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木洩れ日抄 79 ぼくのオーディオ遍歴 その4 ── 相鉄ジョイナスでの出会い

2021-09-29 15:01:20 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 79 ぼくのオーディオ遍歴 その4 ── 相鉄ジョイナスでの出会い

2021.9.29


 

 卓上電蓄のターンテーブルからはみ出るLPレコードだったが、EPレコードはぴったりだったから、いろいろと買ったような気がする。ソノシートで持っていた曲も、何枚か買いなおした。しかし、如何せん、卓上電蓄では、学校の音楽室で聞いたようないい音は望むべくもない。

 卓上電蓄を買ってもらったのが中学生のころだったはずだが、その後の中高生活は、音楽といえば、生物部の部活の最中や、体育館の掃除当番などのときに、やたら歌っていたワイルド・ワンズだの、ヴィレッジ・シンガーズだののフォークソングで、クラシックとは無縁だった。

 ぼくのオーディオ生活が一変したのは、おそらく大学に入ってからだったのだろう。当時は、スピーカーとプレーヤーが一体化した家具調の「ステレオ」がはやりだしたころだったと思うのだが、そんな大きなものを自分の部屋に置くことはできなかった。そんなとき、たしか、「モジュラーステレオ」とかいうステレオ装置が発売されていた。アンプとプレーヤーが一体化したものと、2つの分離したスピーカーの3点セットだった。どこの製品だったか忘れたが、これを買った。いくら払って、どこで買ったのかも覚えてないが、とにかく、この装置を部屋に設置して、電源を入れた瞬間に鳴った雑音が、心に響いた。ブツンというような音だったが、その音は、深みがある低音で、卓上電蓄からは間違っても出てこない音だった。すごい! と感動した。雑音に感動したのだ。これこそが、ぼくのオーディオ趣味の原点だった。

 まあ、その後、経済的には恵まれた生涯ではなかったから、いわゆるハイエンドのオーディオマニアの環境とはほど遠かったわけで、常に、B級のオーディオ生活でしかなかったのだが。

 大学時代、そして、教師時代と続くその後の生活で、時系列に語ることはとうていできないのだが、オーディオについては、3つの忘れられない思い出がある。

 まずは、ひとつ目。横浜駅隣接の相鉄ジョイナスに、名前は忘れたが、オーディオ機器を売っている店があった。というより、レコード店が、オーディオ機器も売っていたということかもしれない。

 あるとき、その店に立ち寄ったところ、女性の歌が流れているステレオ装置があった。普段あまり聞いたことのない洋楽なのだが、どれも親しみ安いポップスの曲で、英語で歌われているのだが、どこか微妙な下手さがあった。だれが歌っているのか見当もつかなかったが、どこか聞いたような声でもあった。しかし、それよりも、ぼくがそこに釘付けになったのは、そのスピーカーから流れてくる「音」だった。

 音のことを言葉で表現するのは難しいが、今はあまり使わない言葉だが「メロウ」という感じだった。とにかく柔らかくて、包み込むような気持ちのいい音だった。アンプがソニー製だったことはよく覚えているのだが、スピーカーやプレーヤーはどこの製品だったか覚えていない。ぼくはしばらくそのステレオ装置の前に立ち止まって聞き惚れていた。聞けば聞くほど心をひかれた。それにしても、これは誰のレコードだろうということが気になってしかたがなかった。

 それで、思い切って店の店員のところに行って、今流れている曲はなんというレコードなんですか? と聞いたところ、「南沙織ポップスを歌う」というLPレコードであることが分かった。え? 南沙織だって? ぼくは絶句した。

 何を隠そう、ぼくは、南沙織の大ファンだったのである。そうか、だから、聞き覚えのある声だったんだ。だから、英語も、なんか微妙に下手だったんだ。だから、歌の音程も微妙に外れてたんだ、と、納得するばかりだった。

 そのレコードをすぐに買ったのはいうまでもない。その店ですぐに買ったのか、別の日だったかは忘れたけれど、その後、そのレコードをどれだけ聴いたことか。

 「TOP OF THE WORLD」も、「ROSE GARDEN」も、「SWEET CAROLINE」も、「 AN OLD FASHIONED LOVE SONG」も、みんな南沙織の調子外れの舌足らずの英語のカワイイ声で覚えた。だから、「SWEET CAROLINE」を本家のニール・ダイアモンドの野太いオジさん声で聞いたときは、飛び上がるほどびっくりした。今でも、南沙織の「SWEET CAROLINE」の方が好きだ。まるで、尾崎紀世彦の「また会う日まで」を浅田美代子が歌ってる(そんなのないが)ようなもんだが。

 ちなみに、このレコードはその後CD化されることはなかったようで、長いことカセットテープにダビングして聞いていたが、やがて、パソコンを使うようになってから、自分でCD化した。今では、パソコンに入れてあるが、ほとんどすべてのLPレコードを処分した中で、たった1枚だけ今でも手元に残っているLPレコードである。

 この音になんとか近づこうとその後、やや高級なステレオ装置を買ったが、やはり、この時の音と同じ音を再現することはできなかった。それはステレオ装置の問題であるというよりは、「環境」の問題なのだろう。雑音の多い店舗の中で、そこだけ異空間のような音の場ができていたとぼくが感じたのも、「音質」の問題だけではなくて、そこに流れていた曲──それは、忘れもしない「やさしく歌って」だった──、そして愛する南沙織の声、そんなものが相乗的に生み出した極めて特殊な音場だったのだ。

 


 

 

 

 


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一日一書 1705 寂然法門百首 53

2021-09-20 10:28:52 | 一日一書

 

捨父逃逝遠到他土


 
たらちねの玉の台(うてな)をあくがれて埴生(はにふ)の小屋に旅寝すべしや
 

半紙


 
【題出典】『法華経』信解品


 
【題意】  父を捨てて逃逝(とうせい)し、遠く他土へ到り、

父を捨てて逃避し、遠い他の土地に行く。

 


 
【歌の通釈】
父の御殿を抜け出てさすらい、埴生の小屋(粗末な小屋)で旅寝するのだろうか。

 


【考】『法華経』の七喩の一つの長者窮子の初め、子が長者の父の元から家出する場面を詠んだもの。その子どもが放浪する様を埴生の小屋の旅寝と詠み、(中略)悟り浅き二乗の流浪のわびしさをしみじみと描く。

 


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


▼二乗〈にじょう〉とは、簡単にいえば、自らの悟りのみを求める者のこと。

●このたとえ話は、聖書の「放蕩息子」の話を思い出させます。子どもというものは、いつか、どこかで「父」から離れて行くものなのでしょう。けれども、結局は「父」のもとへ帰って行く。帰って行かないかぎり、救いはないのだ、ということでしょうか。

 

 


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一日一書 1704 寂然法門百首 52

2021-09-11 09:47:27 | 一日一書

 

作是教已復至他国


 
山深き木の本ごとに契りおきて朝立つ霧のあとの露けさ
 

半紙


 
【題出典】『法華経』寿量品


 
【題意】  この教えを作し已りて、また他国に至り

この教えを残して、他国へ去る。


 
【歌の通釈】
深山の木の本ごとに約束を残して(病の深い子ども一人一人に薬を飲むよう言い残し)朝に立つ霧(朝に発つ父)のあとの露けさ(悲しさ)よ。

 


【考】『法華経』の七喩の一つ。良医病子の譬喩の場面。父は本心を失った子どもに、薬を飲むように言い残して他国へ去り、自分が死んだと告げさせる。それにより子どもたちがようやく目を覚ます。これは、仏が涅槃に入るのは衆生の目を覚まさせるための方便であることを明らかにする比喩である。父が子ども一人一人に教えを言い残して別れる場面を、朝霧が一本一本に約束を残すように消え去ってゆく風景により詠んだ。「病」に「山」を、「子」に「木」を掛けることにより深山の景を浮かび上がらせ、その別れの悲しみを朝霧が立つ情景によりしっとりと描いた。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)



見事な歌だ。教えを一人一人に残し、消え去っていく父。しかし、子どもは父が死んだと知ってからでなくては、目を覚まさない。父の死によって、目を覚ました子どもは、はじめて、その教えに耳を傾ける。
そうした「人事」を、秋のしっとりとした風景として描き出す歌。その歌の情感とともに、仏の教えが、身にしみてくる。「釈教歌」の神髄だろう。

強引な比較かもしれないが、キリスト教の「復活」も、これと同じことなのかもしれない。

 

 

 


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木洩れ日抄 78 ぼくのオーディオ遍歴 その3 ──「屈辱」のソノシート

2021-09-10 13:19:42 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 78 ぼくのオーディオ遍歴 その3 ──「屈辱」のソノシート

2021.9.10


 

 中学1年だったのか、2年だったのか、定かではないのだが、音楽の授業で、先生が、こんど音楽鑑賞をするから、家から自分の好きなレコードを持ってきなさいと言った。

 持ってきなさいといったのか、持ってる人は持ってきなさいと言ったのか、その辺は定かではないが、たぶん後者だったのだろう。みんながみんなクラシックのレコードを持っているような時代ではなかったはずだ。

 民謡ばっかり歌う変なところがあるとはいえ、相当まじめな中学生だったぼくは、レコードは持ってないけど、ソノシートなら持ってると思って、「ウイリアムテル序曲」の入った黒っぽいソノシートを持って行った。
最初の回でも書いたように、この曲とか、「魔弾の射手序曲」とか「詩人と農夫序曲」とかを、風呂に入りながら聞くほど好きだったので、これを持参したわけだ。

 同級生の何人が持っていったのか覚えてないが、とにかく、ぼくのソノシートの「ウイリアムテル序曲」がステレオにかけられた。ステレオ装置がどのようなものだったかも覚えていないが、学校の音楽室に設置されていたわけだから、いくら貧乏な学校とはいえ、まあ、ある程度の大きさの、ある程度の高級なものだったのだろう。

 しかし、その曲がステレオから流れてきたとき、驚きのあまり、耳をふさぎたい思いにかられた。あまりに音がひどすぎたのだ。家の卓上電蓄で聞いたときは、その音に十分に満足していたのに、友人が持ってきたLPレコードの音を聞いたあとでは、ぼくのソノシートから流れ出てくる音なんか、一つ一つの楽器の音が分離せず、すべての音がまるで饅頭のように、おにぎりのように、固まってしまって、メロディーすら分からなくなるような代物だったのだ。

 今考えると、ソノシートの音がそれほどひどいとも思えないのだが、やはりLPレコードとの差は歴然としていて、ぼくは、驚くとともに、なんともいえない恥ずかしさにおそわれた。はやく終わってくれと、ただひたすら心のなかで念じた。

 ソノシートなんか持っていかなければよかった、と思った。ひどい屈辱感だった。大好きな曲だから、みんなにも聞いてほしいと思って持って行ったのに、出てきた音があんなひどい音だったなんて。それに引き換え、あのLPレコードから出る音のなんという美しさだ。ああ、「ウイリアムテル序曲」も、LPレコードだったらどんなに素敵な音で鳴り響くことだろう。そんな思いでいっぱいだった。

 あの授業にレコードを持ってきた生徒はたぶん数人だったはずだ。鎌倉あたりから通ってくる金持ちの同級生だったに違いないと思っていたけど、それはぼくの偏見かもしれない。ただ、私学だけあって、同級生には金持ちの家の者も多く、ぼくみたいな下町の職人ふぜいの子どもとは、身にまとう雰囲気も違っていた(はずだ)。

 ぼくが、味噌汁のことを「おつけ」というと、何それ? 「おみおつけ、でしょ」とか、食膳のことを「ちゃぶだい」というと、「おぜん、でしょ?」とか言って、ロコツに馬鹿にするヤツもいたので、よくけんかしたものだ。今だったら、おまえ落語も聞いたことねえのかと言って反論するところだけど、そんな知恵もなかった。

 結局のところ、貧富の差、そして教養の差が、ぼくらの中には歴然としてあって、中高6年間を通して、そのなかで、ぼくはもがいていたような気もする。もちろんそれは深刻なものではなかったし、それどころか、生物部の活動に熱中していて、そんなことはすぐに頭の隅に追いやられたが、しかし、それは、根深くぼくの心のなかに巣くっていてその後も消えることはなかったし、今でも、消えてはいない。

 何人かが、LPレコードを持ってきたのに、ぼくが持って行ったソノシートを、先生は、ちゃんとかけてくれたのだが、「ああ、これは音がよくないから、やめとくね」とはさすがに言えなかったのだろうか。あきらかに質のよくないソノシートを、あえてかけたのは、ぼくの気持ちに配慮したからなのか。それとも、単なる無頓着だったのか。それは分からない。ただ、なんとなく、先生は、ぼくがソノシートを差し出したとき、ちょっと困ったような表情を浮かべたような記憶がかすかにある。

 何はともあれ、その「屈辱」の経験は、わりとすぐに、LPレコードあるいはEPレコードへと向かうきっかけとなったことは確かだ。

 今度は、もう、民謡じゃない。クラシックだ。それもLPレコードだ。

 そんなぼくが、初めてクラシックのLPレコードを買ったのは、高校に入ったころだったろうか。クラシックに関する知識もほぼ皆無だったが(ぼくは、高校で芸術科目の授業を受けたことがない。この事情を話すと長くなるので省略するが。)、どこでどう知ったのか、ドビュッシーの「交響詩『海』」と「牧神の午後への前奏曲」が入ったLPレコードだった。ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏だった。その大きなLPレコードは、卓上電蓄のターンテーブルをはるかにはみ出したが、それでも、ちゃんと聴けた。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (198) 志賀直哉『暗夜行路』 85  「絵からなにか話しかけてくる」  「後篇第三  二」 その2

2021-09-05 09:54:32 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (198) 志賀直哉『暗夜行路』 85  「絵からなにか話しかけてくる」  「後篇第三  二」 その2

2021.9.5


 

 「美しい人」のことは、一段落して、その翌日、謙作は博物館に出かける。この美術館は、現在の「京都国立博物館」のことだろう。「京都国立博物館」の開館は、明治30年だ。


 彼は今日は家探しをやめ、午前中博物館で暮らそうと思った。博物館は涼しかったし、それに来た時見た物は大概陳列更えになっているだろうと考えた。宿へ引きかえし、朝飯を済ますと、直ぐ電車で博物館へ向った。
 博物館の中は例の如く静かだった。分けてもその日は静かで、観覧者としては謙作以外に一人の姿も見られなかった。
 そしてこういう静けさがかえって謙作を落ちつかない気持に追いやった。制服を着た監視の一人が退屈そうにカッタン、コットン、カッタン、コットン、と故(わざ)と靴で調子を取りながら腰の上に後ろ手を組み、靴の爪先を見詰めながら歩いて来た。そのカッタン、コットンいう響が高い天井に反響し、一層退屈な、そして空虚な静けさを感じさせる。その辺に掛けられた古い掛け物の絵までが、変に押し黙って、まわりから凝っと此方(こっち)を見ているように謙作には感ぜられた。彼は親しみ難い、何か冷めたい気持でそわそわと急ぎ足にそれらの絵を見て廻った。しかしふと、如拙(じょせつ)の瓢鏑鮎魚(ひょうたんでんぎょず)の前へ来て、それは日頃から親みを持っていたものだけに暫く見ている内にその絵のために段々彼の気持は落ちついて来た。絵から何か話しかけて来るような感じを受けた。
 支那人の絵で南画風の松にも彼は感服した。気持が落ちつくに従って絵との交渉が起って来ると、呂紀(りょき)の虎、それからやはり支那人の描いた鷹と金鶏鳥の大きい双幅の花鳥図などに彼は甚く惹きつけられた。泉涌寺(せんにゅうじ)出陳「律宗三祖像」、顔は前日見た二尊院の肖像画に較べて遠く及ばないような気がしたが、それでも曲彔(きょくろく)に掛けた布(きれ)とか袈裟などの美しさは感服した。総じて彼がこういうものに触れる場合彼の気分の状態が非常に影響した。興に乗るという事は普通能動的な意味で多く用いられるが、彼では受動的な意味でも興に乗ると乗らぬとでは非常な相違があった。これはこういう美術品に触れる場合、殊に著しく感ぜられる事であった。そして今日も最初は妙に空虚な離れ離れな気分で少しも興に乗れなかったが、段々にそれがよくなって行くのが感ぜられた。彫刻では広隆寺の弥勒思惟像、これは四、五日前太秦まで見に行って、かえって此所へ出してある事を聞き、この前は見落していた事に気附いたものであった。
 少し疲れて来た。いい加減にして其所を出ると、彼は歩いて西大谷の横から鳥辺山を抜け、清水の音羽の滝へ行った。水に近い床几に腰を下ろすと彼は何よりも先ず冷めたい飲物を頼んだ。彼は疲れた身体を休めながら、東京からすると一体に華美(はで)な装いをした若い人たちの姿などを見ていた。

(注)曲彔=僧侶が使う椅子の一種。

 


 謙作が美術愛好家であることは、第1部にも何度か出てくるが、それは志賀直哉自身の反映だろう。フィクションとはいえ、この作品は半分は自伝のようなところがある。

 博物館の中の様子は、非常によく描かれている。今では、わざと靴音をたてて巡回するような係員はいないが、当時の「監視員」の威張った感じがよく出ている。しかし、その靴音が、かえって館内の静寂を際立たせ、謙作は息苦しさのようなものを感じるのだが、如拙の瓢鏑鮎魚図を見ているうちに、「絵から何か話しかけて来るような感じを受けた」という。

 今では、博物館だの、美術館だのに行くと、おおくの場合、人の波にのまれることになる。警備員の靴音どころではない。それこそ、新宿の雑踏なみの靴音と、なにやらごちゃごちゃとしゃべる声。それでは、「絵から何か話しかけて来るような感じ」など感じようもない。

 絵を見る、ということは、案外難しいもので、ここに書かれているように、こちら側の心理状態によって絵の印象も変わるものだし、それ以上に、こちらの気分がどこか悪いと、絵を見る気もしない、あるいは反感を感じることすらあるものだ。そうなるともうどうしようもなくて、せっかく展覧会に足を運んだのに、あまりの混雑ぶりに、腹を立てて会場を後にする、というようなことがぼくにも何度あったかしれない。

 自分をある意味で「無」にすること。それが大事なのかもしれない。しかも、無理矢理「無」の状態に持って行くのではなくて、落ち着かないなら落ち着かないなりに、自然に絵を見ること。すると、絵のほうから「語りかけてくる」ことがあるのかもしれない。
ぼくには、あまりそういうことはなかったなあと思う。それは、自分のほうから「何かを感じ取ろう」とする気持ちが強すぎたのかもしれない。もっと素直に、無心で、絵に対すること。それが大事なのだろう。

 謙作は「興に乗るという事は普通能動的な意味で多く用いられるが、彼では受動的な意味でも興に乗ると乗らぬとでは非常な相違があった。」というが、確かに「受動的な意味」で、「興に乗る」ということがあるはずだ。というか、美術の鑑賞では、それがすべてなのかもしれない。

 こうやって、博物館に行って、疲れると清水寺に行き、「冷たい飲物」を飲み、きれいな着物をきた若いひとを眺める。そんな半日がすぐに手に入る京都って、やっぱりぼくの中では「住みたい町」第1位だ。実際に住んでみると、関東人とは気質が違うから大変だという話もよく耳にするけど、それなら、どこかのマンションにでもはいって、近所付き合いはやめて、日がな一日、町中をぶらぶらしてみたい。そして、ときどきは奈良にも足を伸ばす。なんて空想するだけで楽しくなってくる。

 先日、大学時代の友人の柏木由夫君が今、気象協会のホームページに連載している「百人一首の世界」を読んでいたら、「河原院(かわらのいん)」というのが出てきて、それはどういうところで、どこにあるのだろうと調べていたら、それが「源氏物語」の「六条院」のモデルであったり、「夕顔」と源氏が一夜をあかした廃屋のモデルであるとも言われているということを初めて知った。無知にもほどがあるということなのだろうが、ことほどさように、京都というところは、東京などとは、そしてましてや横浜などとは、比較にならないほどの文化の層の厚みのあるところなのだ。何度か観光に訪れたところで、その奥の奥まで知ることができるはずはないのだ。

 京都のそうした「深み」については、吉田健一が、「食」をテーマにさんざん書いている。それは、東京なんかに旨いものなんてない、ぐらいの勢いで、関東の者としてはいささか鼻白むが、もっともだとも思う。

 

 

 

 


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