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日本近代文学の森へ (51) 田山花袋『田舎教師』 6

2018-10-14 08:56:04 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (51) 田山花袋『田舎教師』 6

2018.10.14


 

 花袋の風景描写はとても美しいのだが、その美しい風景の中に描かれる清三のこころのありかたは、決して共感ばかりをぼくに生んでいるわけではない。むしろ、歯がゆくも、腹立たしくもなるのだ。

 たとえば、こんな部分。



 高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にある兼六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。



 小島という中学時代の友人の第四高等学校への入学の祝いの手紙を書きながら、「机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった」清三の姿には、同情を禁じ得ないが、しかしまた、あまりにも弱々しい青年の姿に、戸惑わざるもえない。

 チコちゃんじゃないけれど、「メソメソ生きてんじゃねえや!」って、一喝入れてやりたい気分にもなろうというものだ。

 清三は家の貧窮のために、小学校の代用教員たらざるを得ない自分の不幸を、ただただ嘆くばかりだ。

 確かに「不幸」な境遇には違いないが、そこから何とかして抜け出そうとする強烈な意志がない。いや、ないわけではない。詩人となろう、小説家になろうとして、夢中になって創作することもあったのだが、すぐに挫折してしまう。やっぱりオレには才能がないんだと断念してしまう。そういう清三の「弱さ」にも、ぼくは情けなくも共感してしまうことになり、それはまたぼく自身の「弱さ」を改めて確認するはめになるわけである。しかし、この年にもなれば、就職したての自分の向かって、「ちっちゃなことでグチグチ言ってんじゃねえや!」って言いたい気分になることも事実なのだ。

 さて、ここで、久々に吉田精一に登場してもらおう。大著『自然主義の研究』には、もちろん田山花袋も、大きくとりあげられ、詳細に論じられている。

 吉田は、花袋という作家の本質をズバリと突いている。


 ルソオは我が国の文学にも強い影響を及ぼした。ことに藤村や花袋にそれが強い。(中略)時代の波に動かされながら、外国文学通と呼ばれながら、常に彼〈花袋〉は自我の観照と詠歎から離れ得なかった。彼の自我は貧しく、常に肥え太らなかった。想像力は貧弱で、情熱も強くない。文学的才能として凡ての点でルソオに劣りながら、自然に対する親しみと愛のみは近いものがあった。むしろ彼はロマンチックな風景詩人だった。(中略)不自然と作為を脱して、素朴と自然なものを求める彼本来の志向は、必然的に有限な世相や社会を越えて、永遠なるもの、無限なるものにあこがれた。それらは冷酷な現実には見出されず、つねに期待のうちにしか存在しないところから、結果として、憂鬱と感傷の中にかきくれざるを得ない。花袋初期の作風の基調は、一言でいへばここに存するのである。



 毎度のことながら、見事なものである。

 この『田舎教師』においても、この作風ははっきりしている。清三は、花袋自身ではなく、モデルがいるのだが、この薄倖の青年への花袋の興味は、そこに自分と同質のものを感じたことからくるだろう。したがって、この清三の「弱さ」は、また花袋の「弱さ」でもあったといっていいだろう。

 清三を取り巻く環境は、清三をただただ絶望させる。その「絶望」の中で、清三は嘆き、泣くばかりだ。

 泡鳴とのなんという違いだろう。泡鳴なら、清三よりももっともっと絶望的な状況の中でも、絶望的な「この今」こそが生きる場だ、生命を燃焼させる場だとして、「行動」するだろう。それがどんなに不道徳で、どんなに破滅的であろうとも、とにかくがむしゃらに生きる。泡鳴は、自分を哀れんで泣いてなどいない。それに対して、清三は「行動」せずに、「不運な自分」を哀れむ。哀れんで涙を流す。それが「感傷的」という意味だ。

 清三の、こうした感傷的な態度は、どんなことをしていても、つきまとい、そのために清三は「今の自分」を肯定できないのだ。

 

 清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。鬼事(おにごと)の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。こうしている間はかれには不平も不安もなかった。自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。こうして幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分が情けない。かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る大河に眺めいった。



 無心になって生徒と遊ぶことを、「幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分」と捉えて、それが「情けない」と感じるわけだ。幼い生徒と無邪気に遊んでいる自分は、大臣よりも幸福だ! って叫んでもいいのに、どこまでも「かわいそうなぼく」を守ろうとする。

 こうなると、もう感傷の無限循環のようなもので、吉田は、それを「憂鬱と感傷の中にかきくれる」と表現したわけだ。その「かきくれ方」は、この直後の次の部分にはっきりと描かれている。



 一日(あるひ)、学校の帰りを一人さびしく歩いた。空は晴れて、夕暮れの空気の影濃(こまや)かに、野には薄(すすき)の白い穂が風になびいた。ふと、路の角に来ると、大きな包みを背負って、古びた紺の脚絆に、埃で白くなった草鞋をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」と問うた。
「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」
 旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の訛があった。
「この近所に森という在郷がありますか」
「知りませんな」
「では高木というところは」
「聞いたようですけど……」
 やはりよくは知らなかった。旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅店にとまるという。清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、田圃の横路を右に別れた。見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。何故ともなく他郷という感が激しく胸をついて起こった。かれも旅人、われも同じく他郷の人! こう思うと、涙がホロホロと頬をつたって落ちた。



 道ばたで会った旅人を見ても、それに我が身の「不幸」を重ねて「涙がホロホロと頬をつたって落ちた」りしていたのでは、どうにもならない。

 弥勒の小学校の校長の姿をみて、自分の「哀しい未来」を見てしまうのも、結局はこうした「感傷」から来るのである。校長が、「田舎の小学校の校長」という社会的地位に満足しているなら、それはそれでいいじゃないか。自分がそうなりたくないなら、「そうじゃない田舎の校長」になればいいじゃないか。何も、「その校長のようにならない」ためには、文学者になんぞならなくたっていい。その校長とは別の価値を持って生きる校長になればいい。というか、そんな自分とは関係のない校長を軸にして、自分の生き方を考えること自体が愚かだと気づかなければならない。それができないのは、清三の、そして結局は花袋の「想像力が貧弱」だからなのだ。そう吉田精一は言いたいのだと思う。




 




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