上海で日本語を話している中国の若者達

中国人に囲まれて日本語で通していく日常の出来事を書き綴っています。

祝うべきかな若人の門出

2007年01月31日 | 仕事
23歳、24歳、27歳の3人のエンジニアが今日離籍した。
それぞれ理由があっての事と言っているが、結局詰まる所はサラリーが不満で辞める。
会社では、其々バラバラのポジションだったが、同調して会社に交渉を仕掛けてきた。
色々お互いに言い分は有るけど、共闘しても不条理な主張は認められません。会社は貢献益を見て昇給を決めているのだから。
経営側から分析すると、投資に見合った貢献はしていないよ。
元々、日本への送り出しも想定しているので、業務に大きな支障はないが、彼らにかけた教育コストは安くは無かった。

改正労働法を前にして、穏便に事を収めたけど、人材育成を経営の柱にしている弊社には、少し手痛い出費となりました。

まあ、愚痴っていても何も生まれないので、今は教訓として活かしつつ、後進を育てる事に専念します。

湯船の神秘

2007年01月29日 | 生活
先週は色々あったので気分転換に徐家匯にあるサウナに行って来た。

ここのVIP会員券があるので安く入れるから、割とよく行く。
「中国人は、他人の浸かったお湯に入らない」と言っている人に見せてあげたいぐらいに、いつも繁盛している。

ゆっくり外湯に浸かって考えていると、自分では袋小路に入ったと思っていた問題が、全く違う方法で簡単に解決出来ることがわかって来る。

「拘る」心をお湯が溶かしてくれたようだ。

 ヒトは、また育てればイイ。
 きっといい出会いもあるだろう。

 ユーザーにほ新しいアプローチを考えよう。
 チャンスとタイミングは一見同じに見えるが全く違う。

それにしても、何故か湯船に浸かって重要な決定をすることが多い。それも露天風呂が多いのは何故だろう?

GREEから転載の日記「2007年、久々の日本。」

2007年01月26日 | 日記
1月のほんの1週間だけ日本に行った。

代理店のExpertgigは勿論だが、お客様数社と共にCANNAC社の佐藤会長、そしてマイクロの伊東社長にお会いした。
最初に訪問したCANNAC社では、私が夏から上海に来ている間に、CANNACの片山社長が退任され、隣の事業部長だった島田さんが社長に就任した。
島田新社長は、私より2歳年長の爽やかな紳士(元俳優)で、何かと話の合う方だ。
無論、只の御挨拶で佐藤会長のお時間を頂ける訳は無く、今回は3点ほどのご提案をさせて頂いた。
上海宮東の今後を占う重大な提案だったが、会長の良いお返事を頂けたので、ほっとしている。

短いが、実りの大きな1週間になった。

大人気ない

2007年01月26日 | 仕事
今朝は、ある総経理と電話で大喧嘩をしてしまった。
こちらが年長だったのに、売り言葉に買い言葉で答えてしまい、
全く持って恥ずかしい限りだ。

お互いに社会人としては失礼な会話なので、早く忘れてしまいたいが、
同業者なので、これからもきっとどこかで顔を会わせるに違いない。
そして、会う度に今回の事を思い出すことになるのだろう。

余り親しくも無い他人と言い争ったのは久しぶりだ。
最近、ストレスが溜まっているのかな・・・
それとも、上海に水に染まって来たのだろうか・・・嬉しくない。

敵を作るのは商売人としては失格だが、はっきり言ったこの一言だけは譲れない。

「でも、お前の態度が気に入らない。」

彼に会ったら、またこう言ってしまいそうだ。

春節前だから

2007年01月25日 | 仕事
今回の退職劇は古株の社員に多少の動揺を与えた様でした。

この3日ほど、個別にミーティングを重ねて説得し、
結局、庄くんの退社と、数人のベースアップで収束しました。

経営者が従業員から言われる決まり文句は、
「給料が安い」と「福利厚生が悪い」の2つと決まっているのを、再認識させられました。
条件交渉が日常的なこの国では、比較的穏便に済んだ方の様ですが、正直かなり疲弊しました。
それもこれも、春節を前にして、駆け込み交渉であったようです。
みんな、1年前はあんなに初心だったのに、すっかり擦れてしまって、おじさんは悲しいです。


GREEから転載の日記「日本を去る」

2007年01月25日 | 日記
当初、6月に認証取得の予定だったISO9001-2000の2次審査は、8月にずれ込み、退職も1年間を超過して8月末まで延長することになった。
(結局2次審査でPASS出来ず、フォローアップ審査を経て12月に取得できた。運用面で甘かった感が否めないのは恥ずかしい限りだ。)
日本側パートナーにエキスパートギグ社を一次代理店として契約し、上海宮東軟件はようやく独り立ちすることになった。
4月から、エキスパートギグ社から入代り立代り拠点長級のエンジニアにも技術指導に来訪してもらい、徐々に設計メンバーも増えてきた。
そんな8月23日、日本から住民票を移し、上海にこれからずっと住むことにした。
9月1日、正式に上海宮東軟件有限公司の副総経理に就任したが、相変わらず中国語は下手なままだ。

年末には、日本に送った自社エンジニアも5名になったが、会社は、まだまだよろよろと走っている。

そして、今ひとつ実感の湧かない2007年の年明けを迎えた。

GREEから転載の日記「若者たちの会社」

2007年01月23日 | 日記
営業課長34歳、東京事業所長34歳、担当取締役(代表)34歳。最高齢の私と同じ41歳は僅かに3人。最若年者は19歳が2人。
平均年齢29.4歳。これが70名のエキスパートギグ社の構成年齢だ。
またまた、職安で求人票を見つけ、早速応募した。

営業課長(当時は課長呼称すら無かった)の林氏と面接した私は、「社長に会いたい」と要求。
翌週に代表の田野氏と会った第一印象は「若い!」の一語に尽きる。

田野氏は12歳からプログラムを書いて、今は本まで出している生粋のソフトウェアエンジニア。
エキスパートギグ社は渡辺製作所の100%出資子会社で、田野氏は渡辺製作所創業者の孫にして渡辺製作所現社長の甥で元日本オラクル社の社員。
渡辺製作所は日産・カルソニックカンセイから役員を受け入れている日産パートナー企業で戦後間も無く創業の老舗自動車部品メーカーだ。国内5工場、海外1工場を有している。
元々ソフトウェアエンジニア志向の田野氏が10年前に家業の自動車部品メーカーに戻ってから、電算部門を一部独立させてエキスパートギグ社は設立された。
管理部門はスリム化されており、社内の大部分がコンピュータエンジニアで構成されている。
(何と営業課長も経理担当者もエンジニア。営業職4名だけが非エンジニアだ。)
そして、数年前からオフショア開発を志向して準備をしていた。

何というタイミングの良さ。

早速、条件交渉をしたところあっさりOKしてもらった。
こちらの条件は2つ。
1.ISO9001-2000をすぐに取得すること。
2.在職中の他社創業を認め、更に1年間で退職することを了承すること。
代わりに、私がISO推進担当として指揮を執り、ISO取得にはコンサルタントを頼まず、審査費用のみの負担で1年で取得する事を約束した。(コンサルタント費は200~300万かかる。)
もちろん採用はOKで、2005年6月付けで入社した。
入社翌月にはISO取得体制に即した社内の組織変更と規程運用、経営会議の開催も実施した。
(全てはCANNACでの作業を再現する事で実現出来たので、エキスパートギグ社は無事2006年末に.ISO9001-2000の認証を取得する事が出来た。)
2005年秋、私は約束通り、上海にソフトハウスを設立した。

不惑って本当に不惑?

2007年01月23日 | 仕事
昨日、日本帰りの庄君からサラリーに不満があるので,
大幅増額(倍増)しないと辞めると申し出があった。
日系企業の採用平均給与実績を示して、
今も大幅に上回っている雇用条件だと説明しても、頑として聞かない。

最近、他から雑音も入ったみたいだし、私が日本から戻ったら切り出すのは予想済み。

金額に強く拘っているが、まあ、生粋の上海人だから当然と言えば当然で、
逆に23歳とは思えないほどしっかりと交渉して来た。
自分が23歳の時はまだ学生で、映画以外の事は迷ってばかりだったなぁ。

昨日だって、
本当に「齢四十にして惑わず」を過ぎているのかと思うぐらいに、
彼を引き留めるべきか迷っていたし。

でも、決めました。
彼の今のプロジェクトが終わる3月末に暖かく彼を送り出してあげよう。
大きく羽ばたいておくれ。

会社としては、彼が健康を理由に帰国するまでの約半年、
日本に送って掛けた経費が無駄になるけど、
一人のエンジニアのヒヨコを育てることは出来た様だから。

でも、他のメンバーは一緒に引き抜かないでね。
・・・やっぱり一言、釘を挿そう。

職業の選択

2007年01月22日 | 趣味
出張前に携帯で撮った写真を眺めていたら、これを見つけた。

ブレブレに写っているのは「流しのギター弾き」。
(暴走バスの中で携帯電話で撮ったので許してね。)

昔、歌舞伎町で遭遇したことはあったが、まさか上海のバスで出会うとは思わなかった。
中国社会は、何故か芸人にはおおらかだと思う。
普段、物乞いにはそっぽを向いていそうな乗客たちが強制参加のライブに、お金を出している。
映画学校時代、「芸人、活動写真屋は河原乞食だ。(注)」と、教えられたが、この街では、きちんと職業として受け居れられている。
彼の歌声は中々の物だったが、「流し」を生活の礎にして中国で生きるのは楽ではないだろう。
この国で学生を面接する度に、職業選択の自由度が日本に比べて極めて狭いことを再認識しているが、流しの彼は、思い切った選択をしたと思う。
同世代人口の5%しかいない大学生の彼らでさえ就職先探しに奔走する中で、全人口の70%を占める農村籍の若者が上海で生活の糧を得る事は超難関であるにも拘らず、自分の好きな道を選ぶ勇気には感服する。

いつまでも彼の観客からのオヒネリが尽きないことを切に願ってやまない。

(注:元々日本では、役者小屋は洛中に入れず、河原で芝居を打っていた。
映画の黎明期には、こうした芝居興行師が映画を作り全国を巡った。
曰く、役者と乞食は3日やったら辞められない等、芸人=乞食の被差別職種だった。)

GREEから転載の日記「社長に食って掛るのは大人気ないよね。」

2007年01月20日 | 日記
NHKの朝のニュースはもちろん全国放送で、短時間の特集だったけど、冒頭でいきなり名前を呼ばれたところから始まった。
正直編集で切られるんじゃないかと思っていたので嬉しかったので、CANNACで作った画像素材は家宝にしている。
さて、何故か隔週土曜日は経営会議で役員達に混じって喧々諤々、ISOの推進と事業部の営業報告を半年ほどしていたが、
ある日、片山社長と事業部人事の件で真っ向対決することになってしまった。
(以前片山社長隷下の事業部一つを業績不振を突いて解散に追い込んでから何かと衝突していた。)
折悪しく佐藤会長も代田役員も日本にいない。

結局、長期休暇を頂いて奥塩原の温泉に旅行に行った。

露天風呂に家人と浸かりながら、「やっぱり只の課長が社長と遣り合うのは無謀だったかな?」とも思ったが、いい機会なので、事業部長を出汁に使って、スッパリ辞表を出してCANNACを辞めた。(またしてもストックオプションを返上した。)

さて、CANNAC入社前に予定した通り、プランと人脈は出来た。
(上海でオフショア用人材センターを立ち上げることにした。)
早速上海に戻り、2ケ月の準備期間を経て、再度日本に帰国した。
次は日本側のパートナーが必要だった。

ここで、また最良のパートナーと出会うことになろうとは、神なるぬ身の私に予想することは出来なかった。
2005年の春だった。