スウェーデンの今

スウェーデンに15年暮らし現在はストックホルム商科大学・欧州日本研究所で研究員

グローバル時代の倫理的トリレンマ

2007-03-20 09:35:29 | スウェーデン・その他の環境政策
フィンランドのÅbo Akademi Universityから招いたJan Otto Anderssonの取り上げたテーマは「the Global Ethical Trilemma」、日本語に訳せば「グローバル時代の倫理的トリレンマ」にでもなるだろうか。
前回の続き

トリレンマ(trilemma)とは、ある3つの目標を同時に達成したいのだけれど、それが難しい状況を言う。ジレンマ(dilemma)は、2つの目標があり、一方が成り立てば、他方が成り立たない、という二者択一の窮地のことだが、トリレンマになると、3つの目標のせめぎ合いになるのだ。

現代のグローバル社会の中で達成したい3つの目標とは「経済的繁栄 (Economic prosperity)」「世界レベルでの公正 (Global justice)」「エコロジー的持続可能性 (Ecological sustainability)」だという。このうち、二つは同時に達成できる、もしくは達成できそうな見通しを立てることはできても、この三つの同時達成となると事はそう簡単ではない。

3つの大義のうち2つだけは達成したい、という理論的試みはこれまでもあった。Jan Otto Anderssonの上げた例としては、

“世界銀行の新しい開発戦略”
このサブタイトルは「Equity and Development(平等と発展)」であり、貧困を撲滅する手段としての経済発展の重要性を強調し、国家間の不平等の是正を行っていく、というものらしい。この考え方は、3つの大義のうちの「経済的繁栄」「世界レベルでの公正」は視野にあっても、最後の「エコロジー的持続可能性」への優先順位はずいぶん低い。

“ILO(世界労働機関)の報告書:「公正なグローバリゼーション-すべての人々
に機会の提供」”
ここでは、社会的公正・雇用・経済成長が強調されるものの、世銀の戦略同様、「エコロジー的持続可能性」への配慮は薄い。Jan Otto Anderssonは「グローバル社会民主主義」だと呼ぶ。(社会民主主義の伝統的な目標が、経済成長・完全雇用・不平等是正であったことから)

“環境経済学 (environmental economics)”
この考え方は、環境の価値と環境が与えてくれるサービスにきちんと価格が設定されて、さらに、自然資源に対する所有権と使用権がきちんと設定されることが必要、と説く。それを保障する公共政策(規制・課税・所有権の設定と保護)があれば、今までどおりの消費も投資もより効率的に行っていける。Jan Otto Anderssonは「エコロジー効率的資本主義」の考え、と呼ぶが、ここには、次世代への配慮はあっても、現世代間に存在する不平等・不公正に配慮には欠ける、と指摘する。

これに関連した別の例として私が思いつくのは、運輸による環境負荷を減らすべく、地元で生産したものを地元で消費する、という運動に似た論拠が、EU域内の市場統合と域外関税を強める一つの動きになっているが、EU内で農産物の物流を閉じてしまうと、農業を主要産業とするアフリカ諸国からの輸出が困難となり、これらの国々に打撃を与える結果になってしまう。これも「グローバルな公正」をないがしろにした考え、と言えようか。

“エコロジー経済学(ecological economics)”
オーソドックスな経済学や環境経済学とは、一線を画するこの学派は、「エコロジー的持続可能性」を分析の中心に置き、分配における公正を、世界レベルでも現世代と次世代間でも達成しようと試みる。結果として「経済的発展」に対する意欲は自然と後回しにされる。彼は「Socio-ecological planetarism(社会・エコ的プラネタリズム)」もしくは「red-green planetarism(赤と緑のプラネタリズム)」と呼ぶ(社民主義[赤]とエコロジー主義[緑]の折衷、ということ)。

以上に紹介された「トリレンマ」の定式化が私にはおもしろかった。で、Jan Otto Anderssonの主張は、最後に挙げた“エコロジー経済学”を基本にしながら、インドのガンジーを引用して「豊かな社会では既にたくさんのものが消費され過ぎているため、世界レベルでの公正とエコロジー的持続可能性を達成するためには、豊かな社会の消費レベルをある程度下げていくしかない」というものだった。世界レベルで物事を考える際の言葉としては、グローバリズムよりもプラネタリズム(planetarism)という言葉を彼は提唱している。ヒューマニズム思想を新しい段階へと発展させて行く必要性を訴えたフィンランド人の思想家Ele Aleniusを倣ってらしい。

講演のその後の中身は、A full world、Unequal exchange、Ecological footprintといった概念に対する彼の解釈、と続く。
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聞きながら思ったのは、彼の考えに立って「世界レベルでの公正」と「エコロジー的持続可能性」の同時追求を目指したいと私も思うけれど、やはりそれと同時に、我々の豊かな社会にも何らかの形での経済発展・経済成長はやはり必要だ、ということだ。大量消費に支えられる日々の生活を見直す必要はあるとしても、バブル崩壊以降に日本が経験したマイナス成長のような事態になってしまうと、失業者は増加し、実質所得は下がり始め、大きな社会問題が発生するようになる。我々も日々の生活に困り始めると、環境への配慮や、他人や異なる社会に住む人々への共感を抱いている余裕はなくなってしまい、当初の二つの大義も成り立たなくなってしまうのではないだろうか。だから、経済的繁栄は必要。しかし、それはこれまでのような生産と消費を繰り返すものではなく、環境的負荷を最大限に抑えた生産活動と消費行動が求められてくる、ということになるだろう。

だから、やはり目指すべきなのは、最初に掲げた三つの目標の同時達成をめざすべく、Jan Otto Anderssonの呼ぶ「グローバル社会民主主義」「エコロジー効率的資本主義」「赤と緑のプラネタリズム」をバランスよく折衷して行くことではないか、と思う。しかし、それがそもそも難しいからこそ「トリレンマ」と呼ばれるわけだし・・・。

ともかく、日曜日のヨーテボリ新聞(GöteborgsPosten)に講演会の記事が載った。観衆の中に新聞記者が混じっていたのだ! やはりこうして、記事になると、開催した側としては嬉しくなる。