日本近代文学の森へ 255 志賀直哉『暗夜行路』 142 回りくどい詰問 「後篇第四 三」 その3
2024.2.18
骨董の焼き物の価値を直子がちっとも理解していないのを、からかった謙作だが、そういう会話のなかで、直子が「日頃の直子らしくなった」と思って、ちょっとホッとしたようだ。
次の問題は、お栄の処遇だ。謙作にしてみれば、「いわくつき」のお栄だ。つまり、母親代わりだったとはいえ、一度は結婚したいと思った女なのだ。その女と、一緒に住むのが謙作にとってはいちばんいいことに思えたのだったが、果たして直子はどうでるか。ドキドキものだったことだろう。しかし、あっけなく、話がついた。
謙作は直子が湯上りの化粧を済まして来るのを待ち、お栄のこれからについて相談した。直子はこの家(うち)に一緒に住みたいといった。謙作はそれがどれだけ考があっての返事か余り信用しなかったが、変な事をいわれるよりは遥かに気持がいいと思った。
「お前がそういうのは、それは大変いい」
「いいも悪いも、それが当り前じゃあありませんか」
「子供から世話になった人で、実際はそうだが、お前とはまるで異う境遇で来た人だからね。そんな点でもし合わないようでは面白くない。世話するとして、必ずしも一緒に住まねばならぬという事はないのだから、近所に小さい家(うち)を借りてもいいと思ったんだ」
「かえって困るわ。そんな事」
「お前が差支(さしつか)えなければ、それでいいんだ。もし望まないようならそうしてもいいと考えたまでなんだ」
「私嬉しいわ。何でもこれからは御相談出来て」
謙作は両方ともそう癖のある性質ではなく、案外折合いがいいかも知れぬと考えた。実際お栄は過去は過去として新しい境遇にも順応する方だった。
そうか、それならよかった。案外うまく行くのかもしれないと謙作は考える。
しかし、直子の様子が、やっぱり気になる。焼き物をお風呂で洗うなんて言って、やけにはしゃいでいるのが、「いつもの直子」とは違う、どこか不自然じゃないか、そう思うのだ。直子との「距離」は、依然として遠いままだ。
謙作は自分の留守中の事を直子が少しもいい出さないのを少し変に思った。自分のちょっとした不機嫌がそれほど直子にこたえたのかしら。しかし、直子がその事を悔い、触れたがらないのはいいとして、此方(こっち)も一緒に全く触れないようにしていると、かえってそれがその事に拘泥(こだわ)っている事にもなりそうなので、簡単に話せたら話してしまいたいと思った。そして今後はそういう事にはもう少し気を附けるよういいたかった。しかし、彼はなかなか気軽にそれがいい出せなかった。折角(せっかく)互に機嫌よく、お栄の話も気持よくいっている時、それを切り出すのは努力が要った。自然、両方が沈黙勝ちになった。
この辺の心理の機微は、とてもよく分かる。言い出しかねるし、また、できれば「簡単に話してしまって」オシマイにしたい。せっかく、いい感じで話ができているのに、その感じをぶち壊したくない。で、結局、黙ってしまう。よくあることだよね。
「簡単に話す」というのは、「自分のいない間に、いくら親戚でも、いくら友人でも、家に泊めるなんてダメだよ。これからはやめてくれよ。」と言えればそれでよかったのだ。しかし、どうしても、それが言えない。なにか得体の知れないわだかまりがあるのだ。謙作は、遠回りするしかない。
「要(かなめ)さんはいつ卒業するんだ」彼はこんな事からいい出した。
「今年卒業したとか、するとかいってましたわ。八幡は見学もですけど、多分其所(そこ)ヘ出るようになるんでしょう」
「帰りにはまた寄るのか」
「どうですか。何しろ来たと思ったら、直ぐ出かけて、翌日はまた久世さんや水谷さんとお花でしょう。話しする暇なんかなかった。夜明しでやって、そのまままた晩の九時か十時まで、三十何年かしたんですもの。人生五十年やるなんて、とてもかなわないから、私、途中で御免蒙(こうむ)ったわ」
「それで要さんは翌日たって行ったのか?」
「朝、私がまだ寝ているうちに黙ってたって行ってしまったの。本統にひどいのよ。何のために来たか分りゃしない」 「それは花をしに来たんだ。水谷が手紙ででも誘ったんだろう」
「そうよ」
「予定の如くやったんだ。しかし留守なら少しは遠慮するがいいんだ。水谷の下宿でだって出来る事なんだ」謙作はいつか、非難の調子になっていた。
「…………」
「末松はそういう点、神経質だ。水谷はその点で俺はいやだよ」
「それは要さんもいけないのよ」
謙作はふと「お前が一番いけないんだ」といいそうにしたが、黙ってしまった。
ずいぶんと「搦め手」から攻めだしたものだ。ボクシングでいえば、軽いジャブのようなものか。しかし、実はそここそが、正面だった。
直子が「何のために来たか分りゃしない」というと、謙作は、「それは花をしに来たんだ。」と言う。バカバカしい返答だ。でも、こういうところ、とぼけた味があって、ちょっと面白い。
「人生五十年」というのは、花札の遊び方なのだろうが、調べたが分からなかった。なかなか勝負がつかないやつなんだろう。
たたみかけるような謙作の質問は、やがて「非難の調子」になっていく。そのプロセスが克明に描かれていて読み応えがある。謙作の非難は、本当は直子に向けられるべきものなのだが、真相を知らない謙作は、直子の言動に、ああでもないこうでもないと憶測を重ねるしかない。しかし、直子になにか普通じゃないものを敏感に感じている謙作は、単刀直入に切り込めない。だから、直子の周辺に当たり散らすことになる。けれども、つい「お前が一番いけないんだ」という一言が口元まで出かかる。けれど、それを思いとどまる。謙作自身、自分がいったい何に腹を立てているのか、よく分かっていないのだ。
「もうこれから断るわ。実際失礼だわ。御主人の留守に来て、いくら親類だって、あんまり失礼ね」
「それは断っていいよ。要さんは会わないから、どういう人か知らないけど、従兄としてお前が親しければなお、はっきり断って差支えない」
「…………」
「とにかく、水谷は不愉快だよ。何だって、今日も出迎えなんかに来ていたんだ。それもまるで書生かなぞのようにいやに忠実に働いたりして。ああいうおっちょこちょいでもやはり気がとがめているもんで、あんなにしないではいられなかったのだ」
「…………」
「水谷は末松も誘ったに違いないのだが、十日ばかり旅をした者を、わざわざ出迎えるほどの事はないから末松は出て来なかったんだ。その方がよッぽど気持がいい」いい出すと謙作は止まらなくなった。
「…………」
「一つは末松は俺が水谷を厭やがっている事を知ってるからなお出て来なかったのかも知れない」
「…………」
「水谷にはこれから来る事を断ってやろう」
「…………」
要には、今度は断ろうかしらという直子に、謙作は、即座に「それは断っていいよ。」と断言する。待ってましたとばかりだ。本当は「断れよ!」と言いたいところだろう。しかし、親しい親戚なら、どうして「はっきり断って差支えない」のか。親戚ならかえって断りにくいのではないだろうか。普通なら、親戚なら断れなくてもしょうがないけど、水谷だの末松だのといった友人なら、それこそ「はっきり断って差支えない」のではなかろうか。
親戚というものは、親しいからこそ、率直に断れるのかもしれないが、それにしても、謙作の言い分は、分かりにくい。だから直子も黙ってしまう。
謙作は「要さんには会わないから、どういう人か知らない」といっているが、水谷たちが謙作の家に来たとき、要のことが話題になり、そのとき直子が「赤い顔」をしたことを見逃していない。何かを感じたのだ。謙作は、ほんとうは、要のことが気になっているはずなのだが、なかなかそこに踏み込めない。
言い出すと止まらなくなった謙作の矛先は、ひたすら水谷に向かう。水谷にしてみれば、謙作を迎えに出て、一生懸命世話をやいたのに、ここまで言われる筋はないだろうということだが、謙作という男は、一端嫌いとなったら、トコトン嫌いなのだ。困った人だ、まったく。
「悪い奴とはいわないが、ああいう小人タイプの卑しい感じはかなわない。あいつの顔を見ると反射的に此方(こっち)は不機嫌になってしまう。たまに、機嫌がよくて、一緒に笑談(じょうだん)なんかいってしまうと、あと、きっと、自己嫌悪に陥る。何方(どっち)にしても、ああいう人間とつき合うのは馬鹿気ている。末松は神経質な所がある癖にどうしてあんな奴とつき合っているのかな。あんな奴とつき合ってる奴の気が知れない」
謙作は明らかに自分が間接に要の悪口をいっている事に気づいたが、なかなか止められなかった。
「本統に悪かったわ。もうこれから気をつけるから赦(ゆる)して」
「お前もいいとはいえないが、俺はお前を責めているわけじゃあない。他の奴が不愉快なんだ」
「私が悪いのよ。私がしっかりしていないから、皆が私を馬鹿にしているんだわ」
「そんな事はない」
「私、もう要さんにもこれから来てくれるのよしてもらいます。それが一番いい」
「そんな馬鹿な事があるかい。伯父さんとの関係でそんな事出来るかい」
「伯父さんは伯父さん、要さんは要さんよ」
しつこいよなあ、謙作も。水谷と付き合う末松までも、やり玉にあげるんだから。
しかし、謙作は、ここまできて、ようやく「謙作は明らかに自分が間接に要の悪口をいっている事に気づいた」という。水谷と付き合う末松の「気が知れない」なら、彼らと付き合う要の「気も知れない」ことになるわけだからだ。
じゃあ、ここまで延々と水谷の悪口を言ってきて、実はいちばん腹を立てているのが要だったのだということに、気づいていなかったというのだろうか。そうじゃないはずだ。どこかで気づいていたのだが、それを無意識にか、否定していたのだろう。
直子が「私が悪い」と言えば、「そんな事はない」と即座に否定する。さっき、「断れ」と言わんばかりに「断っていいよ」と言ったのに、直子が「もう要さんにもこれから来てくれるのよしてもらいます」と言えば、「そんな馬鹿な事があるかい。」といって、「伯父さんとの関係」を持ち出す。もう、めちゃくちゃである。
謙作は、そうした自分の感情を分析する。そして反省もするのだ。
謙作はあの上品なN老人を想い、その愛している一人児(ひとりご)に対し、ちょっとした不謹慎、それも学生として、別に悪気もない事に、自分の我儘な感情から、こんなに思うのは済まないという気もした。N老人の自分に対する最初からの好意に対しても済まぬ事だと思った。彼はこうしたちょっとした感情から、段々誇張され、理不尽に、他人に不愉快を感ずる欠点を自分でもよく知っていた。彼はN老人に済まなく思うと同時に、自分の気持に対してもいくらか不安を感じた。実際考えようによれば何でもない事なのだ。それが、自分の感情で、一方へばかり誇張され、何か甚(ひど)く不愉快な事のよう思われ、殊(こと)に黙っている間はよかったが、一度いい出すと、加速度にそれが、変に堪えられない不快事になって来る。これは自分の悪い癖なのだ。気を滅入(めい)らしていた直子に今は不機嫌でない事を示し、直子も折角(せっかく)気持を直した所にまた、それをいい出さずにはいられない、実際自分はどうして、こう意地悪くなるのだろうと思った。彼はまた気持を直す、その道を探すのに迷ってしまった。
ここは、実に正直で誠実な自省である。人間というものは、身についた「悪い癖」を、どうすることもできない。それは癖というよりも、生まれ持った感情のマグマのようなもので、簡単には制御できない。だれだって、それに一生悩まされているのだ。
それにしても、「実際自分はどうして、こう意地悪くなるのだろうと思った。」という述懐は、痛切で、身にしみる。
「しかしもういいよ。他人ならあっさり考えられる事に俺は時々変に執拗(しつこ)くなるんだ。一卜通拘泥(ひととおりこだわ)ると自然にまた直るんだが、中途半端に見逃せないのだ。今日プラットフォームに水谷の顔が見えた瞬間から不愉快になったんだ。つまり水谷の来るという事が壺を外れた事だ。何か不純なものをそれが暗示している気がしたんだ。そして結局それが当ったようなものだが、もうそれもいいよ。俺の気持が分り、これからそういう事に気をつけてくれるなら文句はない。お前も気にする必要はないよ」
間もなく二人は床に入ったが、互に気持よくなったはずで、何だか、白々しい空気のため溶け合えなかった。当然謙作はそうして弱り切っている直子を自身の胸に抱きしめてやるべきだったが、それがわざとらしくて出来なかった。直子は泣きもしなかったが、掻巻(かいまき)の襟を眼まで引上げ、仰向けに凝っと動かずにいる。それは拗ねているのでない事は分っていながら、謙作はこの変な空気を払い退ける事が出来なかった。口では慰めたが、自身の肉体で近よって行く気にはなれなかった。
こうして一夜を明かす事は堪えられないと彼は思った。何か自分の感情を爆発さす事の出来る事ならかえって直るのも早いのだがと思った。彼はかなり疲れていたが、そういう直子を残し、一人眠入るわけに行かなかった。眠れなかった。彼は手を出し、直子の手を探した。しかし直子はそれに応じなかった。彼はむっとして少し烈しい調子でいった。
「お前は何か怒っているのか」
「いいえ」
「そんなら何故そんなに《しおれ》ているんだ」
注:《 》は傍点部を示す
プラットフォームで水谷の顔をみた瞬間「何か不純なものをそれが暗示している気がしたんだ。」という謙作の直感は、恐ろしいほど鋭い。「結局それが当ったようなものだ」と謙作は言うが、「それ」は、まだ三人が「泊まっていった」というだけのことに過ぎない。しかし、現実はそれだけではなかったのだ。謙作はまだ知らないけれど、その恐ろしい事実は、この二人の床のなかの見事な描写で、まるですかし絵のように現れてくる。
ほんとうに何というすごい作家だろう。志賀直哉という人は。