉でなくても、作家というのは、無から有を生み出すわけではない。どんなに荒唐無稽なフィクションでも、その核には、作家ののっぴきならない「経験」があるのだと思う。

 「昭和文学盛衰史」で高見順は、田畑修一郎のこんな言葉を紹介し、自分もこうした考えにくみする者だと言っている。

 

根っこにおいて広義の自己告白を持たぬ客観世界というものは作品の中にあり得ない、と考える。僕にはあらゆる作品は、作家が人間としてこの世の中で『何を見たか』ということの展開にすぎないとさえ思われる。(「ロマネスク論議」)

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする