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★「失われた時を求めて」を読む★ 第7巻・引用とコメント

2015-07-15 10:01:26 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第7巻・引用とコメント



フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。



★「失われた時を求めて」を読む★4/10  今日は、第7巻16pまで。

〈アルベルチーヌの女の友人たちはみんなバルベックからいなくなっていて、しばらくは帰ってこないときだった。私はそんなアルベルチーヌの気持をまぎらせてやりたいと思っていたのだ。バルベックで午後を私とだけで過ごすのは彼女に幸福を感じさせるだろうと思われはしたが、幸福はけっして完全にえられるものではないことを私は知っていたし、アルベルチーヌがまだいまのところは、幸福が完全でないことは幸福を実感する側の問題で、幸福をあたえる側の問題ではない、ということを発見するにはいたらない年齢(ある種の人たちはその年齢を越えることがない)であって、彼女が失望の原因を私自身に帰着させるおそれが十分にあることを私は知っていた。〉第7巻9p

▼「幸福」を実感することは、難しいことだ。

〈人は大いに楽園を夢みる、というよりも、数多くの楽園をつぎつぎに夢みる、しかしそれらはすべて、その人が死ぬよりもまえに、失われた楽園になる、そしてまたそこで、人は失われたみずからを感じるであろう。〉第7巻16p

▼悲しいことだが、「事実」なのかもしれない。人生は「失望」の連続であるのかもしれない。しかしまた、こういう風に、悲観的に人生のことを考えることもまた時には必要だし、また慰めにもなるのだ、と思う。


★「失われた時を求めて」を読む★4/11 今日は第7巻34pまで。

★「失われた時を求めて」を読む★4/12 今日は、第7巻56pまで。

★「失われた時を求めて」を読む★4/13 今日は、第7巻79pまで。


★「失われた時を求めて」を読む★4/14 今日は、第7巻99pまで。

〈馬車はひととき海のはるかな高所にとどまっていたので、納税所から見ると、山頂からでものぞくように、青みがかった深淵のながめが、目まいを起こさせんばかりであった、私は窓ガラスをあけた、よせてはかえすたびにはっきりとききとれる波の音は、やさしく、明瞭で、何か崇高なものをふくんでいた。そのひびきは、たとえば、垂直の距離が、われわれのふだんの印象をくつがえしながら、水平の距離とおなじようなものになりうることを示すような、つまりわれわれの精神がふだんやりなれている物の表象の仕方を逆の向きに示すような、そんな一種の測定の手がかりではなかったであろうか? そんな手がかりからすれば、垂直の距離は、われわれを空に近づけながらも、一向にひろがらず、その距離を乗りこえてやってくる物音にとっては、ちょうどこの小さな波のひびきの場合のように、その距離はせばまりさえするのである、なぜなら、ひびきがわたってくる中間の環境がはるかに清澄であるからだ。〉第7巻85p

▼「垂直」と「水平」。わかりにくいが、なんだか、すごいことを言っているような気がする。


★「失われた時を求めて」を読む★4/15 今日は、第7巻121pまで。

★「失われた時を求めて」を読む★4/16 今日は、第7巻148pまで。

▼時間がなくても、必死である。


★「失われた時を求めて」を読む★4/17 今日は、第7巻164pまで。

〈「サニエッ卜さんにわるいわよ、あなた、そんなにつらくあたらないでちょうだい」とヴェルデュラン夫人はあわれみを装った口調で言い、夫の邪樫な意図に一点の疑念を残す人もないようにした。「私はラ・シ…、シェ…」──「シェ、シェ、はっきりいうようになさいよ」とヴェルデュラン氏がいった、「それじゃきこえもしませんよ。」信者たちのほとんど誰もがどっと吹きださずにはいられなかった、そういう信者たちは、傷ついた一人の白人に血の味を呼びさまされた人食人種の一団の様相を呈していた。けだし、模倣の本能と勇気の欠如とは、群衆を支配すると同様に社交界を支配するのである。からかわれている人を見て、いまはみんなが笑う、それでいて十年後には、その人がちやほやされているクラブのなかで、平気でみんながその人をあがめるのだ。民衆が国王を追放したり歓呼でむかえたりするのも、それとおなじやりかただ。〉第7巻148p

▼社交界のばかばかしさは、しかし、現実のぼくらの日々の生活にもないとはいえない。

〈とんでもないばかげた思いつき、といってもそこにはなんらかの真実がある。なるほど、人々の「愚行」は堪えがたいものである。しかし、あとになってから、ああそうだったのかとやっと思いあたるような、ある突拍子のなさは、人間の脳裏に、ふだんなじみのない微妙な観念がはいってくる結果の所産なのである。したがって、魅力的な人間の奇行はわれわれの腹にすえかねるようなところがある、しかしまた、べつの点からすれば、奇妙なところがないような魅力的な人間というものはないのである。〉第7巻162p

▼真の「芸術」を産み出す人も、そういう「魅力的な人間」であることは確かなようだ。


★「失われた時を求めて」を読む★4/18 今日は、第7巻184pまで。

〈ある人を完全に描くには、その描写に声帯模写が加わらなくてはならない場合が起こるのだが、シャルリュス氏が演じているこの場の人物を描写するにも、きわめて繊細な、きわめて軽妙な、この小さなわらい声を欠くために、不完全なものになる危険を伴うのであって、たとえばバッハのある種の組曲にしても、いまのオーケストラでは、きわめて特殊な音をもったあの「小さなトランペット」のたぐいを欠くので、作曲者自身はそのような楽器のためにしかじかのパートを書いたのだけれど、もはや正確に演奏されることはけっしてないのである。〉第7巻164p

▼現代の「古楽器」での演奏をプルーストが聴いたら喜ぶだろうなあ。


〈……そういって女主人のまなざしは、芸術家のこの贈物の上に夢みるようにとどまったが、そこには、彼の偉大な才能だけでなく、彼女との長い友情もいっしょに要約されて見出されるのであり、その友情は、彼がそれらの花をめぐって残した数々の思出のなかにしかもう生きのこってはいないのだ、彼女は、彼女自身のためにかつて彼が摘んでくれたそれらの花の背後に、ある日の午前、摘みたての新鮮な姿のままに、それらを描いた人の器用な手をふたたび目に見る思いがするのであった、だからこそ、いまでも生きたばらはテーブルの上にかざられ、他方なかば似かよったそれらのばらの肖像画は食堂の肘掛椅子にもたせかけられ、双方向かいあって、女主人の昼食のために顔をあわせることができたのであった。なかば似かよった肖像画、としか言いようがない、というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見たばら、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかったばら、そんなばらの幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってそのばらは、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、ばらという家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう。〉第7巻166p

▼これはこれだけで、立派な「絵画論」ではなかろうか。「内心の庭」。いい言葉だ。


★「失われた時を求めて」を読む★4/19 今日は、第7巻206pまで。


★「失われた時を求めて」を読む★4/20今日は、第7巻222pまで。

▼明日から3日間、関西方面へ旅行をしてきます。iPadを持って行って、読書を続けようと思いましたが、やめました。リフレッシュしてきます。


★「失われた時を求めて」を読む★4/24今日は、第7巻231pまで。

〈……なぜなら彼は、悦に入って笑いながら、たまらなく心地よさそうに両肩をゆすぶりはじめたからである。そんな動作をすることは、彼の家系である「科」のなかのコタール「属」にあって満足をあらわす動物学的特徴の一つといってもよかった。彼よりも一つ手前の世代では、石鹸をつかっているかのように手をこすりあわせる動作が、両肩の動作に伴っていたのであった。コタール自身もはじめはそんな二重の表意術を同時におこなったのであったが、ある日、いかなる干渉によるものかわからないままに、おそらく婚姻か、要職がそうさせたのであろう、手をこすりあわせるほうは消滅した。〉第7巻223p


▼「仕草」もこのように遺伝するのだろうか。「手をこすりあわせる」といった仕草はともかく、歩くときのちょっとした体の傾き、佇むときの腰の曲げ方などが、おどろくほど親に似るものだということを実感したことがある。

▼これで、「ソドムとゴモラ 2 第2章」終了。

▼まだ疲れが色濃く残っていて、今日はあんまり読めないなあと思っていたら、思いがけなく、大きな切れ目。「読む」ほうが「書く」より、体力を要するような気がする。


★「失われた時を求めて」を読む★4/25 今日は、第7巻244Pまで。

▼「睡眠」についての興味深い考察がある。


★「失われた時を求めて」を読む★4/26 今日は、第7巻263pまで。

〈距離というものは、空間と時間との比例関係にほかならず、時間とともに変化するものなのである、われわれがある場所に行かなくてはならないその困難を口にするとき、われわれは里程で、キロメートル法で、割りだして考えるが、そうした困難が減少すると、そんな計算は無意義となる。芸術もそのために変化を受ける、なぜなら、乙の村とは別世界のもののように思われている甲の村も、次元の一変した風景のなかにあっては、乙の村に隣接することになるから。とにかく、二プラス二が五になり、一直線が二点間の最短距離とはならない、そんな世界が存在するらしいのを知ることよりも、おなじ一日の午後に、サン=ジャンとラ・ラスプリエールとの二か所に行くことが運転手には容易である、というのをきいたほうが、アルベルチーヌにとっておどろきが大きかった。同様にドゥーヴィルとケトルム、サン=マール=ル=ヴイユーとサン=マール=ル=ヴェチュ、グールヴィルとバルベック=ル=ヴィユー、トゥールヴィルとフェテルヌといったそれぞれのむすびつきが可能なのだ、こうした二つの場所は、かつてのメゼグリーズとゲルマントとの二つの方向のように、これまで別々の日の独房のなかに、厳重に監禁されていて、同一人の目が、同一の午後に、これから二つを見ることは不可能だったのに、いまや、一挙に七里をとぶ長靴をはいた巨人の手で解放され、私たちのグッテの時間のまわりにやってきて、それぞれのその鐘楼と塔を、そのものさびた庭を、つなごうとし、境の森は、そうした鍾塔や庭の姿を早くあらわに見せようとあせるのだった。〉第7巻262p

▼交通手段の発達が、「距離」というものの観念を変えたわけだが、そのことが芸術にも変化を与えたのだという指摘はおもしろい。

▼こう言われてみると、「室生寺」「飛鳥」「大阪」というまったく異なった場所が、あの日には「隣接」したんだということに、新鮮は驚きを感じなければなるまい。


★「失われた時を求めて」を読む★4/27 今日は、第7巻286pまで。

〈幻想をほしいままにさせる汽車旅行への私の好みからすれば、自動車をまえにしてのアルベルチーヌの歓喜に私が同調できなかったのも、当然であっただろうと思われるが、その自動車は、病人をも、その欲する場所に連れてゆくのであって、行く先の土地を──いままで私が考えてきたように──個性的な目標、動かしえない美のかけがえのない真髄、と考えることをさまたげる。だから、このときも、おそらく自動車は、私がかつてパリからバルベックへやってきたときの汽車のように、行く先の土地を、日常生活の偶発事からまぬがれた一つの目的、ほとんど理想的な目的、といったものにしてはくれなかったであろう、汽車の場合は、行く先の土地は、そこに到着するときも、誰も住んでいないで駅だけが町の名をもっているそんながらんとしたひろい場所に到着するのだから、なおもその理想的な目的を残したままなのであって、駅がその町の具象化であるからには、駅はやっとその町に近づいたという約束でしかないように思われるのだ。自動車の場合はそうではない、自動車というやつは、汽車のように幻想的に私たちを一つの町に連れてゆくということはなかった、したがって、町の名が要約している全体の概念のなかに、あたかも劇場のホールにいる観客のような錯覚でもって、まず最初に一つの町を目に描くというような、そんな幻想は自動車の場合にはゆるされなかった。〉第7巻278p

▼「汽車旅行」は「幻想をほしいままにさせる」のだという指摘は新鮮。「駅」というものが「誰も住んでいないで駅だけが町の名をもっているそんながらんとしたひろい場所」だとは、思いもしなかった。言われてみれば、現在でも、その通りである。


★「失われた時を求めて」を読む★4/28 今日は、第7巻302pまで。

〈私にはこんな思いがわきおこった、幻影ばかりを追うのが私の運命だったと、またその現実性の大部分が私の想像力のなかに存在するそんな人間ばかりを追い求めるのが私の運命だったと。実際、おかしな人間もいるもので──しかも、小さなときから、それが私の場合だったが──その人間にとっては、他の人たちに、固定した、不動の価値をもっているもの、財産とか、成功とか、高い地位とかいったものが、すべて物の数にはいらないのだ、こんな人間に必要なのは、幻影である。彼らは、そのために、他のすべてを犠牲にし、あらゆる能力を傾倒し、そうした幻影に出会うためにあらゆる手段をつくす。しかし幻影はすみやかに消えさる、するとまた何かべつの幻影を追う、しかし結局また最初のものに立ちかえるだけである。バルベックにきた最初の年、海を背景にしてあらわれるのを私が見た少女アルベルチーヌ、そんなアルベルチーヌを私が追い求めるのは、何もこれがはじめてではない。なるほど、私がはじめて愛したときのアルベルチーヌと、私がほとんどそのそばを離れないいまのアルベルチーヌとのあいだに、他の女たちが介在したのは事実だった、そんな他の女たちといえば、ゲルマント公爵夫人などとくにそうである。しかし、読者はいうかもしれない、なぜああもジルベルトに関してくよくよと思いなやんだのか、また、ゲルマント夫人の友人となった私が、結局は夫人のことを考えるのではなくてただアルベルチーヌのことを考えるのが唯一の目的であったならば、なぜああもゲルマント夫人のために心を労したのか、と。スワンならば、あの幻影の愛好者だったスワンならば、その死をまえにして、それに答えることができただろう。何度か追い求めては忘れきった幻影、ときにはせめてただ一度だけでも会ってみたいとねがいながら、そしてただちに逃げさる非現実の生活に、しばらくなりともふれてみたいとねがいながら、また新しく探し求めた幻影、バルベックのこれらの道は、そうした幻影に満ちているのだった。そして、これらの道の木々、梨の木、りんごの木、ぎょりゅうが、私のあとに生きのこるであろうことを考えながら、私には、そういう木々から、永遠の休息の鐘がまだならないあいだに、いよいよ仕事に着手するようにとの、忠告を受けるような気がするのであった。〉第7巻290p

▼「幻影」。求めても、逃げ去ることが分かっていても、生涯をかけて求める「幻影」。それは結局、何なのだろうか。


★「失われた時を求めて」を読む★4/29 今日は、第7巻319pまで。

〈夕食後、自動車はふたたびアルベルチーヌをパルヴィルから連れだしてくるのだ。まだ暮れきらないで、ほのかなあかるさが残っているのだが、あたりのほとぼりは多少減じたものの、焼けつくような日中の暑気のあとで、私たちは二人とも、何か快い、未知の涼気を夢みていた。そんなとき、私たちの熱っぽい目に、ほっそりした月があらわれた(私がゲルマント大公夫人のもとに出かけた晩、またアルベルチーヌが私に電話をかけてきた晩にそっくりで)、はじめは、ひとひらのうすい果物の皮のように、つぎには、見えないナイフが空のなかにむきはじめた果物の肉のみずみずしい一片のように。またときどき、私のほうから、女の友をむかえに行くときは、時刻はもうすこしおそくて、彼女はメーヌヴィルの市場のアーケードのまえで、私を待つことになっていた。最初の瞬間は、彼女の姿がはっきり見わけられなくて、きていないのではないか、勘ちがいをしたのではないか、と早くも心配になってきた。そんなとき、白地に青の水玉模様のブラウスを着た彼女が、車のなかの私のそばへ、若い娘というよりは若い獣のように、軽くぽんととびこんでくるのを見るのだ。そして、やはり牝犬のように、すぐに私を際限なく愛撫しはじめるのだった。〉第7巻302p

▼「若い娘というよりは若い獣のように」には、ため息が出る。つくづくみずからの「老い」を感じるなあ。月の描写までエロティックだ。


〈私はアルベルチーヌをながめる、彼女のあの美しいからだ、あのばら色の顔をながめる、それは、彼女の意図の謎を、私の午後の幸福または不幸をつくりだすべき未知の決意を、私の面前にかかげているのだ。それは、私のまえに、一人の若い娘という、寓意的な、宿命的な形をとってあらわれた、ある精神の状態、ある未来の生存にほかならなかった。そのうちに、ついに私が決心して、できるだけ無関心を装いながら、「きょうの午後から、そして今夜も、いっしょに散歩していいでしょう?」とたずね、彼女が「ええ、いいわ」と答えるとき、ばら色の顔のなかで、私の長い不安は、突然快い安心と交代し、そのようにして立ちなおったその顔かたちを、まます貴いものにするのであって、嵐のあとに人が感じる安堵とくつろぎ、そういったものを私がとりもどすのは、いつもそんな顔かたちからなのだ。〉第7巻304p

▼「恋」の姿は、いつでも、どこでも、同じ、ということか。でも、ぼくらは、その「恋」を知らぬ間に、老いてしまうのではないか。


★「失われた時を求めて」を読む★4/30 今日は、第7巻354pまで。

〈人間社会のなかにあって、つぎのような規則──もとよりそれは例外をふくむものであるが──すなわち、愛情のない人というものは人に好かれなかった弱者であるということ、そして、強者というのは、人に好かれるか好かれないかに頓着しないで、凡人が弱点だと見なすあのやさしい愛情をもっている人にかぎられているということ、そういう規則のあることを理解するためには、それまでにさまざまな人間を見ておかなくてはならないのであって、たとえば不遇のときには、恋人のような微笑を浮かべて、くだらぬジャーナリストのいばった援助を、おそるおそる求めていた政治家が、権力をもってからは、もっとも頑固な、もっとも強硬な、もっとも近よりにくい人として通っている場合だとか、コタール(その新しい患者たちが鉄棒だとうわさする)の、あのしゃちこばった不動の姿勢だとかを見ておくこと、シェルバトフ大公夫人の、あの誰もが認める見かけの高慢、反スノビスムが、どんな失恋のくやしさや、どんなスノビスムの失敗からつくられたものであるかを、知っておくことが必要なのである。〉第7巻348p

▼ありとあらゆる人間の醜い姿を知ることが、人間の素晴らしい本質を理解するためには必要なのだということだろう。小説を読む意味も、そこにあるのだ。きっと。


〈われわれは、ある種の鳥がもっているあの方向感をもっていないが、それとまったくおなじ程度に、透視感を欠くのであって、それは距離感を欠く場合のように、こちらに何一つ好意をよせていない人々の関心を、こちらの身にひきつけて想像し、そのあいだ、反対に相手からうるさがられていることを、うたがってみない、というような結果をひきおこすのである。このようにして、シャルリュス氏は、自分の泳いでいる水がガラス壁の向こうにまでひろがっていると思う水族館の水槽のなかの魚のように、あざむかれて生活しているのだった、水槽のほうは魚をそのガラスに映しだすが、魚のほうは、自分のすぐそばの陰のところで、自分の嬉戯を見物している観覧者や、養魚家の姿が見えないのであり、その養魚家は、いわば活殺の権をにぎっている全能者であって、やがて到来する、予測できない、避けられない時とともに、もっとも男爵に関していえば、そういう時は、いまの場合、まだ先にのばされているのであるが(そのとき、パリで、養魚家となるのは、ヴェルデュラン夫人なのであるが)そういう時の到来とともに、養魚家は、無慈悲にも魚をそのたのしく生きている場所からひきだし、他の場所へ投げこむのである。さらにいえば、それぞれの民族も、それが個人の集合でしかない以上、この魚のような、根深い、しつこい、どうにもならない、盲目状態の、さらに広大な、しかし部分的には同一の、幾多の例を、われわれに提供しているといえるであろう。〉第7巻352p

▼この「水槽の中の魚」の比喩は、「井の中の蛙」以上に、現実感にあふれている。「相手からうるさがられていることを、うたがってみない」人って、ほんとにいるよなあ。そして、「民族」に関する考察も、するどい。プルーストが、どうでもいいような愚劣な社交界のさまざまな様相をこれでもかというほど描くのは、実は、それが世界の縮図であるからだろう。


★「失われた時を求めて」を読む★5/1 今日は、第7巻390pまで。

★「失われた時を求めて」を読む★5/2 今日は、第7巻423pまで。


★「失われた時を求めて」を読む★5/4 今日は、第7巻446pまで。

〈アルベルチーヌは自分にめいわくのかかりそうな事実はけっして語ったことがなかったが、その事実を知っていなくては説明がつかないような他の事柄は語ったのであって、事実というものは、人のいったことそのものではなくて、むしろ人のいうことから出てくる流、目には見えなくても、つかむことのできる流がそれなのである。〉第7巻434p

▼刑事ドラマの基本かも。


★「失われた時を求めて」を読む★5/5 今日は、第7巻459pまで。

〈いうまでもなく、習慣は、すみやかにわれわれの時間を満たしてしまうものなので、最初に着いたとき一日の十二時間は完全にあいていて何にでもつかえたある町で、数か月ののちには、ひとときの自由な時間さえも残らないようになってしまう、……〉第7巻458p

▼定年後の「時間」もまた、このようなものであることを、改めて認識している。


★「失われた時を求めて」を読む★5/6 今日は、第7巻490pまで。

〈しばらくのあいだに、二、三度、ふとつぎのような考が頭に浮かんだ、この部屋とこの書棚とのあるこの世界、そのなかでアルベルチーヌがきわめて些細な存在であるこの世界は、おそらく一つの知的な世界、すなわち唯一の実在ともいうべき世界なのであり、私の悲しみは、小説を読むときに感じる悲しみのようなものであって、ただおろかな人間だけがそういう悲しみを長くいつまでももちつづけてその一生を生きながらえてゆくのだ、この実在の世界に到達するためには、そして紙の的を突きやぶるように私の苦痛を突きぬけてその世界にはいりなおすためには、そしてまた小説を読みおわったあと架空のヒロインの行動に無関心になってしまうのとおなじようにもうアルベルチーヌがやったことにこれ以上気をもまないためには、おそらく私の意志のほんのわずかなはずみがあれば十分であろうと。〉第7巻482p

▼ダラダラと続いてきたこの物語だが、第四章に入ってから急速に悲哀の調子を帯びて、おそろしい展開へとなだれ込んでいくようだ。

▼ともあれ、これで第7巻を読了した。第8巻は、「第五編 囚われの女」である。いよいよ、佳境に入るようである。

 



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★「失われた時を求めて」を読む★ 第6巻・引用とコメント

2015-04-10 11:52:10 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第6巻・引用とコメント

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。



★「失われた時を求めて」を読む★3/19 今日は、第6巻31pまで。

▼第4編「ソドムとゴモラ 1」が始まる。「ソドムとゴモラ」というだけあって、いきなり、同性愛の話である。


★「失われた時を求めて」を読む★3/23 昨日は2ページしか読めなかったが、今日は、98ページまで。

▼人の名前がとっさに出てこない、ということについて考察している。突然、「読者よ」というような呼びかけが出てきて、ドキッとした。なんか、プルーストに直接語りかけられたような気がした。ちょっと長いが、気に入ったので、引用しておく。

〈「そういうことをいくらいわれてもと、読者はおっしゃるだろう、「その婦人の不親切をすこしもわれわれに納得させてくれはしない。それにしても、作者よ、あなたはこんなに長いあいだ立ちどまって道草を食ったのだから、ついでにもう一分だけあなたに時間をつぶさせてこういわせてほしい、──そのころのあなたのような若さで(もし主人公があなたでないとしたら、あなたの主人公のような若さで)すでに記憶が衰え、よく知っていた婦人の名前が思いだせないとはこまったことだね、と。」いかにも、読者よ、それはたいへんこまったことだ。そればかりか、あなたがお思いになる以上に悲しむべきことだ、とにかく、名前や単語が、思考のあかるい地帯から消えうせる、そしてもっともよく知っていた人々の名前さえ今後はそれを口に出していうことを永久に断念しなくてはならない、そういう時の到来のまえぶれがそこに感じられるとすれば。いかにも、それはこまったことだ、自分がよく知っている名前を見出すのに、若いときからそんなに苦労をしなくてはならないとすれば。しかしもしそのような欠陥が、知っているのか知っていないのかわからない程度の名前、きわめて自然に忘れられるような名前、しかも思いだすだけの労をとりたくないような名前にかぎって生じるならば、その欠陥も利益がなくはないだろう。「どんな利益かね?」それは、あなた、こういうこと、つまり病気だけが、平素何事もなければ人の気づかない種々の機構を、目立たせ、習得させ、また分解することを可能にするということ。毎晩、ベッドのなかへまるで大きな石が落ちるようにどっかりと倒れ、目がさめて起きるときまで死んだように寝る男、そんな男は、睡眠について、大きな発見はおろか、せめて小さな考察だけでも、やろうと思うことがあるだろうか? 彼は自分が眠るのかどうかもよくは知らない。多少の不眠は、睡眠を評価し、その暗黒のなかにいくらかの光を投入するために、無益ではない。欠陥のない記憶は、記憶の諸現象の研究をうながす非常に有力な刺戟とはならない。「やっとアルパジョン夫人があなたを大公に紹介してくれたのか?」そうではなかった、だが、まあうるさくいわずに、私の話をつづけさせていただきたい。〉第6巻91p



★「失われた時を求めて」を読む★3/24 今日は、第6巻117pまで。

〈貴族の好意というのは、その好意が向けられる相手の劣等感に芳香をそそぐのをよろこぶことなのであって、その劣等感をとりのぞくにはいたらないのである、なぜなら、劣等感をとりのぞいてしまえば、彼らの好意はもはや存在理由を失うであろうから。〉第6巻109p

▼結局、自分が大事、という「貴族」の本質。でも、貴族でなくても、これは同じかもしれぬ。



★「失われた時を求めて」を読む★3/27 今日は、第6巻196pまで。

〈……ただ私が言いたいのは、私は非常に人生を愛した、また私は非常に芸術を愛したということです。さて! いまこうして他人といっしょに生きるにはすこし疲れすぎてしまうと、かつて私が抱いた私だけの個人的な感情が、私にとってこれはすべてのコレクターのかたよったくせかもしれないが、非常に貴重なものに見えるのです。私は私の心を一種のかざり棚のように私自身にひらいて見せます、私は他人が知らなかったと思われるあの多くの愛を、一つ一つながめます。そしていま私が他のコレクションよりももっと強くひきつけられているこのコレクションについて、いわばその書物にたいするマザランのように、もっとも私のほうはなんの心配もなくですが、こういうのです、──そんなすべてとわかれるのはいやだなあ。〉第6巻178p

▼病気で衰弱したスワンの述懐。

▼「マザラン」は、イタリア出身のフランス十七世紀の宰相(1602~1661)。死後多数の書物、美術品を残し、その邸宅が王立図書館(現在のマザリl ヌ図書館)になったのだそうです。註を見るまでは「マゼラン」のことかと思っていた。

▼「コレクター」か。なんだか、とても分かる気がする。そして「そんなすべてとわかれるのはいやだなあ。」というのも共感してやまない。



★「失われた時を求めて」を読む★3/29 今日は、第6巻237pまで。

〈われわれがじっと待っているとき、物音を受けとる耳から、その物音を検討し分析する頭脳まで、また頭脳からその結果を伝達する心情まで、といった二重の行程は、きわめて迅速なので、われわれはその時間を知覚することさえできず、じかにわれわれの心情できいているように思われるのである。〉第6巻225p

▼恋人を待つ時間についての記述。「時間を知覚する」とは、いったいどういうことなのだろうか。



★「失われた時を求めて」を読む★3/30 今日は、第6巻258pまで。「ソドムとゴモラ 1」が終了。

▼例の、両側クリップをつかって、コタツに寝っ転がってiPadで読むということを続けているのだが、読み始めて2ページ目ぐらいになるとたいてい寝てしまう。「読んでいる」と「寝ている」の境目があいまいで、読んでいるつもりで寝てしまっていると、話がぜんぜん関係ない方向へ進んでいて、目がさめて、あわてて軌道修正をするという、不思議な読書となっている。まるで、電車がポイントを間違えて別方向へ行ってしまうような、夢の中で別の文章が立ち現れるような、いかにも、プルースト的な読書である。今日も、およそ20ページ読むのに1時間もかかっている。



★「失われた時を求めて」を読む★3/31 今日は、第6巻280pまで。

▼「ソドムとゴモラ 2 第1章 心の間歇」が始まる。

▼夢の中で、死んだ祖母を探し求める描写は、どこか宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や「青森挽歌」を思わせる。

▼〈この物語には皮肉な観察が充満しており、すべての登場人物がつまらない見栄や醜い打算から出た言動を暴き出されているが、そうした辛辣な考察をいっさい免れているのは、祖母と母の二人だけである。そのことの意味は、最終第十三巻で明らかにされるだろう。〉「失われた時を求めて 7」鈴木道彦訳・集英社文庫版・「はじめに」より〉



★「失われた時を求めて」を読む★4/1 今日は、第6巻301pまで。

〈死は空しいものではない、死者はわれわれの上に活動しつづける、ということができる。いや死者は生者よりももっと活動している。なぜなら、真の実在は、精神によってのみひきだされ、それが精神活動の目的そのものであり、真に知ったといえるのは、われわれが思考によって再創造しなくてはならなかったものだけだからである。そういうものは日々の生活によってわれわれにかくされているものなのだ……〉第6巻289p

▼「読書」は「死者との対話」だと、誰かが言っていたが、それを日々実感している。



★「失われた時を求めて」を読む★4/2 今日は、第6巻309pまで。

〈私は、かつて私たちが祖母といっしょに散歩に出たときにヴィルパジリ夫人の馬車で通ったあの街道のほうへ、たったひとりで散歩に出かけた。照る日ざしにまだ乾いていないあちこちの水たまりは、あたりをまるで沼地のように見せていて、泥にまみれなくてはふた足と歩けなかったかつての祖母のことを私は思うのだった。しかし、その道に出ると、ぱっと目を射るばかりのまぶしさだった。八月に祖母とながめたときは、りんごの葉と畑らしいものしか見えなかった場所に、いまは見わたすかぎり、一面にりんごの花ざかり、しかもそれらの木々は稀有の絢爛を誇って、まだ見たこともないすばらしいばら色のサテンを日にかがやかせながら、裾をよごすまいと気をつけるふうもなく、泥のなかに、ダンス・パーティーの盛装で立っていた。海のはるかな水平線は、りんごの木々の向こうに、まるで日本の版画の背景のような効果をあたえていた。私が頭をあげて、花間にうららかな、強すぎるほどの群青をのぞかせている空をながめようとすると、花々はあいだをあけて、この楽園の深さを見せてくれるように思われるのだった。〉第6巻308p

▼この後も美しい描写がつづき、「心情の間歇」はふいに終わる。

▼ここにも「日本の版画」が出てくる。プルーストは、よほど日本の美術に関心があったのだろう。



★「失われた時を求めて」を読む★4/4 今日は、第6巻355pまで。

▼段落が終わるところまで読もうと思うんだけど、ぜんぜん段落が終わらないので、途中でおわり。一文ごとに段落変えるような現代小説とは大違い。


★「失われた時を求めて」を読む★4/5 今日は、第6巻363pまで。

▼今日は、孫が遊びに来ていたので、ちょっとだけ。


★「失われた時を求めて」を読む★4/6 今日は、第6巻370pまで。

▼また途中で寝てしまった。



★「失われた時を求めて」を読む★4/7 今日は、第6巻390pまで。

〈人間の器官は、それの必要度が増すか、減じるかにしたがって、萎縮するか、強力に、敏感になるかする。鉄道というものができてから、汽車に乗りおくれまいとする必要が、われわれに分を勘定に入れることを教えるようになった。それにひきかえ、古代ローマ人にあっては、彼らの天文学ははるかに大ざっぱであったのみならず、生活自体もまたはるかにのんびりしていたから、分の観念どころか定時の観念すらほとんど存在しなかった。〉第6巻384p


〈……だから、上品な社交界で、小説家や詩人に出会うことはめったにないのであって、すべて小説家とか詩人とかいった最高の存在者たちは、口にしてはならないことをずばりといってのける人たちなのだ。〉第6巻390p

 


★「失われた時を求めて」を読む★4/8 今日は、第6巻421pまで。

〈嫉妬は、病的な疑惑の系統に属するものなので、それを一掃してくれるのは断言のほんとうらしさよりも、むしろ断言の力強さである。それにまた、われわれをうたがい深くすると同時に信じやすくするのが恋の特性であって、われわれは愛するひとをむしろ他の女よりも早くうたがい、愛するひとが否認することにむしろたやすく信を置くのである。貞淑な女たちだけがいるのではない、ということが気にかかる、それに気づくといってもいいが、そうなってくるには、恋をしてみなくてはならないし、貞淑な女たちがいることをねがう、言いかえれば、いると確信するにも、恋してみなくてはならない。〉第6巻399p

▼プルーストは実にいろいろなことを教えてくれる。いずれにしても「経験」が大事ということか。そういう意味では、文学を理解するには、ぼくは、あまりにも「経験」が不足している。ナゲカワシイことである。



★「失われた時を求めて」を読む★4/9 今日は、第6巻436pまで。

〈すらりとして色の青白い一人の若い美女を私は浜辺で見かけたのであったが、彼女の目は、その中心のまわりに、非常に幾何学的にきらめく光線を放射しているので、彼女のまなざしをまともに受ける人は、星座を見ているような気がするのだ。私は彼女がアルベルチーヌよりも数等美しい、アルベルチーヌをあきらめたほうがどんなに賢明であるかしれない、という考にさそわれるのだった。といってもこの若い美女の顔は、ひどく下品な人生、応接にいとまのない卑俗な方便、といったものの見えない鉋にかけられていたのであって、顔の残りの部分にくらべるとそれでも上品に見えるその目さえ、貪婪(たんらん)と欲望とにしかかがやいていなかったのであった。〉第6巻430p

▼プルーストは日本のアニメを先取りしているみたいだ。

▼さて、これで第6巻も読了と相成った。

 




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★「失われた時を求めて」を読む★ 第5巻・引用とコメント

2015-04-10 11:23:19 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第5巻・引用とコメント

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。




★「失われた時を求めて」を読む★2/25 今日は、第5巻14pまで。

▼「ゲルマントのほう 2」のはじまり。祖母の病気と死が語られる。この小説のひとつの「よみどころ」だという。

▼祖母が発作を起こしたとき、シャンゼリゼで出会った医師のE…教授が、「エレベーターのボタンを押したがるマニア」だという記述があって思わず笑った。まるで、バスの降車ボタンを押したがる3歳児ではないか。「エレベーター」が珍しかったころは、大人もまた3歳児のような「マニア」であったのだ。



★「失われた時を求めて」を読む★2/26 今日は、第5巻34Pまで。

〈…そして、内心こんなことを自分に反問するにいたった、ホメロス時代から大して進んでいるわけでもない芸術と、たえまない進歩の状態にある科学とのあいだに、われわれがつねに設けるあの区別には、なんらかの真実があるのだろうかと。もしかすると、芸術は、その点では普通に考えられているのとは反対に、科学に似ているのかもしれなかった、独創的な新しい作家はいずれもおのれに先だった作家を乗り越えて進歩をとげるのだ、と私には思われてくるのだった。〉第5巻32P

▼「私」は、最近の作家の書くものが、何だかよく分からないと言いながら、いや、そうではない、芸術も進歩するのだと考えるわけである。当時は、芸術は「ホメロス時代から大して進んでいるわけではない」と普通には思われていたという記述が、なんだか面白い。今も「普通に思われている」からだろうか。


★「失われた時を求めて」を読む★2/27 今日は、第5巻62pまで。

▼「ゲルマントのほう 2 第1章」が終わった。祖母の死の場面は、まるで、音楽である。すばらしい。



★「失われた時を求めて」を読む★2/28 今日は、第5巻81pまで。

〈時間が雑談でまぎれると、人はもう時間をかぞえなくてすむし、時間を見ることさえなく、時間は消えてゆく、そして突然、われわれの注意のまえに時のすばやい手品師がふたたびあらわれるのは、時がわれわれの目をのがれさってからうんと遠いところにきた時点においてなのだ。しかしわれわれがひとりでいると、頭を占めている気がかりが、時計のひんぱんで一本調子なチク=タクの音を伴い、まだかなたにあってたえず待たれる瞬間を前方へ前方へと連れさりながら、友達にまじっていたらわれわれがかぞえもしなかったであろう時間を、一分ごとに分割させる、というよりは増加させるのである。〉第5巻71p

▼時間に関するこういう経験は、おなじみのものだ。「時間をかぞえる」「分割する」、これらが時間を長く感じさせる。とはいえ、今のぼくにとっては、どう過ごそうと、時間はただ「矢のように」過ぎ去るばかりだが。



★「失われた時を求めて」を読む★3/2 今日は、第5巻130pまで。

〈私はほとんどどの家屋にも不幸な人たちが住んでいることを知って、胸を痛めさせられるのだった。こちらでは妻がその夫にあざむかれることでたえず泣いていた。あちらでは立場がその逆であった。またべつのところでは、はたらき者の母親が酔っぱらいの息子にひどくぶんなぐられながら、その苦しみを隣近所の人たちの目にかくそうとつとめていた。およそ人類の半数というものは泣いていた。そして私がそういう人たちを知ったときに見てとったことは、不貞の夫または妻にも(彼らがそうなったのは当然要求されるべき正当な幸福が拒まれたからでしかなく、彼らは自分の妻または夫以外の人なら誰にでも愛嬌よく誠実にふるまっていたのであって)もっともな点があるのではないかと私が考えたほど、もはやがまんがならないひどい状態に彼らがいたということだった。〉第5巻111P

▼「およそ人類の半数というものは泣いていた。」とは、言い得て妙である。やっぱり、人類というものは、古今東西、ちっとも変わってないんだなあ。

 


★「失われた時を求めて」を読む★3/3 今日は、第5巻149pまで。

▼今日別れたiPadでの最後の読書。それはそれとして。

〈私はステルマリア夫人がどんなことを書いてきたかをつかむのに一瞬とまどった、その内容は、彼女がぺンを手にしていたあいだはそれを変えることも可能であったろうが、いまは彼女からひきはなされていて、きめられた道をひとりでたどる運命にあり、彼女としてはもうそれをいっさい変更することができないのだ。〉第5巻145p

▼ステルマリア夫人は、「私」とのデートを断る手紙を書いてきたのだが、その手紙を「私」が使者から手渡された時の感想が、この文章である。「手紙」と「メール」との違いは、単に、「時間」の極端なまでの差異だけではないような気がする。「いまは彼女からひきはなされていて、きめられた道をひとりでたどる運命にあり」というところが、「メール」では実感を伴わない。「運命」も短縮されたものである。



★「失われた時を求めて」を読む★3/6 今日は、第5巻215pまで。

〈ひとたびエルスチールの諸作品に面と向かうと、もうそれだけで、私はすっかり晩餐の時刻を忘れてしまった。ふたたび私はバルベックでのように、自分のまえに、あの未知の色彩の世界の諸断片をもつのだった。そうした世界は、この偉大な画家独特のものの見方の投影にほかならず、彼の言葉では全然言いあらわしえないものであった。全部がたがいにその質をおなじくする彼の数々の絵画で被われた壁の各部分は、一つの幻灯からつぎつぎに出てくる光の諸映像のようで、幻灯は、この場合、画家の頭脳とでもいうべく、ただ人間を知ったというだけでしかないかぎり、また言いかえれば、着色の原板がまだはめこまれない以前の、ランプにかぶさっている幻灯器を見ただけでしかないかぎり、幻灯のふしぎさを推測することはできなかったであろう。〉第5巻192p

▼「幻灯」の比喩が魅力的。こう考えると、「作品」もまた違った見え方をしてくるかもしれない。

〈彼の描くそうした「いやなもの」を受けつけない人たちは、自分たち社交人が愛しているシャルダン、ペロノー、その他多くの画家たちを、エルスチールが讃美していることに奇異の念を抱くのであった。彼らには了解できなかったのだ、エルスチールが現実をまえにして(ある種の探求にたいする彼独特の好みをあらわしつつも)シャルダンやペロノーとおなじ努力をやりなおしているということを、したがって、彼が自分だけのために仕事をすることをやめているときは、それらの画家たちにおける、自分とおなじ種類のくわだて、自分の作品を先どりしたような幾種類もの断片、そうしたものを讃美する、ということを。しかも社交界の人たちは、彼らにシャルダンの絵を好ましくしているもの、すくなくとも抵抗なしにながめさせるもの、すなわちあの時のパースペクティヴというものを、エルスチールの作品の場合には考慮に入れないのであった。しかしながら、最長老となって生きている人のなかには、生涯をふりかえって、アングルの傑作だと判断した一つの作品と、いつまで経ってもいやなものとして残るであろうと思われた作品(たとえばマネの『オランピア』)とのあいだの越えがたい距離が、歳月の遠ざかるにしたがってだんだん縮小し、二つの画面がそっくりおなじように見えたことがあった、とつぶやく人もあったであろう。しかし世人はどんな教訓もとりいれない、それはみんなが一般的な考察にまでおりてゆくことをやらないからであり、また過去に前例のない経験に直面しているといつも思いこんでいるからである。〉第5巻193p

▼こうした記述は、美術についてのそれなりの知識を要求される。「エルスチール」は架空の画家だが、「シャルダン」や「ペロノ−」は、そして「アングル」も「マネ」ももちろん実在の画家。貴族のサロンに招かれて、その屋敷に飾られている「エルスチール」の作品に「私」が晩餐会のことも忘れて見入ってしまう場面だが、ここは一種の美術評論となっている。

▼だから、「失われた時を求めて」を「本当に」読むなら、「註」も全部読まなくてはならない。そういう時にiPadでは非常に不便なので、ときどき、集英社文庫版や岩波文庫版の註を見ている。が、見ないですっ飛ばしていることも多い。

▼さしあたっての今回の読書の目標は、「全巻の通読」だから、いわば「下見」のようなものである。

 

★「失われた時を求めて」を読む★3/7 今日は、第5巻237pまで。

〈そうだからといって、ゲルマント氏が、あるいくつかの面で、ひどくありきたりでなかったわけではなく、またあまりにも裕福な人間のもつこっけいさ、なりあがりでもないのになりあがりそっくりのうぬぼれを、彼がもっていなかったわけではない。しかし、官吏や司祭が、彼らをささえている力、フランスの官庁やカトリック教会のカによって、彼らの凡庸な才能が無限に増幅されるのを見るように(あたかも波がその背後を圧する海の全体によってそうなっているように)、ゲルマント氏もまた、べつの力であるもっとも正しい貴族的礼儀にささえられていた。〉第5巻220p

▼こういうことってよくあるなあ。「地位が人を作る」とよく言われるが、それは「地位」がその人の本質を変えるのではなくて、こういう事情によるのかもしれない。いや、実に納得である。


★「失われた時を求めて」を読む★3/9 今日は、第5巻299pまで。

〈ノルウェーのフィヨルドを見物に行くために、レストランでの百の晩餐会や昼餐会、その倍にもあたる「お茶」の会、その三倍にもあたる夜会、この上もなくきらびやかなオペラ座の月曜日やテアートル=フランセの火曜日などの特別興行を、いさぎよくすてさってもいいという考えかたは、クールヴォワジエ家の人々には『海底二万海里』とおなじほど不可解なものに思われたが、同時にまたこの小説のような解放感と魔法の力とを彼らにつたえたのであった。〉第5巻292p

▼ヴェルヌの『海底二万海里』がここに出てくるとは思わなかった。『海底二万海里』が「解放感」を与える小説だという言及も興味深い。



★「失われた時を求めて」を読む★3/11 今日は、第5巻352pまで。

▼フランス語の「ダジャレ」は、さすがに、訳が分からん。でも、フランス語にも「ダジャレ」があるんだなあ。

▼集英社版の第1巻「まえがき」で、訳者の鈴木道彦は次のように言っている。
「本巻の読者は、これから長い旅ににも似た物語のなかにはいってゆかれるわけだが、訳者としては、何はともあれ最終巻までつきあってくださることを希望している。とくに第三、四篇(この翻訳の第五~八巻)には、ときおりやや冗長な描写も出てくるだろうと思われるが、そのような部分は多少とばし読みをしてもかまわないし、……(中略)……こうして第五篇(翻訳の第九巻)までゆけばしめたもので、あとは筋も引きしまり、運びも早くなって、そのまま大団円に到達するはずだし、そこから振り返れば、冗長に思われた第三、四篇の意味も見えてくるはずである。」

▼つまり、ぼくが今読んでいるあたりは、かなり「冗長な描写」が多いということだ。ここであきらめてはダメよと、鈴木道彦先生はおっしゃるわけで、その言葉を信じて、めげずに読もうと思う。


★「失われた時を求めて」を読む★3/12 今日は、第5巻382pまで。

〈この人は、想像力に欠けているくせに、ほしがる気持は人一倍強い人間のすべてがそうであるように、こちらの飲んでいるものに目を見張り、自分にもすこし飲ませてもらえないかとたのむ種類の男なのである。それで、毎回アグリジャント氏は、私にあてがわれる分量に食いこみ、私のたのしみをそぐのであった。というのも、そんなフルーツ・ジュースは、のどの渇きを癒すに十分なほどたっぷり出されるわけではけっしてないからである。果物の色のこのような味覚化にも増して人をあきさせぬものはないのであって、果物はこれを煮つめることによって花の季節に逆もどりするように思われる。ジュースは、春の果樹園のように深紅色であったり、果樹の下を吹く春風のようにきわやかな無色であったりして、一滴ずつそのかおりを吸ったりながめたりできるのに、アグリジャン卜氏は、それをじっくり味わう私をかならずさまたげるのであった。〉第5巻358p

▼フルーツ・ジュースは、当時は珍しい飲み物だったのだろうか。今のように「飲み放題」の時代では、こんなにも「夢のような飲み物」として描くことなんて到底できない。

▼こういう男っているとは思うけど、小学生どまりかなあ。そういえば、小学校の給食に、時々でてきたデザート──レーズンと、リンゴやミカンの小さく切ったものを甘いミルクであえたようなもの──が、まさに「のどの渇きを癒すに十分なほどたっぷり出されるわけではけっしてない」ものだったことを思い出す。「のどの渇き」というより「味覚の渇き」だったけど、ああ、これ、どんぶり一杯食べたいと思ったものだ。ミルクの嫌いな女の子が、「これあげる」なんて言ってこようものなら、天にも昇る気持ちだった。

〈「なんですって! あなたはオランダ旅行をなさったのに、ハールレムにいらっしゃらなかったの?」と公爵夫人は大きな声でいった。「まあ、十五分しか余裕がおありでなかったとしても、ぜひごらんにならなくてはいけなかった、とびっきりのものですのに、ハルスの作品は。私こう申しあげたいくらい、ハルスの作品がもしそとに展示されているとしたら、それを電車の屋上席から立ちどまらずに見ることしかできない人でも、かっと大きく目を見ひらかなくてはいけないって。」
 この言葉は私の勘にさわった。芸術の印象がどんなふうにわれわれのなかで形づくられるかを認識していない言葉のようだからであり、またこの場合、われわれの目はスナップをとる単なる記録装置だという考をふくんでいるように思われたからである。〉第5巻378p

▼ハルスというのは、オランダの画家フランス・ハルスのこと。「とにかく一瞬でも見ればいいのだ。」といった「芸術鑑賞」の態度は、今でも多く見られるところ。われわれの目はカメラではないのだ。肝に銘じたい。



★「失われた時を求めて」を読む★3/13 今日は、第5巻402pまで。

〈しかし、私にとっては、ゲルマント氏やボーセルフイユ氏にとっての「家柄」のようなものは、そんなにたいせつではなかった、その件で二人が交していた会話のなかに、私は詩的なたのしみしか求めようとはしなかった。彼らのほうでは、そんなたのしみを知ることなしに、それを私にもたらしてくれるのであった、あたかも農夫や水夫が、耕作や潮流のことを話しているときのようなもので、彼らがそこに美を味わうことができるにはあまりにも生活に密着した現実であるそうした耕作や潮流から、私は自分に即して美をひきだす役目をひきうけるのであった。〉第5巻400p

▼「あまりにも生活に密着している」と美を味わうことができない、ということだろう。「家柄」をめぐる貴族たちの俗な会話からでも「詩的なたのしみ」を引き出すことができる。つまり「会話」の意味から離れて、「言葉」あるいは「表現」そのものに面白みあるいは美を見出すということなのかもしれない。

▼「書」も、書かれている言葉・文字の「意味」から離れると、そこに「美」がある、ともいえるわけだ。


★「失われた時を求めて」を読む★3/14 今日は、第5巻428pまで。

〈拡大鏡にかけて見ると、私に愚劣だと思われたゲルマント夫人の判断のいくつかも(たとえば電車からでも見る必要があるくらいだというフランス・ハルスの絵についての判断なども)、異常なほどの生気と深さとをもってくるのだった。それにまたこの高揚は、すぐに低下したとはいえ、全然無分別なものであったわけではないことをいっておく必要がある。われわれが軽蔑しきっていた人間も、われわれの好きな少女と縁つづきであり、その少女に紹介してもらえる人間であるということであれば、永久にだめだと思ってしまうことにもなりかねなかったありがたさや好感もそこでわいてくるから、その人間を知っていてよかったと思うことのできる日がいつかくるのと同様に、後日かならず何かをひきだせると思えないような話合や交際は一つもないのである。電車から見ても興味をひくに足る絵だとゲルマント夫人が私にいったそういう考はまちがっていたが、それでも真実の一部をふくんでいたのであって、それがあとになって私に貴重なものになったのであった。〉第5巻423p

▼そういうものなのかもしれない。芸術の見方ひとつとっても、人間の成熟にしたがって、その考えは変わるのだろう。「あとになって私に貴重なものになった」とあるが、それが語られるのはいつだろう。こういう書き方が、「失われた時を求めて」には多い。



★「失われた時を求めて」を読む★3/15 今日は、第5巻451pまで。

〈話したいという欲求は、単にきくことだけをさまたげのではなく、見ることもさまたげる、そしてそんな場合に、外的環境の描写が欠けているのは、すでにそれが内面状態の描写となっている証拠である。〉第5巻429p

▼こういう人って知ってる。ま、ぼくもそうだけど。カラオケでも、「歌いたいという欲求」は、他の人の歌を「きくことをさまたげる」。


★「失われた時を求めて」を読む★3/17 今日は、第5巻486pまで。

〈それにまた、この町にあっては、おなじ一つの中庭に面して窓が向かいあっているその家屋と家屋のきわめて近いことが、一つ一つのガラス窓をいつもしめさせていて、その窓枠を額ぶちのように見せ、その内部では、一人の料理女がゆかをながめながらぼんやりしていたり、またはもっと奥に一人の少女が、陰のなかでほとんどはっきり見わけられない魔女のような顔の老婆に髪を梳かしてもらったりしている、そのようにして、一つ一つの中庭が、隣りあう家屋に住む人にとっては、間隔が物音を消すとともに、しめきった窓の長方形のガラス・ケースのなかに入れられた人物の無言の身ぶりを透かして見せながら、ならべてかけた百のオランダ派絵画の展覧会場と化するのである。〉第5巻464p

▼「この町」は「ヴェネチア」のこと。

 


★「失われた時を求めて」を読む★3/18 今日は、第5巻436pまで。

▼第5巻読了。「ゲルマントの方 2」が終了。明日から、第6巻「ソドムとゴモラ1」が始まる。とうとう、半分読んだことになる。

 



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★「失われた時を求めて」を読む★ 第4巻・引用とコメント

2015-04-10 10:44:09 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第4巻・引用とコメント

 

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。


 

★「失われた時を求めて」を読む★1/31 今日は、第4巻29pまで。

▼「ゲルマントのほう」が始まった。土地の名前が呼び起こすイメージについて語られる。それを読んでいると、「平成の大合併」とかで多くの由緒ある土地の名前が廃止されて「新しい」名前にとって変わられたことの罪深さが実感される。「変わらない」ことの大事さというものもあるのだ。


★「失われた時を求めて」を読む★2/2 今日は、第4巻64pまで。

〈われわれはある人の肉体のなかに、その人の生活のあらゆる可能性、その人の知人についてのわれわれの記憶、またその人がいまわかれてきたりこれから会いに行ったりする人たちについてのわれわれの記憶を位置づけるのだから、たとえば私が、フランソワーズから、ゲルマント夫人が歩いてパルム大公夫人のところに昼餐に行くはずだときいていて、正午ごろゲルマント夫人がカーネーション色のサテンのドレスを着て彼女の家から出てくるとき、襟からぬけでているその顔が夕焼雲のようにドレスとおなじ色あいなのを私が見るとすれば、私が目のまえにしているものは、フォープール・サン=ジェルマンの快楽のすべてなのであって、それはある種の貝で、ばら色の真珠母のつやをもった二枚の貝殻のあいだにくっついているあの小量のかたまりのようなものなのであった。〉第4巻53p

▼人間の「肉体」のこうした捉え方に驚かされる。この後には、オペラ座の中の貴族たちの様子が描かれるのだが、それはリアリズムの対極にある華麗な表現によって埋め尽くされている。



★「失われた時を求めて」を読む★2/3 今日は、第4巻78pまで。

▼演劇・演技などについての論がある。ラシーヌの「フェードル」がよく出てくる。



★「失われた時を求めて」を読む★2/4 今日は、第4巻91pまで。

〈……しかしラ・ベルマは、ここでもまた『フェードル』でとおなじように至芸に達していた。そこで私が理解したことは、作家の作品はこの悲劇女優にとって一つの材料にすぎず、彼女の傑出した解釈による演技の創造にとって、作品それ自体はほとんど重要性をもたないのであって、その点、私がバルベックで知りあいになった偉大な画家エルスチールが、特色のない学校の建物と、それ自身傑作である大聖堂とのなかに、いずれも優劣のない二つの絵のモチーフを見出したのと同様だということであった。〉第4巻79p

▼ラ・ベルマは女優、エルスチールは画家。「創造」にとって、「素材」は必ずしも重要ではないということか。


〈そのとき、青い両眼の無感動な流のなかに、個人的存在を失って原生動物の漠然たる形となった私という人間が、たぶん屈折の法則によって描きだされたのであろう、一瞬ぱっとあかるい光が公爵夫人のその両眼を照らしだすのを私は見た、女神から女になり、突如として千倍も美しくなったように見える公爵夫人が、ボックスの手摺にのせていた白い手袋をはめた片手をさっと私に向かってあげ、それをなじみのしるしに振ったのだ、そしてその瞬間私の視線は、大公夫人の目からほとばしりでる無意識の白熱と炎とに交錯するのを感じとったが、大公夫人は、その従妹がいま誰に挨拶を送ったかを見ようとして自分の目をちらと動かしただけで、思わずその目を発火点に達せしめたのであって、その一方公爵夫人は、私が誰であるかを認めると、そのほほえみの、きらめく天上の驟雨を、私の上にふらせた。〉第4巻91p

▼劇場で、あこがれの侯爵夫人(大公夫人の従妹)が「私」を「見た」だけのシーン。「視線」をこんなふうに描いた作家がかつていただろうか。そして、今も……。


★「失われた時を求めて」を読む★2/7 今日は、第4巻150pまで。

▼「睡眠」について論じられている。一晩寝た後で、どうして昨日の同じ自分であると判断できるのだろう、という疑問が述べられている。昔、養老孟司もそんなことを書いていたことがあるのを思い出した。

 


★「失われた時を求めて」を読む★2/8 今日は、第4巻170pまで。

〈広場では、夕暮が、城の火薬庫のようにならんだ屋根に、その煉瓦の色によく調和したばら色の小さな雲をのせ、その煉瓦と雲との接ぎ目をタ映でうまくやわらげていた。私の神経には何か大きな生命力が流れこんできて、いくら運動をやってもそれを使いはたすことができないほどであった、私のふむ一歩一歩が、広場の敷石にふれたかと思うと躍りあがり、かかとにメルクリウスのつばさが生えたかのようであった。噴水の一つには赤い色がみなぎっているのに、もう一つの噴水では、その水がすでに月光でオパールの色になっていた。〉第4巻153p

▼なんて美しい描写。こんな描写を引用していたら、きりがない。この「私」が病身であるだけに、こうした「健康的」な感覚が奇跡的なものとして描かれるわけで、しみじみとしてしまう。


★「失われた時を求めて」を読む★2/10 昨日と今日は、第4巻221pまで。

〈私がゲルマント夫人への思いをはせていたのは大空のなかにだけではなかった。すこしあたたかい一陣の風が吹きすぎると、それは彼女からもたらされた何かの伝言のように思われるのであった、かつてメゼグリーズのむぎ畑でジルベルトからのように思われた伝言のように。人間はそう変わるものではい、われわれはある人によせる感情のなかに多くの要素を入れる、それらの要素は眠っていたのをその人によって呼びさまされるわけだが、その人にとってはかかわり知らぬことである。そして、それらの特殊な感情を、われわれの内部にある何物かが、つねに、真実以上のものにみちびこうとつとめる、つまり人間全体に共通な感情、より普遍的な感情に合一させようとつとめるのであって、個々の人間や、個々の人間がわれわれにひきおこす苦痛は、単にこの共通普遍的な感情とのコミュニケーションの機会にすぎないのであり、私の苦痛になんらかの快感がまじっていたとすれば、それは、私がその苦痛を普遍的な愛の一部分であると知っていたからなのである。〉第4巻197p

▼「普遍的な感情」「普遍的な愛」というものがあって、個々の人間との間の感情はそれらとの「コミュニケーションの機会」にすぎないという発想はおもしろい。


〈唐突な変化をもたらすこのすばらしい魔法、それは、しばらく辛抱して待っていれば、われわれのそばに、こちらが話したいと思っていた相手の人を、目に見えないがそこにいるのとおなじように出現させるのであり、その相手の人は、まだその食卓を離れず、住んでいる町(私の祖母ならばパリであったが)のなかで、こちらとは異なる空の、これまたかならずしもおなじではない天候のもとで、話をきくまではこちらの知らない状態にいて、こちらの知らない何事かに没頭しているわけであるが、その人を、われわれの気まぐれが命じた一定の時刻に、われわれの耳もとまで、数百里をへだてて(その人も、その人が投げこまれている環境も、ともどもに)、突然はこんでくるのである。そしてわれわれはまったくおとぎ話の人物そっくりになり、魔法使の女が、このわれわれの訴えるねがいにもとづいて、本をめくっている、涙を流している、花を摘んでいるわれわれの祖母とか婚約者とかの姿を、超自然な光のなかに出現させてくれるのだが、その祖母なり婚約者なりは、それをながめるこちらのすぐそばにいながら、それでいて非常に遠く、彼女が現実にいるその場所を離れてはいないのである。〉第4巻219p

▼これは「電話」のことを言っているのだ。最後に出てくる「魔法使いの女」とは「電話交換手」のこと。プルーストがインターネットを知ったら、いったいどんなふうに描くだろうか。しかし、「電話」も、こうした目でもういちど見直してみると、やはり不思議な「魔法」に思えてくる。

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/11 今日は、第4巻241pまで。

〈その声はやさしかった、しかしまた、なんと悲しげであったことか! 悲しげであったのは、第一に、ほかならぬそのやさしさのためであった、そのやさしさは、あらゆる苛酷なもの、他人にさからうあらゆる要素、あらゆるエゴイスムを濾しさった、ほとんど人間の声がそれ以上に達したことはなかったほどの、にごりのないものであった! あまりの繊細さのゆえに、もろくて、いまにも涙の清らかな波のなかにこわれて消えてしまいそうに思われる声であった。その声が悲しげであったのは、第二に、顔面を見ることなしにただそれだけをすぐそばにきき、はじめて私が、その声にこめられている悲しみに、そして長い生涯のあいだに悲しみがその声にはいらせてしまったひびに、気がついたからなのであった。〉第4巻223p

▼「電話」で愛する祖母の声を聞いたとき、「わたし」は、それまで知らなかった祖母の「悲しみ」に気づいたという。「声だけ」聞こえる「電話」が、新しい「発見」を生む。そんなことは、今でも、あるのかもしれない。ただ、ぼくらは「電話」をあまりに当たり前のものとして使っているので、その「発見」に気づかないだけなのだろう。


★「失われた時を求めて」を読む★2/13 今日は、第4巻286pまで。

▼サン・ルーという「わたし」の友人の愛人をめぐって。恋というものの不思議さが描かれる。


〈プルーストを読むタイミングというものがあり、それはくり返し人生のさまざまな機会を通じて、恩寵のようにおとずれる。芸術論、恋愛論、社交界の人間模様、特権的瞬間の記述と、本を手にするたびに引き込まれる箇所が違う。読み返すにつれて謎が深くなる。ページを繰る手から結末が逃げてゆく。こんな本はプルースト以外にはない。書き終えることができなかったように、読み終えることのできない書物。それは文字通り、一生かけて読まれる書物なのだ。〉鈴木和成(集英社版「失われた時を求めて5」エッセイより)

▼そういう意味では、遅すぎたとはいえ、今回の読書は、「恩寵のようにおとずれたタイミング」だったのかもしれない。


★「失われた時を求めて」を読む★2/16 今日は、第4巻362pまで。

▼貴族たちの交友の姿を描く部分は、時として退屈。読み方もはやくなる。相変わらず、iPadがお腹の上に落ちてくる。


★「失われた時を求めて」を読む★2/17 今日は、第4巻405Pまで。

▼いわゆる「ドレイフェス事件」が何度も話題になっている。ユダヤ人問題は、根が深い。この辺では、貴族たちのパーティが描かれているのだが、とにかく、○○夫人、○○侯爵夫人、○○何とかが多くて、記憶力の悪いぼくには、実は1P読むのも大変である。ここは、踏ん張らねば。


★「失われた時を求めて」の中に出てくるホイッスラー 2/18

〈……しかし、エルスチールが、すでにバルベック湾に神秘性が失われ、私にとって他の何とでも置きかえられる、地球上の多量の塩水の任意の一部分にすぎないものとなっていたときに、それがホイッスラーのシルヴァー・ブルーの階調をもったオパールの湾であると私に語ることによって、突然それに一つの個性をとりもどしてくれたように、ゲルマントの名も、フランソワーズの痛棒を食って、あえなくその名から立ちあらわれた最後の寄りどころがついえさる憂き目を見たのだが……〉「失われた時を求めて」第4巻40p

▼エルスチールは「わたし」が敬愛する画家。フランソワーズは、「わたし」の家の頑固だが献身的な家政婦。


★「失われた時を求めて」を読む★2/20 今日は、第4巻459pまで。

〈それにしても、われわれがたがいに相手について抱いている意見、また友情関係、家族関係は、固定的なものをもっているように見えても、それは表面だけで、じつは海とおなじようにたえず動いているのだ、ということを記憶にとめておく必要がある。そんなわけで、いかにもぴったり和合しているように見えていた夫婦のあいだに離婚話がもちあがっているとのうわさがさかんに流れたあとで、すぐまたその二人はたがいに相手のことを愛情をこめて語る、ということが起こるのだし、離れられないむすびつきだと思われていた二人の友人の一方が、さかんに他方の悪口をふれあるき、そのおどろきからわれわれがまださめないうちに、一方がもう他方と和解しているのに出会うことがあり、また国民と国民とのあいだに、きわめてわずかな期間に、あれほど多くの友好関係の逆転があるのだ。〉第4巻459p

▼今の芸能界も、同じこと。芸能界どころか、ぼくらの日常生活も、同じですね。


★「失われた時を求めて」を読む★2/23 今日は、第4巻510pまで。

▼いよいよ、第4巻も読了間近。

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/24 今日は、第4巻537pまで。

〈われわれが知っているかぎりの偉大なものはすべて神経質の人たちからもたらされています。宗教の基を築き、芸術の傑作をつくったのは、そうした人たちであって、ほかの人間ではないのです。けっして世人は知りますまい、そうした人たちに世人がどんな恩恵を受けているかを、とりわけ、世人にそんな恩恵をあたえるためにそうした人たちがどんなに苦しんだかを。……〉第4巻524p


▼「私」の祖母の往診に来た、デュ・ブールボン医師の言葉。これはプルースト自身の思いなのかもしれない。

▼この医師の診断は結局正しくなくて、この後祖母は死に向かってゆく。祖母の発作で、「ゲルマントの方 1」は終わる。

▼これで、第4巻読了。第5巻は「ゲルマントの方 2」から始まる。

 

 

★「失われた時を求めて」を読む★2/25 昨日読んだところにあった印象的な部分。


〈病気になってみると、われわれは自分がひとりで生きているのではなくて、ちがった世界のある存在にしばられて生きていることをさとる、その存在とわれわれとのあいだは深淵にへだてられ、その存在はわれわれの気持を知らず、またその存在にわれわれの気持をわからせることも不可能なのだ、その存在とはわれわれの肉体なのである。われわれは街道でたとえどんな追いはぎに出会ったとしても、われわれの不運にたいしてではなく、その男の個人的利害にたいしてならば、おそらくその男の心を動かすことができるだろう。しかしわれわれの肉体にたいしては、いくらあわれみを乞うたところで、蛸をまえにしてご託をならべるようなものであり、蛸にとっては、われわれの言葉も波の音以上の意味をもつわけはなく、われわれはこんなしろものといっしょに暮らす因果を思つてはっと恐怖に身がすくむだろう。〉第4巻511p


▼確かに、人間にとって、自分の「肉体」は、もっとも遠い「他人」なのだということを、ぼくらは病気なったとき、痛切に知るのです。だからこそ、ぼくが胸部大動脈の大手術を前にして、医師から、その考えられないようなやり方を聞いても、「ふ~ん、でも、そんなことができるんですか?」といったような反応しかできなかったのでしょう。そのときぼくは、まるで「他人事」のように感じていたのでした。そのことをプルーストは見事に表現しているのです。


▼それにしても「蛸をまえにして…」以下の比喩の何という面白さ。こんな比喩は一晩かかったって思いつかないなあ。

 

 


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★「失われた時を求めて」を読む★ 第3巻・引用とコメント

2015-04-10 09:45:32 | ★「失われた時を求めて」を読む★

★「失われた時を求めて」を読む★ 第3巻・引用とコメント

フェイスブックに書いてきたことを、まとめておきます。

「巻」と「p」は、ちくま文庫版(井上究一郎訳・全10巻)の巻とページ。

〈  〉部が引用。▼がぼくのコメントです。

第1巻・第2巻では、引用やコメントをしませんでしたので掲載しません。

 


 

★「失われた時を求めて」を読む★1/22 今日は、第3巻312pまで。


▼この果てしない「愛」をめぐる物語は、「源氏物語」にどこか通じるものがある。



★「失われた時を求めて」を読む★1/23 今日は、第3巻329pまで。


〈快楽はその点、写真とおなじだ。愛する当人のまえでとるものは、写真の陰画でしかなく、それを現像するのは、もっとあと、ひとたび自分の部屋にこもって、あのわれわれの内部の暗室を自由に使えるようになってからであって、みんなといっしょにいるあいだはその暗室の出入りは「禁止」になっているのである。〉第3巻308p


▼快楽、欲望のあり方を巡って、執拗に繰り返される考察。少女アルベルチーヌにどうしようもなく引きつけられる「私」。でも、アルベルチーヌは皮肉で意地悪で、、



★「失われた時を求めて」を読む★1/24 今日は、第3巻350pまで。


〈……花咲く乙女たちに視覚が向けられる場合は、その感覚は、他の諸感覚からのいわば派遣代表のようなものなのだ、そうした代表感覚は、つぎからつぎへと、さまざまな特性、すなわち匂、触感、味の特性をさぐりに行き、そのようにして、手や唇のたすけを借りることもせずに、それらのさまざまな特性をたのしむのである、そうした感覚は、転置の諸技術と総合の天才をそなえているおかげで、欲望に自在な腕を発揮させ、頬の色や胸の色を見ただけで、その色彩のもとに、打診、味利き、接触などの、実地にやれない行為を復元することができ、まるでばら園のなかにいるか、またはぶどう園のなかにいて、目で花の束、ぶどうの房をむきぼりながら、そのあまい蜜、あまい果汁を味わっているのとおなじような濃度を、それらの娘たちにあたえるのだ。〉第3巻p343


▼「視覚」ですべての感覚を「味わう」ことができるというのだ。「失われた時を求めて」には、こうしたエロチシズムがあふれている。


〈われわれはこちらに無関心な人間の性格にはよく通じているが、われわれの生活に溶けこんでいる人、やがてはわれわれ自身から切りはなせなくなる人、その行動についてたえず不安な仮定を立てたりこわしたりしなくてはならないような人の性格は、これをどうしてつかむことができよう? 愛する女にたいしてわれわれが抱く好奇心は、理知のそとにとびだして、どんどん進み、やがてその女の性格の範囲外に出てしまう。〉第3巻p347

▼恋人だったり、妻や夫だったり、親だったりが、どういう「性格」なのかはついに分からない、ということだろうか。「その行動についてたえず不安な仮定を立てたりこわしたりしなくてはならないような人」という表現がおもしろい。たぶん、ぼくたちは、「身近な人」について、こういうことを繰り返している。そしてこうつぶやくのだ。「この人っていったいどういう人なの?」。



★「失われた時を求めて」を読む★1/25 今日は、第3巻362pまで。


〈いまのわれわれのヨットで美しいと思うのは──それもとくに中型のヨットです、まるで大船舶のようなでっかいやつは私は好まないので、帽子とおなじように、おのずから限度というものがあるのです──青味をおびたくもり日に、クリームをやわらかく溶かしたような色になる、無地の、シンプルな、あかるい、グレーの色調のものです。キャビンは、小さなカフェのように見えなくてはいけません。ヨットに乗る女たちの服飾についてもおなじで、すっきりと上品なのは、厚手の麻か、薄手の麻か、綿サテンか、デニムかの、軽快な、白い、無地の服で、太陽の光線を受け、青い海の背景に、白帆のようにまぶしい白色を点じます。〉第3巻355p


▼エルスチールという画家は、こんなふうに、ヨットの美しさや、ヨットに乗る女たちのファッションについて語る。ヨットを見にいきたくなるなあ。



★「失われた時を求めて」を読む★1/26 今日は、第3巻366Pまで。


〈少女たちの顔そのものは、大部分、あけぼののあの茫漠としたくれないの色のなかに溶けこんでいて、真の顔立ちはまだそこからわきでてはいなかった。そこに見られるものはただ魅力に富んだ美しい一つの色あいだけで、数年後には明確なプロフィルとなるべきものは、見わけられなかった。……彼女らは、やわらかい物質の波にすぎないで、そのときそのときの印象に、たえずこねかえされ、そうした印象に支配されるがままに動くのである。……〉第3巻364p


▼「個体」としての1人の少女が「わたし」の前に立ち現れる以前の混沌とした状態を、プルーストは執拗に描き続ける。あるときは、それを「サンゴ虫」に例えたりもしている。中略した部分には、こうした少女たちの「老い」が語られ、まるで「命短し、恋せよ乙女」の一節のようである。


▼こんな引用をしていると、読書はちっとも先へ進まない。──今日は時間がなかったということもあるが──しかし、「失われた時を求めて」を読む唯一の方法は「ゆっくり読む」ということである。



★「失われた時を求めて」を読む★1/27 今日は、第3巻386pまで。


〈小鳥の愛好者は、森のなかにはいると、一般の人が混同する一つ一つの鳥に独特のあのさえずりをただちにききわける。若い娘たちを好む人は、人間の声が鳥のさえずりよりももっと変化に富んでいることを知っている。彼女らの一人一人は、もっともゆたかな楽器よりも、さらに多くのしらべをもっている。また、一人一人がそれらのしらべをまとめている組みあわせは、人格の無限の変化と同様につきるところがない。〉第3巻369p


▼もう、この辺りは、全部を引用してしまいたくなるくらい、いい。「少女」の持つ特性──それは大人になると失われるわけだが──が、これでもかというぐらい豊かに語られる。特に「声」に関する細やかな分析と描写は、驚くべきものがある。ぼくらは、こんなふうに「声」を聴いたことがあるだろうか。


〈回復期にある人が、ひねもす花園や果樹園に憩い、その安逸の日課の無数の瑣事の隈々にまで深々と花や果物の匂がしみ通るように、私の場合も、むしろそれ以上に、私のまなざしがこれらの少女たちにふれ、そこからさぐりだす色彩や香気は、あまやかに私をつつみ、私と一体になってしまうのであった。そのようにしてぶどうの実は日光にあまく熟れてゆくのだ。〉第3巻373p


▼「回復期」の「幸福感」というのは確かにある。ぼくも経験した。しかし、これほど「少女たちからの幸福」を味わったことがないのは、かえすがえすも残念というほかはない。せめて、こうした「文学」で「体験」するしかないわけだ。けれども、考えてみれば、現実の「若者」たちも、こうした幸福を味わうことなく、「大人」になってしまうのだ。



★「失われた時を求めて」を読む★1/28 今日は、第3巻396pまで。


〈アンドレの手は、やせて、ひときわ繊細で、この少女の命令におとなしくしたがいながらも独立した一種特別な生命をもっていて、物憂さと、見はてぬ夢と、ふと指の関節をのばす美しい動作とを伴って、まるで上品なグレーハウンド犬のように、すらりと彼女のひざの上にのびていることがよくあったが、そんな感じを好んで、エルスチールは何枚もこの手のエチュードを制作したのであった。そんなエチュードの一つで、アンドレが火に手をかざしているのが見られる作品では、その手は火のあかりを受けて、二枚の秋の木の葉のように金色の透明体となっていた。〉第3巻387p


▼アンドレは、アルベルチーヌの女友だち。「わたし」はこうした「花咲く乙女たち」と遊んでいるのだが、この文章の後に、アルベルチーヌの「手」について書かれていて、「握手」を「公然とゆるされた行為」にした「文明」に「感謝したくなる。」と書いている。「握手」って、西洋人にとっても、やっぱりエロチックなものだったんだ。



★「失われた時を求めて」を読む★1/29 今日は、第3巻429pまで。


〈……ところで、このとき、私は目をひらいて、この部屋を見なおしはじめたのだ。しかもこんどは、恋愛の見地という、あのエゴイストの見地からだった。斜のりっぱな姿見や、ガラス戸つきのエレガントな本棚は、アルベルチーヌが私に会いにきてくれたら、私について好感をあたえるだろうと思われた。……私の部屋は、ふたたび現実的な、親密なものになり、私にとってその面目を一新するのであった、なぜなら、アルベルチーヌの目でもって、私はこの部屋の一つ一つの家具をながめ、味わうからであった。〉第3巻399p


▼慣れてしまって魅力を失った自分の部屋が、恋愛によって「新しい」ものになる。「アルベルチーヌの目でみる」からだというわけだ。こんな感覚も、若い頃はあったかもしれない。それにしても、「恋愛の見地=エゴイストの見地」に注目しなければならないだろう。「恋愛」は「愛」とは違うものだが、その辺をプルーストはどのように描き分けているのか(あるいは、いないのか)、興味深い。



★「失われた時を求めて」を読む★ 今日は、第3巻446pまで。


▼これで第3巻を読了。第4巻は、「第3編 ゲルマントのほう」が始まる。ここまで辿り着いたのは、感無量。飽きるどころか、ますますおもしろくなっていく。もちろん、ドキドキハラハラの面白さではない。ストーリーは、ほとんどまだ展開していない。



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