小林一茶
秋風に歩いて逃げる蛍かな
半紙
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季語は「秋の蛍」。
「蛍は夏のものだが、まれに秋になってもその姿を見ることがある。」と
『俳句の解釈と鑑賞事典』(旺文社)にあります。
なんかユーモラスな句だなあと思って書いてみたのですが
これは、一茶が病床で読んだ句とのこと。
秋風に追われるようにヨロヨロと縁側なんかを歩く蛍に
弱った我が身を重ねたらしい。
そういうことを頭にいれて読むと
ユーモラスじゃなくて、哀れな句に思えてきます。
けれども、その哀れさも、決して深刻じゃなくて
「蛍が歩く」という、あまり目にすることのない姿に我が身を重ねて
どこか面白がっているふうにも思えるのです。
俳句というのは、どんなに深刻な心情を託しても
そこに自ずと「客観」のようなものがうまれ
そこに、自然にユーモアが生じるのではないでしょうか。
そこが短歌との大きな違いのような気がします。
うまく言えないけど
短歌は、作者が作品の「中」にいる。
俳句は、作者が作品の「外」にいる。
そんな単純なことじゃないけど、そういう感じがします。