上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

T-ZONEが廃業

2010年11月30日 | 日記
日本とのSKYPE会議から落ちて、ニュー速サイトをチェックしていると、秋葉原のT-ZONが廃業するというニュースが飛び込んできました。
T-ZONといえば、帰国した折には必ず水冷パーツを見に行っていた店です。
こうして老舗のパソコンショップがまた一つ姿を消すのは、元アキバ廻りの営業マンとしては寂しい限りです。
1992年時点で、秋葉原に有ったほぼ全てのパソコンショップとお付き合いが有りましたから。
そういえば、今使っている母艦マシンも、大半はT-ZONで揃えたパーツで組んだ物です。
このままだと、東映無線が最後の砦か?
上海では、老舗のパソコンショップと呼べる店は、未だ出現してきていない群雄割拠状態なので、社員達にこの気持ちを伝えるのは難しいなぁ。

領収書の束と格闘

2010年11月30日 | 仕事

未明から雨模様になった上海です。

返して貰ったらあちこち壊れていた愛車ですが、結局スピードメーターだけ部品が見つからず、そのまま乗って出勤してきました。

スリップが怖いな~。

 

さて、今日は11月も末日なので、経費清算の為に領収書と格闘していますが、非常に経理部門が厳しくなり、社名の無い領収書は応老師の署名が有っても通らなくなりました。

そこで困ったのは、各会合の会費領収証です。

レストランの領収書で代行している会がほとんどで、当然各企業の個別名の物は用意されていません。

月に数百元、通年で数千元に上ります。

 

これが落ちないと痛いなぁ~。

 

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昔の上海に居た過激な日本人、その2

2010年11月30日 | 日記

映画「東風雨」で尾崎秀実を演じて以来、上海で過去に生きた日本人の情報を追っていますが、時々その情報線上に現れるのが、上海の虹橋にあった東亜同文書院の卒業生と東亜同文会の関係者です。

この東亜同文会を立ち上げたのも、その1に出てきた頭山満でした。

終戦混乱時の上海で、皇帝溥儀の義妹であった、嵯峨家の姫、嵯峨浩母子を救ったのも、この東亜同文書院の卒業生、田中徹雄大尉ですが、その田中大尉が応召前に勤めていたのが満鉄でした。

同じく満鉄調査部拓殖時代の尾崎秀実が、ゾルゲやアグネス・スメドレーと出会ったのも、ここ上海。

その尾崎の属した満鉄調査部の構成員の多くは、帰国後、電通の吉田秀雄社長に社員として迎えられます。

 

余談ですが、以下はその吉田社長の唱えた電通の鬼十則

1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。

2. 仕事とは、先手々と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。

3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。

4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。

5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは。

6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。

7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚みすらない。

9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。

10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

この電通の母体になった通信社は、21世紀の現在は2つに分社しています。

それが時事通信と共同通信なのですが、上海のあちこちで、時事通信や共同通信の方とお目に掛かると、 私は何故か、この鬼十則を思い出します。

 

さて、海軍鎮守府出入りの軍属であった上海時代の祖父と祖母、ここでいったい何をしていたのでしょう。想像の翼が広がります。

 

今、また上海で歴史が交叉している気がします。

 

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昔の上海に居た日本人、その1

2010年11月29日 | 趣味

孫文と辛亥革命に想いを巡らせると、孫文を匿った頭山満が創った玄洋社の海外支部である黒龍会によって上海に送り込まれた一人の男を思い浮かべます。
『国家改造案原理大綱』執筆当時はまだ社会主義者だった北輝次郎が北一輝を名乗るのが、ここ上海です。
(後年、北は帰国後2・26事件に関与した罪で死刑になります。)
映画学校時代に新藤兼人先生が、『けんかえれじい』の鈴木清順監督による脚本改編に関して語った時、彼の名前が教科書の物では無く、激しく生きた人間として記憶に残りました。
彼が上海で世話になり、中華民国議会初代首相に推されていた宋教仁が暗殺されたのも、上海駅のホームでした。
北の属した黒龍会(玄洋社)と、それに繋がる右翼団体と任侠社会、そして構成員として活動した大陸浪人たちを吸収した、笹川機関や児玉機関などの各特務機関と満鉄調査部上海支部の活動。
それらは、戦後のロッキード事件と田中内閣と日中国交正常化会談にも歴史の闇が続いて行きます。

本当に過激な日本人が上海に住んでいたものです。


泥棒!って遅いか。

2010年11月29日 | 日記

雲の合間から強い日差しの差し込む上海です。

天気予報は雨でしたが、当たりそうにありませんね。

今日の午後はF社のH社長が来社されるので、応老師以下全員スーツ姿で出勤。

部長会を見渡すと、別の会社の様でした。

 

さて、実は土曜の深夜に事件がありました。

何と、またしても電動バイクを盗まれてしまいました。

午前1時過ぎまでアニソン会で盛り上がったのですが、夜中に会が引けて表に出てみると愛車がありません。

しばし呆然。・・・電動バイク本体よりも、そのカーゴに入れてあったヘルメットの方が高価だったので更に落ち込みました。

万博後に治安が悪化していると自分でブログに書いておきながら、盗難に注意していなかった自分を責めて、そのまま朝まで一睡もできず過しました。

アニソン会の様子は次号のコンシェルジュに掲載されますが、直後にこんな悲劇に見舞われるとは・・・。

日曜には、申し訳ないけれど、譲った前の愛車を返してもらい、修理屋に診てもらいました。

(譲って1ケ月で、こんなにあちこち壊れてるって・・・何で命を預ける物を大事に扱わないのかなぁ。)

愛車を盗まれるのはこれで2台目ですが、こんな事のある度に、当たり前の事として事件を淡々と受け入れる周囲の中国社会が嫌いになります。

日本人も多数参加した辛亥革命から来年で丁度100年。

社会全体を良くしようという意欲の差が国家としての日本との力の差だと気付く人が少ないのは嘆かわしい事です。

孫文が草葉の陰で嘆いていなければよいけれど・・・。

 

先日の火事と云い、上海はまた万博の前の状態に逆戻りするだけなのでしょうか。

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浜ちゃんで偶然の食事会

2010年11月29日 | 日記

金曜日は弊社のお客さまとのキックオフミーティングの後、静安寺のトンカツ屋「浜ちゃん」で昼食。

ヒレカツ定食を食べつつマスターの浜ちゃんを、中国電動自転車乗りの会にお誘いしようと出向いたのですが、偶然日本商工クラブ事務局長の野口さんとご一緒しての簡易昼食会になりました。

野口事務局長は、来週にも任期が終わってご帰国の途に着かれますが、納会、賀詞交換会などの引継ぎや、日本人学校高等部の新設など、大変お忙しいご様子です。

特に、高等部を充実する為の支援の呼びかけに各方面に奔走され、ご苦労されているので、私の微力ながら何かお力になりたいと思っております。

(今日は早速応老師にご相談しました。)

商工クラブといえば、12月17日のサービス部会の総会が、私たちの開催する上海オフショア開発セミナーのオープンセミナー開催日と重なっていて悩んでます。

 

どちらも外せないし困ったなぁ。

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SCL

2010年11月26日 | 日記

日差しが眩しいほどの晴天になった冬の上海です。

 

さて、昨晩はSCLが行なわれましたが、SCLとは、「上海サークル幹事会」の略称です。

上海には400程存在するといわれる、県人会から趣味のサークルに至る様々な団体ですが、その連絡会として様々な意見交換を行なっている集まりがSCLです。

昨日の幹事は59年会を主催する武内氏。私とは上海に定住した時期が近く、なにかとあちこちで顔をあわせる私より年長の友人です。

昨日の参加者は、13の会の代表・幹事だけではなく、RINGOKUの学生達も参加してくれました。

ようやく軌道に乗って来たSCL。 今後の活動が楽しみです。

 

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ドレーン・タンク

2010年11月25日 | 日記

すっかり寒くなった上海ですが、暖かな日差しが差し込んでいます。

こんな穏やかな日は、何処までも続くススキの野原を、自転車で大きな硝子シリンダー満杯の超純水を運んでいた日の事を思い出します。

 

今週の日経ビジネスオンラインの伊東乾教授の連載、情報の源流探訪。

今回は菅首相は「もんじゅ」に政治生命を賭けられるか? ――原子炉事故に「政治主導」を問うです。

今回の記事で取り上げているのは高速増殖炉もんじゅですが、みなさんはその実験炉ふげんをご存知でしょうか?

 

あれは今から四半世紀ほど前、私は当時20歳、映画学校2年の冬に、2ケ月だけ休学し、第一子の出産費用を稼ぐ為に、武山の自衛隊基地に隣接する某社の実験プラントで働いていました。

学生結婚だった私が、高額の短期バイトを探していた所、何故か高速増殖炉の実験プラントで運転作業員を行う事になりました。

既に時効だから言えますが、非破壊検査会社(現在は既に廃業)を営んでいた当時の派遣元先は、私の年齢と職歴を偽っていたようです。

派遣先の面接では、高校時代科学部の部長だった時の知識が役立ちました。

(部活では実験ドラフトでトリオール化置換実験を勝手に行なった、テルミットで雲を立ち上らせたりと、化学だけなら共通1次楽勝ラインでしたから。このエピソードも同級生達にネタにされてるなぁ。)

そのプラントが、ふげんをベースに、もんじゅを設計する為に作られた物で、従事する年長作業員が流れの原発労働者である事を知り、これ幸いと、次回作シナリオの為の原発ジプシーについての取材というフィールドワークも兼ねていたのです。

厳重に警備された施設の入り口で専用のバッチを貰い、実験棟での作業ですが、勤1休で2交代。つまり隔日で泊り込み作業です。

(今まで様々なユニフォームに身を包みましたが、ヘルメットに作業着、安全靴姿も気に入っています。)

この2ケ月間の仕事は、四半世紀経った今でも詳細に循環路図、特に緊急時に閉鎖するバルブを思い描く事が出来るほど、命懸けの作業でした。

(まぁ、それに応じただけある、非常に高額の対価を受け取りましたが。)

20メートル以上の高さのある模擬実験炉の天辺に梯子だけで登るのも怖い物ですが、最も恐ろしいのは実験プラントの真下に設置されたのドレーンタンクに眠る2トンの金属ナトリウムです。

記事にある、非呼吸性のアルゴンガスは通常作業時は建屋に満たされていませんが、緊急時には作業員ごとアルゴンガス封入する為に、多量のボンベが備えられていました。

(仮に酸素マスクの近くに作業員が居なかった場合を考えると恐ろしい仕組みです。)

実験は炉心燃料棒に付着する一次循環系の金属ナトリウムの除去方法。燃料棒交換前に実施する高温ブロワーによる除去効果の検証でした。

実際に運転した模擬実験炉から取り出した模擬燃料棒を超純水で洗い、PH値を測定します。 記事が指摘していない本当の危険は(基礎設計に変更が無ければ)事故エリアの真下に存在する数トンの金属ナトリウムの存在です。

仮にメルトダウンが起きると、大型爆弾に信管を差し込んでスイッチを入れるのに等しい事態になります。

米軍が東京に投下した最大の通常爆弾がTNT火薬10トンの爆弾でしたが、それを大きく上回る爆発力があります。

しかし、金属ナトリウムがタンクが破壊されて漏れたとしても、アルゴン封入されている限り、放射能漏れも限定的な物です。

問題は、1次循環系を巡る金属ナトリウムから熱をエネルギーとして取り出す為に、熱交換を行なって蒸気タービンを廻す、 2次冷却系の「大量の水」が存在するという事実です。

1次冷却系は放射能で汚染されていますし、金属ナトリウム蒸気は高腐食性ですから、圧力調整が必要なタービンを廻す事ができません。

そこで低レベル放射能防護で済む2次冷却系でタービンを廻します。この為、高速増殖炉には隣接して大量の水が存在します。

そして仮に融解事故によって2次冷却系配管破損が起こった場合、この水が重力によって流れ込む先にドレーンタンクが存在しています。

電磁ポンプで液体化した金属ナトリウムを上部の炉心に導く為のパイプが貫通しています。 仮にこの1次冷却系配管が破壊されて2次冷却水が流入すると想像を絶する放射能災害が発生します。

 

今回、伊東氏には是非此処まで追いかけて欲しかった記事でした。彼のオウム事件のレポでも思いましたが、詰めが甘いのが非常に残念です。

 

さて、今日は夕方から当社でSCL(上海サークル幹事会)が開かれ、多くのコミュニティの代表者が参加されます。飲み過ぎないようにしなくては。

 

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完全オフ

2010年11月24日 | 趣味

平日ですが完全オフ日でした。

市内をあちこち電動バイクで廻りましたが、こんな日を取れる幸せを感じています。
しかし、例の砲撃事件、今回もうやむやで終わってくれないだろうか・・・なんと言っても平和が一番ですから。

静安寺の火事現場を見てきた後だけに、強く感じています。