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日本近代文学の森へ (50) 田山花袋『田舎教師』 5

2018-10-13 10:06:36 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (50) 田山花袋『田舎教師』 5

2018.10.13


 

 花袋の風景描写は美しい。この『田舎教師』が当時もよく読まれたのは、そのせいもあるだろう。

 青春時代を過ごした熊谷は、清三にとっては第二の故郷であり、そこを清三はたびたび訪れた。



 関東平野を環のようにめぐった山々のながめ——そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞の薄く被衣(かつぎ)のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡(なび)く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた。
 熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし、富豪(かねもち)も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼(めぬま)地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭(らっぱ)の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。



 熊谷というと、すぐに「日本最高気温の町」とかいうイメージが先行する昨今だが、こういう自然や町の表情を見事に捉えているのは、今の群馬県館林市に生まれた花袋が親しく接してきたからこそだろう。

 熊谷と行田の違いも、同じ「地方都市」として、はっきりとは認識できないけれど、当時ははっきりとした「格差」があったわけだ。



 熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。角帯をしめて、老舗の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。活気は若い人々の上に満ちていた。これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒(みろく)とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。
 それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。同じ金儲けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇(けち)くさいことを言っている。小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。



 行田に住んでいた清三は、熊谷の方向ではなくて、弥勒の方向へと落ちぶれていったということになる。

 熊谷の中学の「同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった」ということに注目したい。つまり、清三はその中学の中では、いわば「落ちこぼれ」の地位に甘んじなければならなかったということだ。ほとんどの同窓生は、みんな高等学校へ進学するのに、清三は、それができず、小学校の「代用教員」となる。つまりは、アルバイトの身の上なのだ。

 明治になって、学校というものができ、次第にその数を増していくうちに、教員不足になった。全国に師範学校はできたものの、それでも足りずに、「代用教員」が雇われたわけである。

 『田舎教師』の記述によれば、清三は、ただ中学を卒業しただけで、後はなんの試験も受けずに、ただ友達の郁治の父が郡視学をしていた関係で、弥勒の校長に紹介されて採用されただけのこと。何の自慢にもならないのだ。自慢どころか、高校にも行けないヤツとして、馬鹿にされたことだろう。

 清三は、自分がこの弥勒の小学校の「代用教員」に終わる未来を絶対に認めたくなかった。弥勒の人々は、「小学校の校長」というものが「よほど立身したように思っている」ことや、その校長自身が「鼻を高くしてその地位に満足している」ことに、清三は激しい嫌悪を抱く。こいつらは、なんてケチくさい根性なんだ! と思うのだ。

 このあたりも、ぼくには、痛いほどわかる心情だ。ぼくが就職した昭和47年のころ、まだ世の中には「デモシカ教師」という言葉が実在していた。「教師デモやるか」「教師シカない」といった意味で、要するに、教師なんて職業は、他に行き所のないヤツがしょうがなくてやる仕事だといった意味だ。

 ぼくが勤めた都立高校は、新設校だったせいもあり、教育への情熱をもった若い教師が多かったが、それでも、教師たちの飲み会は、貧乏く、そこで語りあえることは、決して文学・芸術のことではなくて、どこまでいっても、通俗的な世間を離れることはなかった。今思えば、それも当たり前なのだのが、ぼくは、それに耐えられない思いをしたものだ。

 「いつかこの教師という仕事から抜け出すのだ」という意志のようなものが、当時のぼくの意識を支配していたように思う。とすれば、それは清三の意識そのものだということになる。

 


 若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳の中で、外のランプの光が蒼い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
 学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。

 

 しかし、その校長を、清三はこんなふうに見た。


「自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。


 この校長が、回りからも「出世した人」とみられることに満足している様に、清三は「哀しい未来」を見るのである。

 

 


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