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日本近代文学の森へ (57) 田山花袋『蒲団』 4 作家の「容色」

2018-10-31 12:50:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (57) 田山花袋『蒲団』 4 作家の「容色」

2018.10.31


 

 これでもう返事はこないだろうと思って、「微笑」した時雄だったが、「案の定」返事が来た。



 で、これで返辞をよこすまいと思ったら、それどころか、四日目には更に厚い封書が届いて、紫インキで、青い罫の入った西洋紙に横に細字で三枚、どうか将来見捨てずに弟子にしてくれという意味が返す返すも書いてあって、父母に願って許可を得たならば、東京に出て、然るべき学校に入って、完全に忠実に文学を学んでみたいとのことであった。時雄は女の志に感ぜずにはいられなかった。東京でさえ——女学校を卒業したものでさえ、文学の価値(ねうち)などは解らぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句、早速返事を出して師弟の関係を結んだ。



 「紫インキで、青い罫の入った西洋紙に横に細字で三枚」という手紙。その昔、梓みちよが「ミドリのインクで手紙を書けば〜」と歌ってたけど(今調べて、今さらながらびっくりしたのだが、この「メランコリー」って歌は、作詞・喜多条忠、作曲・吉田拓郎だったんだ。)、あれは「別れの印」だった。「紫インク」かあ。しかも「青い罫の入った西洋紙」、その西洋紙に「横に細字」。たしかに「ハイカラ」だ。これが、新見という岡山の奥の田舎から来たのだから、いかにこの頃の文学熱が、地方へまで広がっていたかがわかろうというもの。

 地方での文学熱というと、すぐに室生犀星と萩原朔太郎のことが思い出される。金沢と前橋の風土の中に育った、それもまったく違った家庭環境に育った二人の熱い文学的な交流は、近代文学史の中でも異彩をはなっている。

 文学への熱意を綴った女の手紙を読んだ時雄は、前に出した手紙で「女の身として文学に携わることの不心得」を説いたにもかかわらず、掌を返したように「女の志に感ぜずにはいられなかった」という。「東京でさえ──女学校を卒業したものでさえ、文学の価値(ねうち)などは解らぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句」に感激してしまう。くどいけど、「女が文学に携わることの不心得」はどうなったのさ! 

 そして、「早速返事を出して師弟の関係を結んだ。」わけなのだ。この「早速(さっそく)」に、時雄の「待ってました!」の信条が露骨に現れている。

 それにしても、「師弟の関係」というのは、どういうものなんだろうか。今では、小説家が「弟子入り」するなんて話はほとんど聞かないが、明治のころは、かなり一般的だったのだろう。花袋自身が、尾崎紅葉に弟子入りしているわけだし、男女で有名なのは、与謝野鉄幹と晶子で、これなんかは、ドロドロの師弟関係だったわけで、花袋の頭の中には、晶子のことが浮かんでいたのかもしれない。

 さて、その後、どうなったのか。引用を続けよう。


 それから度々の手紙と文章、文章はまだ幼稚な点はあるが、癖の無い、すらすらした、将来発達の見込は十分にあると時雄は思った。で一度は一度より段々互の気質が知れて、時雄はその手紙の来るのを待つようになった。ある時などは写真を送れと言って遣ろうと思って、手紙の隅に小さく書いて、そしてまたこれを黒々と塗って了った。女性には容色(きりょう)と謂(い)うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。


 文学的な才能はあると時雄は判断する──といっても、手紙だけで、将来見込みがあると判断するのはいかにも早計だ。結局、時雄にとって、将来の見込みなんてことは二の次なのだ。頭は、どんな女なんだろうということでいっぱいで、せめて写真で確かめたい。で、「写真を送れ」と「手紙の隅に小さく書いて、そしてまたこれを黒々と塗って了った。」ということになる。「写真を送れ」なんて書いたら、下心を見透かされると思ったのだろうが、書いたのを「黒々と塗る」なんて、やっぱり思わせぶり。書き直せばいいのに。

 その後の記述がヒドイ。「女性には容色(きりょう)と謂(い)うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。」って、いったいなに、この言い草は。オレだけが美人が好きなわけじゃない、男はみんなそうだ、なんて言われたら、泡鳴なんかは怒るだろう。

 泡鳴が恋をした相手は、すべて、「容色のわるい女」だ。美人なんかひとりも出てこない。なんだか、嫌な顔した女だなあなんて思いながら、その女に溺れていくのが泡鳴で、「美人にひかれない男はいない」などと言って、自分の不道徳な恋を正当化しようなんてこれっぽっちも思わないのが泡鳴だ。

 花袋は(時雄は)違う。恋に先立って、相手の「基準」を作ってしまう。まあ、これも、そう目くじら立てて非難されるべきことではないのかもしれなくて、今でも、「好みの女性(男性)のタイプは?」なんて質問は当たり前のように行われ、それに対して、「美人じゃなきゃダメです。」とか「イケメンがいい。」とか普通は言わずに、「あたたかい人がいいです。」とか、「やさしくて面白い人がいいです。」とか言ってるけど、心の底では、「美人がいい。」「絶対イケメン。」とか思っているに違いないのだ。

 でも、ほんとうは、恋に「基準」なんてなくて、「なぜだか分かんないけど、好きになっていた」あたりがリアルなところじゃなかろうか。

 まあ、それはそれとして、この後の「時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。」というのは、正直といえば正直だけど、なんか身も蓋もない言い方だ。

 昔から女性の作家に美人はいないみたいなことが言われていて、戦後曾野綾子が出てきたとき、珍しく美人作家の出現だとかいってもてはやされたことがあったような気がする。今では美人の女流作家なんて珍しくもないけど。というか、今ではもうどういうのが美人なのかさっぱり分からない。いい時代である。

 作家の容色というのは、別に女性だけの問題じゃない。松本清張などは、自分が醜男だったことをバネにして作家の道に励んだという話も聞くし、室生犀星など、もう醜男の典型みたいなもので、子どものころはそれが原因で学校でも素行が荒れて、放校になったなんて話もある。イケメンだからといっていい作品が書けるわけじゃないから、どっちだっていいようなものだが、吉行淳之介のようなイケメンになると、なかなか犀星のような醜男にはありえないような女性関係もあったりするから、その作品世界はそれなりに広がるのも事実。だから、作家の容色は、どうだっていい、ということにはならない。

 時雄は、「どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。」わけだが、それは、それまで出会ってきた「文学を遣ろうというような女」は、おしなべて「不容色」だったという経験があるからなのだろうか。それとも、それが当時の通念だったのだろうか。で、もし本当に「不容色」な女だったら、時雄はそれでもその女を弟子として受け入れたのだろうか。

 「けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。」というのが最後に来るわけだが、どうにも煮え切らない。どうせ下心見え見えなんだから、「見られる位の女」なんて回りくどいこといわずに(それにしても、「見られる位の女」とは、変な言い方だなあ)、「超美人だったらいいなあ。」ぐらい言うだけの率直さがほしい。この変に煮え切らないところに、作家花袋の性格が出ているのだろうか。




 


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