goo blog サービス終了のお知らせ 

Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

日本近代文学の森へ (48) 田山花袋『田舎教師』 3

2018-10-07 17:33:39 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (48) 田山花袋『田舎教師』 3

2018.10.7


 

 夜はもう十二時を過ぎた。雨滴れの音はまだしている。時々ザッと降って行く気勢(けはい)も聞き取られる。城址の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。
 一室には三つ床が敷いてあった。小さい丸髷とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」といく度となく言った。 
「ランプを枕元につけておいて、つい寝込んでしまうと危いから」とも忠告した。その母親も寝てしまって、父親の鼾に交って、かすかな呼吸がスウスウ聞こえる。さらぬだに紙の笠が古いのに、先ほど心が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。清三は借りて来た「明星」をほとんどわれを忘れるほど熱心に読み耽った。
   椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
 わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。色桃に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。かれは一首ごとに一頁ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒から羽生まで雨にそぼぬれて来た辛さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居〈ずまい〉のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。
 時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。鼠の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。
 雨は降ったりはれたりしていた。人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴れの音が軒の樋をつたって落ちた。
 いつまであこがれていたッてしかたがない。「もう寝よう」と思って、起き上がって、暗い洋燈を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠に行った。手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。
 障子を閉(た)てる音に母親が眼を覚まして、
「清三かえ?」
「ああ」
「まだ寝ずにいるのかえ」
「今、寝るところなんだ」
「早くお寝よ……明日が眠いよ」と言って、寝返りをして、
「もう何時だえ」
「二時が今鳴った」
「二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」
「ああ」
 で、蒲団の中にはいって、洋燈をフッと吹き消した。


 清三が、行田の自宅へ帰ってきた場面だ。親子の情愛がさりげなく描かれてる。そして、清三の文学への憧れ。

 郁治の家で、友人たちと文学談義をして、借りてきたのが雑誌「明星」だ。この「明星」が、当時の文学青年にどんなに強い関心をもって迎えられたかがよく分かる。

 センチメンタルな性格の清三は、明星派の短歌のロマンチシズムに憧れたが、今夜語りあった友人の石川は、「何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」と言っていた。石川は、アララギ派に共感しているのだろうか。

 清三が読んでいる「明星」に載っていた歌は、与謝野晶子の歌。難しい歌だ。石川が「わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもり」というのも案外的を射ているのかもしれない。

 あえて訳してみれば、「椿も梅も純白でキレイだけど、なんだかその純白さがいかにも『汚れのなさ』をそうあるべきものとして強要してくるような気がして嫌だなあ。その点、桃の色のピンクは、私のこの罪深い恋を許してくれるような気がする。」ということになるだろうか。

 ちなみに、俵万智は、「チョコレート語訳 みだれ髪」でこの歌を、「桃だけが私の味方この恋を白き椿も梅も許さず」と訳している。見事なものだが、分かりやすすぎて、かえって面白くない。晶子の「わけのわからない文句ばかり並べた」歌のほうが、恋がもつ矛盾や葛藤を表現するにはふさわしいような気がする。

 まあ、それはそれとして、なかなかいい場面である。清三の文学への憧れが貧しい家に降り注ぐ雨の音の中ではばたいている。

 こんな時間を持てるのは、やはり幸せである。その幸せは、いつの時代でも変わらない。




(注)最初に出てくる「むぐり」とは水鳥の「カイツブリ」の異名。声はこちらをどうぞ。





 



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする