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日本近代文学の森へ (47) 田山花袋『田舎教師』 2

2018-10-05 14:24:50 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (47) 田山花袋『田舎教師』 2

2018.10.5


 

 前回の引用箇所の直後の部分。羽生から人力車に乗って、弥勒の三田ヶ谷村にある小学校へ向かう途中である。


 清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。


 清三の前にひろがる「新しい生活」は、すぐに、幻滅へと変わって行くわけだが、このあたりの感情的起伏は、ぼくもほとんど同様に経験したところで、それがまるで昨日のことのように思い出される。ぼくもまた、都立高校へ最初に就職したが、町田郊外にあった学校は桑畑の真ん中にできた新設校で、ぼくは、まさに「田舎教師」そのものだったのだ。

 境遇は似ているが、もちろん違うことも多い。時代は60年も隔たっている。そもそも、清三が着ていた「小倉服」からして、イメージできない。できないけど、なんとなく、分かる。たぶん、『二十四の瞳』などの映画で得たイメージがあるからだろう。念のために調べてみた。


【小倉(こくら)服】小倉織で仕立てた洋服。色は白・黒・霜ふりなどが多く、学生服や作業服などに用いられた。〈日本国語大辞典〉
【小倉織】織物の一種。福岡県北九州市小倉地方から産出する木綿織。経(たていと)を密にし緯(よこいと)を数本合わせて厚く織ったもの。地質は強く主に男物の帯地・袴地または学生服地や下駄の鼻緒などに用いられる。白地・紺地が多い。小倉。小倉縞。〈日本国語大辞典〉



 前回の「青縞」といい、この「小倉服」といい、調べなければ分からないというのも情けないが、調べれれば分かる、というのも嬉しいものである。

 明治時代の中学校というのは、12歳から16歳までの5年間である。(尋常小学校が6歳から12歳までの6年間)今でいえば、高校2年で卒業ということになる。

 それにしても、「卒業式、卒業の祝宴」の図が摩訶不思議だ。芸者を呼んで大騒ぎなんて、今じゃ考えられない。教師も酔っぱらって、酔態を演じている。生徒のいないところならともかく、「卒業の祝宴」だというんだから驚く。中学を卒業したら、もういっぱしの大人と認めていたということだろうか。周囲の空気が変わったと清三が感じているのも、そういうことだろう。

 清三の家は貧しかった。父はもともと足利で呉服屋をしていて財産もあったのだが、好人物で騙されやすい性格が災いして、清三が7歳のときに家は没落した。今では、いかがわしい書画を売って歩いている。そのことを正直な清三は「人間のすべき正業ではない」と感じている。中学を出たからといって、高等学校へ行ける経済的な余裕はなかったのだ。

 その清三の友人に、加藤郁治という者がいた。その父のお陰で、清三は小学校の「代用教員」の口を紹介され、どうやら採用が決まり、今まさにその小学校へ向かっているのである。



 郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。



 中学を卒業したあと、教師になるには師範学校へ行くか、小学校教員検定試験に合格するしかない。清三はそれができなかったわけだが、それでは、教師になどなれないかというと、当時は「代用教員」というのがあった。このあたりの制度は入り組んでいてメンドクサイのだが、とにかく、当時は、小学校教員が不足していたので、師範学校を出ていなくても、教員免許がなくても、「代用教員」として教室で教えることができたのである。

 明治の小説を読んでいると、この「代用教員」というのがやたら出て来る。一度ちゃんと調べてみたいと思っていたのだが、ネットで検索していたら、格好の論文がみつかった。ヴァン・ロメル ピーテルという人の書いた「明治後半における教育と文学 :『田舎教師』の時代」である。筑波大学の「文学研究論集」に掲載されている。

 いやはや、どこの国の人か知らないが、外国人がこれだけの詳細な研究をしているなんて、たいしたものである。ざっと目を通したにすぎないが、ぼくがずっと感じてきた日本における「教師」の社会的な地位の低さがどこに起因するかが、資料をもとにきちん論じられている。

 その中で、「代用教員」についての記述を少しだけ紹介しておく。


 小学校の支柱は本科正教員であった。正教員は師範学校卒業者と小学校教員検定試験に合格した教員からなっていたが、師範学校卒小学校教員の地位の方が検定試験合格者より高かった。正教員、ことに師範卒の教員は小学校のヒエラルキーで最も高い地位を占め、高学年を担当し、給料も最も高かった。小学校長になるのも正教員、ことに師範学校卒業者であった。
 正教員の下には准教員の試験を受けた准教員と無資格の代用教員がいた。師範学校卒の「田舎教師」を社会の周辺に属する人物として位置づけるならば、准教員と代用教員はさらにその周辺に属したと言わなければならない。准教員と代用教員の仕事は、当人たちにとっては進学か、より良い仕事を得る機会が現れるまでの一時的なものだったが、その機会がなければ長引いた。その場合、教師は自宅勉強をして検定試験に挑戦したり、師範学校や県が行う講習に参加することで、自分の地位を改善することができたが、師範学校卒業者と同じレベルまで昇進することはできなかった。正教員との区別は低い月給にも反映されていた。
 藤村や啄木、花袋の作品や教育雑誌に載せられた教育小説がこうした准教員や代用教員を主人公とすることは顕著である。つまり、田舎教師の中で最も地位の低い教師が文学の中心となったのである。また、学校のヒエラルキーから生じる摩擦、ことに師範学校卒教員との対立は重要なテーマの一つであった。師範学校卒の教員に対する准教員と代用教員の批判的な眼差しが教育小説では頻繁に表される。



 このヒエラルキーは、もちろんこの『田舎教師』においても顕著で、すでに最初の方には次のような記述が見られる。小学校の校長に会った場面だ。


 一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。
 校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取り」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
 校長はこんなことを言った。
「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」
 時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿(とま)ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。
 ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
 唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。



 郡視学の加藤の口利きで、清三の採用が決まったはずなのに、村長も、校長もどうやら知らないようだ。しかも、ここに出て来る「老朽」の平田というのが役に立たないので辞めさせることになっていて、その代わりに清三をということだったらしい。平田はそんな話を聞いてないから、おかしいと思って、「准教員」と「何事かを語っていた」というわけである。

 初めて見る教員室の様子が、見事に描かれている。さまざまな「音」が効果的。

 それよりも、思わず笑ってしまうのが、「校長の背広には白いチョークがついていた。」の一文。背広にチョークが付いているのが、教師の「紋章」のようなものだ。ミジメな「紋章」……

 ぼくは、教師を42年もやったが、その「ミジメな紋章」を欠かしたことはなかった。やだなあと思いつつ、上着についたチョークをパタパタと幾度はたいたことだろう。

 この「背広についたチョークをパタパタとはたく」という動作は、伊藤整の小説に出てきて、ひどく印象に残ったのだ。なんという小説だったかは覚えていないが、とにかく、これ以上に「教師らしい」しぐさはない。そして、それが、とても貧乏くさくて、みじめったらしいので、ずいぶん気をつけていたのだが、気がつくと、パタパタやっていたものである。






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詩歌の森へ (16) 中原中也・憔悴

2018-10-05 11:51:22 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (16) 中原中也・憔悴

2018.10.5


 

   憔悴

 

    Pour tout homme, il vient une époque
    où l'homme languit. ──Proverbe.
    Il faut d'abord avoir soif……
         ──Cathrine de Médicis.

 

私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きれば愁〈うれ〉はしい 平常〈いつも〉のおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処〈そこ〉に安住したのでもないが、
其処を抜け出すことも叶はなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水の面を、にらめながらに過ぎてゆく


昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ

だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり

それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる

昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと

けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない


それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか

腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ

ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ

真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ

あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

 

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ

人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ

山蔭の清水のやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐれば愉しいだけだ

汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな

やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……


さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂〈わら〉はれないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤〈もつと〉もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

さうしてこの怠惰の窗〈まど〉の中から
扇のかたちに食指をひろげ

青空を喫〈す〉ふ 閑〈ひま〉を嚥〈の〉む
蛙さながら水に泛〈うか〉んで

夜よるは夜よるとて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。


しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。

そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑〈をくづ〉が一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。

と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、

あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!


 

 中也の詩には、こういう長いものが結構あって、それがまた魅力的だ。

 冒頭のエピグラム(だっけ?)はフランス語で、最初の二行がことわざで、「誰でも疲れるときがくる」という意味らしい。次の一行は、カトリーヌ・ド・メディシスが語った言葉で、「まず喉の渇きを……」ということらしいが、ネット情報なので、確かなことは分からない。

 別にこういうのはなくてもいいように思うのだが、あると、かっこいい。中也はランボーの詩を訳しているくらいだから、こういうのは得意だったのだろう。ぼくも、昔、詩を書いていたころ、こういうことしてみたかったけど、結局ダメだった。

 「昔私は思つてゐたものだつた/恋愛詩なぞ愚劣なものだと けれどもいまでは恋愛を/」ゆめみるほかに能がない」とか、「あゝ それにしてもそれにしても/ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!」なんて、詩の表現というよりも、中也の肉声を聴く思いがする。

 こうした自嘲的な表現は、人によっては、何を甘ったれたこと言ってやがるだ、という反発を生むだろう。もっと、前向きに生きていかなきゃダメじゃないかと腹立たしく思う人もいるだろう。

 でも、エピグラムにあるように「誰でも疲れるときがくる」(ほんとにこの訳でいいのか?」)ことも確かだ。疲れはて、焦り、絶望し、もう何にも信じられない、何にもしたくないって思うことは、誰にだってある。そういうときに、「夜よるは夜よるとて星をみる/あゝ 空の奥、空の奥。」とか、「あゝ 空の歌、海の歌」とかいう詩句がふっと心に浮かんだら、ちょっと気分が軽くなるのではなかろうか。

 詩にはそういう「効用」もある。

 「だった」とか、「…せぬ」とかいった、いわゆる「常体」を使ってきたところへ、最後の連になって、「懐疑の小屑が一杯です。」「生き生きしもするのですが」「おもふのですが」という「敬体」表現が出て来る。そこに肉声が感じられるわけだが、こうした方法は、たぶん、宮沢賢治からの影響だろう。中也はまだ無名の(というか死ぬまで無名に等しかった)賢治の詩を愛読していたことはよく知られている。(この方法は、朔太郎もよく使っている。)

 それはそれとして、最後の3行のなんという素晴らしさ。


あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を逭〈の〉がれるすべがない!


「ぼくは美の核心をしっている」なんて!

 「美の核心」は、「知って」いても、言葉にはならないだろう。「知った」と思った瞬間に、手のひらからこぼれ落ちていってしまう。そんな瞬間が、ぼくらにはなんども、なんども、ある。

 「美」は、「きれい」ということではまったくない。そんなこととはまるで関係がない。「美」は、生命そのものの輝きであり、生きる意味そのものだ。「美の核心」を「知った」まではいかなくても、「触れた」と感じたとき、ぼくらは、生きていることの意味と喜びを知るのだ。

 中也の人生は、みじめなものだったと思われている。親友の小林秀雄に恋人を奪われ、その小林は、中也が死んだとき、「中也はドブネズミのように死んだ」と書いた。たとえ親愛の情をこめたにせよ、かつての親友にかける言葉ではない。

 けれども、中也の人生が「みじめ」だったかどうかなど、他人には所詮分からないことだ。彼は懸命に生き、そして「美の核心」を知りながら、嘆きのうちに死んでいった。そして、多くの愛すべき詩を残した。どこが「みじめ」だろうか。

 こうした中也の長い詩を、教師になって二年目に扱ったことがある。その授業のことは今でも忘れられない。授業に関するエッセイを依頼されたとき、『詩の授業』と題して、こんな文章を書いたことがある。興味があるかたは、どうぞお読みください。


高校生と近代詩高校通信・東書・国語・262号 (1986.5.1発行)


 

 

 


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