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日本近代文学の森へ (53) 田山花袋『田舎教師』 8

2018-10-23 12:26:21 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (53) 田山花袋『田舎教師』 8

2018.10.23


 

 清三は、結局、肺結核のために21才の若さで亡くなるのだが、それにしても、体の不調を訴えても、地元の医者が、「胃が弱っている」としか診断できないのが、どうにも腑に落ちない。読んでいてもどかしい。

 咳が続き、夕方になると微熱が出て、だるくてしょうがないというような症状は、医者でなくても肺結核ではないかと疑うはずなのに、そして母親はそう疑ってもいるのに、医者がそう診断できない。明治時代の地方というのは、そんなものだったのだろうか。

 そのうち、どんどん体が弱っていくので、行田の原田医院へいって受診すると、「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」と原田医師はいう。あきらかに肺結核で、しかも、もうすでに手遅れだというのだ。どうして最初から原田医院へ行かなかったのだろうか。

 病気が悪化していく清三の内面が、きちんと書かれていないという批評がどこかにあったが、確かにその通りで、書かれているのは、彼の焦りだけだ。清三が死んだのは、日露戦争のさなか。その戦争にいけない我が身を恥じる思いが彼の頭をいっぱいにするのだ。



 日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古(こうこ)の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争──そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運(ふしあわせ)な病いの床に横たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。
 屍(かばね)となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。父母が恋しいだろう。祖国が恋しいだろう。故郷が恋しいだろう。しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ──こうして希望もなしに病の床に横たわっているよりは……。こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。

 

 こう書かれた直後に、清三は息を引き取るのである。

 日露戦争の熱狂のなか、こうして片田舎で、なんの業績も残すことなく、ただの「代用教員」としてわずか21才で死んでいった若者の悲哀を花袋は描きたかったわけだろうが、あまりにこの清三の「不運」「悲哀」に感傷的に寄り添いすぎたために、当時の日本社会のあり方への深い洞察や批判には至らなかったということだろう。

 花袋自身は、この日露戦争を、どう捉え、どう評価していたのだろうか。清三は花袋自身ではないにしても、この清三の感慨は、花袋にとっては、なんの違和感のないものだったのだろうか。

 『田舎教師』は、花袋の作品の中では「傑作」とも評され、花袋自身も満足していたということらしいが、全体としてみると、その風景描写の美しさばかりが際立ち、小説というよりは長編の抒情詩に近い味わいを持つ作品だ。花袋はまさに吉田精一のいう「ロマンチックな風景詩人」なのだということだ。

 清三の人物造型も、その鬱屈と悲哀は、きめ細やかに描かれていて鮮やかだが(特に前半は)、どこまでも感傷に流れて(特に後半は)、精神の深さには到達することはできなかった。

 「感傷に流れる」ということの罪は、人間認識を薄っぺらなものにしてしまうということだ。「悲しみ」を描くことは、読者の共感を得やすいから、さらに、「共感を得やすい」書き方になっていってしまう。通俗に流れる、ことになる。

 岩野泡鳴は、感傷を排することで、読者の共感を拒み、それゆえに自由になり、通俗に堕すことから免れた。泡鳴の『五部作』は、今ではほとんど読者を持たないのに対して、花袋の『田舎教師』は、いまなお一定の読者を持ち得ている(たぶん)のも、それ故であろう。

 花袋はこのへんにしておいて、さて、次は、どうしようか。渋いところで、徳田秋声でも読むことにしようか。

 この「日本近代文学の森へ」は、どうも、「おもしろくなさそうな」小説ばかり読む傾向がますます顕著になってきたようだ。





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